鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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一章

02. 業務内容確認

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 火曜日、朝8時50分。
 約束のきっかり10分前に、鳴成秋史准教授の部屋の扉が小気味良い音でノックされた。
 本を読んでいた手を止めて顔を向けると、電子ロックで施錠されないように僅かに開けておいた扉の隙間から、背の高い人物が垣間見えている。

「どうぞ」

 大きく造られた窓の前に置いたスモークチェアに脚を組んで座っていたこの部屋の主人は、優雅な声量でそう応えた。
 丸テーブルの上に置いた、マグカップに並々作られたミルクティーを一口飲む。

「失礼します」

 ドアの向こう側にいる人物にはきちんと聞こえたようで、すぐさま男性が入ってきた。
 耳が良い。
 明後日な方向に感心していると、その人物は長いリーチをフルに使ってほんの数歩で鳴成の目の前までたどり着いた。

 ――月落渉。
 先週出会ったばかりのこの青年は、1週間かけて行ったアシスタント面接の見事勝利者である。

「おはようございます、鳴成准教授」
「おはようございます。あちらに移動しましょうか」

 部屋の中央に置かれた六人掛けの無垢材のテーブルへと誘導し対面で座ると、鳴成はあらかじめ用意しておいた書類を数枚取り出した。

「こちらが雇用契約書です。月落さんは今回、私のTAとして雇用契約を結びます。契約は1年単位、毎年春に更新を行っています。本来ですとこの時期に新しい方と契約をするのは規定違反なのですが、大学側の配慮で特別措置となりました」
「前任のTAの方はどうされたのか、伺ってもよろしいですか?」
「ああ、気になりますよね。義理のお父上が腰を痛められてご実家の農家を手伝いに行かれていたんですが、そのまま家業を継ぐ決心をされたようで、急遽退職となりました。それが1か月前の話です。今年度から大学側の我儘を聞いて授業をひとつ増やした私に最大限気を遣ったのか、すぐに代わりの方を採用できるよう積極的に動いてくれまして」
「我儘、ですか」
「ええ。私は現役の翻訳家でもあるので授業数を増やすつもりはなかったんですが、脅迫に近い泣き落としでまんまと押し切られました」
「あはは、嫌々お引き受けになったんですね」

 黒い睫毛に縁どられた甘めの目元を細める青年に合わせて、鳴成もゆるく微笑む。

「だからというわけではありませんが、TAの方の待遇も少し改善されました。募集要項に記載済みの内容が上に、それ以外の細かい事項は下に記載しています」

 鳴成は用意していた資料を月落に渡すと、スーツの内ポケットから3色ボールペンを取り出し説明を始めた。
 最初のページには時間割が印刷されている。

「授業があるのは月、火、木、金です」
「授業は全部で6コマお持ちなんですね」
「ええ。月曜の1限が1年生の必修英語Ⅰと4限に同じく1年生のスピーキング基礎、火曜の2限が2年生のスピーキングのクラスです。木曜3限に3年生の英語Ⅲでクリエイティブライティングを教え、金曜の1限が無理やり増やされたもうひとつの1年生の必修英語Ⅰ、4限に学部間共通の英語読解力・表現力開発講座を持っています。月落さんにはこの6コマすべてにTAとして同行していただきます」
「承知しました。ゼミはお持ちではないんですね」
「ええ、全力で断りました。准教授という肩書も辞退すると大学側には初めから申しているんですが、一向に受け入れていただけず、さらに今年は脅しと言っても過言ではない懇願に哀願を重ねて泣きつかれまして。私も泣く泣く1コマ増やした次第です」

 はぁ……とため息を吐いた鳴成の表情は物思わしげで、やりたくなかった感がありありと出ている。
 40代の美麗な男性の愁いを帯びた姿はそれはそれでとても絵になるな、と声に出したら鋭く睨まれそうなことを月落は思う。

「弊学は教員及びその助手には専門型裁量労働制を導入しているので、月落さんも共に週4勤務となります。時間は8時から大体18時まで、授業準備も一緒にしていただきます。毎週金曜日とテスト期間後は、採点作業とその他の事務作業に追われるのでもう少し拘束が長くなりますが、ご了承ください」
「前職の残業時間と比べると良心的で、むしろ安心しました」
「外資系最大手のコンサルファームは、労働時間もストレスも想像を絶しそうですね」
「プロジェクトによっては終電に間に合わないことも多々ありました。フレックスも導入してはいたんですが、あまりその恩恵は受けられなかったですね」
「終電で帰れない……授業数をひとつ増やすことさえ渋った自分が、恥ずかしく思えます」

 そろりと気まずそうに視線を外す鳴成に、月落は相好を崩す。

「20代だからこそ可能だった荒業だと自分でも思うので、どうぞお気になさらず。短時間睡眠でも人間としての形を保てる魔法を身につけられたことに関しては、利点でしたので」
「魔法?」
「もし鳴成准教授がお望みとあれば、短時間睡眠でも泥人間にならない魔法を掛けて差し上げますね。きっと、テスト期間後の採点の時期には重宝すると思います」

 言葉の意味を把握しかねて首を傾げる鳴成に、月落は神妙な面持ちで頷く。

 初日もそうだったが、この青年は冗談なのか真実なのか判別の付かないことを言うのが趣味なのだろうか?
 真面目な顔で、こちらをじっと見つめるのはやめてほしい。
 忙殺という言葉以上に適切な表現の見つからないテスト期間後の地獄を思い出して、思わずその軽口を頼みの綱にしてしまいそうである。
 年に2回訪れるあの暗黒の日々は、その影を感じるだけでも背筋が凍る。

「……もし必要な時はご相談します」
「いざという時にすぐ繰り出せるように、鍛錬しておきます」
「お願いします。あとは、学外の方が大学職員となる際には大学事務課が行っているセミナーを受講していただく決まりです。施設案内、業務内容の説明、ハラスメントに関する注意もありますので必須でお願いします。明後日、木曜の午後でアジャストしてもよろしいですか?」
「はい」
「あと言っておかなければならないことは……ああ、そうでした。通勤は車ですか?」
「いえ、電車にしようと思っています」
「電車……月落さんのご住所だと、そう遠くはなさそうですね」
「はい、電車で20分のところに住んでいますし、ここの最寄り駅周辺が賑わっていて便利そうだなと思ったので」
「分かりました。交通費は支給されるので、別途申請書を提出してください」
「はい」
「あとは……服装は清潔感があれば自由です。うん、何も心配はいらないですね」

 今日の月落は白シャツにネイビーのニットジャケットを羽織っている。
 深めの青の三つ揃えを着る自分と色がリンクしているのが面白い、などと鳴成は頭の片隅で思う。
 朝の気分が一緒だったのだろうか?と余計なことまで考えてしまう。

「説明は以上ですが、何か訊きたいことはありますか?」
「ひとつだけ。TAは本来なら学部生や大学院生を委嘱対象とした補助業務だと認識しているのですが、逢宮大学のTAはその制度には則っていないんでしょうか?さらに言えば、外国語学部のTAだけ特殊枠のように感じたのですが」

 鳴成は意外だとでも言いたげにまばたきをした。
 そこに疑問を持たれるとは正直思っていなかった。

「TAについてよくご存じですね。大学生時代に交流が?」
「いいえ、ありません。今回の募集要項に『在学生は応募対象外』の文字があったのが気になって、他大学や他学部と比較して調べてみたんです。貴学独自の採用ルールでしょうか?」

 勤勉だ。
 一般的なTAの業務内容だけでなく、逢宮大学の外国語学部におけるTAの役割についても調べたということだろう。
 コンサル時代の職業病なのか、それとも彼自身の性質なのか。

「逢宮大学でも外国語学部だけが在校生対象外としています。授業サポートを通じて学生の理解促進を助ける、というのがTAの本質的な役割です。本学部においてその役割を果たせるのは、実践的で現実的な外国語運用能力を有する人材ということで、雇用というきちんとした形で学外に広く募集をかけているんです」
「立場的には助手といった感じでしょうか?」
「ええ、立ち位置的にはそうですね。給与面も一般的なTAとは一線を画しています。在校生を採用してしまうとアルバイト代が高くなりすぎて他学部とのバランスが取れないので、学内募集は行っていません」
「では、僕以外のTAの方も全員社会人なんですね」
「ええ、担当の授業数と受け持ちの生徒数によってはひとりで授業を行っている先生も多いので、数はあまりいないですが。もしかしたらこの研究棟で擦れ違うこともあるかと思います」
「承知しました」
「他にご質問は?」

 時刻は9時50分になろうかという頃である。
 今日はこれから2年生のスピーキングのクラスがあるため、そろそろ準備をしなければならない。

「ありません。今日の授業からご一緒してもよろしいですか?」
「ええ、お願いします。まだ契約書は提出していませんが、大学側には説明済みで了承を得ています。パソコン等の専用機材が届いていないので、月落さん用の授業教材は今から印刷しますね」

 窓際のカフェテーブルに置いたノートパソコンを取りに行こうと鳴成が立ち上がると、月落も共に立ち上がり後を付いて行く。

「鳴成准教授、他に不明な点はないんですがひとつお願いがあります」
「何でしょうか」
「出来ればもう少し砕けた口調で喋っていただきたいのですが。今後、週4日のお付き合いですし」
「砕けた……?」

 背後から思わぬ申し出を受けた鳴成は、パソコンを手にする前に振り返った。
 座っていると思っていた月落が、思いのほか近くにいることに軽く驚く。

「えーと、私は基本的にどなたにでもこの口調なのですが……」
「学生にもですか?」
「ええ、そうです」
「僕の前任の方にもですか?」
「ええ。相手によって喋り方を変えるのはある種のストレスになりますし、一線を引いておけば面倒ごとを事前に防げるので有効なんです」
「そうですか……それじゃあ、ゆっくり、緩やかに。まずは呼び方の敬称から変えていくのはどうですか?」

 諦めない押しの強さと、達成しやすそうな目標の提示。
 初対面に近く呼び方にこだわりのない今だからこそ、容易に変更可能な部分ではある。
 やり手だ。

「駄目ですか?」

 さらにはそう上目遣いで訊かれて、その大型犬のような仕草に、存外絆されてしまう自分がいて。

 日常を形成する自分ルールに引っかき傷を作られる。
 血も滲まないほどではあるけれど。
 それは傍から見れば微々たることでも、所有者にとっては由々しき事態である。

 変化は、世界を歪にする。
 戻らない小さな欠片が機能を破壊することは、意外と珍しくない話だ。

 けれど、なぜか断れなかった。

「いいでしょう。その代わり、私だけというのはフェアではないので、きみも堅苦しいのはなしにしてください。今後、朝から晩までのお付き合いですし」

 見上げていた黒眼を、さらに間近で覗き込むように距離を詰める。
 まばたきを数回繰り返した月落は、首をゆっくりと傾けて無邪気に笑った。

「分かりました。僕がもし行き過ぎた場合は叱ってください、先生」
「私はそういう感情が些か欠落している自覚があるのですが、善処します。よろしくお願いします、月落くん」

 ここまでのフィーリングは良好。
 楽しくなりそうな予感に、胸が明るくなる気がした。

「実のある授業を共に作りましょう」
「全力でサポートします」
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