鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

16. 薔薇の奥庭②

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「中学生のとき、同級生の女子が体育の授業で手首を骨折したのを目撃したんです。ちょうどその頃、僕は身長も伸び始めて身体も大きくなってきていて。自分の身体は頑丈に作り変わっていくのに女性はずっと華奢なんだと思ったら、それが不安の対象になってしまって。少し力を入れて触れただけで壊れてしまうんじゃないかと、恐怖すら憶えました。高校生になって周りが恋愛の話をするようになっても興味が湧かなくて、自分はそういう感情が欠落しているのかと悩みました。それが、大学生の時に偶然男性を抱き留めた時に、妙にしっくりきて。その、身体の重みが」
「重み。か弱くない存在感が、ということでしょうか?」
「そうです。自分が不用意に強めの接触をしたとしても、壊れない密度の身体つきにとても安心しました。折れない強さにとても惹かれて」
「中学生の頃に見た同級生の骨折が、余程マイナスな方面で印象に残ってしまったんですね」
「そうだと思います。それからは男性とだけ付き合いました。人数は四人で、最初が大学1年から1年ちょっと、次が大学3年から2年ちょっと、次が社会人2年目から2年、最後が……」
「あの、そんなに細かく教えてもらう必要は……というより、もう少し包み隠した方が良いと思うんですが」
「ご心配なく。先生に知られてマズいことはひとつもありません。ちなみに、どの人とも円満に別れてますので、今後突然会いにきて先生と僕の間を邪魔するなんてことも一切ありませんので、さらにご心配なく」
「ええ、心配していません」

 風に揺られてひらひらと舞う鳴成のリボンタイが可愛い。
 何か質問があれば、と待ち受けるけれども、満足したのか、鳴成は首を横に振った。

「出来心から尋ねただけなので、詳細をあるだけ把握したいという気持ちは本当にありません。もう少し秘匿するべきかなと、そちらの方が心配になります」
「先生に明け渡せないものは何もありません。全部、差し出します」

 琥珀の指先をそっと持ち上げて、月落はその薬指へと口づけをした。
 『永遠の誓い』を模したその仕草に、鳴成が目を瞠る。
 指先と指先を絡ませたまま月落は鳴成へと身を寄せて、陶器の頬にもキスをした。

「僕は先生のものですから」
「それは奇遇ですね。私もきみのものですよ?」
「え……嬉しすぎて鼻血が出そうです」
「ハンカチを持っていますので、いつでもどうぞ」

 風が強く吹く。
 弄ばれるリボンタイを押さえている月落の頬に、鳴成はお返しのようなキスをした。

「先生の恋愛遍歴も聞かせてもらえますか?」
「ええ、私もきみに明け渡せないものはありませんから。と言っても、今までお付き合いをしたのは二人です。表面的な記憶はないながらも過去の事件の傷跡がどこかにあったのか、恋愛感情を抱くのが遅めでした。イギリスでの大学生活も田舎でのんびりしていましたし、寮だったのでそういうものとは無縁の生活を送りました」
「じゃあ、初めての恋人は社会人になってからですか?」
「そうです。大学を出てロンドンに住み始めてもなお一人でいる私を見かねた友人が紹介してくれて、4年交際しました。二人目は日本に帰国後に偶然再会した大学の後輩で、2年ほど付き合いました」
「先生と別れるなんてそんな苦行、僕には想像も出来ないんですが」
「友人としての関係性でいた方がお互いに自然で過ごしやすい、という結論に至ってしまって。二人とも」
「ああ、分かります。僕も三人目の元恋人とはそうなりました。同性同士だったからなおさらかもしれませんが」
「今でも時々連絡を取り合っていますが、嫌ですか?きみが嫌なら対応策を考えます。あ、ちなみにどちらの友人も既婚者です」
「いいえ、全然。むしろ、良好な友人関係として継続できるのは羨ましかったりもします」

 乱れた鳴成の髪を整えながら、月落はその耳の下にキスを落とす。
 初夏の晴天、誰もいない秘密の花園、透明な風。
 それら全てが、少しだけ行動の枠を外させる。

「きみが一番大切です。誰と比べて、という訳ではなく、この大切という感情は唯一無二です。きみだからこそ生まれた感情です」

 微笑む、尊い人。
 月落は心の中で、鳴成の元恋人に大声で感謝を述べた。
 別れてくれて本当にありがとう!お陰で自分が先生と出会えた!と。

 過去は過去だ、それ以上には決してならない。
 終止符の打たれた事象に苛まれている時間などない。
 どうすれば鳴成を幸せに出来るか、今はそれを成し遂げることが自分の最優先事項だ。

「何だか、お互いにあっさりした恋愛遍歴でしたね?」
「あ、もしかして先生、僕のはもっとドロドロしてると思ってましたか?」
「うーん、きみは男女問わず人気があるだろうというのは想像に難くないので、もう少し、その……人数が多いのかなと思っていました」
「え、もしかして遊び人だと思われてました?え、ショックだ……」
「いえ、そういう訳ではなく。秋波を送られることも多いだろうと思って、何と言うか、なので間隔がもう少し短めかな、と」
「つまり、とっかえひっかえしてるんじゃないかと?」
「何事もスマートにこなすので、経験豊富なんだろうな、と……申し訳ない」

 しゅんとした大型犬の頭を撫でて慰める。

「ごめんね、機嫌を直してください」

 その漆黒の頭を自分の肩に乗せて、大きな背中を擦る。
 しばらく抱き締めていると気分が上がったのか、首筋にキスをされたり、ぐりぐりと頭を動かされる。

「痛いですか?」
「大丈夫です。きみがこの体勢によくなるから、だんだん慣れてきました。機嫌は直りましたか?」
「はい、おかげさまで」

 身体を離して見つめ合う顔には、いつもの爽やかな色が乗っている。
 元々気分を害してはいなかったのだろうが、鳴成は安心のため息を吐いた。

「先生、そろそろ次の場所に行ってみましょうか」
「ええ」

 立ち上がってスーツの皺を直していると、二人の目の前に不思議な光景が出現した。

「……今、女の子が通った気がしたんですが」
「先生も見ました?白いワンピースの女の子でしたよね?」
「ええ、そうでした」
「おかしいな、この時期は立ち入り禁止で一般のお客様は入れないはずなんだけど……」
「迷って、間違えて入ってしまったんでしょうか」
「かもしれません。だとしたらご案内しないとならないので、追いかけてもいいですか?」
「そうしましょう」

 手を繋いで、少女が消えた場所へと急ぐ。
 青と紫のアーチを潜ると、白いスカートの裾が緑のコーナーを曲がるのが見えた。
 右に曲がり、左に曲がり、深紅の薔薇が壁一面に咲き乱れる通路を過ぎると、突如として道が終わる。
 そして眼前に現れた、蔦に覆われた大きな木製の扉。
 三日月を背景に咲く一輪の薔薇の紋章が彫られている。

「行き止まり、でしょうか」
「え、これもしかして……あの伝説のやつか?」
「伝説?」
「はい。昔、見たこともない色の蝶を見つけて後を付いて行ったら、知らない扉の前だったと言った親戚がいたんです」

 まさか、と言いながら口を手で覆ったまま固まる月落を、下からそっと鳴成が見上げる。

「不思議な扉、的な何かですか?もしかして」
「はい。この奥庭に入ったお客様はもちろん、親戚でも遭遇したのはごく僅かと聞いています。本当はこの道の先にはさっき言った鬱蒼とした緑が広がっていて、この扉はないはずなんですが……実は僕も初めて見ました」
「それは貴重な体験ですね。ご親戚は蝶で、私たちは少女……案内役が色々といるようですね」
「雨だったとも聞いたことがあります」
「雨……存在が一意に定まらないのは面白いですね。この先には一体何があるんでしょうか」
「実は人それぞれで続く景色が違うようです。夏なのに銀世界を見たという親戚もいれば、昼なのにオーロラが美しい夜を見たという親戚もいて」
「まるで別世界に飛ぶようですね」
「……先生、あまり驚いていらっしゃらないですね?」
「ええ、本の虫なので。SFは大好きなジャンルです」

 好きこそものの上手なれ。
 想像力は、現実と非現実の融合を実現してくれるアイテムだ。

「先生、開けてみましょうか」
「開けられるでしょうか?このまま押せば?」
「一緒にやってみましょう」

 重厚な扉の左右に手をついて、力いっぱい押す。
 ギギギ……と蝶番が古めかしい音を立てて動く。
 蔦の絡んだこげ茶が完全に開いた先は、白とエメラルドグリーンの絶景だった。

「……海だ」
「……海ですね」

 まさか、東京のど真ん中にいながらにして海を見ようとは。
 パタン、と扉が閉まる音がして後ろを振り返ると、そこには扉など跡形もなく、遥か先まで白い砂浜だけが続いている。

「閉じ込められましたね」
「閉じ込められました……」

 寄せては返す穏やかな波音だけが繰り返し響く。
 思わず鳴成が深呼吸すると、隣で月落も大きく息を吸っていた。
 爽やかな潮の香りで肺を洗う。

 太陽の光を反射して輝きが永遠に連鎖する波間、折り重なって形を変える波紋。
 白い砂浜に何度も打ち寄せる。
 何時間でも見つめていられそうなその空間は、癒しそのものだ。

「閉じ込められては、仕方ないですね」

 そう言いながら、鳴成はおもむろに革靴と靴下を脱いでスラックスの裾を捲り始めた。
 ネイビーのジャケットも脱いでベストのボタンを外す。

「先生、何して……」
「せっかくですし、この状況を楽しまなければね。海に来たのはとても久しぶりなんです」

 ベストを脱いでリボンタイも外した鳴成は、無邪気な少年の顔で笑った。

「遊びましょう?」

 好きこそものの上手すぎるなれ。
 SF好きの少年はこの状況にいち早く順応したらしい。
 きみも脱いで、と月落のダブルベストの裾を引っ張る。

「ね?」

 早く、と急かされて、観念した月落もシャツと裾を捲り上げたスラックスだけになる。
 そのまま手を繋いで海まで駆け抜けた。
 ばしゃりとエメラルドの中に入るけれど、その足を奇妙な感覚が襲う。

「え?え?冷たい、んだけど、冷たくない?なにこれ?先生、冷たいですよね?」
「冷たいです。水ですけど、本物の水じゃないようですね、これ」
「あ、しかも服濡れないですね」
「本当ですね。ちゃんと水なのに、消毒用のアルコールみたいですね」

 透きとおるエメラルドグリーンは確かに水の触感なのに、不思議なことに髪も服も濡れない。
 触れて冷たさも感じられるのに、数瞬後には揮発するようにすっと消えていく。
 奇妙な場所では、現象も奇妙なようだ。

「服が犠牲にならないのは凄く良いですね!先生、これ一生遊べます!」
「一生?あはは、そうですね。思う存分遊びましょう」

 海にダイブしたり水を掛け合ったり、深いところまで歩いて行ったり。
 世界で最も美しい色の海にはしばらくの間、童心に帰った恋人同士の笑い声で溢れていた。


 澄んだ空を、透明なシロナガスクジラが泳ぐ。
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