羽根/アダムとイヴの純愛

山本ハイジ

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アダムとイヴの純愛(7)

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 カン、と、缶コーヒーをやや乱暴に置いて、伊藤くんはため息をつきました。――孤立。
「周りと話も合わなければ、感覚も、空気も合いません。学生の頃もそんな感じでした。そのうちつらくなってしまって……ダメですね、これでは」
 胸が痛くなりました。……伊藤くんは、私より繊細なのかも知れません。私はどうにか我慢して、映画や小説や少女漫画に逃避することで何とかやっていけましたから。
「伊藤くんは、悪くありません」
「え?」
「周りが汚いだけです。あなたは綺麗。それの何が悪いのでしょう?」
「……林田さん」
 伊藤くんが私の顔をじっと見つめています。目を逸らさないように、必死に堪えました。
「ありがとうございます」
「い、いえ」
 伊藤くんの王子様のような笑顔。顔が熱くなるのを感じました。ごまかすように、ペットボトルのカフェオレを飲みます。
「あの、林田さん」
「……はい?」
「よかったら、休日が被った時にでも一緒に出かけませんか?」
「えっ! 本当ですか? ……えほっ」
 いけない、カフェオレが気管に入りました。口に手を当てて咳が収まるまで待ってから、伊藤くんに向き直ります。
「大丈夫ですか?」
 下品な失敗です。伊藤くんは笑ったりせずに、真面目に心配してくれました。
「は、はい。ごめんなさい。それで、えと、お出かけ嬉しいです!」
 ポケットからハンカチーフを出して口元を拭いつつ、何度も頷きました。
 伊藤くんがフッと小さく笑います。ああ、いまさら笑われてしまいました。
「公園なんて、如何でしょう? いいところ知っているんですよ」
 公園! 少女漫画みたい!
「素敵です!」
「なら決まりですね」
 デートだなんて、初めてのことです。それも伊藤くんのような素敵な人と……何を着ていこうかしら?
 それから仕事中も、仕事が終わって伊藤くんと帰っている時も、私の頭は浮かれっぱなしでした。
 デートについて話し合っていると、気がつけば私のアパートの前。
「それでは、また明日」
「はい、明日!」
 別れの挨拶を交わして、階段を上がり、部屋に入ると私はまっさきにバッグから携帯電話を取り出しました。実家の電話番号を急いでプッシュします。
 耳に電話口を当てて、コール音が五回ほど鳴ったあと、懐かしい声が聞こえてきました。
『はい、林田ですが』
「もしもし、お母さん!」
『まゆみ、どうしたの?』
 ようやく手に入れた、この純潔な交際の喜びを伝えなければ。これまでの事情を興奮気味に、早口で話しました。
 ――やや間があいて、聞こえてきたのは母のため息。
『……まゆみ、あんた何か忘れていないかい?』
「え?」
『その男がどれほど信用出来るのかは知らないけどね、ペニスがあるんだよ、男にはペニスが!』
 ……私の浮かれていた心が、一気に冷めました。母がまくしたてます。
『男という生き物はペニスに脳をコントロールされているんだ! 悪しきペニスに! 去勢すると性格が大人しくなるのは、汚れた欲望が根本から取り除かれるからだよ! 男なんてのは全員そうした方がいい! ペニスは悪魔のモチーフにされるくらい、邪悪なものだよ! ……その伊藤っていう男だってペニスがあるんだ。今はよくてもいつ、どこで、ペニスの邪念に暴走するのかわからないんだよ!』
 私は何も言えず、黙っていました。母がぜいぜいと荒く息をついています。
『……まゆみ、お前がもしもペニスに汚されるようなことがあったら、私はその男を殺すよ。充分、気をつけるんだね』
 母の掠れた、疲れたような声色。私は反論することもなく「はい、わかりました。今度、有休が取れたら帰ります」……などと適当なことを言って、電話を切りました。
 暫く呆然としてから、脳裏に様々なことが駆け巡りました。
 顔も覚えていない父。学生の頃の下品なクラスメートの男の子たち。保健の教科書。街中に溢れている恥知らず。ばら色の日々のエセ王子。伊藤くん。伊藤くんが、ペニスの化け物になった悪夢。
 気がついたら、頭を抱えて悲鳴を上げていました。
 また私の心は迷いはじめました。そう、伊藤くんにも卑俗な男性たちと同じく、ペニスがあるのです。美しい伊藤くんにはまったくもって似合わない!
 ……もちろん、伊藤くんがペニスごときに惑わされる訳はないと信じています。ただ、ペニスがあるという事実が恐ろしいのです。
 映画や小説、少女漫画に出てくる王子様は虚構ですから気にしませんでした。しかし伊藤くんは現実なのです! ……ああ、伊藤くん。
 去勢してほしいです。あなたにペニスは、いりません。

 翌日、仕事中に取った電話。インカムから不愉快な荒い息遣いが聞こえてきて、私は訝しく思いながらも応対しました。
「はい、××コールセンターです。お電話、ありがとうございます」
『あの、カタログに載っていた生理用パンティーについて質問がしたいんですが』
 相手の声は明らかに男性のものです。私が何か言う前に、そのお客様は問いました。
『ボク、これを穿いてオナニーしようと思うのですがサイズありま』
 全部聞く前に通話を止めました。
 死ぬほど腹立たしい。ペニスという名の悪魔が!

 お昼休みになると伊藤くんに「顔色が悪いですよ」と、心配されてしまいました。
 変態電話のショックを引きずっていましたが、そんなこと恥ずかしくて伊藤くんに相談出来ません。それに私の顔色が悪いのは、もう一つ理由があります。
「ごめんなさい。私、お手洗いにいってきます」
 伊藤くんのデスクへ椅子を持ってきて、コンビニで買ったクリームパスタと紅茶が入った袋をデスクに置くと、私は一言断ってからオフィスを出ました。
 ポケットの中にはポーチが入っています。急ぎ足でお手洗いへと入ったら、あの女子社員たちが洗面台で化粧を直していて、目が合ってしまいました。
「……」
 ついていません。けれど、用を済まさない訳にもいきません。さっさと個室へと向かいます。女子社員たちも、すぐに私から視線を外してくれました。
 ドアを閉めて、鍵をかけるとロングスカートをたくし上げ、下着ごとタイツを下ろして便座に座ります。血の滲むナプキンを剥がしました。……生理なんて、なくなればいいのに。純潔を守ると決めた私には必要のないものです。
 隅に置いてある汚物入れに丸めて捨てると、ポーチから新しいナプキンを出して取り替えました。下着とタイツを戻して、さあ出ましょう……と、した時です。
 女子社員たちの、妙に大きな話し声が聞こえてきました。
「伊藤くん、林田さんなんかの何がいいんだろうねー?」
「マジで趣味悪い」
 ……え? この人たち、私がいるの知ってますよね?
「あんな陰気臭くて、カビ臭そうなの」
「そうそう」
 きゃははは、と、甲高い笑い声が響きます。怒りを通り越して、呆然としてしまいました。
「それにさぁ伊藤くん、あんなのに立つことが出来るのー?」
「やっだーケイコったら」
「伊藤くん、インポなのかもねー」
 全身が粟立ちます。下品。……私の容姿は好きに言ってくれても構わないけれど、伊藤くんのアレの話はお願いだからしないでほしいです。伊藤くんに、あんな悪魔がついている訳がないでしょう!?
 神様は私にまた試練を課すつもりなのでしょうか? やがて女子社員たちの足音がすると同時に、笑い声は遠くなっていきました。完全に静かになってから、ふらつきつつ個室から出ます。
 オフィスに戻って伊藤くんのもとへいくと、伊藤くんは私の顔を見て愁眉を寄せました。
「どうしました? よけいに顔色が悪くなっていますよ」
「いえ、別に……なんでもないです」

 それからある程度の時が経つと、私と伊藤くんはシフトを調整して、ついにデートの日がやってきました。
 目覚まし時計を止めて、ゆっくりと起き上がります。ベッドから下りて、カーテンを開ければ光が差し込んできました。いい天気です。
 まさにデート日和。洗面所へ向かうと顔を洗って、豚毛のブラシでいつもより入念に髪をとかしました。おしろいをはたき、色つきのリップを塗ります。めったにお化粧をしない私でも今日だけは特別です。……と、いっても売女のようにはなりたくないので、ごく薄化粧ですが。
 そのまま居間に戻りクローゼットを開けて、淡いピンク色の生地に白い小花が咲いているロングワンピースに着替えると、生成り色のタイツを穿きました。
 毛糸の花のコサージュで飾られて、ざっくりと編まれたフェミニンなニット帽を被ります。色はベージュ。コーディネートしたお洋服は安物だけれどすべてオニューです。……本当はピンクハウスとか好きなんですけれど。
 白いフェルトのポシェットを肩にかけて、玄関でパンプスを履きます。いつもの地味な黒いパンプスではなく、履き口の甲の部分にギャザーが寄って、爪先にはビーズの花がついたピンク色のパンプス。それに足を入れてドアを開けようとした直前で、パンプスを脱いで戻ることになりました。
 重要なものを忘れていたのです。台所にきてシンクの下の戸棚を開けると、キッチンバサミを手に取ってポシェットの中へ入れました。
 そして再びパンプスを履き、出かけます。
 ――大丈夫。また少し、勇気を出せばいいだけです。とりあえず今日はうんと楽しみましょう。駅まで向かういつもの道も、何だか映えて見えました。
 駅前につくと、構内へと上がる為の階段脇に立って伊藤くんを待ちます。携帯電話で時間を見てみれば、まだ待ち合わせまで十分もありました。少し、早くに来すぎてしまいました。だって落ち着かないのだもの。伊藤くんは私のアパートまで迎えにいきますよ、なんてことを言ってくれましたが断りました。
 だって、デートの醍醐味は待ち合わせでしょう? 映画でも小説でも少女漫画でも、ヒロインまたはヒーローが相手に思いを馳せながら待っているものです。……はぁ、伊藤くん。
 もしかしたら今日で最後かもしれません。怖いけれど仕方ありません。幸せになる為には、これしかないのです。
 ポシェットをそっと撫でました。あちこちにいる人々を何となく観察しました。ぐずっている子供の手を無理矢理引いている男女がいました。
 気がついたら待ち合わせの時刻、十時です。そのうち、携帯電話の着信音が鳴りました。伊藤くんからです。
 慌てて、通話ボタンを押しました。
『あ、林田さん! もう駅前にきていますか?』
「はい」
『僕も今つきました。どの辺にいます?』
「階段辺りです」
 視線を巡らすと携帯電話を耳に当てて、人を避けつつ歩いている伊藤くんを見つけました。
 手を振ってみせると、伊藤くんは気づいてくれたのかこちらを見て、微笑みました。お互い電話を切ると、伊藤くんが駆け寄ってきます。
「すみません、待たせてしまいましたか?」
「いえ、きたばっかりです」
 伊藤くんはシャツの上にミルクティー色のカーディガンを着て、細身の黒いパンツを穿いていました。靴はよく磨かれた革靴。
「私服、素敵ですね」
 伊藤くんが、私が伊藤くんに対して思っていたことを、私に言ってくれました。
「え! そ、そうですか?」
「はい、可愛いです」
「……ありがとうございます。伊藤くんも素敵です」
 精一杯、お洒落してきてよかった。「可愛い」だなんて、男性に言われたの初めてです。
「では、いきましょうか」
「はい」
 私を先に階段へ上らせて、伊藤くんは一歩後ろについてきます。切符を買って改札を通り、今度は伊藤くんが先頭に立ってホームへと下りると、丁度よく電車がきました。田舎の方へと向かう下りの電車です。
 車内に入ると、中はすいていました。こっくりと舟を漕いでいる人と、お年寄りの方が数人。私と伊藤くんは隅の席に腰かけました。
「平日のお休みはいいですね。混雑していなくて」
「ええ」
 伊藤くんに同意しつつ、視線を伊藤くんの膝から、その脚の間へと滑らせました。
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