ハッピーレクイエム

煙 亜月

文字の大きさ
1 / 96
I 演繹と仮説

001 嘔吐

しおりを挟む
一 嘔吐

「よし、団員は注目。もう帰るやつもいるけどな、残すのは後悔じゃなくって思い出だかんな。俺はずっと裏方やった。でもな、いい四年間だった。感謝する――ああ、立っとると吐きそうや。ほな、次の人いこう」
 中締めを部長の田中が述べていたころ、かれはなにもいわずわたしの膝で眠っているはずだった。
「おい平松、なんかいえよ」部長がいい、わたしが頬を叩いてかれ――平松――を起こそうと試みた。まったく起きそうにないかれを見た田中は「しゃあないなあ、使い勝手の悪い奴やな。じゃあ、ショウちゃん」と、わたしへ視線が向けられる。「じゃあ、ってなんですか、じゃあって。これじゃあわたしだって立てませんよ」
 わたしはかれの寝顔を撫ぜる。幾分ひんやりとした肌。
「はあ、平松の介護はショウちゃん頼むからな」

 ここで、いや、もっと早く気づくべきだったのだ。
 唇が青い。強く平手打ちしても起きない。隣で飲んでいる医学科の吉川が注視する。吉川はがん、と大きな音を立てジョッキを置く。
「ショウちゃん! どけ!」
 わたしは驚いて身を縮こませる。吉川は寝ているかれの襟を掴み、右拳で思い切り強く胸を叩打した(かれの吐瀉物があたりにまき散らされる)。吉川はそのままかれの体を寝かせ、顔を右に向けさせる(かれの口からさらに吐瀉物がぼたぼたとこぼれ落ちる)。
「お、おい、ヨッシー?」「やめろよ、店の中だぞ」と制止する者もいたが、吉川は大声で「黙れ!」と一喝する。
 一瞬だけ静まる居酒屋の店内で吉川の舌打ちが聞こえた。
 ややあって騒ぎだす団員もいたが、まだ笑っている団員もいた。それらを尻目に吉川はかれ――平松の体も足も、真っすぐにさせるようほかの団員に指示する(吉川の叩打は休むことはなくかれの胸に浴びせられ、そのたびに吐瀉物があたりに飛散した。吉川はかれの顔だけねじって横向きにし(横を向かせただけで口に残る吐瀉物がぼたぼたと床にこぼれた)、座卓を乱暴に蹴って脇にやる。かの女はかれの胸に手を二秒かもう少し当て「くそ」と毒づく。
 平板な口調で吉川はいった。
「安東と木村、AED探してきて。赤いケース。除細動の。交差点の角のホテルにあると思う。三分経ったら見つからなくても戻るように。ショウちゃん、いい加減どいてね――早くどけっての、もう!」
 わたしはより一層状況を把握しかねた。周りの団員の理解力にもばらつきがあった。
 それとほぼ同時にそばにいた若い女の店員がトランシーバーでどもりながら人を呼んだ。その後店員は「あの――」とこちらに話しかけたが、吉川が今度は大声で「男子はテーブルとか、いいから早く、全部どかして」とがなり、かき消した。吉川はかれに心臓マッサージ――胸骨圧迫を施しはじめた(団員も事の重大さにようやく気づく。大慌てで座卓を隅にやる。グラスが倒れ、座敷から床に落ちて割れる音が響く。団員は騒然とする)。
「鈴谷と田中、ああ、田中じゃなくて木村、一一九番通報。救急です、っていって、できるだけゆっくり話したらいいよ。残りは全員、今すぐ一階に降りて」と、指示を飛ばす。わたしはこの出来事がまだよく理解できない。

 年かさの男の店員が階段を駆け上がってくる。泣き出した若い女の店員を脇にやる。「大丈夫ですか! 急アル? 一気したの? 意識は?」と矢継ぎ早に階段付近にいたトランペットの子に訊く。たちどころにその女の子が泣き出す。「もう! あたしだって泣きたいよ。ねえ、この状況わかる? わかる? わかんないならどいてよ。男子は通りに出て救急車の誘導。全員、本当に、頼むから静かに」

 確実にまずいことなのだと、団員は慌てふためき、その中で唯一の秩序は吉川の動きと、なににも動じずじっと座ったままのわたしであったように思う。「だれか、医でも看護でも、だれでもいい、ちょっと替わって。あたし吐きそう」との吉川がいい、看護学部三年次の男子が代わりにかれへの胸骨圧迫を続けた。吉川は完全に伸びて、「水」とだけいって、その場に嘔吐した(かの女の体には全身的に震えがみられた)。

「すごいゲロ」
 わたしはぽつりといった。
 見るともなしに見れば、かれや吉川のであったり、つられた団員のであったり、とにかく吐瀉物だらけであった。騒いでも仕方ないか。なにがどう仕方ないのかよくわからないけど。
「そういえば、わたし誕生日近いんだった」わたしはまたつぶやく。
 鈴谷という男子団員と、田中よりは酔っていない木村がその場で救急車を呼ぶ。「え? どうやって呼ぶん? やったことないし」
「ふつうに電話する画面の左下に緊急ってとこあるだろうが! くそ!」と胸骨圧迫を再開した吉川が叫ぶ(泣き出したり嘔吐したりと、ほかの団員もそこそこうるさかったので大声で怒鳴らざるを得ないのだ)。

 その場にいた人間総出で片付けられた店で、横たえたかれに胸骨圧迫を施している吉川の顔を見る(団員も店員も屋外へ出、救急車のために通行人を退かせたり、目立つところで立っていたりしていた)。
 なぜ吉川は泣いているのだろう。わたしはただ、かれの穏やかな寝顔をいつもの、たとえばわたしより先にかれが寝てしまった夜のようだね、と思った。わたしもかれと同じく、穏やかな気持ちだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...