3 / 96
I 演繹と仮説
003 翌朝
しおりを挟む
三 翌朝
服、どうしよう。あまりにもたくさんの事が短時間のうちに起きたので、いいかげん脳が疲弊してきた。どうやって家に帰ったのか思い出せないが、起きたときはベッドで眠っていた。一度目が覚めて吉川とLINEしていたような気もするが、よく分からなかった。ドアチャイムが幾度も幾度も鳴り、目を覚ます。吐瀉物まみれの服のまま玄関へと歩く。吉川がドアの向こうで「聖子! 開けてよう!」と泣いている声が聞こえ、施錠してなかったのでわたしはそのようにする。転がるように吉川は入り、わたしに抱きつき、そのままふたりでへたり込んだ。
「ヨッシー」
「ごめん、聖子。あたし聖子の心配もしないといけなかった」と鼻をすすって吉川はいった。
「何のこと?」と尋ねる。
「(吉川はうつむいて鼻をすする)わかった。ちょっとじゃまするよ」吉川は靴を脱ぎ、部屋に上がる(服はすでに着替えていたようだった)。
「え?」と玄関に座ったままでわたしは呆けたように吉川を目で追う。かの女の形相はいっとき険しくなり、やがて涙を流しながらぐしゃぐしゃの顔でわたしに抱きついた。「聖子?」
「うん」
「あのさ――いや、見当識って言葉くらいは知ってるよね。ここがどこで、自分がだれで、今どういう状況か」
「――はい?」
「聖子(座卓のティッシュで鼻を思い切り強くかむ)、悪いけどあたし、ちょっと一緒にいるわ」まだ外も暗く、わたしたちはシングルベッドに潜り込んで仮眠をとることになった。一人っ子だったので、背中をくっつけて眠るのは高志に次いで吉川が二番目だった。服は着替えろといわれたのでその通りにした。エアコンもつけっぱなしにし、暖かい部屋の中でわたしはまた眠りについた。
高志と出会って半年の出来事だったのだ。その半年で、永遠の別れが来るなんて。神の計らいか嫌がらせで、別れを予知できたとしても、わたしはあの時に出会った高志を愛しただろう。それはいまでも強く思う。
高志はわたしと今日、死ぬはずだった。ところがわたしは夜を明かし、朝を迎えた。高志には永遠に訪れない朝を迎えた。
「ヨッシー、どこ?」
トイレだよ、と間延びした声が返ってくる。わたしは安堵し、また布団の中へ潜る。今日は月曜だったか。起きた方がよいのだろう。でも、低気圧による頭痛が苦しい。が、出すものは出さねばならず、吉川のあとに続いて手洗いに入る。
「おはよう、聖子」手洗いから出ると吉川がカーテンを開けて待っていた。わたしはぽかんと口を開け――言葉を発するためなのか、言葉を探すためなのか、しかしそれのいずれにも挫折して、口をつぐむ。
「ねえ、ショウちゃん」吉川は疲れた様子で話した。「夢だと思いたいのかもしれないけど、事実、なんだよね。昨日の今日で混乱するかもしれないけどさ。あたし、バイク取ってくる。その間にショウちゃんは準備しといて。病院行こう」
「え、準備って?」
「――心の準備」
ワンルームで二人とも突っ立ったまま黙り込む。わたしはぎこちなくうなずく。
ふたりとも居酒屋にコートもブーツも置いてきた。代わりになるようなものを身に着け、吉川の一二五ccのスクーターの後ろに乗る。幹線道路を救急病院へ走る。なんの部屋なのか、プレートもなにも掲示されていない自動ドアまで看護師に連れられ歩く。看護師はネームプレートのICカードでロックを解除し、こちらです、と案内する。寒いが陰気ではない、白く清潔感の漂う空間であった。
吉川は遅れて歩き、わたしのあとに控える。看護師がきれいに折り畳みながら覆布を取り去る。高志は白い着物を着せられ、両手をみぞおちのあたりで組み、鼻と耳からは綿球がのぞいていた。
この時初めてわたしはかれの死を実感した。右手で触れたかれの頬はびっくりするほど冷たく、左手を添えてみて、死というものが体にしみこんできたのを今でも鮮明に思い出せる。わたしはなにもせず、高志の穏やかな死に顔を見ていた。きれいだった。なにもしゃべらずただ眠っている、高志の死は誰も覆しようがなく、永遠不変のものであるという意味で、かれの寝顔は完璧で神々しいようにも感じられた(後ろで吉川が吠えるように泣いていた)。高志は、平松高志はすべてから解放された面持ちで――あらゆる苦しみを地上に残して――天に召されたのだ。
きのう、ふたりで死ななくてよかったのかもね。かれの死に顔に向かって心の中でつぶやく。
服、どうしよう。あまりにもたくさんの事が短時間のうちに起きたので、いいかげん脳が疲弊してきた。どうやって家に帰ったのか思い出せないが、起きたときはベッドで眠っていた。一度目が覚めて吉川とLINEしていたような気もするが、よく分からなかった。ドアチャイムが幾度も幾度も鳴り、目を覚ます。吐瀉物まみれの服のまま玄関へと歩く。吉川がドアの向こうで「聖子! 開けてよう!」と泣いている声が聞こえ、施錠してなかったのでわたしはそのようにする。転がるように吉川は入り、わたしに抱きつき、そのままふたりでへたり込んだ。
「ヨッシー」
「ごめん、聖子。あたし聖子の心配もしないといけなかった」と鼻をすすって吉川はいった。
「何のこと?」と尋ねる。
「(吉川はうつむいて鼻をすする)わかった。ちょっとじゃまするよ」吉川は靴を脱ぎ、部屋に上がる(服はすでに着替えていたようだった)。
「え?」と玄関に座ったままでわたしは呆けたように吉川を目で追う。かの女の形相はいっとき険しくなり、やがて涙を流しながらぐしゃぐしゃの顔でわたしに抱きついた。「聖子?」
「うん」
「あのさ――いや、見当識って言葉くらいは知ってるよね。ここがどこで、自分がだれで、今どういう状況か」
「――はい?」
「聖子(座卓のティッシュで鼻を思い切り強くかむ)、悪いけどあたし、ちょっと一緒にいるわ」まだ外も暗く、わたしたちはシングルベッドに潜り込んで仮眠をとることになった。一人っ子だったので、背中をくっつけて眠るのは高志に次いで吉川が二番目だった。服は着替えろといわれたのでその通りにした。エアコンもつけっぱなしにし、暖かい部屋の中でわたしはまた眠りについた。
高志と出会って半年の出来事だったのだ。その半年で、永遠の別れが来るなんて。神の計らいか嫌がらせで、別れを予知できたとしても、わたしはあの時に出会った高志を愛しただろう。それはいまでも強く思う。
高志はわたしと今日、死ぬはずだった。ところがわたしは夜を明かし、朝を迎えた。高志には永遠に訪れない朝を迎えた。
「ヨッシー、どこ?」
トイレだよ、と間延びした声が返ってくる。わたしは安堵し、また布団の中へ潜る。今日は月曜だったか。起きた方がよいのだろう。でも、低気圧による頭痛が苦しい。が、出すものは出さねばならず、吉川のあとに続いて手洗いに入る。
「おはよう、聖子」手洗いから出ると吉川がカーテンを開けて待っていた。わたしはぽかんと口を開け――言葉を発するためなのか、言葉を探すためなのか、しかしそれのいずれにも挫折して、口をつぐむ。
「ねえ、ショウちゃん」吉川は疲れた様子で話した。「夢だと思いたいのかもしれないけど、事実、なんだよね。昨日の今日で混乱するかもしれないけどさ。あたし、バイク取ってくる。その間にショウちゃんは準備しといて。病院行こう」
「え、準備って?」
「――心の準備」
ワンルームで二人とも突っ立ったまま黙り込む。わたしはぎこちなくうなずく。
ふたりとも居酒屋にコートもブーツも置いてきた。代わりになるようなものを身に着け、吉川の一二五ccのスクーターの後ろに乗る。幹線道路を救急病院へ走る。なんの部屋なのか、プレートもなにも掲示されていない自動ドアまで看護師に連れられ歩く。看護師はネームプレートのICカードでロックを解除し、こちらです、と案内する。寒いが陰気ではない、白く清潔感の漂う空間であった。
吉川は遅れて歩き、わたしのあとに控える。看護師がきれいに折り畳みながら覆布を取り去る。高志は白い着物を着せられ、両手をみぞおちのあたりで組み、鼻と耳からは綿球がのぞいていた。
この時初めてわたしはかれの死を実感した。右手で触れたかれの頬はびっくりするほど冷たく、左手を添えてみて、死というものが体にしみこんできたのを今でも鮮明に思い出せる。わたしはなにもせず、高志の穏やかな死に顔を見ていた。きれいだった。なにもしゃべらずただ眠っている、高志の死は誰も覆しようがなく、永遠不変のものであるという意味で、かれの寝顔は完璧で神々しいようにも感じられた(後ろで吉川が吠えるように泣いていた)。高志は、平松高志はすべてから解放された面持ちで――あらゆる苦しみを地上に残して――天に召されたのだ。
きのう、ふたりで死ななくてよかったのかもね。かれの死に顔に向かって心の中でつぶやく。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる