27 / 96
III disgusting
027 調和
しおりを挟む
二七 調和
まったく無意味なことをしているかと思われるかもしれないが、わたしは翌日もオーケストラの練習を見に行った。この日は日曜日で、図書館も閉まっており、ほかの(体育館、サークルや同好会の部室などの)施設もその都度、警備員に鍵を借りての使用に限られた。文系キャンパスの大講堂へ向かう。防音の施された扉を開けるや、大音声の斉奏が鳴ってきた。ああ、下手だ。
「オッケー、全然だめ! 木管縦そろえて、金管鳴りすぎ、弦弱い。ドヴォルのD、頭から!」と、指揮台のパトリ――パートリーダーが怒っていた。夏真っ盛りといった、すらりと細い腕も足も出した服装で、その長い黒髪はかの女が動くたびにさらさらと揺れた。「鈴谷、ファースト下りる? 下りる? 寝不足なら外で寝て。平松、鈴谷の分まで頑張りすぎるな。オーボエ拾いながらでもクラの手を抜かれたら困るから」
しんと静まった団員のなかで、ひとつひとつのミスを丁寧に拾い上げ、しかもわたしからみても重要なミスから先に指摘している。
このパートリーダーの女性は耳がいい。指揮しながらそれぞれの音すべてを拾っている。感心しているとかの女は振り返り、「見学ならドア閉めて。楽器、あるの?」と、よく通る声でわたしに明確にいった。「オッケー、そこ! よそ見しない! 一〇分休憩」と、かの女は武芸の心得があるかのようなよく通る声でいった。タクト代わりだろう、菜箸を譜面台に置く(学生指揮者も兼ねているとみえる)。かの女はステージから軽やかに飛び降り、「朝野さんね。リード準備できる? 楽器持ってるんだよね?」といいながら近づいてきた。わたしが意表を突かれ逡巡していると「大丈夫、サマコンは簡単だから。夏は譜面ほとんど白いんだよ。初見でもいけるって」
まずい、とてもまずいとの認識が脳裡をかすめる。早く反駁しなくては。それと裏腹に、金髪男には売却するといっていた楽器を強く意識する。ステージ下で最前列の机にバッグを置いたとたん、金髪男が素早く寄ってくる。紙コップにペットボトルの水を注ぎ、机に置く。
「あ――」
「うん、口つけてないから」それだけいうと金髪男はステージに戻った。
わたしは自分の実力を知っていた。吹こうと思えば、吹ける。吹こうと思えば、であるが。
訝しむ声がステージから聞こえる。あれ、だれ? 朝野さんっていうんだって。知ってる? たしか、生命工学のじゃない?
ため息をつき、バックパックから楽器とリードケースを出す。リードを水に漬け、管体を組む。ステージには背中を向けているが、団員同士のささやきはよく聞こえた。常にキャンパスではだれとも交わらないようにしているので、そのささやき声の主もだれかはわからない――だが、なぜわたしの名前を知っているのだ。少し指の練習をして、二、三分経ったころにリードを水から出す。状態のいちばんよいリードを見つくろって、発音してみる。よい具合だ。楽器にリードを組み付け、残りのリードをクロスの上に置き、かんたんにクロマチックスケール――半音階の練習と指の確認をする。大丈夫だ。三年吹いていなくとも、かつてわたしはアンサンブルを支部大会まで引っ張ってきたのだから。確実に問題ない。
指揮台のパートリーダーに大丈夫? と目配せされ、わたしも目でうなずく。下手からステージに上がる。これがどれほどの特別待遇なのか、わたしには全身の表皮がひりひりするほど理解していた。それと同時に、このステージに登ることが自らの意思に反した行為であることも。団員はほとんどわたしの知らない者だったが、中には知った顔もいた。
「オッケー、私語やめ。二分早いけど休憩終わり。ドヴォルのD、頭から通せるところまで。せっかくだから管も弦もチューニング」
団員が奇異の目でわたしを見ているのを感じた。今の今になるまでオーケストラはおろか、どのサークル、同好会にも所属もせず、もちろんわたしが楽器を吹いているところをだれも見ていないはずだった。
パートリーダーが菜箸を少し上げ、わたしに指示する。A音。わたしはこれ以上正確なA音がどこにあろうかというまでに整った「ラ」を出す。着席したコンサートマスターが弓を持ち、かれの二弦開放音であるAがぴったり合うまで発音する。このコンサートマスターは耳も腕もあまり達者ではない。しかしオーボエという楽器はほかの管楽器と違い、ロングトーンという音を長く伸ばすことが得意なのだ。音が揃うまでわたしはずっと発音し続け、息継ぎをしなかった。コンサートマスターのチューニングがすみ、次にその男が弦楽器群にA音が伝える。弦楽器群で音が広がってやがてやみ、コンサートマスターは楽器を下ろし膝に立てる。わたしはまたA音を、今度は管楽器群へ広める。初心者が多いからか管弦ともに時間はかかったが、すべての楽器のチューニングがすむ。
その間にもクラリネットを構えた金髪男はオーボエの譜面(かれの汚い字で書き込みが多くあり、しかもそれはすべて有益であった)をDの箇所まで繰っており、すべては整った。
指揮台のかの女は頬笑みながらゆっくりうなずき、へその前で組んでいた両手をあげる。団員が楽器を構える。
曲自体は平易で子供向けのように思われたが、実際に合わせるとなるとブランクは否めず、口輪筋も疲れてアンブシュア――唇の形も乱れてしまった。音の出だしの美しさを決めるアタックも、いくつかはよくなかったし、数か所かで目立たぬミスもあったが、三年越しに楽しい、と思える音楽をした。もはやひそひそ声を立てる団員はおらず、あるのは音と音とのつながりだった。
いつ頃からだろう、以前は人と関わるときはかれらへの敵意を持っていた。その構えがないのは久しぶりだった。競争でも敵対でもない、純然に音楽の為に自分が存在していた。
音楽は調和を保とうとする言語だ。ある一音、そしてその次の一音があるとする。ド、ミ。モーツァルトは異なる二音が連なること、それを音楽であるとした。ド、ミ、ソ。レ、ファ、ラ。その変化を絶え間なく連続させ、調和と秩序をもたらそうとする意思を団員たちは持っていた。
まともに会うのが初めてな団員とアイコンタクトを取り、喫煙所やロッカールームでにらみつけてやった者と、身振りで疎通した。
まったく無意味なことをしているかと思われるかもしれないが、わたしは翌日もオーケストラの練習を見に行った。この日は日曜日で、図書館も閉まっており、ほかの(体育館、サークルや同好会の部室などの)施設もその都度、警備員に鍵を借りての使用に限られた。文系キャンパスの大講堂へ向かう。防音の施された扉を開けるや、大音声の斉奏が鳴ってきた。ああ、下手だ。
「オッケー、全然だめ! 木管縦そろえて、金管鳴りすぎ、弦弱い。ドヴォルのD、頭から!」と、指揮台のパトリ――パートリーダーが怒っていた。夏真っ盛りといった、すらりと細い腕も足も出した服装で、その長い黒髪はかの女が動くたびにさらさらと揺れた。「鈴谷、ファースト下りる? 下りる? 寝不足なら外で寝て。平松、鈴谷の分まで頑張りすぎるな。オーボエ拾いながらでもクラの手を抜かれたら困るから」
しんと静まった団員のなかで、ひとつひとつのミスを丁寧に拾い上げ、しかもわたしからみても重要なミスから先に指摘している。
このパートリーダーの女性は耳がいい。指揮しながらそれぞれの音すべてを拾っている。感心しているとかの女は振り返り、「見学ならドア閉めて。楽器、あるの?」と、よく通る声でわたしに明確にいった。「オッケー、そこ! よそ見しない! 一〇分休憩」と、かの女は武芸の心得があるかのようなよく通る声でいった。タクト代わりだろう、菜箸を譜面台に置く(学生指揮者も兼ねているとみえる)。かの女はステージから軽やかに飛び降り、「朝野さんね。リード準備できる? 楽器持ってるんだよね?」といいながら近づいてきた。わたしが意表を突かれ逡巡していると「大丈夫、サマコンは簡単だから。夏は譜面ほとんど白いんだよ。初見でもいけるって」
まずい、とてもまずいとの認識が脳裡をかすめる。早く反駁しなくては。それと裏腹に、金髪男には売却するといっていた楽器を強く意識する。ステージ下で最前列の机にバッグを置いたとたん、金髪男が素早く寄ってくる。紙コップにペットボトルの水を注ぎ、机に置く。
「あ――」
「うん、口つけてないから」それだけいうと金髪男はステージに戻った。
わたしは自分の実力を知っていた。吹こうと思えば、吹ける。吹こうと思えば、であるが。
訝しむ声がステージから聞こえる。あれ、だれ? 朝野さんっていうんだって。知ってる? たしか、生命工学のじゃない?
ため息をつき、バックパックから楽器とリードケースを出す。リードを水に漬け、管体を組む。ステージには背中を向けているが、団員同士のささやきはよく聞こえた。常にキャンパスではだれとも交わらないようにしているので、そのささやき声の主もだれかはわからない――だが、なぜわたしの名前を知っているのだ。少し指の練習をして、二、三分経ったころにリードを水から出す。状態のいちばんよいリードを見つくろって、発音してみる。よい具合だ。楽器にリードを組み付け、残りのリードをクロスの上に置き、かんたんにクロマチックスケール――半音階の練習と指の確認をする。大丈夫だ。三年吹いていなくとも、かつてわたしはアンサンブルを支部大会まで引っ張ってきたのだから。確実に問題ない。
指揮台のパートリーダーに大丈夫? と目配せされ、わたしも目でうなずく。下手からステージに上がる。これがどれほどの特別待遇なのか、わたしには全身の表皮がひりひりするほど理解していた。それと同時に、このステージに登ることが自らの意思に反した行為であることも。団員はほとんどわたしの知らない者だったが、中には知った顔もいた。
「オッケー、私語やめ。二分早いけど休憩終わり。ドヴォルのD、頭から通せるところまで。せっかくだから管も弦もチューニング」
団員が奇異の目でわたしを見ているのを感じた。今の今になるまでオーケストラはおろか、どのサークル、同好会にも所属もせず、もちろんわたしが楽器を吹いているところをだれも見ていないはずだった。
パートリーダーが菜箸を少し上げ、わたしに指示する。A音。わたしはこれ以上正確なA音がどこにあろうかというまでに整った「ラ」を出す。着席したコンサートマスターが弓を持ち、かれの二弦開放音であるAがぴったり合うまで発音する。このコンサートマスターは耳も腕もあまり達者ではない。しかしオーボエという楽器はほかの管楽器と違い、ロングトーンという音を長く伸ばすことが得意なのだ。音が揃うまでわたしはずっと発音し続け、息継ぎをしなかった。コンサートマスターのチューニングがすみ、次にその男が弦楽器群にA音が伝える。弦楽器群で音が広がってやがてやみ、コンサートマスターは楽器を下ろし膝に立てる。わたしはまたA音を、今度は管楽器群へ広める。初心者が多いからか管弦ともに時間はかかったが、すべての楽器のチューニングがすむ。
その間にもクラリネットを構えた金髪男はオーボエの譜面(かれの汚い字で書き込みが多くあり、しかもそれはすべて有益であった)をDの箇所まで繰っており、すべては整った。
指揮台のかの女は頬笑みながらゆっくりうなずき、へその前で組んでいた両手をあげる。団員が楽器を構える。
曲自体は平易で子供向けのように思われたが、実際に合わせるとなるとブランクは否めず、口輪筋も疲れてアンブシュア――唇の形も乱れてしまった。音の出だしの美しさを決めるアタックも、いくつかはよくなかったし、数か所かで目立たぬミスもあったが、三年越しに楽しい、と思える音楽をした。もはやひそひそ声を立てる団員はおらず、あるのは音と音とのつながりだった。
いつ頃からだろう、以前は人と関わるときはかれらへの敵意を持っていた。その構えがないのは久しぶりだった。競争でも敵対でもない、純然に音楽の為に自分が存在していた。
音楽は調和を保とうとする言語だ。ある一音、そしてその次の一音があるとする。ド、ミ。モーツァルトは異なる二音が連なること、それを音楽であるとした。ド、ミ、ソ。レ、ファ、ラ。その変化を絶え間なく連続させ、調和と秩序をもたらそうとする意思を団員たちは持っていた。
まともに会うのが初めてな団員とアイコンタクトを取り、喫煙所やロッカールームでにらみつけてやった者と、身振りで疎通した。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる