28 / 96
III disgusting
028 変容
しおりを挟む
二八 変容
もう夜だ。
みなが楽器を置いて水分を摂っていると、虫の声が聞こえた。日も沈み、大講堂全体を冷やす何基もの強力なエアコンの風が二の腕をすっと撫でている。最後に時計を見たのは七時半ごろか。
「オッケー、終わり。次までにみっちり縦揃えてね。掃除して早く帰ろう。お疲れさまでした!(団員が続いて唱和する)」
わたしはようやく喉がからからであることに気づいた。ステージを降り、机の方へ向かい水を飲む。
「ああ、やれやれ」そう笑いながらかの女は指揮台から降り、わたしに近づく。
「朝野せいこさん?(しょうこです、と訂正する)あたし、学指揮の吉川さくら。ヨッシーでもなんでもいいけど、それは任せる。シングル・ダブルリードのパトリと兼務ね。あと、部長に田中っていうのがひとりいるけど、事務方だから夜はいない。ええと、しょうこさん、お疲れさま。いきなりで疲れなかった? ま、あたしが無茶いったんだけどね(はは、と笑う)。あと平松にセクハラされなかった?」と吉川は喉元の汗をタオルで拭いつついった。
「金髪の方とはなんというか、距離を置いてます。その人にも名前も教えてないはずでしたが——いきなりで入っていいのか、そもそも入れるのか迷いましたけど、幸い曲も難しくないですし、どうもそういう話が通ってあるみたいで」
「はあ、また平松のやつ、かわいい子の名前すぐ調べるんだから――あとで制裁を加えなきゃな」
「今日はありがとうございました。また機会があれば――」
「うん、いいよいいよ。顧問には話通してあるから、いつでもおいで。毎日おいで」と、快活に断じた。
「ああ、嬉しいねえ。オーボエがやっと入るんだねえ」と金髪男が出てきた。
「そうだよ。うれしいな、平松? これで思い残すこともなくセカンドに専念できるんだもんな? もうあんなミスやこんなミスも、オーボエ拾いながらなんですう、とかいういい訳とも卒業だな、はは。で、聖子さん、入団おめでとう」と、軽快に祝福する。
「はあ。ここ、話通すの早いんですね」
「まあね。団員は資産だから。それで、時間も時間だし、もう帰るよね? 楽器はそこの袖の方にロッカーあるよ。鍵ついてるから。駅まで送るよ」
わたしは「いえ、すぐ近くなので」といったんは断ったが、
「ならなおさら。この季節は痴漢出るよ。あたしの後ろに乗んなよ。ふたり乗り初めて? 大丈夫だよ、たぶん大丈夫」と、さらに誘われた。久しぶりに音楽をした高揚感もあり、あまり深く考えずにうなずくことにした。
これもだ。この時も疲れと、それに伴う浮かれた気分だった。わたしはこの疲労と、それによって高揚した気分でどんどん変容してゆくことになる。硬いさなぎから、羽化してゆく自分が華やかな蝶なのかみすぼらしい蛾なのか、それとももっと別な生き物なのか、それすらも分からずにただ殻を破ることに夢中になっていた。それが今日に至るまでの長い運命なのか、それともただの偶然の累積なのか、わたしは知らない。
もう夜だ。
みなが楽器を置いて水分を摂っていると、虫の声が聞こえた。日も沈み、大講堂全体を冷やす何基もの強力なエアコンの風が二の腕をすっと撫でている。最後に時計を見たのは七時半ごろか。
「オッケー、終わり。次までにみっちり縦揃えてね。掃除して早く帰ろう。お疲れさまでした!(団員が続いて唱和する)」
わたしはようやく喉がからからであることに気づいた。ステージを降り、机の方へ向かい水を飲む。
「ああ、やれやれ」そう笑いながらかの女は指揮台から降り、わたしに近づく。
「朝野せいこさん?(しょうこです、と訂正する)あたし、学指揮の吉川さくら。ヨッシーでもなんでもいいけど、それは任せる。シングル・ダブルリードのパトリと兼務ね。あと、部長に田中っていうのがひとりいるけど、事務方だから夜はいない。ええと、しょうこさん、お疲れさま。いきなりで疲れなかった? ま、あたしが無茶いったんだけどね(はは、と笑う)。あと平松にセクハラされなかった?」と吉川は喉元の汗をタオルで拭いつついった。
「金髪の方とはなんというか、距離を置いてます。その人にも名前も教えてないはずでしたが——いきなりで入っていいのか、そもそも入れるのか迷いましたけど、幸い曲も難しくないですし、どうもそういう話が通ってあるみたいで」
「はあ、また平松のやつ、かわいい子の名前すぐ調べるんだから――あとで制裁を加えなきゃな」
「今日はありがとうございました。また機会があれば――」
「うん、いいよいいよ。顧問には話通してあるから、いつでもおいで。毎日おいで」と、快活に断じた。
「ああ、嬉しいねえ。オーボエがやっと入るんだねえ」と金髪男が出てきた。
「そうだよ。うれしいな、平松? これで思い残すこともなくセカンドに専念できるんだもんな? もうあんなミスやこんなミスも、オーボエ拾いながらなんですう、とかいういい訳とも卒業だな、はは。で、聖子さん、入団おめでとう」と、軽快に祝福する。
「はあ。ここ、話通すの早いんですね」
「まあね。団員は資産だから。それで、時間も時間だし、もう帰るよね? 楽器はそこの袖の方にロッカーあるよ。鍵ついてるから。駅まで送るよ」
わたしは「いえ、すぐ近くなので」といったんは断ったが、
「ならなおさら。この季節は痴漢出るよ。あたしの後ろに乗んなよ。ふたり乗り初めて? 大丈夫だよ、たぶん大丈夫」と、さらに誘われた。久しぶりに音楽をした高揚感もあり、あまり深く考えずにうなずくことにした。
これもだ。この時も疲れと、それに伴う浮かれた気分だった。わたしはこの疲労と、それによって高揚した気分でどんどん変容してゆくことになる。硬いさなぎから、羽化してゆく自分が華やかな蝶なのかみすぼらしい蛾なのか、それとももっと別な生き物なのか、それすらも分からずにただ殻を破ることに夢中になっていた。それが今日に至るまでの長い運命なのか、それともただの偶然の累積なのか、わたしは知らない。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる