ハッピーレクイエム

煙 亜月

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IX 『ひとりよりふたりが良い』

088 痛感

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八八 痛感

「高志」
 学生食堂の前の喫煙所で談笑しているかれに声をかける。「あの、昨日ことなんだけど――」
 かれは最後の呼気をふう、と出し切ったのちに煙草を灰皿に入れ(水を張った灰皿でじゅ、と火種が音もなく消える)、わたしを押しのけるように壁へ進む。わたしは壁に押し付けられる。なに、あれ? うわ、こいつらチューするぞ。そんな野次が飛ぶなか、かれは「――今日の肉定食と魚定食、どっちがうまいと思う?」とわたしの手首をつかみ、訊く。かれの目は悪戯小僧のそれだった。
「高志は、どっちだと思うの?」
「そりゃ、聖子定食だよ。聖子の料理ならなんでもおいしい。思い出だけじゃ食っていけないもんな」
 ふたりとも顔を見合わせたまま、野次馬が先ほどより増えていることを横目に認める。「高志、そろそろ離れた方が――」
「カデンツァ広げすぎて引っ込みがつかなくなったソリストの気分だ」と、かれは笑って見せ、野次馬の方を振り向いて「はいはい、行った行った! 続きが見たい人はひとり千円払ってもらうよ!」といった。

 その日からわたしは練習に復帰した。
 ファーストオーボエであるわたしの不参加が長引き、セカンドオーボエの瀬戸がところどころ、ファーストの譜面を拾って吹いていたと聞いた。かの女への負担――万が一、ファーストが抜けたとしても代役が利くようにファーストもセカンドも吹きこなすよう練習していた――も軽視できないな、とわたしは反省する。
「瀬戸さん」
「あ、朝野先輩! もう、大変だったんですよ。先輩がいないあいだはもう、本当に――」

 練習の始まる前、瀬戸に詫びようと声を掛けると、かの女はうれしそうにはしゃいでみせた。「オーボエもバスーンもいっぺんに吹かなきゃならなくて、もう少しで朝野先輩を拉致して肺を二個とも私に移植するとこだったんですよ。ああ、人殺しにならなくてよかったです」
「はあ、大げさね。でもなんというか、ごめんね。それで、大したものじゃないけど、これ――」
 怪訝そうな表情をする瀬戸に、スーパーのギフトコーナーで買った品を渡す。
「え、チョコですか?(そういい、箱の裏のシールを見る)」
「うん、まあ。――その、皆には見せないでよね」
 やや押し殺した声で「いや、でも、私が個人的にもらっても――」と瀬戸はいいかけたが、「だって、ほかの皆の分まで用意してたら高くつくじゃない。だから、家に帰ってから食べてね」と、わたしは頬笑んで唇の前に人差し指を立てる。「分かりました。これは内緒ですね。やった、チョコ大好きなんです」
 そういい、瀬戸はうれしそうにバッグにしまった。

 しかしどうしたものか――本番まで日数も限られている。ファーストオーボエとしての技量は確実に落ちているだろう。それでも瀬戸や、ほかの団員に代役を任せられるようなポジションでもない。
 セカンドオーボエの瀬戸、ファーストクラリネットの鈴谷、おなじくクラリネットのセカンド吹きの高志、吹奏楽部からの応援、バスーンの宮崎の中に入る。リードを浸漬させているあいだ、今現在どのような練習をしているか、耳を澄ます。やはり本番さながらのリハや通しは回数が減っているようだ。

「あらあら、ショウちゃん、復帰?」
 吉川だ。わたしは俯きがちに「あ、ヨッシー。その、ごめんね。言い訳はしないから――わたし、入ってもいい?」と訊く。
「入るもなにも、今か今かと待ってたよ。っていうか首根っこつかまえて引きずり出すとこだったし。元気してた?」
 吉川の明るい口調に胸のつかえが少し下りたように感じた。
「ほんとに悪いと思ってる。ちょっとしたPMSというか低気圧というか、そんな感じだったの」
「なるほどな。でも、もう大丈夫だな? いよいよだからな、気合入れていくよ」と、吉川は断じた。

 アンサンブルコンテストのときとは違う心地よさをもって、わたしはオーケストラに復帰した。ここがわたしの居場所――このとき、確実にそう感じた。
 しかし次の日、こんどは講義すらも出席が危ぶまれることになる。
 長期にわたってわたしをがんじがらめに押さえつける低気圧だ。

 重い。起床後、すぐにその重圧が気のせいでもなんでもない、低気圧によるものだと認識した。
 ここのところのわたしの朝は『重い』、そのひとことでほぼ完璧に表現できた。
 長らく停滞する低気圧が孫悟空の頭の緊箍児のように、ぎりぎりと締め付けているのだ。早朝にトイレに起きてから二時間以上はこうして耐えている。少しはましになるだろうか、枕の脇に置いていた頭痛薬をペットボトルのカフェオレで飲み下す。頭痛薬を飲むということも習慣づいてしまった。
 記憶の限りでは高校二年まではこんな頭痛、なかったはずだ。それがアンサンブルコンテストからこちら、毎年欠かさず、冬になると律儀に頭痛はやってくる。これが大学構内でなら、講義に集中しているときならば多少まぎれるかもしれない。しかし今は朝の七時半で、わたしは布団のなかだ。なにをしようかとか、あるいはやめようだとか、考える時間すら与えられない。わたしは布団の奥へともぐってゆく。
 
 夢と現実の境界線、その遠くでアラームが鳴っている。誰か、止めてよ。頭に響く。
 アラームが止まる。
「しまった、もうこんな時間かよ」
 ベッドの下、飲み潰れたままだった高志がはね起きる。「聖子、おい、七時半だぞ」
「頭、痛いんだから。少しは静かにしてよ」
 努力して答える。自分の声でさえ響く。
「わ、悪かったよ。それで、また今日もお休みなの、聖子?」
「――自明でしょ」
「いや、でも、自転車で行けば間に合――」
「もう、黙ってよ。ひとが死にかけてんのに――今日は休む」
 少しの間があった。かれは手洗いに行き、うがいをし、顔を洗う。焼いたパンを食べ、牛乳を飲んだら歯を磨き、鏡の前で髭を剃り、髪を水で濡らし、ドライヤーを『弱』にして髪を整え

「もう、うるさい! うるさいうるさいうるさい! なに、ひとんちで病人まえにして元気に支度してんのよ。こっちは頭痛くて死にそうなの。分かんないの? 二日酔いだと思った? あーあ、残念。こう見えて頭痛持ちでした、それも今すぐ頸動脈かっ切りたいくらいのね」
 物音と自分の声に完全に打ちのめされ、わたしはまた布団のなかへ帰った。
「それだけ?」
 かれが問う。無視する。
「それだけなんだな?」
 どう答えろというのだ。
 控えめな物音がしたのち、ドアが静かに開き、閉まった。
 布団から顔を出し、盛大にため息をつく。
「ばかみたい」
 なにが残念で、なにが愚かしく、どうすれば正しい頭痛持ちなのか。分からない。ばかみたい。
「ほんと、ばかみたいだよ」
 今度は仰向けになって、天井を見ながらいった。涙が頬を伝う。
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