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X 無窮の開演、永遠の閉演
089 盲目
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八九 盲目
かれは夕方帰ってきた。オーケストラの練習には顔を出さなかったのだろう。LINEで『家、行ってもいいか?』と一文だけあった。わたしは猜疑心に凝り固まっていた。イエスを返せば、その責はわたしに帰す。しかしノーであってもその判断の責任はわたしだ。ずるい。かれに対して、また、くだらない思路しか持てない自分へ反感を抱いた。どちらにせよ、わたし自身でしか決められないのだ。
わたしはスマホに『いいよ』と打つ。
鍵を回す音がする。
「ただいま、聖子」
「――かえり」
かれはなにもいわず、レジ袋から買ってきたものを取り出し、座卓に置く気配がする。わたしが布団から顔だけ出すと、白地に青いラインの入った小箱が見えた。「あ――」
「うん、ロキソニン。さっきドラッグストア寄ったんだ。それとあと、サンドイッチとかウィダーとか、甘い物や酸っぱい物。それから貼るカイロと、OS‐1。ほかになんかいるものあったっけ?」かれは冷蔵庫にしまいながら背中越しにいった。
「いや――別に」
動きの止まる気配がする。「別に、って――ああ、そうですか。わかったよ。だったらおれはとっとと帰るから――」
「た、高志がいれば、わたしなにもいらない」
語尾を涙で滲ませながらわたしは上半身を起こす。ぼやける視界の中でかれだけをとらえる。「高志さえいたら、わたしはそれでいいのよ」洟が垂れてきたので身振りでティッシュを渡すようかれに訴える。力いっぱい洟をかむ。
「聖子」
「ごめんね。わたしも余裕、なくなってきてる。ただの低気圧なのに、なんでこんなになっちゃったんだか自分でも分かんないのよ」
かれは買ってきた紙パックのレモネードをストローで吸いつつ、いった。「異常性のある事象がふたつあるな。まず聖子がぼろぼろで、なにもできない、したくないというのが一点」
「――もう一点は?」
わたしは苦労してベッドからラグに下り、座卓に突っ伏して訊く。
「もう一点、第二の事象は、おれが第一の事象をなんら気に留めていないこと。聖子がどうなっても、どうならなくても、好きでいることに変わりはない。もともとの一目惚れとか、本格的に好きになるまでの経緯とか、そういうのをすべて凌駕して今の聖子が好きだということ。その発端や理由がどうあれ、聖子を好きになった以上、おれは自分の好意を変えたりすることはできない」
かれは立ち上がり、電気ケトルで湯を沸かす。「第二の事象を平たくいえば、いまのおれは無条件で聖子を好きでいることだな。面白いよな、恋って。なにも見えなくなるのに、それで幸せとか思っちゃうもんな」
沸かした湯をカップ麺に注ぎ、割り箸を蓋の上に置く。
「あのね、高志」
「もちろんおれも聖子のこういうところが好き、こういうところに愛着を感じる、ってのはあるよ。でもな、聖子。もし仮に聖子のいいところや可愛いところをすべて兼ね備えた、聖子と同じような魅力のあるひと、クローンでも何でもいいけど、そういう存在が現れても、おれは今ここにいるオリジナルの聖子が好きだと断言できる。理由はない。聖子のこういうところが好きだ、っていくら力説しても、結局は『聖子は聖子だから好き』に収斂してゆく」
そういうとかれは割り箸を折り、手を合わせてカップ麺をすする。わたしはかれを凝視する。「ひと口、食う?」
わたしはこくりとうなずき、ふたりでひとつのカップ麺を食べる。
「ねえ、相当恥ずかしいこといってる自覚、ある?」
「毛頭ないね」
わたしがかれの顔をまじまじと見つめていると、「だって、結婚式とかでは神父様がもっと恥ずかしいこというじゃん? そのうえ衆人環視でキスするんだよ。おれはそっちのほうが照れるね」
考えあぐねた末に、「でもわたしたちなら、神父じゃなくて牧師よ」といった。
この際、泣いていようが笑っていようが関係なかった。泣こうが喚こうが、まだ先だけどそう遠くない将来、『病めるときも、健やかなるときも――』と誓わせられるのだ。その時までに、笑顔でいる練習をしてもいいと思った。
まだなにも知らない、ほんの大学生だったころの話だったね。未来についての情報が少なすぎたけど。どこで間違えたのだろう。どうすれば正しかったのだろう。来る日も来る日も自分を責める日々が待っているなんて、知らなかった。
休学中、わたしは一時的に里帰りしていた。母親の住む市営住宅でひたすら布団にくるまっていた。なにを考えるでもなく、ただうたた寝をして、時間が過ぎるのを期待し、また恐れていた。それでもしなくてはならないことはあった。できるだけ、記憶が新鮮なうちに保存しよう。実家にノートパソコンを持って来ていたのは正解だった。かれの記憶をHDDに可能な限り保存する。
「でも聖子、ここネット通ってないし、わざわざそんな重いの持ってこなくても――ノートとボールペンでいいんじゃないの?」と母はいうが、わたしはいつも「回線はなくて大丈夫。ただ、ちょっと走り書きのメモを失くさないようにパソコンに集約したいってだけだから」というのだった。
そうして、わたしは高志を保存し始めた。
かれは夕方帰ってきた。オーケストラの練習には顔を出さなかったのだろう。LINEで『家、行ってもいいか?』と一文だけあった。わたしは猜疑心に凝り固まっていた。イエスを返せば、その責はわたしに帰す。しかしノーであってもその判断の責任はわたしだ。ずるい。かれに対して、また、くだらない思路しか持てない自分へ反感を抱いた。どちらにせよ、わたし自身でしか決められないのだ。
わたしはスマホに『いいよ』と打つ。
鍵を回す音がする。
「ただいま、聖子」
「――かえり」
かれはなにもいわず、レジ袋から買ってきたものを取り出し、座卓に置く気配がする。わたしが布団から顔だけ出すと、白地に青いラインの入った小箱が見えた。「あ――」
「うん、ロキソニン。さっきドラッグストア寄ったんだ。それとあと、サンドイッチとかウィダーとか、甘い物や酸っぱい物。それから貼るカイロと、OS‐1。ほかになんかいるものあったっけ?」かれは冷蔵庫にしまいながら背中越しにいった。
「いや――別に」
動きの止まる気配がする。「別に、って――ああ、そうですか。わかったよ。だったらおれはとっとと帰るから――」
「た、高志がいれば、わたしなにもいらない」
語尾を涙で滲ませながらわたしは上半身を起こす。ぼやける視界の中でかれだけをとらえる。「高志さえいたら、わたしはそれでいいのよ」洟が垂れてきたので身振りでティッシュを渡すようかれに訴える。力いっぱい洟をかむ。
「聖子」
「ごめんね。わたしも余裕、なくなってきてる。ただの低気圧なのに、なんでこんなになっちゃったんだか自分でも分かんないのよ」
かれは買ってきた紙パックのレモネードをストローで吸いつつ、いった。「異常性のある事象がふたつあるな。まず聖子がぼろぼろで、なにもできない、したくないというのが一点」
「――もう一点は?」
わたしは苦労してベッドからラグに下り、座卓に突っ伏して訊く。
「もう一点、第二の事象は、おれが第一の事象をなんら気に留めていないこと。聖子がどうなっても、どうならなくても、好きでいることに変わりはない。もともとの一目惚れとか、本格的に好きになるまでの経緯とか、そういうのをすべて凌駕して今の聖子が好きだということ。その発端や理由がどうあれ、聖子を好きになった以上、おれは自分の好意を変えたりすることはできない」
かれは立ち上がり、電気ケトルで湯を沸かす。「第二の事象を平たくいえば、いまのおれは無条件で聖子を好きでいることだな。面白いよな、恋って。なにも見えなくなるのに、それで幸せとか思っちゃうもんな」
沸かした湯をカップ麺に注ぎ、割り箸を蓋の上に置く。
「あのね、高志」
「もちろんおれも聖子のこういうところが好き、こういうところに愛着を感じる、ってのはあるよ。でもな、聖子。もし仮に聖子のいいところや可愛いところをすべて兼ね備えた、聖子と同じような魅力のあるひと、クローンでも何でもいいけど、そういう存在が現れても、おれは今ここにいるオリジナルの聖子が好きだと断言できる。理由はない。聖子のこういうところが好きだ、っていくら力説しても、結局は『聖子は聖子だから好き』に収斂してゆく」
そういうとかれは割り箸を折り、手を合わせてカップ麺をすする。わたしはかれを凝視する。「ひと口、食う?」
わたしはこくりとうなずき、ふたりでひとつのカップ麺を食べる。
「ねえ、相当恥ずかしいこといってる自覚、ある?」
「毛頭ないね」
わたしがかれの顔をまじまじと見つめていると、「だって、結婚式とかでは神父様がもっと恥ずかしいこというじゃん? そのうえ衆人環視でキスするんだよ。おれはそっちのほうが照れるね」
考えあぐねた末に、「でもわたしたちなら、神父じゃなくて牧師よ」といった。
この際、泣いていようが笑っていようが関係なかった。泣こうが喚こうが、まだ先だけどそう遠くない将来、『病めるときも、健やかなるときも――』と誓わせられるのだ。その時までに、笑顔でいる練習をしてもいいと思った。
まだなにも知らない、ほんの大学生だったころの話だったね。未来についての情報が少なすぎたけど。どこで間違えたのだろう。どうすれば正しかったのだろう。来る日も来る日も自分を責める日々が待っているなんて、知らなかった。
休学中、わたしは一時的に里帰りしていた。母親の住む市営住宅でひたすら布団にくるまっていた。なにを考えるでもなく、ただうたた寝をして、時間が過ぎるのを期待し、また恐れていた。それでもしなくてはならないことはあった。できるだけ、記憶が新鮮なうちに保存しよう。実家にノートパソコンを持って来ていたのは正解だった。かれの記憶をHDDに可能な限り保存する。
「でも聖子、ここネット通ってないし、わざわざそんな重いの持ってこなくても――ノートとボールペンでいいんじゃないの?」と母はいうが、わたしはいつも「回線はなくて大丈夫。ただ、ちょっと走り書きのメモを失くさないようにパソコンに集約したいってだけだから」というのだった。
そうして、わたしは高志を保存し始めた。
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