ハッピーレクイエム

煙 亜月

文字の大きさ
95 / 96
X 無窮の開演、永遠の閉演

095 羽衣

しおりを挟む
九五 羽衣

朝が来た。
 身体が動かない。布団を何枚も何枚も重ねてかけたような重さに加え、全方位から押さえつけてくるような頭痛。昨夜は酒すら飲まなかった。カーテンから漏れる光も暗く、遠くの雷鳴も聞こえることから、低気圧のせいだと断じた。
「高志」返事はなく、たちまち不安になる。「た、高志!」かれの名を大きな声で呼ぶ。強烈な不安が声を大きくさせる。痛い。声が響く。
 こんこん、とアルミサッシの窓をノックし、かれがベランダで煙草を吸っていると知らせた。
「おはよう、聖子」かれが窓を開けて戻ってくる。「どう、眠れた? シチュー、あっためようか?」
「ごめん、ずっとこのまま寝ていたい。うつと低気圧で死にそう」布団をすっぽりかぶり、頭に響かない程度にうめき声を出す。
 かれは小さく咳払いをしてカーテンをそろりと開ける。「たしかに。死んでもいい天気かもな」
 なにをいっているのだろう。
 なんでもいい。
 どうせ布団から出られないのだ。
「生きることは死ぬことと見つけたり、か」かれが頬の髭をさすりながらつぶやいた。「聖子も『葉隠はがくれ』くらいは知ってるだろ。死を美化してるんじゃなくって、いつ死んでも後悔しないように全力で生きろ、ってやつ」
 少しの沈黙があった。横向きになってかれを見る。
「でも、死んだら、後悔もできないんだよ」わたしはこの平易な文章を苦労しながらいった。「あと、わたしは死んでも天国に行くし」
「天国で待ってるよ、か」とかれはいい(カーテンの引かれた暗い部屋の中でだが、頬笑みが見受けられる)、「天国であっても、おれは聖子に先立たれたら後悔するね、ぜったい」
 身体を起こすのも辛い。枕に肘をついて側臥位そくがいから少し上体を起こした体勢をとる。
「それって、どういう――」
「一緒でいいよ、って意味」
 脳がその言葉を反芻する。耳に残る声が幾度も反響する。下を向いて泣くのを懸命に我慢する。「な、なにいってんのよ。あのときは確かにああいったけど、それはでも、怖かったからで、なにも一緒に死ぬことないじゃない」顔もぐしゃぐしゃにさせ、嗚咽も隠しようがないほどまでになった。「馬鹿」
 羽衣のようだ。
 このときかれはわたしを抱きとめて、「いいんじゃないのか。生きてても死んでても聖子と一緒にいられるんなら、状況はそんなに変わりはない」といってくれた。
「それ、本気でいってるの?」洟をすすり上げる。
「まあ、なにも思い残すことはない、ともいい切れないけどな。いまは聖子が優先だ――おれの気持ちに従うならね」
「死ぬ、っていっても――どこで? どうやって?」
 かれはコーヒーを淹れ、パンを焼く。電気ケトルがしゅうしゅうと湯気を出し、トースターがちん、と鳴る。「ちょっと焦げたな」
「どこかから飛び降りるの?」
「どうだ? 座れそう? それか口移しで食べさせてあげようか」とかれは頬笑む。
「高志。冗談なの、本気なの? それによっちゃわたし――」
「大丈夫。ゆうべ調べて、一番楽で確実な方法、見つけたから。だからそれまでの人生、ふたりで生きよう。精一杯生きよう。あとすこしだ」

 そういってかれは、わたしを遺して死んだ。
 第六十四回冬季定期演奏会――クリスマスコンサートの打ち上げの席、かれはわたしの膝で酔い潰れたとみた。だが、急性アルコール中毒で意識を失い、自らの吐瀉物で窒息死したのだ。
 吉川の蘇生術も、救急車での除細動も、病院に着いてからの救命措置も、すべてを振り払ってかれは逝った。小心者のかれのことだ、単純に怖かったのだ。わたしに死なれるのが嫌だったのもあるだろう。そうした恐怖や不安を紛らわせようと酒に逃げた挙句、死んだ。事故死だったのだ。もちろんかれにしても想定していなかったはずだ。打ち上げののち、かれがあらかじめ取っておいたホテルの一室で一緒に死ぬ、ということへの緊張をほぐすために酒を飲んだら、うっかり死んでしまった。

 クリスマスムードに染まった街には何ひとつの苦しみも切なさもなく、ただただロマンチックな恋人たちが幸せと未来への展望に目を輝かせ浮かれていた。いままとめて飲み下した薬で何粒目になるだろうか。数えてもいないし、その必要もなかった。視界はぼんやりと二重に見え、物音は水中で聞いているかのように籠り、尿意ははち切れんばかりで、気分は最高だった。酒はなくなったが、高志の思い出と一緒に水道水で錠剤を飲み干せば、それでよかった。もうすぐ、もうすぐ行くからね。平衡感覚はすでに失われ、四つ這いで家じゅうの薬を探しては飲んだ。高志、高志、高志、愛してる、愛してるよ。わたし、こんなに人を好きになったの、最初で最後。わたしの、わたしの一番好きな高志。待ってて、もうすぐ、もうすぐ、ねえ、高志。
 がっ。
 がんがん。
 金属質な激しい打撃音に目を覚ます。
 ショウちゃん、いるんでしょ! 開けてよ!
 がんがんがん。
 もうええやろ。おい、隣から行くぞ。じゃ、失礼しますよ、っと。
 どっ。どん。

 人の気配を感じた。ひとりふたりではない。
「しょ、ショウちゃん、あんた――」
「朝野聖子さんですね? わかりますか、救急隊ですよ。わかりますか、朝野さん。自分の名前いえますか?」
 な、によ、もう――。
 ひと、が――せっ、かく――寝て、る――とこを――。
「ええと、レベル三〇のIで、処方薬や民間薬と、アルコールの中毒症状かな、これを呈してます。ヒートや薬包などは、ええ、回収して持ってきます。――じゃあ朝野さん、病院行きますよ。いったんこれに乗りますね――はい、一、二っ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...