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CIƆ 救済、福音、そして
096 奇蹟
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九六 奇蹟
ベッドで目が覚める。
二日酔いが大挙して押し寄せたような気持ち悪さに胃の中のものを戻しそうになる。手で口を押さえようとしたが、動かない。なにかの薬品の刺激臭に頭痛すらしてきた。少なくともここは自分のアパートでなければ天国でもないと判断した。手足は白いベッド柵に縛り付けられ、右手で探ると性具のような、コードの付いたボタンがあった。わたしはそれを押す。何度も何度も押す。
白い服の太った女が来る。「分かった、分かったから。何度も押さないでよ、もう。元気だね」といいながらわたしの人差し指につけたクリップのような器材を見る。ついでPHSで「あ、先生? 三〇二の朝野聖子さんがお目覚めですよ。はい、はい。よろしくね」と短くいい、わたしの手首――縛ってあるところの少し上の方に血圧計をてきぱきと巻き付け、測定する。
「血圧も戻ってきてるわね。SpO2もいいし」と感想を述べる。「分かる? ここ、病院。自分の名前、いえる?」と血圧計をしまいながらわたしに訊く。
「トイレ」
「ん?」
「トイレ行きたい。もう五年くらいトイレ行ってない」
「そりゃ大変だわ。おしっこなら管を入れて採ってるから大丈夫よ。すっきりしないのはその管の違和感よ」
そこへ臙脂色の服を着て、青い不織布の帽子とマスクをかけた男がやってくる。ベッド周りのあちこちの器材が示す数字を見て、「朝野さん、おはよう」と声をかける。「分かる?」
「分かるから、この縛ってるの、外してください。そういう趣味じゃないの」
臙脂色の服の医師は「はあ、元気だね。ひとまず外すけど、まだ起きないでね。点滴もおしっこの管もあるし、まだかなりふらつくと思います」と四肢をベッド柵に固定する抑制帯を取った。
「よく寝てたね。今日、十二月の二十六日。三日間はそうやって寝てるか朦朧状態だったんですよ。お母さんも近くにホテル取ってて、今お呼びしてます。正直なとこ、あの服薬量では、ちょっとアウトだろうと読んでたんですが――あ、いや、奇蹟的な要因が重なって、救命できて――(太った看護師が医師の顔を見て小刻みに首を振る。医師は急に口をつぐむ)」
わたしはふたりのやり取りにぴくりと頬を緊張させる。「き、奇蹟って――?」
医師は下を向き、やや残念そうに息をつく(看護師はどこか遠くを見ている)。
「あなたのお腹には赤ちゃんがいて、そのため助かったんです」
「赤――ちゃん?」
「妊娠五週目で、羊水や胎盤で母体であるあなたの体重が増えたんです。まずそれで薬物の血中濃度が下がりました。さらに赤ちゃんは肝臓が未発達で、あなたの血中の薬を赤ちゃんが代謝しきれず、どんどん溜め込んだんです。それが二つ目の理由。死産となりましたが、ある意味、奇蹟でした」
茫然と聞いていた。なにも考えられない。高志の子であるのは間違いがない。心中を約束していたあの冬季定演の夜、酒に逃げた高志は死んでしまった。つまり、わたしは高志を殺したのだ。さらに高志の子をも、わたしのオーバードーズのため、命の蝋燭を消してしまった。高志とその子ども、ふたりともわたしが殺した。奇蹟でもなんでもなく、すべて順序だてて考えてみたらわたしは、
「わたしって、悪魔なのかな」
医師と看護師が顔を見合わせるのを最後に、視界は涙であふれかえる。高志を亡くしてから初めての涙で――
いや―
いやあああああ――!
足、足! ちょっと足押さえて! だれかふたり、三〇二! 朝野さん、頼むから暴れないで、怪我しますから。先生、指示ください。セレネースでいいです? うん、急いでね。
左ひじの内側に冷たいものが流れる感覚があり、ややあって徐々に茫洋とする意識の中、わたしはまた死ぬのだろうと思った。
――やけにまぶしい。天国なのだろうか。それとも地獄から天国を見上げているだけなのだろうか。わたしは真冬だというのに一糸まとわぬ姿でその空間に浮遊していた。どちらが上でどちらが下なのかも分からない。でも、おそらく自由落下のさなかなのであろう。やがて眠気に見舞われる。
『ハッピーバースデー』
混濁した痛覚、恐怖、不安、悲しみや悔しさといった澱が底の方へ堆積するなか、わたしの意識は清澄な上澄みにあった。一切の苦悩から逃れたわたしの意識は、たしかにその声を聞いた。わたしの耳にその声はおだやかにささやいた。ああ、きっと高志の子どもの生誕を祝っているのだ。暗い、暗い胎内から、希望と光に溢れている地上へ出た子、わたしと高志の子どもの生誕を。ああ、命は輝いて、その光はかくもまぶしい。幸いあれ、すべて命に幸いあれ。命あるもの、命生むもの、命よ続け、命たたえよ。すべて命は愛おしい、すべて命は素晴らしい。命よ舞えよ、命よ歌え――その祝福の声の主が高志なのか、ほかの人間なのか、あるいはもっと別な存在なのか、判然としないまでも。
――了
ベッドで目が覚める。
二日酔いが大挙して押し寄せたような気持ち悪さに胃の中のものを戻しそうになる。手で口を押さえようとしたが、動かない。なにかの薬品の刺激臭に頭痛すらしてきた。少なくともここは自分のアパートでなければ天国でもないと判断した。手足は白いベッド柵に縛り付けられ、右手で探ると性具のような、コードの付いたボタンがあった。わたしはそれを押す。何度も何度も押す。
白い服の太った女が来る。「分かった、分かったから。何度も押さないでよ、もう。元気だね」といいながらわたしの人差し指につけたクリップのような器材を見る。ついでPHSで「あ、先生? 三〇二の朝野聖子さんがお目覚めですよ。はい、はい。よろしくね」と短くいい、わたしの手首――縛ってあるところの少し上の方に血圧計をてきぱきと巻き付け、測定する。
「血圧も戻ってきてるわね。SpO2もいいし」と感想を述べる。「分かる? ここ、病院。自分の名前、いえる?」と血圧計をしまいながらわたしに訊く。
「トイレ」
「ん?」
「トイレ行きたい。もう五年くらいトイレ行ってない」
「そりゃ大変だわ。おしっこなら管を入れて採ってるから大丈夫よ。すっきりしないのはその管の違和感よ」
そこへ臙脂色の服を着て、青い不織布の帽子とマスクをかけた男がやってくる。ベッド周りのあちこちの器材が示す数字を見て、「朝野さん、おはよう」と声をかける。「分かる?」
「分かるから、この縛ってるの、外してください。そういう趣味じゃないの」
臙脂色の服の医師は「はあ、元気だね。ひとまず外すけど、まだ起きないでね。点滴もおしっこの管もあるし、まだかなりふらつくと思います」と四肢をベッド柵に固定する抑制帯を取った。
「よく寝てたね。今日、十二月の二十六日。三日間はそうやって寝てるか朦朧状態だったんですよ。お母さんも近くにホテル取ってて、今お呼びしてます。正直なとこ、あの服薬量では、ちょっとアウトだろうと読んでたんですが――あ、いや、奇蹟的な要因が重なって、救命できて――(太った看護師が医師の顔を見て小刻みに首を振る。医師は急に口をつぐむ)」
わたしはふたりのやり取りにぴくりと頬を緊張させる。「き、奇蹟って――?」
医師は下を向き、やや残念そうに息をつく(看護師はどこか遠くを見ている)。
「あなたのお腹には赤ちゃんがいて、そのため助かったんです」
「赤――ちゃん?」
「妊娠五週目で、羊水や胎盤で母体であるあなたの体重が増えたんです。まずそれで薬物の血中濃度が下がりました。さらに赤ちゃんは肝臓が未発達で、あなたの血中の薬を赤ちゃんが代謝しきれず、どんどん溜め込んだんです。それが二つ目の理由。死産となりましたが、ある意味、奇蹟でした」
茫然と聞いていた。なにも考えられない。高志の子であるのは間違いがない。心中を約束していたあの冬季定演の夜、酒に逃げた高志は死んでしまった。つまり、わたしは高志を殺したのだ。さらに高志の子をも、わたしのオーバードーズのため、命の蝋燭を消してしまった。高志とその子ども、ふたりともわたしが殺した。奇蹟でもなんでもなく、すべて順序だてて考えてみたらわたしは、
「わたしって、悪魔なのかな」
医師と看護師が顔を見合わせるのを最後に、視界は涙であふれかえる。高志を亡くしてから初めての涙で――
いや―
いやあああああ――!
足、足! ちょっと足押さえて! だれかふたり、三〇二! 朝野さん、頼むから暴れないで、怪我しますから。先生、指示ください。セレネースでいいです? うん、急いでね。
左ひじの内側に冷たいものが流れる感覚があり、ややあって徐々に茫洋とする意識の中、わたしはまた死ぬのだろうと思った。
――やけにまぶしい。天国なのだろうか。それとも地獄から天国を見上げているだけなのだろうか。わたしは真冬だというのに一糸まとわぬ姿でその空間に浮遊していた。どちらが上でどちらが下なのかも分からない。でも、おそらく自由落下のさなかなのであろう。やがて眠気に見舞われる。
『ハッピーバースデー』
混濁した痛覚、恐怖、不安、悲しみや悔しさといった澱が底の方へ堆積するなか、わたしの意識は清澄な上澄みにあった。一切の苦悩から逃れたわたしの意識は、たしかにその声を聞いた。わたしの耳にその声はおだやかにささやいた。ああ、きっと高志の子どもの生誕を祝っているのだ。暗い、暗い胎内から、希望と光に溢れている地上へ出た子、わたしと高志の子どもの生誕を。ああ、命は輝いて、その光はかくもまぶしい。幸いあれ、すべて命に幸いあれ。命あるもの、命生むもの、命よ続け、命たたえよ。すべて命は愛おしい、すべて命は素晴らしい。命よ舞えよ、命よ歌え――その祝福の声の主が高志なのか、ほかの人間なのか、あるいはもっと別な存在なのか、判然としないまでも。
――了
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