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第2話 復讐
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春海が玄関を出ると、三十名ほどの息遣いと衣擦れの音が聞こえた。
音は二列に分かれている。
前回、まだ目が見えていた頃の春海が「姦姦蛇螺」討伐に向かった際の記憶に拠れば、黒スーツが二列で向かい合う形で車までの道を作っているはずだ。
彼らは政府の人間。
春海の「姦姦蛇螺」討伐をバックアップするために集結した神官たちである。
「春海さん、ご準備はよろしいですか?」
「見ればわかるでしょ」
春海の冷たい一言に、黒スーツは黙して衣擦れの音だけを立てた。
硬い表情と喪服のような黒さが目に浮かび、母の葬式を彷彿とさせた。
春海は、向かう先にあるはずの車は霊柩車なのだろうと思った。
「姉ちゃん!! やっぱ...」
「討伐なんてやめようよって言いたいの? 関係ないもんね。照は男の子だから」
「でも、姉ちゃんは目も左腕も失って…姉ちゃんいなくなるのは嫌だよ...…」
月山家は、姉弟が幼少の頃に父が亡くなっているため、姉が戦死すれば照は独りになる。
肩を震わせて切実に訴えかける弟に対して、春海の声音は冷めきっていた。
「私が死んだらこのクソみたいな力は誰にわたると思う? 八百屋のおばさん? 近所の沙織さん? もしかしたら三歳のしーちゃんかもね。皆にこんなボロ雑巾になる責務を背負わせるっていうの?」
照は苦悶の表情で俯いた。
「『姦姦蛇螺』を殺すには最低でも目は潰さなきゃいけない。照は懇意にしてくれた女の瞳が光を失う瞬間を見届けられる? 冗談じゃない」
言い返そうとする意思がないと判断するや否や、春海は車に乗り込んだ。
「姉ちゃ———」
名残惜しがる声に、春海の後ろ髪が引かれることはない。
丫—丫—丫◆丫―丫—丫
駐車場のアスファルトの上に滑らかなシルクの風呂敷を広げると、アタッシュケースの留め具を外す音がした。
「右上が本坪鈴、左上が鈴緒、中央に神鏡、右下に形代、左下に千早がございます」
右上に手をやると真鍮の光沢を感じる。
振るとゴランゴランと重厚な鈴音が鳴る。
それもそのはず、その本坪鈴は五十キロ超えで、鈴緒に繋いで振り回せば鎚のごとく、人体の頭部程度なら破壊するに足る。
蜘蛛糸で糾われた鈴緒は蜘蛛糸でできていることから理解るように、特注品であり、鈴と繋ぐための金具も五十キロ超えの鈴に堪えうる特別製だ。
中央の神鏡は籠手の役を担う。
春海の神力——「姦姦蛇螺」打破のために与えられたチカラを便宜上こう呼んでいる——に調和して物理・呪術攻撃を跳ね返す。
関節の動きを阻まないために、前腕の長さを超えない程度のサイズに調整されている。
右下にはポケットティッシュ三つ重ねた程度の厚みの、形代の束がある。
既製品だが、安井金比羅宮の最高級品であり、悪縁を祓い落とす。
回復アイテムの認識で良いだろう。
左下には絹の千早。
春海の動きを損なわないために薄手であるが、神力によって身軽さを保ちながら甲冑を凌ぐ防御力を誇る。
隻腕の春海に合わせて左袖の穴は無い。
以上五つの神具を撫で、揺らし、嗅ぎ、損壊や異常が無いことを確認する。
「うん、問題ない」
「承知いたしました」
神具を並べた黒スーツとは別の人間が背後に立つ。
千早の擦れる音がする。
「千早、失礼いたします」
春海の伸ばした腕に袖が通される。
絹は肌触りが良い。
「神鏡、装着させていただきます」
神鏡の裏側についている輪に腕を通す。
腕時計のように輪のサイズを調整する。
腕の圧迫と神鏡の冷たさは少々心地よい。
「形代の紙帯、解かせていただきます」
紙帯テープを外す音がする。
形代の束が手渡され、春海は懐に入れ、帯に挟み込み、草履に忍ばせた。
「本坪鈴と鈴緒、繋げさせていただきます」
金属の擦れる不協和音。
鈴が不意に外れる事態は回避したいため、しっかり固定している。
春海は、鈴と鈴緒が確実に接続していることを確認した。
徐ろに立ち上がり、鈴緒を担いだ。
「『姦姦蛇螺』の撃滅、どうか⋯どうかよろしくお願いいたします。いってらっしゃいませ」
「うん」
黒スーツらの礼を待たずに淡白な返事を言い捨てた。
春海に言わせれば、国の黒スーツらは道具をせっせと準備しただけで、使命果たしましたという面をしているのが想像ついて腹立たしい。
目を捨てれば誰でも「姦姦蛇螺」と戦えるのに、神力があるとは言え、目と腕と青春を捨てた十五の少女に血濡れた剣を持たせるだけとは。
神職の名が聞いて呆れる。
だが、春海の腸が煮えくり返るほどに殺してやりたいのは「姦姦蛇螺」。
八つ裂きでは済まさない。
母の墓前にやつの生首を供えてやるのだ。
怒髪天を衝く春海は、喧しい静寂が支配する森奥に対して、微塵の恐怖も抱くこと無く大股で進んでいく。
やがて森閑とした木々の合間に湿っぽい山気が流れた。
何かを引きずるような音が断続的に響く。
りんりんりん、りんりりりん
規則的な神鈴と中の玉が摩擦を起こして黙然と響く。
春海の接近に気づいていながら、特に感興を催すでもなく勝手に来れば、と歯牙にもかけない態度に春海の心中に火花が散る。
鈴の音が大きくなってきた。
ということは、春海の目の前には紙垂の絡みついたフェンスが立ちふさがっているはずだ。
春海はフェンスの扉を開いた。
鍵は無い。
このフェンスの高さくらい「姦姦蛇螺」なら悠に乗り越えられるからだ。
そもそも、このフェンスは「姦姦蛇螺」の住処の境界を明確にするものでしか無い。
神楽鈴の音が止まった。
春海は鈴緒をカウボーイよろしく振り回し、無き左腕の代わりに脚で鈴緒を踏みつけた。
ゴランゴランと空気を巻き、力をためて、木霊で「姦姦蛇螺」の位置を測る。
その間にも、「姦姦蛇螺」はその長い蛇の尾をずるずる動かして春海を包囲している。
先手を打たれる前に春海が動いた————————。
投擲された本坪鈴の軌道が弧を描き、「姦姦蛇螺」の右側面に目掛けて飛来した。
「姦姦蛇螺」の三対の腕が右側頭部を守った。
「アホかよ」
鈴が「姦姦蛇螺」の腕を舐めた。
後頭部を通過する。
————ごらん
「姦姦蛇螺」の首がぐじゅりと言った。
頭部だけが真後ろを向く。
鈴緒は胴体を軸として数周した後、三本の腕を巻き込んで緊縛した。
腕と肋骨の砕ける爽快な音が聞こえる。
「前回と同じ手食らうとか馬鹿なの?」
「姦姦蛇螺」の腹部に春海の拳が肉薄する。
縛られていない三つの腕の肘関節、後頭部、頚椎、大蛇の尾。
数瞬の間に鉄拳がめり込んだ。
骨、内蔵、筋肉の破壊の感触を確実に得てから、呼吸を整えるため十数歩後ろに下がった。
反撃の気配は無い。
だが、春海はわかっている。
「姦姦蛇螺」は舐めプしていることを。
「い、い、い——————」
独特な笑い声とにちちと裂ける口端の音。
「掛介麻久母畏伎 伊邪那岐大神 筑紫乃日向乃 橘小戸乃阿波岐原爾 御禊祓閉給比志時爾 生里坐世留祓戸乃大神等 諸乃禍事罪穢 有良牟乎婆 祓閉給比清米給閉登 白須事乎聞食世登 恐美恐美母白須」
口早に祓詞を奏上するのは「姦姦蛇螺」。
ぴぺきにちぐちゅじゅごじゅご。
ダメージを与え、「姦姦蛇螺」の身体が損壊したときのそれとは異なり、絡みつくような水音である。
「っ!!!!」
春海の後頭部、腹部、脚部に邪な気配を感じた。
頭を横に振る。
頭が先程あった空間に、何かが突撃した。
冷や汗を垂らす間も無く、走り高跳びの要領で飛び退いた。
風圧、空気の揺れ、脚と腹の肌に唐辛子を塗りたくったような緊張が走る。
今の攻撃は恐らく、大蛇の尾突。
鈴緒が引き千切られる感触が手に伝わる。
鈴緒を引かれて身体が釣り上げられることを警戒して、春海は素早く鈴緒を回収した。
再び投擲の力を溜める余裕はなかった。
矢継ぎ早に攻撃が飛来する。
「姦姦蛇螺」の厄介な点は呪術を扱えることである。
加えて、「姦姦蛇螺」の説話は一切がオリジナルであり、現実の神社・寺院などの由緒や伝承を設定に組み込んでいない。
そのため、扱う呪術を予測する余地が皆無に等しく、毎回初見の技が披露されてしまう。
いま丁度、春海の身体を輪切りにするところであった無音の攻撃も、「姦姦蛇螺」が扱う結界の破片が正体であることは理解るが、初めての攻撃方法である。
春海の千早が、緋袴が、襦袢が、柔肌が。
一撃一撃が衣を削り、肉を裂き、暗赤色をにじませる。
少しでも攻撃・防御のレパートリーを増やそうと考えて採用した神鏡は、気づけばキャパシティを超えた攻撃を繰り返し受けて、砕け散っていた。
傷を形代で拭って穢れと傷を癒やすが、それを取り出して傷を拭うだけの動作の時間すら惜しいほどの猛攻が続く。
数百数千に及ぶ攻防。
疲労とダメージは緩やかに、澱のように蓄積していく。
対照的に、祓詞を唱えれば忽ち肉体的損傷を復原する「姦姦蛇螺」は、余裕綽々で憫笑を絶やさない。
「っは、っはぁッ⋯調子⋯乗んな⋯⋯っ」
鈴緒を振るって「姦姦蛇螺」の頭部に直撃させた。
手応えはある。しかし、深いダメージを与えられているという確信はない。
疲労が明白に春海のパフォーマンスを下げている。
「─────急急如律令」
「姦姦蛇螺」が、息継ぎも無く滔々と述べ続けていた呪文の締めが来る。
刹那、晴海の身体は空に縫いとめられた。
両の足は地を離れ、右腕は見えぬ釘に貫かれた。
実際に風穴は開いていないが、痛みは確かにある。
「くっ⋯⋯そぉっ⋯⋯⋯!!」
やけくそ気味に脚を振り回すが、「姦姦蛇螺」には届かない。
がら空きの胴体に「姦姦蛇螺」の六つ腕の暴力が絶え間なく浴びせられる。
肺の息が全て吐き出され、掠れた苦悶の声を漏らす他に術がない。
神力を纏う春海の身体は、「姦姦蛇螺」のような怪力の拳を受けても苦痛があるだけだが、何度も何度も繰り返し攻撃を受け続ければ、いずれ致命傷になる。
現に春海の腹部は赤黒く、痛みがミキサーみたいにずっと暴れている。
下劣な笑い声を添えて殴られるたび、母の痛々しい遺骸がより鮮明に思い起こされる。
春海の身体は、母の最期の姿に重なりつつある。
「⋯⋯ぁ⋯⋯⋯⋯ぅ⋯」
音が濁り始める。
ひときわ激しかった右腕と腹部の痛みが鎮まってきた。
痛覚を手放すのは絶対に良くないことだと春海は理解しているが、楽になりたいとも思っている。
母とは三年も会っていない。
さらに、神力を負わされてから母は「姦姦蛇螺」退治に注力させられていたので、死ぬ二年前から滅多に話せていなかった。
(お母さん⋯⋯⋯⋯⋯⋯恋しい⋯⋯⋯)
神力のことも姦姦蛇螺のことも、さっぱり忘れて。
(未練⋯⋯は⋯⋯⋯⋯⋯や⋯⋯⋯で⋯も⋯⋯⋯)
虚ろな心象風景にちらと現れた、泣きじゃくる弟の姿。
「姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!!!」
蹴っ飛ばされたような衝撃を、春海は感じた。
弟だ。照彦の強声だ。
何でこの場所に!? 黒スーツは何故侵入を許した!? 照が姦姦蛇螺を見てしまう!
春海の胸中は疑問と驚愕と心配で破裂せんばかりだった。
焦った春海は、照彦に目を瞑るように警告するため声を張り上げようとするが、生憎、肺に空気は残っていない。
「あぁぁっっ⋯⋯⋯!」
照彦の短い悲鳴。
飛び散らばる水音。
人間の身体が土を叩く鈍い音。
春海は、全身に感じていた疲労と痛みが急速に消えていくのを感じる。
しかし、先程の静寂に向かう消失ではない。
熱を帯びて苛烈に沸き立つ感覚。
彼女は、眉唾に思っていた火事場の馬鹿力の存在を確かに認めた。
干物だった脚は「姦姦蛇螺」に鋭いアッパーを食らわせ、びくともしなかった右腕の拘束は難なく解け、奴の蛇尾を全身で掴んだ。
「んおらぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!」
「姦姦蛇螺」が砲丸投げの要領でブンブンと振り回される。
今までの春海とは比にならぬほどの化け物じみた膂力が、「姦姦蛇螺」を遠心力の奴隷たらしめた。
そして、投擲された「姦姦蛇螺」は音を破って、フェンスを破って、木々を破って吹っ飛んでいった。
春海は「姦姦蛇螺」がちゃんと遠くへ飛ばせたかを確認するより先に、弟のもとへ一心不乱に駆けていた。
倒れ込むようにして照彦の身体に触れる。
春海が右手に感じたのは鎖骨の出っ張り。
手を少し上にスライドして、頸動脈に触れると、少し速いが脈はある。
ここで、照彦が息切れしている事実に気づいた。呼吸がある。
首から伝っていき、彼の右腕を撫でるように確かめる。
左腕も丁寧に確かめた。
腕は無事だった。
血のぬめりも無い。
少しでも切断の可能性があることを怖れて、胴体を経由して触りつつ両脚も確認したが、足先に至るまで
怪我は無かった。
春海は今まで満足にできていなかった呼吸を再開し、深く息を吐いた。
では、先程確実に聴こえた水音は何だったのか。
春海はてっきり、「姦姦蛇螺」の蛇の下半身を目撃したことで怨念を喰らい、片腕が落ちたために噴き出した血の飛び散る音だと思っていた。
「姉ぢゃん⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「照っ!!!」
弟の口元から聴こえた粘ついた水音。
春海は口元の確認を怠っていた。
外傷はなくとも、吐血しているかもしれない。
案の定、照彦の口元にはぬめりがあった。
しかし、口から出たものではない。そうであれば口全体に血が着くだろう。
血を辿っていく。
その場所は鼻腔。
⋯⋯鼻血だ。
「姉⋯⋯⋯ぢゃん⋯⋯」
「なに!? どうしたの!? どこか痛いの!?」
「あの『姦姦蛇螺』⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯めっちゃどエロい⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯ん?⋯⋯⋯⋯⋯」
音は二列に分かれている。
前回、まだ目が見えていた頃の春海が「姦姦蛇螺」討伐に向かった際の記憶に拠れば、黒スーツが二列で向かい合う形で車までの道を作っているはずだ。
彼らは政府の人間。
春海の「姦姦蛇螺」討伐をバックアップするために集結した神官たちである。
「春海さん、ご準備はよろしいですか?」
「見ればわかるでしょ」
春海の冷たい一言に、黒スーツは黙して衣擦れの音だけを立てた。
硬い表情と喪服のような黒さが目に浮かび、母の葬式を彷彿とさせた。
春海は、向かう先にあるはずの車は霊柩車なのだろうと思った。
「姉ちゃん!! やっぱ...」
「討伐なんてやめようよって言いたいの? 関係ないもんね。照は男の子だから」
「でも、姉ちゃんは目も左腕も失って…姉ちゃんいなくなるのは嫌だよ...…」
月山家は、姉弟が幼少の頃に父が亡くなっているため、姉が戦死すれば照は独りになる。
肩を震わせて切実に訴えかける弟に対して、春海の声音は冷めきっていた。
「私が死んだらこのクソみたいな力は誰にわたると思う? 八百屋のおばさん? 近所の沙織さん? もしかしたら三歳のしーちゃんかもね。皆にこんなボロ雑巾になる責務を背負わせるっていうの?」
照は苦悶の表情で俯いた。
「『姦姦蛇螺』を殺すには最低でも目は潰さなきゃいけない。照は懇意にしてくれた女の瞳が光を失う瞬間を見届けられる? 冗談じゃない」
言い返そうとする意思がないと判断するや否や、春海は車に乗り込んだ。
「姉ちゃ———」
名残惜しがる声に、春海の後ろ髪が引かれることはない。
丫—丫—丫◆丫―丫—丫
駐車場のアスファルトの上に滑らかなシルクの風呂敷を広げると、アタッシュケースの留め具を外す音がした。
「右上が本坪鈴、左上が鈴緒、中央に神鏡、右下に形代、左下に千早がございます」
右上に手をやると真鍮の光沢を感じる。
振るとゴランゴランと重厚な鈴音が鳴る。
それもそのはず、その本坪鈴は五十キロ超えで、鈴緒に繋いで振り回せば鎚のごとく、人体の頭部程度なら破壊するに足る。
蜘蛛糸で糾われた鈴緒は蜘蛛糸でできていることから理解るように、特注品であり、鈴と繋ぐための金具も五十キロ超えの鈴に堪えうる特別製だ。
中央の神鏡は籠手の役を担う。
春海の神力——「姦姦蛇螺」打破のために与えられたチカラを便宜上こう呼んでいる——に調和して物理・呪術攻撃を跳ね返す。
関節の動きを阻まないために、前腕の長さを超えない程度のサイズに調整されている。
右下にはポケットティッシュ三つ重ねた程度の厚みの、形代の束がある。
既製品だが、安井金比羅宮の最高級品であり、悪縁を祓い落とす。
回復アイテムの認識で良いだろう。
左下には絹の千早。
春海の動きを損なわないために薄手であるが、神力によって身軽さを保ちながら甲冑を凌ぐ防御力を誇る。
隻腕の春海に合わせて左袖の穴は無い。
以上五つの神具を撫で、揺らし、嗅ぎ、損壊や異常が無いことを確認する。
「うん、問題ない」
「承知いたしました」
神具を並べた黒スーツとは別の人間が背後に立つ。
千早の擦れる音がする。
「千早、失礼いたします」
春海の伸ばした腕に袖が通される。
絹は肌触りが良い。
「神鏡、装着させていただきます」
神鏡の裏側についている輪に腕を通す。
腕時計のように輪のサイズを調整する。
腕の圧迫と神鏡の冷たさは少々心地よい。
「形代の紙帯、解かせていただきます」
紙帯テープを外す音がする。
形代の束が手渡され、春海は懐に入れ、帯に挟み込み、草履に忍ばせた。
「本坪鈴と鈴緒、繋げさせていただきます」
金属の擦れる不協和音。
鈴が不意に外れる事態は回避したいため、しっかり固定している。
春海は、鈴と鈴緒が確実に接続していることを確認した。
徐ろに立ち上がり、鈴緒を担いだ。
「『姦姦蛇螺』の撃滅、どうか⋯どうかよろしくお願いいたします。いってらっしゃいませ」
「うん」
黒スーツらの礼を待たずに淡白な返事を言い捨てた。
春海に言わせれば、国の黒スーツらは道具をせっせと準備しただけで、使命果たしましたという面をしているのが想像ついて腹立たしい。
目を捨てれば誰でも「姦姦蛇螺」と戦えるのに、神力があるとは言え、目と腕と青春を捨てた十五の少女に血濡れた剣を持たせるだけとは。
神職の名が聞いて呆れる。
だが、春海の腸が煮えくり返るほどに殺してやりたいのは「姦姦蛇螺」。
八つ裂きでは済まさない。
母の墓前にやつの生首を供えてやるのだ。
怒髪天を衝く春海は、喧しい静寂が支配する森奥に対して、微塵の恐怖も抱くこと無く大股で進んでいく。
やがて森閑とした木々の合間に湿っぽい山気が流れた。
何かを引きずるような音が断続的に響く。
りんりんりん、りんりりりん
規則的な神鈴と中の玉が摩擦を起こして黙然と響く。
春海の接近に気づいていながら、特に感興を催すでもなく勝手に来れば、と歯牙にもかけない態度に春海の心中に火花が散る。
鈴の音が大きくなってきた。
ということは、春海の目の前には紙垂の絡みついたフェンスが立ちふさがっているはずだ。
春海はフェンスの扉を開いた。
鍵は無い。
このフェンスの高さくらい「姦姦蛇螺」なら悠に乗り越えられるからだ。
そもそも、このフェンスは「姦姦蛇螺」の住処の境界を明確にするものでしか無い。
神楽鈴の音が止まった。
春海は鈴緒をカウボーイよろしく振り回し、無き左腕の代わりに脚で鈴緒を踏みつけた。
ゴランゴランと空気を巻き、力をためて、木霊で「姦姦蛇螺」の位置を測る。
その間にも、「姦姦蛇螺」はその長い蛇の尾をずるずる動かして春海を包囲している。
先手を打たれる前に春海が動いた————————。
投擲された本坪鈴の軌道が弧を描き、「姦姦蛇螺」の右側面に目掛けて飛来した。
「姦姦蛇螺」の三対の腕が右側頭部を守った。
「アホかよ」
鈴が「姦姦蛇螺」の腕を舐めた。
後頭部を通過する。
————ごらん
「姦姦蛇螺」の首がぐじゅりと言った。
頭部だけが真後ろを向く。
鈴緒は胴体を軸として数周した後、三本の腕を巻き込んで緊縛した。
腕と肋骨の砕ける爽快な音が聞こえる。
「前回と同じ手食らうとか馬鹿なの?」
「姦姦蛇螺」の腹部に春海の拳が肉薄する。
縛られていない三つの腕の肘関節、後頭部、頚椎、大蛇の尾。
数瞬の間に鉄拳がめり込んだ。
骨、内蔵、筋肉の破壊の感触を確実に得てから、呼吸を整えるため十数歩後ろに下がった。
反撃の気配は無い。
だが、春海はわかっている。
「姦姦蛇螺」は舐めプしていることを。
「い、い、い——————」
独特な笑い声とにちちと裂ける口端の音。
「掛介麻久母畏伎 伊邪那岐大神 筑紫乃日向乃 橘小戸乃阿波岐原爾 御禊祓閉給比志時爾 生里坐世留祓戸乃大神等 諸乃禍事罪穢 有良牟乎婆 祓閉給比清米給閉登 白須事乎聞食世登 恐美恐美母白須」
口早に祓詞を奏上するのは「姦姦蛇螺」。
ぴぺきにちぐちゅじゅごじゅご。
ダメージを与え、「姦姦蛇螺」の身体が損壊したときのそれとは異なり、絡みつくような水音である。
「っ!!!!」
春海の後頭部、腹部、脚部に邪な気配を感じた。
頭を横に振る。
頭が先程あった空間に、何かが突撃した。
冷や汗を垂らす間も無く、走り高跳びの要領で飛び退いた。
風圧、空気の揺れ、脚と腹の肌に唐辛子を塗りたくったような緊張が走る。
今の攻撃は恐らく、大蛇の尾突。
鈴緒が引き千切られる感触が手に伝わる。
鈴緒を引かれて身体が釣り上げられることを警戒して、春海は素早く鈴緒を回収した。
再び投擲の力を溜める余裕はなかった。
矢継ぎ早に攻撃が飛来する。
「姦姦蛇螺」の厄介な点は呪術を扱えることである。
加えて、「姦姦蛇螺」の説話は一切がオリジナルであり、現実の神社・寺院などの由緒や伝承を設定に組み込んでいない。
そのため、扱う呪術を予測する余地が皆無に等しく、毎回初見の技が披露されてしまう。
いま丁度、春海の身体を輪切りにするところであった無音の攻撃も、「姦姦蛇螺」が扱う結界の破片が正体であることは理解るが、初めての攻撃方法である。
春海の千早が、緋袴が、襦袢が、柔肌が。
一撃一撃が衣を削り、肉を裂き、暗赤色をにじませる。
少しでも攻撃・防御のレパートリーを増やそうと考えて採用した神鏡は、気づけばキャパシティを超えた攻撃を繰り返し受けて、砕け散っていた。
傷を形代で拭って穢れと傷を癒やすが、それを取り出して傷を拭うだけの動作の時間すら惜しいほどの猛攻が続く。
数百数千に及ぶ攻防。
疲労とダメージは緩やかに、澱のように蓄積していく。
対照的に、祓詞を唱えれば忽ち肉体的損傷を復原する「姦姦蛇螺」は、余裕綽々で憫笑を絶やさない。
「っは、っはぁッ⋯調子⋯乗んな⋯⋯っ」
鈴緒を振るって「姦姦蛇螺」の頭部に直撃させた。
手応えはある。しかし、深いダメージを与えられているという確信はない。
疲労が明白に春海のパフォーマンスを下げている。
「─────急急如律令」
「姦姦蛇螺」が、息継ぎも無く滔々と述べ続けていた呪文の締めが来る。
刹那、晴海の身体は空に縫いとめられた。
両の足は地を離れ、右腕は見えぬ釘に貫かれた。
実際に風穴は開いていないが、痛みは確かにある。
「くっ⋯⋯そぉっ⋯⋯⋯!!」
やけくそ気味に脚を振り回すが、「姦姦蛇螺」には届かない。
がら空きの胴体に「姦姦蛇螺」の六つ腕の暴力が絶え間なく浴びせられる。
肺の息が全て吐き出され、掠れた苦悶の声を漏らす他に術がない。
神力を纏う春海の身体は、「姦姦蛇螺」のような怪力の拳を受けても苦痛があるだけだが、何度も何度も繰り返し攻撃を受け続ければ、いずれ致命傷になる。
現に春海の腹部は赤黒く、痛みがミキサーみたいにずっと暴れている。
下劣な笑い声を添えて殴られるたび、母の痛々しい遺骸がより鮮明に思い起こされる。
春海の身体は、母の最期の姿に重なりつつある。
「⋯⋯ぁ⋯⋯⋯⋯ぅ⋯」
音が濁り始める。
ひときわ激しかった右腕と腹部の痛みが鎮まってきた。
痛覚を手放すのは絶対に良くないことだと春海は理解しているが、楽になりたいとも思っている。
母とは三年も会っていない。
さらに、神力を負わされてから母は「姦姦蛇螺」退治に注力させられていたので、死ぬ二年前から滅多に話せていなかった。
(お母さん⋯⋯⋯⋯⋯⋯恋しい⋯⋯⋯)
神力のことも姦姦蛇螺のことも、さっぱり忘れて。
(未練⋯⋯は⋯⋯⋯⋯⋯や⋯⋯⋯で⋯も⋯⋯⋯)
虚ろな心象風景にちらと現れた、泣きじゃくる弟の姿。
「姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!!!」
蹴っ飛ばされたような衝撃を、春海は感じた。
弟だ。照彦の強声だ。
何でこの場所に!? 黒スーツは何故侵入を許した!? 照が姦姦蛇螺を見てしまう!
春海の胸中は疑問と驚愕と心配で破裂せんばかりだった。
焦った春海は、照彦に目を瞑るように警告するため声を張り上げようとするが、生憎、肺に空気は残っていない。
「あぁぁっっ⋯⋯⋯!」
照彦の短い悲鳴。
飛び散らばる水音。
人間の身体が土を叩く鈍い音。
春海は、全身に感じていた疲労と痛みが急速に消えていくのを感じる。
しかし、先程の静寂に向かう消失ではない。
熱を帯びて苛烈に沸き立つ感覚。
彼女は、眉唾に思っていた火事場の馬鹿力の存在を確かに認めた。
干物だった脚は「姦姦蛇螺」に鋭いアッパーを食らわせ、びくともしなかった右腕の拘束は難なく解け、奴の蛇尾を全身で掴んだ。
「んおらぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!」
「姦姦蛇螺」が砲丸投げの要領でブンブンと振り回される。
今までの春海とは比にならぬほどの化け物じみた膂力が、「姦姦蛇螺」を遠心力の奴隷たらしめた。
そして、投擲された「姦姦蛇螺」は音を破って、フェンスを破って、木々を破って吹っ飛んでいった。
春海は「姦姦蛇螺」がちゃんと遠くへ飛ばせたかを確認するより先に、弟のもとへ一心不乱に駆けていた。
倒れ込むようにして照彦の身体に触れる。
春海が右手に感じたのは鎖骨の出っ張り。
手を少し上にスライドして、頸動脈に触れると、少し速いが脈はある。
ここで、照彦が息切れしている事実に気づいた。呼吸がある。
首から伝っていき、彼の右腕を撫でるように確かめる。
左腕も丁寧に確かめた。
腕は無事だった。
血のぬめりも無い。
少しでも切断の可能性があることを怖れて、胴体を経由して触りつつ両脚も確認したが、足先に至るまで
怪我は無かった。
春海は今まで満足にできていなかった呼吸を再開し、深く息を吐いた。
では、先程確実に聴こえた水音は何だったのか。
春海はてっきり、「姦姦蛇螺」の蛇の下半身を目撃したことで怨念を喰らい、片腕が落ちたために噴き出した血の飛び散る音だと思っていた。
「姉ぢゃん⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「照っ!!!」
弟の口元から聴こえた粘ついた水音。
春海は口元の確認を怠っていた。
外傷はなくとも、吐血しているかもしれない。
案の定、照彦の口元にはぬめりがあった。
しかし、口から出たものではない。そうであれば口全体に血が着くだろう。
血を辿っていく。
その場所は鼻腔。
⋯⋯鼻血だ。
「姉⋯⋯⋯ぢゃん⋯⋯」
「なに!? どうしたの!? どこか痛いの!?」
「あの『姦姦蛇螺』⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯めっちゃどエロい⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯ん?⋯⋯⋯⋯⋯」
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