善き魔導師の傷跡 〜娼婦の娘は意中の彼を殺したい〜

智梅栄

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鼠小屋

第1話

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 駆ける。

 爪先が大地を抉る。

 砂が、砂利が後ろに蹴り飛ばされて、濛濛と土埃が舞い上がる。

 跳ねた石が誰かに当たり、その誰かがティッサの背中に向かって怒鳴った。

 しかしティッサは別のものから逃げるのに夢中で、追いかけてこない声にはさほど注意を払っていられなかった。



 行き交う人々の間を縫うように走る。

 痩せた体は狭い場所をすり抜けるのに丁度良い。

 穴の空いた靴底から尖った小石がいくつも入りこみ、足の裏に傷を作る。

 ティッサの足はまだ靴無し乞食のように硬くはなく、地を踏みしめる度酷く痛んだ。

 しかし、その痛みのために立ち止まるわけにはいかない。



 盗人を捕えたら、盗まれた者はその盗人の片腕を落として良いことになっている。

 そのために商い人は必ず鉈や包丁を持ち歩いてているものだ。

 あの干果屋の店先にも、小さな果物には不釣り合いな大きな包丁が吊るされていた。



 止まったら、この右腕はなくなる。

 握りしめた拳に思わず力が入り、干葡萄が指と指の間で潰れてぬめった。



 道の向こうから荷を山と積んだ牛が引かれてくる。

 避けて通ろうと脇に一歩踏み出した時、その牛と目が合った気がした。

 なぜこちらを見るのか、そんな風に、人のように。

 次の一歩を進めながら、牛から目を離すことができず、その視線がなんとなく恐ろしく目を瞠ると、牛も同じように目を見開いたように見えた。



 ティッサがさらに一歩、前に行こうとした瞬間。

 牛の毛並みがにわかに逆立ち、先導する主に抗って身をよじった。

 突然手綱を引かれて飼い主はよろめき、手綱が緩んだ隙に牛はさらに後ずさって、ゆっくりと首を左右に振り回した。

 後ろを歩いていた人々が立ち往生する。

 まずい、と思いながらも勢いのついた自分の体を止めることができず、ティッサは今まさに暴れ始めた牛の目の前に突っ込んでいった。



 初めは激しい揺さぶりに耐えていた積荷も、一つ荷紐から外れてしまうとどれもこれも勢いよく吹き飛び、場はたちまち阿鼻叫喚となった。

 ティッサの方にも木箱が飛んできて、間一髪避けたは良いものの、体勢を保てず尻餅をつくはめになった。

 木箱が直撃したらしい老人の悶え狂う叫び、あちこちで似たような悲鳴が上がり、その中心で牛がおおよそ普段は目にすることのない激しさで立ち回っている。

 また、目が合う。

 先ほどよりもずっと怯えている。

 ティッサに向かってくる気だ。



 慌てて立ち上がる。

 少しよろめく。

 角の尖端が黒く光り、ティッサのはらわた目掛けて突進してきた。

 ぎりぎりまで引きつけておいて、わずかの差で横に飛びすさる。

 牛はそのまま背後の露店に突っ込んでいく。

 ティッサの代わりに犠牲になったのは、どうやら筆屋のようだ。

 豚や牛の毛で作られた筆があちこちに飛散している。

 品物を並べていた台やら敷布やらも瞬く間に滅茶苦茶になったが、それが枷となり牛の動きが鈍った。

 逃げるなら今しかない。



 ティッサはその場から背を向けて走り出した。

 先ほどまで逃げてきた道を遡る。

 このまま干果屋の前まで戻るわけにはいかない。

 どこかで横道に入る必要がある。



 ティッサは少し考えて、器屋の角を左に曲がった。

 大人がようやくすれ違える程度の細い路地が、入り組みながら裏通りまで続いている。

 まともな人間はあまりこの路を使いたがらないので、干果屋の倅がまだ自分を追っているとしてもこんなところまでは探さないだろう。

 いっそそのままどこかの鼠小屋にかくまってもらおうか。

 ――否、ティッサは頭を振った。

 よその小屋にうかつに足を踏み入れたら、そのまま食い散らかされて二度と出てこられないことだあってあり得る。

 今日は抜け道を使わせてもらうだけだ。

 ティッサは足早に歩いた。



 表通りのくぐもった喧騒が、壁と壁とのわずかな隙間から降り積もる。

 しかし路地裏そのものは至って静かだった。

 表通りと比べ物にならないほど沢山の人の気配を隠しておきながら、みな息を潜めて暮らしている。

 だがその静けさの中で、必ずどこかから女の喘ぎ声が漏れ聞こえている。

 男の声は大抵、ティッサのよく知らない異国の言葉である。



 ティッサにも、異国の男と春をひさぐ女の血が流れている。

 表通りを堂々と歩く人々よりも、肌の色が薄く、髪もやや赤みが強い。

 母はティッサがもう少しましな方法で暮らしていくことを望んでいるが、見た目がこれではまともな雇い主など見つかるはずもない。



 この一掴みの干葡萄を母に食べさせたら、子供の自分とはさよならしよう。

 腹をくくり大人になってしまえば、盗みなどしなくても腹を満たすくらいはできるはずだ。

 鼠小屋さえ追い出された捨て子の中には盗みで生きている者も大勢いるが、そこまで落ちぶれたくはない。

 今日盗んだ分の金だって、すぐに稼いで返すつもりだった。



 ふと、顔も知らぬ父に思いを馳せる。

 母はティッサが幼い頃から寝物語の代わりに父のことを繰り返し語って聞かせた。

 彼は母と過ごした十日の間、一日に一枚ずつ金貨を置いていったという。

 鼠小屋で暮らす程度の慎ましい生活なら、金貨一枚で一年近く食べていける。

 金貨をちらつかせれば裏通りの宿だって揉み手で歓迎するし、嫁ぎたいと思う娘も少なからずいたはずだ。

 にもかかわらず、わざわざ路地裏の鼠に大金を落とした変わり者。

 それが父だった。



 ティッサが産まれてこなければ、母が病に倒れなければ、こんなにも早く困窮した生活に戻ることはなかっただろう。

 あるいは、蓄えが完全に尽きてしまう前に母の言葉など無視して自ら稼ぐ決意ができていたならば。



 母はまだティッサが最後の銭を使い切ったとは知らない。

 娘が盗みをはたらいたと知ったら悲しむだろう。いつか悟られるとしても、ずっと後でなくてはならない。

 母が病を乗り越えてからだ。


 もしかするとこの先、父がまたこの街を訪れて、母に良く似た面影のわたしを呼び止めるということもあるだろうか。

 ティッサはほんの一瞬、雛菊の紋章が刻まれた金色の硬貨が山と積まれる様子を脳裏に浮かべた。

 都合が良すぎるだろうか。

 いや、あり得なくもない。

 きっとどこかの鼠小屋では既にそういうことが起きているだろう。

 そしてお互いに気づかないままでいるのだ。



「おい、お前」



 ふいに路地裏に響いた低い声に、ティッサは歩きながら小さく飛び上がった。

 父か。

 本当に父がやって来たのか。

 いやそんなわけがない。

 呼び止められたのはわたしだろうか。

 立ち止まって声のした方を見やると、見た目十五かそこらの少年が、脇道の陰の中からたしかにティッサを見ていた。



「右手に何を隠してる。干果じゃあないだろうな――」



 相手が言い終わらないうちにティッサは走り出した。

 この路は以前にも何度か使ったことがある。

 考えなくとも足が正しい道順を覚えているはずだ。

 しかし、一箇所でも岐路を間違えば袋の鼠。

 干果屋の大きな包丁が脳裏をよぎる。



 風を切る音。

 目と鼻の先を何かが横切る。

 ティッサはとっさにのけぞってそれを避けた。

 ゆっくりと反転する視界の中で、銀色の刃が鈍く光る。

 ティッサが背中からひっくり返ると同時に、それは乾いた音を立てて壁に弾かれた。



 起き上がる間もなく、誰かがティッサの腹の上にのしかかる。

 わたしを呼び止めたのとは別の少年だ、と認識した瞬間。

 容赦のない拳が立て続けに五発、降ってきた。

 奥歯が折れて、口の中が血の味でいっぱいになる。



「赤毛の雌鼠が大事な大事な商品をごっそり掴んで逃げたってんで、旦那が酷くお怒りなんだ。なあ、ちょっとその右手を開いて見せておくれよ。干果でなけりゃ謝るから。なあ」



 残った歯を食いしばって彼を睨めつける。

 間髪入れずに今度は痛烈な蹴りが入った。

 最初の少年が追いついてきて、ティッサを見下ろしていた。



「見逃してよ……。母さんが病なの、何か食べさせないと死んでしまう」

「食べさせないと死んでしまう!」



 甲高い裏声でティッサの真似をする。癇に障る笑い方だ。

 彼の爪先に血の混じった唾を吐くと、彼は笑うのをやめてティッサの頭を踏みつけにした。



「なら母親と一緒に死ね」



 馬乗りになっている少年が、ティッサの右手を乱暴にこじ開けようとしていた。

 ティッサは掌に爪が食い込むのも構わず、それに抗う。

 このまま殴られ続けて気絶しても、この拳を開いてやるつもりはなかった。

 やがて大きな舌打ちが聞こえ、体の上から重みが消えた。

 諦めてくれたのだろうか、と腫れ上がってきた目蓋をうっすら開けてみる。



 突如、鋭い痛みがティッサの右手を襲った。

 痛み以外の全ての感覚が失われ、自分が叫んだのかどうかも分からない。

 咳き込み、喘ぐように開いた口に靴が押し込まれ、喉の奥を抉る。

 また右手に耐え難い痛みが走る。

 石だ。

 大きな石の塊で殴られているのだ。

 骨が砕ける音がする。

 絶対に開かぬと誓った掌が今閉じているのか開いているのか、なんの手応えもない。



 何十何百の人が耳をそばだてている。

 不思議と、その密やかな息遣いが聞こえてくるようだった。

 だが、誰もティッサを助けようとする者はいない。

 ティッサもそうして見て見ぬふりをしたことが数え切れないほどある。

 それがこの路地裏、鼠小屋に生きる者の掟なのだ。



 ごめんなさい、母さん。

 母さんの好物を食べさせてあげたかったんだ。

 少しでも元気になってほしくて。

 ごめんなさい、持って帰れないかもしれない。

 ごめんなさい、母さん。



 母さん。



 幾度目か、ティッサの手に石が振り下ろされた時、ティッサの意識は途絶えた。
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