インキ喰います 【第一部 完】<インキシリーズ 1>

樫村 和

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第八章

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 一週間考えた。

 気を抜けば仕事中も考えてしまいそうになり、さすがにまずいと気を入れなおした。それほど猿の言葉が頭から離れない

『俺の事も甘やかしてくんないかなって思った』

 今だって甘やかしていると思う。匠は今までこんなに人を構ったことはない。元彼女には悪かったが、勝手に長い付き合いになると思っていたので無理な付き合いも、構いもしなかった。最初から、省エネモードで付き合っていたのかと今になって気が付く。
 簡単な夕食をすませベッドに倒れこむ。ひどく疲れてる。考えすぎて頭も痛い。
 なぜここまで考え込んでしまうんだと自分でもあきれる。
 何かを変える必要があるか?今のままでいいじゃないか。今の関係は匠にも居心地がよかった。なぜ、それを変えなきゃならない?匠が作った握り飯を二人で食べて、他愛ない話をして。笑って、怒って。

 せっかく……居心地のいいものができたのに。

 天井の照明が眩しくて腕で顔を覆う。

『お前なら、きっとげっぷが出るほど甘やかしてくれる』

 少し照れくさそうに笑って匠を見た顔が浮かぶ。眩しそうに匠を見ていた猿の顔が浮かぶ。

「飯の問題……じゃあない」

 猿のいう甘やかしが昼飯の問題なら、もっと豪華にすればいいだけの話だ。
 でも、猿はきちんと言葉にした。匠がわざと間違えないようにきちんと言った。

『他の奴らに取られたくない』

 自分だけを甘やかす存在になってほしいと猿は匠に言ったのだ。
 子供のくせに……いや、子供だからあんなにまっすぐに匠に向かって言えたのか。
 大人のはずの匠は、まっすぐに気持ちをぶつけられどうしていいのかわからない。身動きが取れない。
 子供が言うことだからと相手にしない。
 未成年だから相手にしない。
 だいたい猿も自分も男同士なのだから相手にしない。
 だから、だから、だからだらけだ。大人ぶった倫理的、社会的言葉は浮かんでくるのに、それが言い訳だとわかる自分にもじりじりする。
 必死に断る口実を考えている段階で何かがあるのだと思うのに、無理やり見ないふりをする自分になぜだと思う。

「……かわいいからだろう」

 自分がかわいい。社会、倫理に反することはしたくない。
 保身に走る自分、それでいいはずなのに腹の中がじりじりする。苛立つ。自分が浅く見える。自分がずるく見える。
 それに比べ猿は全てにおいてまっすぐに見えて腹が立つ。人をこんなに混乱させるくせに猿の目はまっすぐに匠を見る。まっすぐ見て、感情の赴くがまま泣いて怒る。泣くときは本当に見事な泣きべそ顔になり、笑うときはお日様みたいに手放しで笑う。
 嬉しい時は少し頬を膨らまして笑い、困ったときはきゅっと唇を噛んで考える。
 表情が豊かで自分の感情を隠そうともしない。隠す気もない。欲望ですらだ。 

『お子様相手じゃ、そんな気にならないってか』

 ずくっと下腹に刺さった熱を思い出す。匠は寝返りを打ちながら手を下腹に伸ばし撫でる。
 猿の熱がここに刺さった。
 猿はそういう想いを匠に向けた。まっすぐに欲望を匠に向けた。

「ませ猿が……」

 あのズボン越しでもわかった硬いモノ。熱。自分に向けられた……。

「……っ」

 下腹を撫でていた手が、いつの間にか下肢に伸びてた。部屋着のズボンの中に手を入れようとしていた自分に気が付き慌ててぐっと手を握りしめる。
 気持ちがないわけではない。もう、こうやって自制するのも幾度目かだ。なら、とも思う。
 猿を想ってできるかどうか……。
 だが、怖い。猿が当たり前に向けた熱が自分にはできないのではないかと試すことすら怖い。

「なにしてんだ……俺は」

 ゆっくりと息を吐き無理やり落ち着かせる。
 焦るなと枕に顔をすりつけ息を吐く。まだ、怖い。一時期、なんか自分のモノがおかしいと気が付いたときにむやみやたらに自慰にふけったことがある。
 それまで何も考えなくてもできたことが、できなくなったというのは匠には怖かった。
 自慰をいくら繰り返しても何も反応しない。そのうち、触ることも避けるようになる。
 ふられたショックだと言い聞かせ、そのうち元に戻ると強がりを心の中で繰り返す。
 また、だめかもしれない。そう思えば、やはり怖いという感情が先に立つ。試すことすら避けてしまう。

「猿……」

 会いたいと思う。たかが一週間だというのに会いたいと思う。隣の敷地にいると分かっているのに、顔が見たい。

『俺を甘やかす奴がいるから』

 自分以外の奴かと思ったあの瞬間、頭の芯に走った冷たいものが忘れられない。その冷たいものに名前を付けたくない。名前を付ければ自分の気持ちに向き合うしかなくなる。

 会いたい。それなのに会いたくない。

 また、こんがらがっている。猿にことばかり考えて何もかもおろそかになる。自分の気持ちのことなのに猿に振り回されてあっぷあっぷだ。

「あ!」

 あっぷあっぷで思い出した。慌てて時計を見るが、夜の十時前だ。

「くそ……また、忘れた」

 匠は再びベッドに倒れこんだ。今日こそあの見合いの話を持ってきた患者の森田さんに断りの電話をしようと思っていたのに、また忘れた。
 信じられないことに、今週末が見合いの日だ。
 匠も自分で自分にあきれる。断る一手なのになぜか頭からすっぽ抜ける。
 それでも、どうにか昼間思い出した時に慌てて電話をかけるが、病院のカルテの連絡先の携帯も家電もどちらも森田さんは出ないのだ。
 そんなこんなで時間ばかりが過ぎてしまう。

「なんで電話でないんだ……」

 特に携帯は緊急連絡先で登録してあるのに出ないってなんなんだ?着信履歴も残るだろうに、気にならないんだろうか。それに、電話のたびに匠は連絡をくださいと留守電を残している。

「……避けられてる?」

 いやな言葉が浮かぶ。まさか匠の断りなどはなから見越して、強制的に見合いをさせる魂胆か?あの森田さんならありうる。

「くっそ」

 こうなれば留守電に見合いには行きませんと入れてやろうかと思うが、さすがに病院の患者に失礼な態度は取られない。後々、病院でトラブルの種になるのも困る。あの森田さんなら外来の待合で話のネタにしそうだ。それは避けたい。

「明日、来いよ……」

 あまりに森田さんが捕まらないので匠はカルテを見て、きちんと二週間おきに診察しているのを確認までした。
 明日外来でつかまえて、あの白い封筒と便箋をお返しして、はっきりとお断りする。
 さすがにそれがリミットだ。考えれば便箋に書いてあった日時は明後日じゃないか。さすがにやばい。

「絶対に捕まえる」

 自分に言い聞かせるように言葉にして……匠はひどく疲れたと目を閉じた。

 ◇ 

 あ、と思った。
 
 昼、猿にあげようと買っておいたコーヒーゼリーを冷蔵庫から出して、あ、と思った。

「え?」

 森田さん、どうした?

 絶対に返すと白衣のポケットにいれておいた封筒を手に取り、会計に走る。
 今朝、外来に来ているのを見て匠は薬局を飛び出し名前を呼んだ。
 それなりに大きな声で名前を呼んだはずなのに、森田さんはすっと廊下を曲がって行ってしまった。
 森田さんが進んだ先にはトイレがある。さすがにそこまでは追いかけられずに匠は待合で動けなくなった。だが、慌てて会計に向かって、森田さんを会計の時に捕まえてくださいとお願いしたのだが?

 その会計から声がかからない。

「すいません、あの森田さんは?」

 カウンターで匠が聞くと事務があら?という顔をした。

「いらしてません」

 え?となる。午前の診療は終わったはずだ。それに、森田さんを見かけたのはまだ朝だった。
 受付けの人もあら?となった。

「受付けされてますよね?」

 いや、俺見たぞ?あのパーマ頭は森田さんだった。受付けの事務もあらあらと首を傾げ、受付け票を確認する。匠も横から覗き込んだ。

「あ、ほらここ」
「いらしてましたよね」

 カルテを出したと受付けが言い、でもカルテを受け取ってないと会計が言う。ということは、いったいどういうことだ?

 一体、どうした?

 そこに外来の看護師がやってきてふうと溜息を吐いた。

「これ、森田さんのカルテ」
「え」

 三人の声がそろい、看護師が何?となる。

「え?森田さん、どうかされたんんですか?」

 本人はいったいどうした?まさか、ずっと外来にいたのか?いや、いるのか?

「……あの人本当に病院をなんだと思っているんだと思う?」

 看護師が疲れたとカウンターにもたれて匠の顔を見た。

「なんだって……病院じゃ」

 きちんと二週間おきに受診して薬も処方してもらっている。病院以外ではできないことだが。

「急に気分が悪くなったから、今日はもう帰りますって」
「は?」
「え?」

 匠と会計の声が重なった。受付けは慌ててカルテを受け取り、診察券の確認をしに離れた。おそらく受け取ったままなのだろう。

「気分が悪いから診察するんじゃなくて?」
「……気分が悪いから帰るって」
「はぁ」

 会計がどこか間の抜けた声を上げたが、匠は何かがひっかかり、手にしていた封筒を見た。

 ◇

 何かが引っかかった。
 
 だが、それが何かわからない。
 なにか魚の小骨みたいなものが喉に刺さっている感じだ。気になるのに、他の事に神経が向けば簡単に忘れる。 

「どうする……」

 完全に断るタイミングを逃した。それだけは分かる。明日の事だ。森田さんはいくら匠が電話をかけてもきっと出ないだろう。

 ……なんだろう。

 匠がコンクリに座って考え込む。何かおかしい気がする。何がとはっきりとは言えないが、

「道ができてる……」

 明日の見合いに向かい匠の前に道が一本できているような気がする。いろいろ枝道があったはずなのに、気が付けばその一本道に追い込まれている?

「いや、罠じゃないんだから……」

 考えすぎだろう。だいたいあのはっちゃけた森田さんがそういう罠を張れるはずがない。罠を張る前に、ここに罠があると大声で言っちゃうような人だ。

『急に気分が悪くなったから』

 でも……なぜ、急に気分が悪くなった?

「おい」

 背中から声をかけられ慌てて振り返った。
 猿が少し困った顔で立っている。声をかけていいのかわからなかったという顔をしている。

「あ……」

 匠も慌てて立ち上がった。二人でフェンス越しに立ち尽くす。いや、なんで、こんな気恥ずかしいんだ。

「……」

 困った。顔すら上げられない。猿も困った様子で腹の前で指をくりくりいじっている。先に口を開いたのは猿の方だった。

「……腹、減ったんだけど。飯、ある?」
「あ、ある」

 いつものハンカチの包みを鞄からだそうとして、コンビニ袋が目に入った。そうだ、こっちからだ。

「猿、これ」
「ん?」

 匠がコンビニ袋を片手によっとフェンスによじ登ろうとして悲鳴を上げた。

「いて!いてぇ?なんだこれ?」
「た、匠?」

 ガシャガシャとフェンスから落ちかけた匠に猿が慌てて反対側から登ってくる。その姿を信じられないものを見るかのような目で匠は見た。

「針金が指に食い込むんだけど?!」
「え?そうか?」

 頂上でどうにか会えた猿に匠がコンビニ袋を渡し、もう飛び降りた。

「指がちぎれるかと思ったっ!なんだこれ?え、こんなに痛かったか?」

 子供の時にもフェンスなら上った記憶があるが、こんなに食い込むような痛みを感じた記憶がない。
 格好悪いと猿に背を向けて、じんじんする手を振る。
 猿がひょいひょい上ってくるから自分も同じことができるつもりだった!俺、恥ずかしくないか?!
 顔が見せられないほど赤くなっている気がする。くそう、大人になったからか?体がでかくなったからか?尻から地面に引きずり落されそうだった!

「匠……これ、なんだ?」
「ああ?コーヒーゼリーだ。ゼリーは甘くない。上のクリームが甘いだけだから混ぜながら食えば大丈夫だ」

 まだ、じんじんんする手に顔をしかめながら握り飯が入った鞄を引き寄せる。

「プリンとかより……」
「手紙が入っている。俺にか?」
「ん?」

 あれ?そういえばあの手紙どこに入れた?匠が猿の方を振り返る。猿はもう封筒を開け、中の便箋を手にしていた。

「あ、こら勝手に見るな」

 あっちにいれたか。しまったなと思いながらも握り飯を鞄から出そうとして、先ほどまで考えていたことがふいに口から出た。

 本当に何も考えていなかった。ただ聞いてしまった。

「それ、なんか変なのついてないか?」
「……」

 握り飯を出して猿の分の焼き海苔をもう貼りつけてしまおうとした時、カシャッと軽い音がした。軽いものが地面に落ちたような音。

「……え」

 顔を上げると匠の目の前にコンビニ袋が落ちていた。袋の口から崩れたコーヒーゼリーが見えた。
 え?と猿を振り返ると猿はうつむいて両手に封筒と便箋を持っていた。
 顔が見えない。髪が邪魔している。
 せっかく買ってきたデザートになにをするとカチンときたが、その一瞬後には匠は自分が何をしでかしたか分かった。

 俺は……何を猿に言った?

「おい……さ」
「……どちらも何もついてない。感じない。安心して持ってていい。……よかったな」

 猿は……静かな声でそう答えると綺麗な手つきで便箋を封筒にしまい、フェンスの隙間にそっとおいた。
 その指先が震えている。
 いや……やばい。俺は一体何を猿に見せて、そしてなんて言った?

「ちょっ……」

 猿はすっと後ろに下がり……こらえきれないというように肩を震わせた。

「頭いいな。前払いだったんだな……俺、馬鹿みてぇ」

 笑っている?いや、笑えるはずがない。匠が慌てて立ち上がりフェンスによる。

「猿!違う!待て!……ちが……う」

 匠も自分が言ったことが信じられずに口を押さえる。

 なんて言った?
 なんて言うつもりだった?

『変なのついてないか?』

 見合いのセッティングの手紙を猿に見せて?猿に渡すデザートの袋に入れて?
 そして、ついていると言われたら?

 俺はなんて言うつもりだった?

「っ……!違う!猿!違う!」

 なんだこれ?なんだこれはっ!

 猿はもう両腕で顔を拭っている。肩が震えている。絶対、泣かした。匠の背中に冷や汗が浮かぶ。
 絶対に傷つけた。

「馬鹿だ……俺、喜んじまった。俺、馬鹿だな」
「違う!猿……ちょっと待て!」

 絶対に違うのに何かががちりと噛みこんでいる。匠の首筋にひやりとした物が当てられた気がする。いや生暖かいもの?

「……っ!」

 名前を呼ぼうとして気が付いた。
 こんなに一緒に昼飯を食ったのに。同じ場所にいたのに。
 俺はこいつの……目の前にいる奴の名前も聞いていないのか。
 唖然とした。一体俺は何をしているんだ?
 猿は止まらない涙を拭うのも諦めたように顔を上げた。
 血の気が引いてる。目が真っ赤だ。噛んだ唇が震えている。
 全部、俺がやらかした。

「いやだ……猿、待て」

 絶対になくす。自分がなくしたくなかったものを、匠は自分で踏みにじった。
 自分で踏みにじった以上の事を猿にした。
 最悪のタイミングで、最悪なものを猿に見せ、そして最悪なことを自分が言った。やらかした匠さえ信じられない。
 猿は……デザートに入っていた手紙をきっと自分の気持ちの返事だと思っただろう。
 だから、喜んだと言った。喜んじまったと言った。

「もういい。もういい……」
「猿……いやだ」

 その言葉に匠が怯える。違う。こんなのはいやだ。違うのにこんなのはいやだ。
 猿は震える唇を無理やり開いた。

「お前なんて嫌いだ」

 猿は掠れた声でそう言って踵を返した。
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