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序章
序章 神職選び
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大広間にオルゲニア国中の神官が集められた。五百人ほどいるだろうか。
二年に一度行われる『神職選び』の為だ。こればかりは神職につくもの全てが対象になる。
老いも若きも。現在の位が高かろうが、低かろうが……。
皆、広間に集まり前方の大きな石造りの扉が開かれるのを今か今かと待つ。
その中に一人の青年がいた。
バサル・アデランテ。
この国でも珍しい銀髪の持ち主だった。癖のない長髪を一つにまとめ背中に流している。神職の制服でもある白のローブを纏うが、背が高く、どこかこの場にそぐわない雰囲気がある。顔立ちも整っていた。淡い灰色がかったグリーンの瞳。すっと通った鼻筋。唇がやや薄くどこか冷たい印象を与える。事実、あまり人と関りを持つタイプではない。
バサルは三年前に神官になった。二十一の時だ。神職に就きたいと願う者は普通十五、六で神殿に来ることが多いが、バサルは自分から願ってここに来たわけではない。
バサルは以前は王宮の騎士団に所属していた。
一応、貴族出のバサルは危険度が少ない部署に入れられたが、自分から前線で戦う事も多い部署に異動願を出した。
危険が伴う部署に配属されたいと願う人間自体が少ないため、バサルの届けはすぐに受理され、貴族の坊ちゃん達とは全く違う、血の気が多い輩が集まる部署に配属になった。
配属された当初は貴族だと言う事で突き回されたりもしたが、相手にすることもせず、淡々と仕事をこなすうちに、それなりに見る目も変わり、親しく接してくれる人間も現れた。
バサルが思っていた以上に、身内感覚で集まっていたらしい。一度、懐に入れてもらえれば自分の家よりも居心地が良かったのだが……。
義理の弟が騎士団に入りたいと言い出した。
バサルの人生がそこで変わった。成人しているとはいえ、貴族の家長である父親の命令は絶対で、義弟が入るなら、お前は出ろと簡単に言われた。
そして、父が溺愛する義弟の母親が何かを言ったらしい。
バサルはあっという間に神職に就くことが決まった。
ようするに家督争いが表面立つ前に、邪魔な存在は消しておこうという事なのだろう。一度、神職に就けばバサルが知る限り、その職を辞めたという事例は聞かない。
辞めさせられたという話は聞くが。
ぎしっと重い音がした。皆がそちらを振り返る。
神殿の奥に続く石でできた扉がゆっくりと押し広げられる。いや、本当に、一枚の扉を三人の神官が押して開いていく。
バサルもそちらを見た。バサルは扉から一番遠い広間の壁際にいたが、背が他の神官よりもある為、押し広げられていく扉の様子がよく見えた。
立体的な彫り物が浮かんだ扉がギシギシと音を立てて開いていく。この扉のおかげでこの神殿の奥には簡単に人が入れないようになっている。そして、この扉が開くのは二年に一度。もちろん、他にも表とつながる通路はあるのだろうが、この神殿の奥に住まう大神官を見ることができるのは普通、この時だけだ。
大神官 デュア・シュセリ。
大神官に選ばれた者は、選ばれた瞬間から、この国を神から王に授けた初代大神官の名前を名乗ることが決められている。
それまでどこで何をして暮らしていたか、なんという名前だったかなど関係しない。
大神官は転生者だ。大神官が亡くなれば、直ちに次の大神官を探すための部署が神殿の中に作られる。
開かれた扉の奥から三人の神官達が現れる。二人の背の高い女性に付き添われ、大神官が進み出る。ざわざわとしていた広間が静まり返る。新しく神殿に勤めることになった神官達は息を飲んで大神官を見つめる。
大神官の両手を引いていた女性達がゆっくりと手を放した。
女性達に挟まれるようにして歩いていた大神官がまっすぐ広間に向かい歩く。広間から幾分高い壇上で一度足を止め、両手を横に広げた。
神官が纏う白のローブは同じだが、その上に赤地に金と銀の刺繍が施された襟を着けている。
だが、衆目すべきはその頭部だろう。
頭部には筒が被せられていた。その筒には、この神殿の紋章が描かれている。バサルが見る限り、目の位置にも穴は開けられていない。視界が遮られている。呼吸すらしにくそうだ。
ざわりと広間が揺れ、そして、神官達が静かに頭を垂れる。
「神職選びを行います」
大神官の右手にいた女性が軽やかな声を発する。そして、左にいた女性が大神官の指に何かを塗る。
「黄は城、赤は軍、そして、緑は神です。今から大神官様がお渡りになります。各々、その場でお待ちください」
大神官の手が色で染められる。親指が赤。人差し指が黄。中指が緑。そして、女性は口にしなかったが、小指にも色があった。
黒。
神職選びで黒はクビを意味する。どこでどうやって分かるのか、何で調べているのか。神官でありながら、やはり自分の蓄えを肥やそうとする輩がいる。そういう者はどこにでもいるのだが、なぜか、大神官にはバレるらしい。ただ、それ以外にも理由はいろいろとあるらしい。
バサルは、ちらと自分の隣に立つ神官を横目で見た。ひどく……落ち着きがない。なるべく、なるべく目立たないようにしているのがバサルにはよくわかった。
逃げ出したい。
顔にそう書いてある。おそらく、やましい所があるのだろう。その神官はいつ自分の所に大神官が来るのか背伸びをしては様子を窺っている。
大神官は壇上から下り、一人で神官の間を歩いているらしい。その後ろに色の入った瓶を捧げ持つ背の高い女性の頭が神官越しに見える程度だ。
バサルから大神官は見えない。なぜなら大神官は八歳の少女だからだ。
三年前に大神官の生まれ変わりだと言われたのは、まだ、五歳の少女だった。それから、その少女はここで大神官として暮らしている。もちろん、神殿に入る前に親とは引き離された。親は自分の娘が、まだ五歳にしかならない娘が大神官の生まれ変わりだと聞いて、喜んだだろうか。悲しんだだろうか。
わあっと声を張り上げて泣き出す声が聞こえた。人の頭が揺れている。どうやら黒が出たらしいが、女性のようだ。何かを叫び、そして、また人が揺れる。それを聞いた隣の神官の顔色がさらに悪くなる。しばらくすると、両腕を男の神官に支えられた女性が、泣きじゃくりながら広間から出された。
女性のちょうど腰のあたりにべたりと黒がつけられていた。
大神官の手はそこまでしか届かない。おいおい、なぜ、この女性が黒を付けられたのかは噂で聞くだろう。神職選びは騒ぎなど気にした様子もなく、続けられているらしい。
五百人の神官の勤め先を、一人の少女が筒を被せられたまま決めていくのだ。だが、視界もおぼつかないだろうに、大神官は人の間をすいすいと……そう、渡っていく。
再び、黒が出たらしい。だが、今度は喜びの声が上がり、大神官に感謝を述べる声が聞こえた。その声を聞き、バサルは軽く肩を竦めた。神職を離れる時、喜ぶのは伴侶ができた時だけ。神職といえども、やはり人を好きになる事がある。神殿は恋愛を禁じているわけではないが、やはり風紀を乱すと喜ばれることではなく、一緒になる覚悟ができれば神職を辞すのが妥当。だが、勝手にはやめられない。辞めるためにも、この神職選びを受けなければならないのだ。
本当に、不思議だ。
なぜ、神殿の奥で暮らす大神官が、ただの神官の恋愛沙汰など知ることができるのだろうか。
人の動きが大きくなってきた。人の間から付き添う若い女性の姿が見える。付き添う二人の神官は同じ顔をしていた。双子なのだろう。どちらも細面で綺麗な顔立ちで、長い髪を結い上げている。二人共白のローブに遠目には分からなかったが、白の襟を身に着けていた。その襟には銀で刺繍が施してある。おそらく大神官付きの従者の印なのだろう。
ひょいと人が割れた。白のローブの隙間から赤い襟を着けた大神官が現れる。
思ってもならない事だろうが、やはり、どこが異質だ。子供の体に筒を被せ、わざと視界を遮っているようにバサルには見える。そして、この子供が大人達に色を付けて回る。
鬼ごっこのようだな。
だが、それが神託ともなれば……おかしな話だとバサルは思う。
色が薄くなったのか、大神官の足が止まり、後ろに手を出した。その手に従者が腰を屈め、丁寧に色を乗せる。
おかしなことだらけだ。バサルはもう一度、肩を竦める。どうして、視界を遮られているのに、手の色が薄くなったと分かるのだろうか。
と、その時、バサルの隣にいた神官が一歩、下がった。壁際に寄り、そのまま静かに大神官の方に向かう。
バサルは一瞬、軽く緊張した。その神官の様子がおかしかったのは気が付いていたが、もしや、害するつもりかと思ったのだ。
そういう輩から大神官を守るために、あの石の扉がある。だが、今、大神官は外だ。害する者にとっては好機でもある。
暗殺者か?
ならば、とバサルも身構えようとした時、その神官はすっ、と大神官の前を通り過ぎた。そして、何食わぬ顔で、大神官が目の前で止まってしまったために、頭を下げておかなければならない人達の間で同じように頭を垂れた。
神職選びを……受けないつもりか。
咎めるという気持ちより、へぇと言う気持ちが強かったのは否めない。おそらくその神官は、どうしても行きたい場所があるのだろう。神職選びでは自分の希望する場所には行けない可能性がある。よほど、今いる場所の居心地が良いのだろう。
神職選びを受けない場合は……逃げた場合はどうなるのだろうか。
気になったが、目の前に大神官が来た。とてとてと柔らかい靴の音がする。後ろに付き従う女性の足音は聞こえない。ローブの下から長いスカートを引きずりながら歩いている。
バサルが場に習い、頭を垂れる。
大神官の小さな手が大人のローブを揺らす。大神官が通り過ぎた後、失礼にならない程度のスピードで、さっと神官達が自分に付けられた色が何色か確かめている。
手を広げているように見えるのに、必ずローブに付く色は一色。これも不思議だ。
だが、少し、おかしなことが起こった。
バサルがん?と自分のローブに触れた手を見る。
大神官の手が握り込まれていた。
大神官は、バサルのローブを軽く丸めた拳で揺らして前を通り過ぎた。
バサルには色が付かなかった?
思ってもいないことで、さすがに周囲を見回す。だが、隣の者には黄色、緑とそれぞれ色が付いている。
一体……どういうことだろうか。
大神官が通り過ぎ頭を上げた。自分から離れていく筒を乗せた大神官を見つめる。だが、すぐに大神官は大人達に紛れて見えなくなった。
◇
夕刻になり、ようやく大神官はこの広間に集まった神官たちの行先を決めて壇上に戻った。
いくら神託を伝えることができると言えども、体は子供だ。とてとてと聞こえていた足音も聞こえなくなり、最後に壇上に戻る時は、従者の手を借りていた。
疲れるだけ疲れただろう。
だが、バサルは落ち着かない。一体、なぜ、自分に色が付かなかったのかわからないからだ。色が付かなかったと言う事は、行先が決まっていないと……神が言ったのだろうか。
「これにて、この度の神職選びは終わります。それぞれの行先に従い、後日、副神官の元を訪れるよう」
壇上で従者の女性が再び軽やかに声を上げる。疲れなど、微塵も感じさせない佇まいにバサルも感心する。大人が子供の速度で歩くのはひどく疲れると知っている。それも、従者の二人は大神官の後を追い、人混みの中を渡ったというのに疲れが見えない。神のご加護か何かだろうか。
立っていただけの神官達の方に疲れが見える。
行き場が決まった者から退出すればいいと思うが、実はこの後に二年に一度しか見られないものがあるために、神官達は今いる場所から動こうとはしない。
従者の一人が、大神官の頭に被せられていた筒に手をかけた。
神官達の間から微かなどよめきが走る。視線が大神官に注がれる。
この国を王に与えた初代大神官の生まれ変わり。
転生者。
自分達の目の前で奇跡を起こせることができる存在。
筒が取られた。ぷは、と言うように柔らかくうねった髪を振った少女はまだ幼く見えた。肌色は褐色がかっている。山に住む民だと聞いたことがある。アーモンド形の綺麗な目。長い睫毛に縁どられ、ひどく存在感がある。
目力がある。
その目が壇上から下に向けられる。神官の中には感極まり、膝をついている者までいる。
大神官の顔を見られるのは神官と王族のみ。いや、王族すら会う時は大神官はベールを被ると聞く。
神官にとって、奥まった神殿の奥で暮らす大神官は神に近い。
その神の御尊顔を間近で見られると言う名誉。
だが、バサルはその時、その大神官の手が、後ろに控えていた従者に伸びたのを見た。
従者がえ?と驚いたように伏せていた顔を上げるが、その時にはもう、大神官は黒の液体が入った瓶を鷲掴みにしていた。
大神官がその瓶を手に壇上から駆け下りた。わああっ?!と声を上げ、大神官に道を譲ろうとする神官と、何事だと惑う神官達で広間が騒がしくなる。大神官はその狼狽える大人達の間を走り、飛ぶ。
大神官、デュア・シュセリがバサルの方に走ってくる。さすがのバサルもどうしていいのか分からずに動けない。だが、もっと動けない者がいた。
神職選びを受けなかった神官だ。いつのまにか、その神官のローブには黄色が塗られていた。
大神官ははまっすぐその神官に向かい走った。広間にいる神官、二、三人は踏まれたかもしれない。だが、大神官は気にした様子はなかった。踏もうが蹴ろうが、知った事かと幼い顔に書いてある。
その顔にあるのは怒りだ。
大神官は、腰を抜かし床にへたり込んだ神官の前で立ち止まった。そして、八歳の子供が浮かべないような笑みを口端に浮かべて、自分よりもわずかに下になった神官の顔を眺めた。
「逃げ切れると思った?バッカじゃないの」
そう言い放ち……少女は、いや、大神官はその神官の頭から黒の液体をぶちまけた。
二年に一度行われる『神職選び』の為だ。こればかりは神職につくもの全てが対象になる。
老いも若きも。現在の位が高かろうが、低かろうが……。
皆、広間に集まり前方の大きな石造りの扉が開かれるのを今か今かと待つ。
その中に一人の青年がいた。
バサル・アデランテ。
この国でも珍しい銀髪の持ち主だった。癖のない長髪を一つにまとめ背中に流している。神職の制服でもある白のローブを纏うが、背が高く、どこかこの場にそぐわない雰囲気がある。顔立ちも整っていた。淡い灰色がかったグリーンの瞳。すっと通った鼻筋。唇がやや薄くどこか冷たい印象を与える。事実、あまり人と関りを持つタイプではない。
バサルは三年前に神官になった。二十一の時だ。神職に就きたいと願う者は普通十五、六で神殿に来ることが多いが、バサルは自分から願ってここに来たわけではない。
バサルは以前は王宮の騎士団に所属していた。
一応、貴族出のバサルは危険度が少ない部署に入れられたが、自分から前線で戦う事も多い部署に異動願を出した。
危険が伴う部署に配属されたいと願う人間自体が少ないため、バサルの届けはすぐに受理され、貴族の坊ちゃん達とは全く違う、血の気が多い輩が集まる部署に配属になった。
配属された当初は貴族だと言う事で突き回されたりもしたが、相手にすることもせず、淡々と仕事をこなすうちに、それなりに見る目も変わり、親しく接してくれる人間も現れた。
バサルが思っていた以上に、身内感覚で集まっていたらしい。一度、懐に入れてもらえれば自分の家よりも居心地が良かったのだが……。
義理の弟が騎士団に入りたいと言い出した。
バサルの人生がそこで変わった。成人しているとはいえ、貴族の家長である父親の命令は絶対で、義弟が入るなら、お前は出ろと簡単に言われた。
そして、父が溺愛する義弟の母親が何かを言ったらしい。
バサルはあっという間に神職に就くことが決まった。
ようするに家督争いが表面立つ前に、邪魔な存在は消しておこうという事なのだろう。一度、神職に就けばバサルが知る限り、その職を辞めたという事例は聞かない。
辞めさせられたという話は聞くが。
ぎしっと重い音がした。皆がそちらを振り返る。
神殿の奥に続く石でできた扉がゆっくりと押し広げられる。いや、本当に、一枚の扉を三人の神官が押して開いていく。
バサルもそちらを見た。バサルは扉から一番遠い広間の壁際にいたが、背が他の神官よりもある為、押し広げられていく扉の様子がよく見えた。
立体的な彫り物が浮かんだ扉がギシギシと音を立てて開いていく。この扉のおかげでこの神殿の奥には簡単に人が入れないようになっている。そして、この扉が開くのは二年に一度。もちろん、他にも表とつながる通路はあるのだろうが、この神殿の奥に住まう大神官を見ることができるのは普通、この時だけだ。
大神官 デュア・シュセリ。
大神官に選ばれた者は、選ばれた瞬間から、この国を神から王に授けた初代大神官の名前を名乗ることが決められている。
それまでどこで何をして暮らしていたか、なんという名前だったかなど関係しない。
大神官は転生者だ。大神官が亡くなれば、直ちに次の大神官を探すための部署が神殿の中に作られる。
開かれた扉の奥から三人の神官達が現れる。二人の背の高い女性に付き添われ、大神官が進み出る。ざわざわとしていた広間が静まり返る。新しく神殿に勤めることになった神官達は息を飲んで大神官を見つめる。
大神官の両手を引いていた女性達がゆっくりと手を放した。
女性達に挟まれるようにして歩いていた大神官がまっすぐ広間に向かい歩く。広間から幾分高い壇上で一度足を止め、両手を横に広げた。
神官が纏う白のローブは同じだが、その上に赤地に金と銀の刺繍が施された襟を着けている。
だが、衆目すべきはその頭部だろう。
頭部には筒が被せられていた。その筒には、この神殿の紋章が描かれている。バサルが見る限り、目の位置にも穴は開けられていない。視界が遮られている。呼吸すらしにくそうだ。
ざわりと広間が揺れ、そして、神官達が静かに頭を垂れる。
「神職選びを行います」
大神官の右手にいた女性が軽やかな声を発する。そして、左にいた女性が大神官の指に何かを塗る。
「黄は城、赤は軍、そして、緑は神です。今から大神官様がお渡りになります。各々、その場でお待ちください」
大神官の手が色で染められる。親指が赤。人差し指が黄。中指が緑。そして、女性は口にしなかったが、小指にも色があった。
黒。
神職選びで黒はクビを意味する。どこでどうやって分かるのか、何で調べているのか。神官でありながら、やはり自分の蓄えを肥やそうとする輩がいる。そういう者はどこにでもいるのだが、なぜか、大神官にはバレるらしい。ただ、それ以外にも理由はいろいろとあるらしい。
バサルは、ちらと自分の隣に立つ神官を横目で見た。ひどく……落ち着きがない。なるべく、なるべく目立たないようにしているのがバサルにはよくわかった。
逃げ出したい。
顔にそう書いてある。おそらく、やましい所があるのだろう。その神官はいつ自分の所に大神官が来るのか背伸びをしては様子を窺っている。
大神官は壇上から下り、一人で神官の間を歩いているらしい。その後ろに色の入った瓶を捧げ持つ背の高い女性の頭が神官越しに見える程度だ。
バサルから大神官は見えない。なぜなら大神官は八歳の少女だからだ。
三年前に大神官の生まれ変わりだと言われたのは、まだ、五歳の少女だった。それから、その少女はここで大神官として暮らしている。もちろん、神殿に入る前に親とは引き離された。親は自分の娘が、まだ五歳にしかならない娘が大神官の生まれ変わりだと聞いて、喜んだだろうか。悲しんだだろうか。
わあっと声を張り上げて泣き出す声が聞こえた。人の頭が揺れている。どうやら黒が出たらしいが、女性のようだ。何かを叫び、そして、また人が揺れる。それを聞いた隣の神官の顔色がさらに悪くなる。しばらくすると、両腕を男の神官に支えられた女性が、泣きじゃくりながら広間から出された。
女性のちょうど腰のあたりにべたりと黒がつけられていた。
大神官の手はそこまでしか届かない。おいおい、なぜ、この女性が黒を付けられたのかは噂で聞くだろう。神職選びは騒ぎなど気にした様子もなく、続けられているらしい。
五百人の神官の勤め先を、一人の少女が筒を被せられたまま決めていくのだ。だが、視界もおぼつかないだろうに、大神官は人の間をすいすいと……そう、渡っていく。
再び、黒が出たらしい。だが、今度は喜びの声が上がり、大神官に感謝を述べる声が聞こえた。その声を聞き、バサルは軽く肩を竦めた。神職を離れる時、喜ぶのは伴侶ができた時だけ。神職といえども、やはり人を好きになる事がある。神殿は恋愛を禁じているわけではないが、やはり風紀を乱すと喜ばれることではなく、一緒になる覚悟ができれば神職を辞すのが妥当。だが、勝手にはやめられない。辞めるためにも、この神職選びを受けなければならないのだ。
本当に、不思議だ。
なぜ、神殿の奥で暮らす大神官が、ただの神官の恋愛沙汰など知ることができるのだろうか。
人の動きが大きくなってきた。人の間から付き添う若い女性の姿が見える。付き添う二人の神官は同じ顔をしていた。双子なのだろう。どちらも細面で綺麗な顔立ちで、長い髪を結い上げている。二人共白のローブに遠目には分からなかったが、白の襟を身に着けていた。その襟には銀で刺繍が施してある。おそらく大神官付きの従者の印なのだろう。
ひょいと人が割れた。白のローブの隙間から赤い襟を着けた大神官が現れる。
思ってもならない事だろうが、やはり、どこが異質だ。子供の体に筒を被せ、わざと視界を遮っているようにバサルには見える。そして、この子供が大人達に色を付けて回る。
鬼ごっこのようだな。
だが、それが神託ともなれば……おかしな話だとバサルは思う。
色が薄くなったのか、大神官の足が止まり、後ろに手を出した。その手に従者が腰を屈め、丁寧に色を乗せる。
おかしなことだらけだ。バサルはもう一度、肩を竦める。どうして、視界を遮られているのに、手の色が薄くなったと分かるのだろうか。
と、その時、バサルの隣にいた神官が一歩、下がった。壁際に寄り、そのまま静かに大神官の方に向かう。
バサルは一瞬、軽く緊張した。その神官の様子がおかしかったのは気が付いていたが、もしや、害するつもりかと思ったのだ。
そういう輩から大神官を守るために、あの石の扉がある。だが、今、大神官は外だ。害する者にとっては好機でもある。
暗殺者か?
ならば、とバサルも身構えようとした時、その神官はすっ、と大神官の前を通り過ぎた。そして、何食わぬ顔で、大神官が目の前で止まってしまったために、頭を下げておかなければならない人達の間で同じように頭を垂れた。
神職選びを……受けないつもりか。
咎めるという気持ちより、へぇと言う気持ちが強かったのは否めない。おそらくその神官は、どうしても行きたい場所があるのだろう。神職選びでは自分の希望する場所には行けない可能性がある。よほど、今いる場所の居心地が良いのだろう。
神職選びを受けない場合は……逃げた場合はどうなるのだろうか。
気になったが、目の前に大神官が来た。とてとてと柔らかい靴の音がする。後ろに付き従う女性の足音は聞こえない。ローブの下から長いスカートを引きずりながら歩いている。
バサルが場に習い、頭を垂れる。
大神官の小さな手が大人のローブを揺らす。大神官が通り過ぎた後、失礼にならない程度のスピードで、さっと神官達が自分に付けられた色が何色か確かめている。
手を広げているように見えるのに、必ずローブに付く色は一色。これも不思議だ。
だが、少し、おかしなことが起こった。
バサルがん?と自分のローブに触れた手を見る。
大神官の手が握り込まれていた。
大神官は、バサルのローブを軽く丸めた拳で揺らして前を通り過ぎた。
バサルには色が付かなかった?
思ってもいないことで、さすがに周囲を見回す。だが、隣の者には黄色、緑とそれぞれ色が付いている。
一体……どういうことだろうか。
大神官が通り過ぎ頭を上げた。自分から離れていく筒を乗せた大神官を見つめる。だが、すぐに大神官は大人達に紛れて見えなくなった。
◇
夕刻になり、ようやく大神官はこの広間に集まった神官たちの行先を決めて壇上に戻った。
いくら神託を伝えることができると言えども、体は子供だ。とてとてと聞こえていた足音も聞こえなくなり、最後に壇上に戻る時は、従者の手を借りていた。
疲れるだけ疲れただろう。
だが、バサルは落ち着かない。一体、なぜ、自分に色が付かなかったのかわからないからだ。色が付かなかったと言う事は、行先が決まっていないと……神が言ったのだろうか。
「これにて、この度の神職選びは終わります。それぞれの行先に従い、後日、副神官の元を訪れるよう」
壇上で従者の女性が再び軽やかに声を上げる。疲れなど、微塵も感じさせない佇まいにバサルも感心する。大人が子供の速度で歩くのはひどく疲れると知っている。それも、従者の二人は大神官の後を追い、人混みの中を渡ったというのに疲れが見えない。神のご加護か何かだろうか。
立っていただけの神官達の方に疲れが見える。
行き場が決まった者から退出すればいいと思うが、実はこの後に二年に一度しか見られないものがあるために、神官達は今いる場所から動こうとはしない。
従者の一人が、大神官の頭に被せられていた筒に手をかけた。
神官達の間から微かなどよめきが走る。視線が大神官に注がれる。
この国を王に与えた初代大神官の生まれ変わり。
転生者。
自分達の目の前で奇跡を起こせることができる存在。
筒が取られた。ぷは、と言うように柔らかくうねった髪を振った少女はまだ幼く見えた。肌色は褐色がかっている。山に住む民だと聞いたことがある。アーモンド形の綺麗な目。長い睫毛に縁どられ、ひどく存在感がある。
目力がある。
その目が壇上から下に向けられる。神官の中には感極まり、膝をついている者までいる。
大神官の顔を見られるのは神官と王族のみ。いや、王族すら会う時は大神官はベールを被ると聞く。
神官にとって、奥まった神殿の奥で暮らす大神官は神に近い。
その神の御尊顔を間近で見られると言う名誉。
だが、バサルはその時、その大神官の手が、後ろに控えていた従者に伸びたのを見た。
従者がえ?と驚いたように伏せていた顔を上げるが、その時にはもう、大神官は黒の液体が入った瓶を鷲掴みにしていた。
大神官がその瓶を手に壇上から駆け下りた。わああっ?!と声を上げ、大神官に道を譲ろうとする神官と、何事だと惑う神官達で広間が騒がしくなる。大神官はその狼狽える大人達の間を走り、飛ぶ。
大神官、デュア・シュセリがバサルの方に走ってくる。さすがのバサルもどうしていいのか分からずに動けない。だが、もっと動けない者がいた。
神職選びを受けなかった神官だ。いつのまにか、その神官のローブには黄色が塗られていた。
大神官ははまっすぐその神官に向かい走った。広間にいる神官、二、三人は踏まれたかもしれない。だが、大神官は気にした様子はなかった。踏もうが蹴ろうが、知った事かと幼い顔に書いてある。
その顔にあるのは怒りだ。
大神官は、腰を抜かし床にへたり込んだ神官の前で立ち止まった。そして、八歳の子供が浮かべないような笑みを口端に浮かべて、自分よりもわずかに下になった神官の顔を眺めた。
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そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
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