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第一部
第一章 奥神殿 ~大神官が住まう場所~
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大騒ぎになった。当たり前だ。
大神官ともあろう者が腰を抜かした神官に黒の液体をぶちまけたのだ。
悲鳴が上がり、怒声も響いた。
壇上から大神官を呼ぶ声が聞こえるが、さすがにバサルからも見えない。部屋のどこかの扉が開き、神殿を守る警備の者達も飛び込んでくるが、元からこの大広間は人で溢れかえっている。
危ない。
一つ、扉が開けばそこから出ようとする人間がいる。一人が逃げれば、あとはもうなし崩しになるだろう。
誰が一番危ない?
大神官デュア・シュセリだ。
大神官と言えども、体は子供だ。人の波にもまれれば、下手をしたら死んでしまう。
大神官は頭からローブまで真っ黒に染まった男の前で仁王立ちしている。自分の柔らかい靴が黒く染まるのも気にしていない。
逃げ切れると思ったのと言った。なら、この大神官はこの男が神職選びを受けずに逃げたことに気が付いていた。
だが、大神官の他に……いや、大神官本人自身も目では見てはいないはずだ。
誰も、この男が神職選びを受けなかったという事に気が付いていない。知らない。バサル以外は。
「失礼いたします」
バサルは一度軽く頭を下げると、大神官の側に歩み寄った。大神官が反応するよりも先に、その小さな体を肩に担ぎ上げる。
「え?」
「きゃーっ?!」
今度は明らかに女性の悲鳴が上がった。当たり前だ。この国の神職の中で一番高い位の人間を、神官が肩に担ぎ上げたのだから。
だが、バサルは気にしなかった。扉に向かおうと、もう人の流れができてしまっている。その流れから離れるように壁に沿い人の間を抜ける。
バサルの目の前で刺繍が施された可愛い靴がぽんぽんと跳ね、跳ねるたびに黒い飛沫が飛び散る。
おそらく染料の一種だろうが、勿体ないがこの靴は使えないだろう。
不思議な事に、肩に担ぎ上げられている本人からは悲鳴の一つも出なかった。あれだけ、気性の荒い少女なら、何をしているの!と怒鳴り散らかしてもおかしくないと思うのに。
「デュア様っ!」
「こちらにっ!」
壇上で双子の従者が警備の者に守られて大神官を待っていた。壇上から下りることすらできなかったらしい。二人共、真っ青な顔でバサルの肩に手を伸ばしてくる。
「もしよろしければ、このまま」
ここで、大神官を下ろしてという手間をバサルは省きたかった。大広間はもはや手が付けられる状態ではない。怪我をしている者がいてもおかしくない。まるで戦場のようだ。
騒ぎから離れた方がいい。
バサルの考えに気が付いたのか、瓶の入った籠を持っていた従者が石の扉に先に飛び込んだ。バサルの腕にもう一人の従者が手をかけ、何かを言う。
呪文?
聴き取れはしなかったが、なにかまじないの様なものがその従者の口からこぼれて、バサルを包んだ気がする。
「いらして」
本来なら、バサルのような者が、立ち入ることすら許されない場所だろう。だが、今は、そんな事を言っている場合ではない。
バサルは石の扉に向かい軽く頭を下げると、大神官デュア・シュセリを肩に担いだまま、中に飛び込んだ。
◇
石の扉は広間の方から警備の者が閉めたらしい。騒ぎがどんどん小さくなり、しまいには聞こえなくなった。だが、不思議だったのは、バサルたちは扉から離れていくはずなのに、振り向くたびにバサルの後ろに石の扉があるのだ。
なにかのまじないか。
バサルの後ろに一人の従者がいる。長いスカートをたくし上げ、必死な顔でバサルについてくる。その足の速さにもバサルは驚いた。
バサルも必死だ。女性が追い付けるとは思ってもいなかった。バサルは身体能力が優れている。騎士団にいた頃も、足の速さでは負け知らずだった。
そのバサルと同じ速度で走れる女性。こんな女性がいたとは。
「……なに、か」
バサルの視線に気が付いたのか、切れ切れになりながらも従者が聞いてきた。さすがに息は荒い。バサルはいや、と首を横に振った。
今はとにかくこのトンネルのような通路を抜けるのが先だ。
ようやく先に光が見えてきた。そこで初めてバサルは通路が暗かったことに気が付いた。だが、自分は従者の顔まで見えていたのに?いや、通路は見えていた、か?
先に飛び込んだ従者が待っていた。その横に飛び出す。さすがにバサルの息も上がる。追いかけてきた従者を待っていた従者が抱きとめた。
「大丈夫っ?!」
「も、っ死にっそ……」
それだけ言うと、そのまま膝から崩れ落ちる。その体をもう一人が支えながら、バサルを見た。
「大丈夫でございましたか?」
バサルは大丈夫だが、いろいろと大丈夫じゃないことだらけではないだろうか。
バサルが肩に担ぎ上げていた大神官をそっと下ろす。地面に……そう驚くことに、石の扉から続く通路は何か庭らしき場所に出た。
柔らかい草の上に片膝をつき、軽い体を滑らせるようにして膝に乗せ……。
「まぁ……」
バサルが堪えきれずに肩を揺らして思わず笑った。どうやら、バサルの肩は居心地が良かったらしい。まぁ、大神官は相当お疲れだっただろうが。
揺らされるだけ揺らされたからか、口から涎を垂らし、くか~と気持ちよさそうに寝ていた。
◇
神殿の奥に大神官の住む神殿があるとは聞いていたが、その神殿の規模はバサルの想像を超えた。
ほとんど、表の神殿と変わらないほどの広さと建物がある。バサルは従者達に頼まれて、大神官をその建物の中に運び入れることになった。
が。
「お待ちください」
神殿の入り口で杖を突いた老婆に取っ捕まった。相当な年寄であろうことは縮んだ背丈からも計り知れるが、さらに迫力が桁違いだ。大神官御付きの従者達さえ、見つかったと言う顔をしている。
老婆は神官が着るローブを身に付けてはいなかった。白の簡素なワンピースを身に着け、バサルが見たことがない刺繍を施した飾り帯を腰に巻いている。その帯に巾着袋が三つ。変わったいでたちだ。足元は編み上げのサンダルだった。市井の者達と同じだ。
「マヌーサ……」
「あの、デュア様が寝ていらして」
寝ていようが何だろうが、ここは一歩も通さないという顔だ。なぜだろうとバサルがマヌーサと呼ばれた老婆を見下ろすと、マヌーサが手にしていた杖を上げ、こつ、と大神官が履いている靴を小突いた。
「汚されたらたまらんです。どうか、外の東屋にお運びください」
言い方は丁寧だが、頑固な所がある。神殿を汚されてたまるかという顔だ。従者達があら~と口元を手で押さえ、そう言えばとバサルを見た。
「跳ねましたわね」
「御髪も……お顔も」
跳ねたと言われ、何がと思ったが、そう言えば、走っている最中、ぽんぽんと大神官が履いていた靴から黒い飛沫が跳んでいたことを思い出す。
気が付かなかったが、今、自分は一体どんな有様なんだろうか。
マヌーサが、ずいと大神官の靴に寄り、勿体ないとぶつくさ言った後、じろりとバサルを見上げて顔を顰めた。
「まさか、あれですか」
マヌーサの低い声に従者達が小さな声でそうですと答える。
マヌーサはふかーいふかーい溜息を吐いた。
◇
湯殿を使えとマヌーサに言われた。あまりに恐れ多く、心の底からご辞退したが、従者達も絶対に入った方が良いと言う。
「自然に取れるのは二年後です。そういう染料を使ってるので、間違って零してしまった時には、特殊な液体を使います」
マヌーサが腰にぶら下げたポーチから小さな鏡を取り出し、バサルに渡した。バサルが鏡の中の自分の顔を見て、さすがに絶句する。
これは……ちょっとひどい。
顔中というより、上半身のいたるところにに黒の飛沫が散っている状態だ。大神官を抱えていた方の脇腹には靴で擦るだけ擦られた跡も残っている。
もったいないが、このローブはもう、使えないだろう。
新しいローブを支給してもらえるかどうか、直属の副神官に聞いてみなくてはいけないが……。
思わず顔を撫でてしまい、従者の一人が短い悲鳴を上げる。やった後にバサルも気が付き、手を見る。まだ、乾いていなかった飛沫があったのだろう。もう一人の従者は堪えきれずに吹き出した。
髭ができたな。
バサルが深い溜息を吐き立ち上がるとマヌーサが、ついておいでと言うように歩き出した。
どうやら、神殿と神殿の間に向かっているらしい。
道すがら何かあったかマヌーサが聞いてくる。本来なら、しかるべき立場の人間に先に伝えた方が良いと思ったが、一体、誰に伝えればいいのかもわからないことに気が付いた。
大神官がやらかしたことだ。
神職の一番偉い人間がやらかしたことを、誰に報告しろと?大神官に物が言えるのは国王ぐらいじゃないだろうか。
考え込んだバサルにマヌーサが、ふんと鼻を鳴らす。どうやら、口は固いと思われたらしい。そのまま黙って二人で歩いていくと、建物の裏に出た。
白い石に縁どられた池がある。
「そこに潜りな」
「ここに、ですか?」
さすがに聞き返した。
バサルがどう言おうかとマヌーサを見下ろすと、なんだ?と顔を顰めたマヌーサに杖で足を小突かれた。
「ここに、潜るんですか?」
もう一度、聞く。池の広さはバサルが両手を伸ばしたぐらいだろう。だが、底が見えるほど浅い。
ここに潜れ?
浸かる事すらできないのでは?ともう一度、池を見る。だが、再び、足を小突かれた。
「とっとと、おし!私は、この後、デュア様の世話もあるんだよ!」
とっとと……。バサルはマヌーサと池を見比べて、その池に膝を抱えて座り込む間抜けな自分を想像した。何か、この老婆は言葉を間違えているんだろうか。
「入れば、よろしいんですね?」
「潜れってんだろ」
頑固だ。それでも、ふぅとバサルは溜息を吐くと、サンダルを脱いだ。そのまま足先を池につけようとして、ぐいとローブを引っ張られた。
「服着たまま潜る気かい」
「脱げと?!」
まさか、裸でこの池に浸かれと?!さすがにバサルも声が大きくなる。だが、マヌーサはいたって真面目と言うか、不機嫌だ。
「んな、びろびろしたもん、着てりゃ、潜っている間に溺れるわ」
ふと、マヌーサの言葉に本当の事かと気が付いた。
バサルがもう一度、池を見る。白い石で縁どられた池。水の中には魚は何か生き物がいる気配がない。
これだけ、緑豊かな場所にある池なのにか。
水草すらないことに気が付いた。池によくある苔すら見当たらない。
マヌーサがようやく気が付いたかと、池に近寄ると巾着袋からさらに小さな袋を出した。その中に指を突っ込むと指先が黒に染まった。
その指先を池の周りを縁どっていた白い石の一つにちょんとつける。
池に何か起こるという感じではなかった。
「さ、入んな」
もう、いいだろうとマヌーサが言う。なるほど……これがバサルの体中に飛び散った黒の染料を取るための液体というものなのだろう。
バサルはそれでもちらと隣に立つマヌーサを見下ろした。この老婆は立ち去る気配がない。バサルが潜るまでいる気だろう。と言う事は、この老婆の前で服を脱ぐのか。
ままよと腰に巻いてあった帯を取り、そのままローブを肩から落とす。中は下履きだけだ。寒くなればもう少し厚手の物を身に着けるが、今は気候が良くこれで十分良かった。あっという間に上半身裸になった。
マヌーサが横目でちらりとバサルを見上げ、笛を吹くような形に口を尖らせた。だが、その目がなんとういうか、家畜の値段を決めているような目でうんざりする。
「ん」
杖でまた小突かれた。下履きまで脱げと言われたら、どうしたものかと思っていたが、さすがに脱げとは言われずにほっとする。
幾度も見るが池は浅い。足先を付けて見るが、思っていたよりも冷たくない。いや……温かい?
「湯殿から湯を引いてる」
ありがたく思えと言わんばかりだ。冷水に飛び込むつもりだったバサルが少しほっとする。が、次の瞬間、蹴られた。
「うわっ?!」
思った以上の脚力だった。これだけの力で蹴れるなら杖などいらないんじゃ?!と池に落ちながら思ったが、そのまま飛び込んでしまった。
飛び込んだ。
一度、頭まで沈み、慌てて浮き上がる。縁の石に手をかけ、池の底を見るが……。
池の底からバサルの上半身が生えている。
これも、まじないか!
「トロトロすんじゃない」
こつ、と今度は軽く頭を小突かれた。痛みはないがバサルがむっとしてマヌーサを見上げると、マヌーサはようやくにやりと笑った。皺だらけの顔で笑われると、それも不気味だ。
「潜れと言ったんだ。飛び込めとは言っていない」
「……飛び込んだんじゃない。落とされたんだ」
ぶすっと口答えをしたバサルにマヌーサがにやにやしながら杖で池を指す。
「潜れば道がある。そこを抜ければ湯殿に出る。アイが着替えを持って行ってるはずだ」
アイ?初めて聞く名に誰だ?と首を傾げると、さっきまで一緒にいただろうがと言われる。あの大神官に付き添っていた従者のどちらかなのだろう。
潜ろうとして、ふと思った。
「泳げない者はどうするんだ?」
湯殿はなしだ、と事も無げにマヌーサは答えた。
◇
思っていた以上に奥の神殿はまじないが溢れている。バサルはマヌーサが言うように浅く見えた池に潜り、思っていたよりも池が深いことに気が付いた。それに温かい。道があると言ったが……と探そうとして、すでにぽかりと池とは違う光の輪が水面に見えた。
そこに向かい泳ぐ。なるほど、泳げなければ、これは厳しいかもしれない。泳ぐと言うより潜りだが。
「ぷっは」
水面に出て、そこか湿気が溜まっている室内だと気が付いた。湯殿だろう。
濡れた髪をかき上げ、ふと気が付く。頑固そうに見えた黒の飛沫が綺麗に消えている。掌の汚れも綺麗になっていた。マヌーサがあの池の石に似たような色を付けていたのを思い出す。ああすることで、あの池の水は汚れを落とす液体に変わるのだろう。
だが、もし、あの池を使わせてもらえなければ?
頭から真っ黒になった神官を思い出す。自然に落ちるのは二年後だと言ったか。おそらく、他の神官達のローブに付いた色も二年は落ちないのだろう。
次の神職選びの時まで。
自分のはどうだったかとぼんやりと思う。前回、神職選びの時は緑だった。その後、神殿付の副神官の元に集められ、バサルは神殿の書庫の担当になった。古い書籍が所狭しと積んである。書籍を傷めないための薄暗い部屋は自分がいた騎士団とは大きく違い……朝が来るたび憂鬱だった。
色が付けられたローブの事など……あまり気にもしなかった。
バサルが湯から上がろうと扉が見える方に向かい泳ごうとすると、足がついた。ん?と足下をみるといつの間にか石が敷き詰められている。恐る恐る立ち上がると、深いと思っていた湯船はバサルの太腿のあたりぐらいだった。
この深さで泳いでいたのか……。
誰が見ていたわけでもないが、何か気恥ずかしく、ふぅと息を再び吐く。
本当に、まじないが溢れている。これは大神官の力か、神の力か。
「あの~」
扉の向こうから声がした。先程、マヌーサが言っていた従者のどちらかのアイだろう。
「無事におつきになられました?色は取れました?」
大神官付きの従者というのに偉そうなところがない。マヌーサもだが、あまり身分にこだわっていないように見える。貴族、騎士団、神殿と環境がそれぞれ違う場所にいたが、やはり見えるものではないが、身分の差は確かにあった。位の高いものほど礼儀を求める。バサルも自然とそうしていただろう。
「あの~」
いろんなことがありバサルも少しぼんやりしていた。アイに声を掛けられているのに返事を返しそびれた。アイの方に向かおうと湯を蹴る。湯を蹴り……何かがおかしいと気が付いた。
その時、とうとう心配になったのか扉がそっと開く。隙間からひょこっとやはり先程の従者のどちらかが顔を出し……。
「……あ」
アイが固まった。赤くなった後、さぁっと青くなる。バサルも自分の下肢を見て、しまったと慌てて湯に浸かる。
潜った時にだろう。着けていたはずの下履きがなくなっていた。
「申し、わけない……」
大神官付きの従者の前で……なんたる粗相を。バサルも顔を手で覆う。アイは返事もできずに固まったまま、ぎこちなく扉を閉め……。
「お着換え!こちらに置いておきますっ!」
そう甲高い……いや、ひっくり返った声で叫ぶと、そのまま「きゃーっ!」と悲鳴を上げながらどこかへ走って行った。
バサルもしばらく動けなかった。
◇
さすがにのぼせた。あまり湯に浸かる習慣がないから仕方がないが、湯殿から出てしばらくは動けなかった。着替えが入った籠の横に水差しがあることに気が付き、ありがたくそれをいただく。
ふわんと花の香りがした。
火照った体に心地よく、飲み干してようやくほっとした。
濡れた体を手拭いで拭い、出された着替えを見て……おやと思った。
神官が着るローブではない。
久しぶりにズボンを見た。神殿に来て身に着けることもなかった。神殿に来た頃はローブの下は下履きだけという格好に慣れず、落ち着かなかった。女性の格好のようだとどこかで思っていたからだろう。
ズボンにシャツ。
これを着て……いいのか。
籠の脇には池で脱いだサンダルもある。そういえば、下履きは……。もしかして、マヌーサの目の前に浮かんだかもしれない下履きを想像し、額を押さえるしかない。回収するのも嫌だ。マヌーサに下履きの事を聞くのも嫌だ。
何事もなかったことにしよう。
そう決め、三年ぶりにズボンを身に着ける。ズボンを履くだけでやはり落ち着く。やはり、自分は神官には向いていないと心から思う。シャツを着て、細い革ひもを締める。
濡れた髪をどうしようかと考えたが、まあいいかと解いたままサンダルを履く。
その時、パタパタと誰かが走ってくる音がした。その音を聞いてバサルが固まる。まさか、アイが再び来たのだろうか。
謝らなければならないだろう。若い女性に大変に失礼な事をした。
「あ、よかった!」
思っていたより結構、勢いよく扉が開いた。扉の向こうにはやはりアイがいたが……考えてみれば、双子の片方がアイという名前だと教えてもらっただけで、バサルにはどちらがアイかわからない。
だが、どうも、先程のアイとは違うようだ。すたすたと入ってくると、てきぱきと濡れた手拭いと水差しを手に取り、にこりとバサルに笑いかけた。
「ごめんなさいね。あの子ったら案内まで頼まれていたのに、ほっぽりだしちゃって」
そうか……そう言えば、着替えた後どうすればいいのか聞いていなかった。
「アイ殿は……」
大丈夫だっただろうか……と恐る恐る聞くと、目の前の女性がきょとんとした。
「なんでしょう」
「いや、先程のアイ殿は……」
「……あ、ああ!」
そうか!ともう一度、女性が頷き、にこりと笑った。
「私もアイなんです」
双子の名前が……二人共、『アイ』?バサルは目を丸くした。
◇
庭の東屋に案内された。道すがらアイが自分達二人共『アイ』と呼ばれていると教えてくれる。マヌーサが面倒だということで、同じ名前を付けたらしい。二人いようが、一人だろうが『アイ』と呼ぶだけで事が足りると言う事なのだろう。
だが、それでいいのだろうか……とバサルが思う。用事を言いつける側はそれで事は足るのだろうが、個人的に話がしたい時はどうすればいいのだろう。
「ですが、お名前はあるのでしょう?」
バサルが聞くと、アイは少し眉を寄せた。何か言いづらいことがあると言う顔だ。
「大神官様がいらっしゃいますので」
あ、と思う。そうだった。大神官は選ばれた瞬間から生まれた時からつけられていた名前を捨て、『デュア・シュセリ』と名乗ることになる。
本当の名前など、ここでは必要ではない。
そうか、と考え込んでしまったバサルにアイがちらと視線を向けた。そして、どうしようかとしばらく考えていたようだったが、自分の右手首に嵌められた細いブレスレットを差し出した。
「右にこれをしている者が、大神官様の右に立ちます。そうですねぇ……私の事はアイルとでも」
それならば、先程のアイの左にも同じブレスレットがあるのだろう。
「マヌーサ様の前では、アイですよ」
念を押されたが、気を付けます、としか言いようがなかった。どうも、自分はあの老婆に弱い気がする。そのうちバレる気もするが、まあ、いいだろう。
しばらく二人で柔らかい草を歩いていると、先程、大神官を運んだ東屋が見えてきた。
そこに三人の人影が見える。マヌーサとアイ。そして、一番奥で何かを飲んでいる少女が……。
大神官 デュア・シュセリ。
バサルは東屋に入る前に片膝を地面に付き、改めて挨拶をした。
◇
入っていいと慇懃に言ったのはマヌーサだった。別に位がどうのこうのと言うわけではなく、ただ単にバサルが綺麗になったどうか見て分かったからだろう。
大神官も着替えていた。
どこか不貞腐れた顔で木でできたカップから何か飲んでいる。その隣にいたアイが、全くバサルを見ようとはせずに、同じ木のカップを出してくれた。
同じテーブルにつけという事なのだろうか。
さすがに不敬じゃないだろうかとマヌーサを見ると、顔を顰めて座れと顎で言われた。
しかも、大神官の前にだ。
アイルに助けを求めようと視線を向けるが、アイルはアイの様子がおかしいことを心配して、さっさとアイの隣に腰を下ろしてしまう。
本当に同じ顔に見える。
双子でも、ここまで同じ顔になるのだろうか。顔を手で隠しているアイの左手首にやはりブレスレットがあった。
「座ってくれない?」
幼い声が聞こえ、一瞬、誰だろうか思った。視線を落とすとぶすっとした顔で飲み物を口にしていた大神官が見上げている。
「首が痛くなるの」
恐れ多くも大神官を頭の上から見ろしていたことにようやく気が付き、慌てて椅子に腰かける。どうも、勝手が違う。自分の屋敷でも、騎士団でも、神殿でもこんなことはなかった。
身分の高い者と従者が同じテーブルにつくなど聞いたこともない。
居心地が悪い事、この上ない。さらになぜ、自分がここにいなければならないのかもわからない。いや、聞かねばならないことはあるのだが、こんな場所で聞いていいのかどうか。
アイルがどうぞとカップを勧めてくれる。マヌーサの前にもある。同じ飲み物なのだろう。
飲まなければ、飲まないで失礼か。バサルは軽く頭を下げると、カップに口を付けた。口を付ける前に先程、湯殿で飲んだ物と同じ花の香りがする。ここでは、飲み物と言えばこれなのだろう。
しばらく誰も口を開かなかった。思っていたよりも近くにある岩山から涼しい風が吹き抜ける。バサルの銀糸の髪が乾いたのか風で舞う。バサルは失礼と断り、手早く三つ編みにし、左肩から前に垂らした。マヌーサが巾着袋から見覚えのあるリボンを渡してくれる。バサルが池に入る前に髪を結んでいたものだ。やはり、池の方に浮いたらしい。
なら、と思うが、あえて、それは聞かない。マヌーサも知らんぷりをしている。それを好意と取り、バサルも黙る。
下履きは行方知れずだ。そういう事にしておこう。
なるべくゆっくりとカップの中身を飲んだ。他の四人も口を開かない。
一体、どうすればいいのだろうか。
何か言うべきか、帰るべきか……。バサルが心の底から悩み始めた時、こんどはバタバタと誰かが駆けてくる音がした。
◇
複数人がやってきた。全て神官だ。
神官は東屋の前に跪き、長々と何か口上を述べている。一体、なんだ?とバサルが眺めるが、どうやら神官達は先程までバサルも神官の姿をしていたことに気が付いていない。当たり前だ。おそらく、誰もバサルが神官だと思わないだろう。
服装一つで本当に変わるものだ。
マヌーサが立ち上がった。アイがお一人で大丈夫ですか?と声を掛けるが、マヌーサは肩をふんと揺らしただけで返事をしなかった。マヌーサを先頭に立たせ、神官達がぞろぞろと後をついて行く。後ろに並んでいた神官達の手に桶があったのを見て、あの池に行くのだろうと気が付いた。
「今から、お掃除ですよ~」
アイがお気の毒にと言う顔で神官達を見送る。もう、夜も近い。だが、おそらく大広間自体が大惨事になっているだろう。
「デュア様」
今度は一人の老人が現れた。白のローブに薄紫色の襟を着けている。
バサルはさすがに今度は立ち上がり、膝をついた。
神殿を大神官の代わりに取り仕切っている神官長だ。普段はこの神官長が実質、神殿を、神職を取り仕切る。
神官長 ソロ・ボツウル。
バサルの上司でもある。神官長は少し息を弾ませながら、おやと言う顔でバサルを見て、肩に手を置いた。略式だが、挨拶を受けたという印だ。
バサルが立ち上がると、自分よりだいぶ背が高いという驚いた目でバサルを見上げ、そして、にこっと笑った。
「よく、デュア様をお守りした」
まさか、神官長から直々にお褒めの言葉頂くとは思っていなかった。思わず右手を胸に当てる騎士団の礼の恰好をしてしまったが、慌てて両手を重ねる格好に変える。
神官が礼を述べる時はローブの長い袖の中で両手を重ねる。
どうも、身に付かなかったのが、ここでばれてしまった。
アイルがくっと笑い、アイがくふと笑う。ちらりと大神官を見れば、大神官は大きな欠伸をした。
大神官ともあろう者が腰を抜かした神官に黒の液体をぶちまけたのだ。
悲鳴が上がり、怒声も響いた。
壇上から大神官を呼ぶ声が聞こえるが、さすがにバサルからも見えない。部屋のどこかの扉が開き、神殿を守る警備の者達も飛び込んでくるが、元からこの大広間は人で溢れかえっている。
危ない。
一つ、扉が開けばそこから出ようとする人間がいる。一人が逃げれば、あとはもうなし崩しになるだろう。
誰が一番危ない?
大神官デュア・シュセリだ。
大神官と言えども、体は子供だ。人の波にもまれれば、下手をしたら死んでしまう。
大神官は頭からローブまで真っ黒に染まった男の前で仁王立ちしている。自分の柔らかい靴が黒く染まるのも気にしていない。
逃げ切れると思ったのと言った。なら、この大神官はこの男が神職選びを受けずに逃げたことに気が付いていた。
だが、大神官の他に……いや、大神官本人自身も目では見てはいないはずだ。
誰も、この男が神職選びを受けなかったという事に気が付いていない。知らない。バサル以外は。
「失礼いたします」
バサルは一度軽く頭を下げると、大神官の側に歩み寄った。大神官が反応するよりも先に、その小さな体を肩に担ぎ上げる。
「え?」
「きゃーっ?!」
今度は明らかに女性の悲鳴が上がった。当たり前だ。この国の神職の中で一番高い位の人間を、神官が肩に担ぎ上げたのだから。
だが、バサルは気にしなかった。扉に向かおうと、もう人の流れができてしまっている。その流れから離れるように壁に沿い人の間を抜ける。
バサルの目の前で刺繍が施された可愛い靴がぽんぽんと跳ね、跳ねるたびに黒い飛沫が飛び散る。
おそらく染料の一種だろうが、勿体ないがこの靴は使えないだろう。
不思議な事に、肩に担ぎ上げられている本人からは悲鳴の一つも出なかった。あれだけ、気性の荒い少女なら、何をしているの!と怒鳴り散らかしてもおかしくないと思うのに。
「デュア様っ!」
「こちらにっ!」
壇上で双子の従者が警備の者に守られて大神官を待っていた。壇上から下りることすらできなかったらしい。二人共、真っ青な顔でバサルの肩に手を伸ばしてくる。
「もしよろしければ、このまま」
ここで、大神官を下ろしてという手間をバサルは省きたかった。大広間はもはや手が付けられる状態ではない。怪我をしている者がいてもおかしくない。まるで戦場のようだ。
騒ぎから離れた方がいい。
バサルの考えに気が付いたのか、瓶の入った籠を持っていた従者が石の扉に先に飛び込んだ。バサルの腕にもう一人の従者が手をかけ、何かを言う。
呪文?
聴き取れはしなかったが、なにかまじないの様なものがその従者の口からこぼれて、バサルを包んだ気がする。
「いらして」
本来なら、バサルのような者が、立ち入ることすら許されない場所だろう。だが、今は、そんな事を言っている場合ではない。
バサルは石の扉に向かい軽く頭を下げると、大神官デュア・シュセリを肩に担いだまま、中に飛び込んだ。
◇
石の扉は広間の方から警備の者が閉めたらしい。騒ぎがどんどん小さくなり、しまいには聞こえなくなった。だが、不思議だったのは、バサルたちは扉から離れていくはずなのに、振り向くたびにバサルの後ろに石の扉があるのだ。
なにかのまじないか。
バサルの後ろに一人の従者がいる。長いスカートをたくし上げ、必死な顔でバサルについてくる。その足の速さにもバサルは驚いた。
バサルも必死だ。女性が追い付けるとは思ってもいなかった。バサルは身体能力が優れている。騎士団にいた頃も、足の速さでは負け知らずだった。
そのバサルと同じ速度で走れる女性。こんな女性がいたとは。
「……なに、か」
バサルの視線に気が付いたのか、切れ切れになりながらも従者が聞いてきた。さすがに息は荒い。バサルはいや、と首を横に振った。
今はとにかくこのトンネルのような通路を抜けるのが先だ。
ようやく先に光が見えてきた。そこで初めてバサルは通路が暗かったことに気が付いた。だが、自分は従者の顔まで見えていたのに?いや、通路は見えていた、か?
先に飛び込んだ従者が待っていた。その横に飛び出す。さすがにバサルの息も上がる。追いかけてきた従者を待っていた従者が抱きとめた。
「大丈夫っ?!」
「も、っ死にっそ……」
それだけ言うと、そのまま膝から崩れ落ちる。その体をもう一人が支えながら、バサルを見た。
「大丈夫でございましたか?」
バサルは大丈夫だが、いろいろと大丈夫じゃないことだらけではないだろうか。
バサルが肩に担ぎ上げていた大神官をそっと下ろす。地面に……そう驚くことに、石の扉から続く通路は何か庭らしき場所に出た。
柔らかい草の上に片膝をつき、軽い体を滑らせるようにして膝に乗せ……。
「まぁ……」
バサルが堪えきれずに肩を揺らして思わず笑った。どうやら、バサルの肩は居心地が良かったらしい。まぁ、大神官は相当お疲れだっただろうが。
揺らされるだけ揺らされたからか、口から涎を垂らし、くか~と気持ちよさそうに寝ていた。
◇
神殿の奥に大神官の住む神殿があるとは聞いていたが、その神殿の規模はバサルの想像を超えた。
ほとんど、表の神殿と変わらないほどの広さと建物がある。バサルは従者達に頼まれて、大神官をその建物の中に運び入れることになった。
が。
「お待ちください」
神殿の入り口で杖を突いた老婆に取っ捕まった。相当な年寄であろうことは縮んだ背丈からも計り知れるが、さらに迫力が桁違いだ。大神官御付きの従者達さえ、見つかったと言う顔をしている。
老婆は神官が着るローブを身に付けてはいなかった。白の簡素なワンピースを身に着け、バサルが見たことがない刺繍を施した飾り帯を腰に巻いている。その帯に巾着袋が三つ。変わったいでたちだ。足元は編み上げのサンダルだった。市井の者達と同じだ。
「マヌーサ……」
「あの、デュア様が寝ていらして」
寝ていようが何だろうが、ここは一歩も通さないという顔だ。なぜだろうとバサルがマヌーサと呼ばれた老婆を見下ろすと、マヌーサが手にしていた杖を上げ、こつ、と大神官が履いている靴を小突いた。
「汚されたらたまらんです。どうか、外の東屋にお運びください」
言い方は丁寧だが、頑固な所がある。神殿を汚されてたまるかという顔だ。従者達があら~と口元を手で押さえ、そう言えばとバサルを見た。
「跳ねましたわね」
「御髪も……お顔も」
跳ねたと言われ、何がと思ったが、そう言えば、走っている最中、ぽんぽんと大神官が履いていた靴から黒い飛沫が跳んでいたことを思い出す。
気が付かなかったが、今、自分は一体どんな有様なんだろうか。
マヌーサが、ずいと大神官の靴に寄り、勿体ないとぶつくさ言った後、じろりとバサルを見上げて顔を顰めた。
「まさか、あれですか」
マヌーサの低い声に従者達が小さな声でそうですと答える。
マヌーサはふかーいふかーい溜息を吐いた。
◇
湯殿を使えとマヌーサに言われた。あまりに恐れ多く、心の底からご辞退したが、従者達も絶対に入った方が良いと言う。
「自然に取れるのは二年後です。そういう染料を使ってるので、間違って零してしまった時には、特殊な液体を使います」
マヌーサが腰にぶら下げたポーチから小さな鏡を取り出し、バサルに渡した。バサルが鏡の中の自分の顔を見て、さすがに絶句する。
これは……ちょっとひどい。
顔中というより、上半身のいたるところにに黒の飛沫が散っている状態だ。大神官を抱えていた方の脇腹には靴で擦るだけ擦られた跡も残っている。
もったいないが、このローブはもう、使えないだろう。
新しいローブを支給してもらえるかどうか、直属の副神官に聞いてみなくてはいけないが……。
思わず顔を撫でてしまい、従者の一人が短い悲鳴を上げる。やった後にバサルも気が付き、手を見る。まだ、乾いていなかった飛沫があったのだろう。もう一人の従者は堪えきれずに吹き出した。
髭ができたな。
バサルが深い溜息を吐き立ち上がるとマヌーサが、ついておいでと言うように歩き出した。
どうやら、神殿と神殿の間に向かっているらしい。
道すがら何かあったかマヌーサが聞いてくる。本来なら、しかるべき立場の人間に先に伝えた方が良いと思ったが、一体、誰に伝えればいいのかもわからないことに気が付いた。
大神官がやらかしたことだ。
神職の一番偉い人間がやらかしたことを、誰に報告しろと?大神官に物が言えるのは国王ぐらいじゃないだろうか。
考え込んだバサルにマヌーサが、ふんと鼻を鳴らす。どうやら、口は固いと思われたらしい。そのまま黙って二人で歩いていくと、建物の裏に出た。
白い石に縁どられた池がある。
「そこに潜りな」
「ここに、ですか?」
さすがに聞き返した。
バサルがどう言おうかとマヌーサを見下ろすと、なんだ?と顔を顰めたマヌーサに杖で足を小突かれた。
「ここに、潜るんですか?」
もう一度、聞く。池の広さはバサルが両手を伸ばしたぐらいだろう。だが、底が見えるほど浅い。
ここに潜れ?
浸かる事すらできないのでは?ともう一度、池を見る。だが、再び、足を小突かれた。
「とっとと、おし!私は、この後、デュア様の世話もあるんだよ!」
とっとと……。バサルはマヌーサと池を見比べて、その池に膝を抱えて座り込む間抜けな自分を想像した。何か、この老婆は言葉を間違えているんだろうか。
「入れば、よろしいんですね?」
「潜れってんだろ」
頑固だ。それでも、ふぅとバサルは溜息を吐くと、サンダルを脱いだ。そのまま足先を池につけようとして、ぐいとローブを引っ張られた。
「服着たまま潜る気かい」
「脱げと?!」
まさか、裸でこの池に浸かれと?!さすがにバサルも声が大きくなる。だが、マヌーサはいたって真面目と言うか、不機嫌だ。
「んな、びろびろしたもん、着てりゃ、潜っている間に溺れるわ」
ふと、マヌーサの言葉に本当の事かと気が付いた。
バサルがもう一度、池を見る。白い石で縁どられた池。水の中には魚は何か生き物がいる気配がない。
これだけ、緑豊かな場所にある池なのにか。
水草すらないことに気が付いた。池によくある苔すら見当たらない。
マヌーサがようやく気が付いたかと、池に近寄ると巾着袋からさらに小さな袋を出した。その中に指を突っ込むと指先が黒に染まった。
その指先を池の周りを縁どっていた白い石の一つにちょんとつける。
池に何か起こるという感じではなかった。
「さ、入んな」
もう、いいだろうとマヌーサが言う。なるほど……これがバサルの体中に飛び散った黒の染料を取るための液体というものなのだろう。
バサルはそれでもちらと隣に立つマヌーサを見下ろした。この老婆は立ち去る気配がない。バサルが潜るまでいる気だろう。と言う事は、この老婆の前で服を脱ぐのか。
ままよと腰に巻いてあった帯を取り、そのままローブを肩から落とす。中は下履きだけだ。寒くなればもう少し厚手の物を身に着けるが、今は気候が良くこれで十分良かった。あっという間に上半身裸になった。
マヌーサが横目でちらりとバサルを見上げ、笛を吹くような形に口を尖らせた。だが、その目がなんとういうか、家畜の値段を決めているような目でうんざりする。
「ん」
杖でまた小突かれた。下履きまで脱げと言われたら、どうしたものかと思っていたが、さすがに脱げとは言われずにほっとする。
幾度も見るが池は浅い。足先を付けて見るが、思っていたよりも冷たくない。いや……温かい?
「湯殿から湯を引いてる」
ありがたく思えと言わんばかりだ。冷水に飛び込むつもりだったバサルが少しほっとする。が、次の瞬間、蹴られた。
「うわっ?!」
思った以上の脚力だった。これだけの力で蹴れるなら杖などいらないんじゃ?!と池に落ちながら思ったが、そのまま飛び込んでしまった。
飛び込んだ。
一度、頭まで沈み、慌てて浮き上がる。縁の石に手をかけ、池の底を見るが……。
池の底からバサルの上半身が生えている。
これも、まじないか!
「トロトロすんじゃない」
こつ、と今度は軽く頭を小突かれた。痛みはないがバサルがむっとしてマヌーサを見上げると、マヌーサはようやくにやりと笑った。皺だらけの顔で笑われると、それも不気味だ。
「潜れと言ったんだ。飛び込めとは言っていない」
「……飛び込んだんじゃない。落とされたんだ」
ぶすっと口答えをしたバサルにマヌーサがにやにやしながら杖で池を指す。
「潜れば道がある。そこを抜ければ湯殿に出る。アイが着替えを持って行ってるはずだ」
アイ?初めて聞く名に誰だ?と首を傾げると、さっきまで一緒にいただろうがと言われる。あの大神官に付き添っていた従者のどちらかなのだろう。
潜ろうとして、ふと思った。
「泳げない者はどうするんだ?」
湯殿はなしだ、と事も無げにマヌーサは答えた。
◇
思っていた以上に奥の神殿はまじないが溢れている。バサルはマヌーサが言うように浅く見えた池に潜り、思っていたよりも池が深いことに気が付いた。それに温かい。道があると言ったが……と探そうとして、すでにぽかりと池とは違う光の輪が水面に見えた。
そこに向かい泳ぐ。なるほど、泳げなければ、これは厳しいかもしれない。泳ぐと言うより潜りだが。
「ぷっは」
水面に出て、そこか湿気が溜まっている室内だと気が付いた。湯殿だろう。
濡れた髪をかき上げ、ふと気が付く。頑固そうに見えた黒の飛沫が綺麗に消えている。掌の汚れも綺麗になっていた。マヌーサがあの池の石に似たような色を付けていたのを思い出す。ああすることで、あの池の水は汚れを落とす液体に変わるのだろう。
だが、もし、あの池を使わせてもらえなければ?
頭から真っ黒になった神官を思い出す。自然に落ちるのは二年後だと言ったか。おそらく、他の神官達のローブに付いた色も二年は落ちないのだろう。
次の神職選びの時まで。
自分のはどうだったかとぼんやりと思う。前回、神職選びの時は緑だった。その後、神殿付の副神官の元に集められ、バサルは神殿の書庫の担当になった。古い書籍が所狭しと積んである。書籍を傷めないための薄暗い部屋は自分がいた騎士団とは大きく違い……朝が来るたび憂鬱だった。
色が付けられたローブの事など……あまり気にもしなかった。
バサルが湯から上がろうと扉が見える方に向かい泳ごうとすると、足がついた。ん?と足下をみるといつの間にか石が敷き詰められている。恐る恐る立ち上がると、深いと思っていた湯船はバサルの太腿のあたりぐらいだった。
この深さで泳いでいたのか……。
誰が見ていたわけでもないが、何か気恥ずかしく、ふぅと息を再び吐く。
本当に、まじないが溢れている。これは大神官の力か、神の力か。
「あの~」
扉の向こうから声がした。先程、マヌーサが言っていた従者のどちらかのアイだろう。
「無事におつきになられました?色は取れました?」
大神官付きの従者というのに偉そうなところがない。マヌーサもだが、あまり身分にこだわっていないように見える。貴族、騎士団、神殿と環境がそれぞれ違う場所にいたが、やはり見えるものではないが、身分の差は確かにあった。位の高いものほど礼儀を求める。バサルも自然とそうしていただろう。
「あの~」
いろんなことがありバサルも少しぼんやりしていた。アイに声を掛けられているのに返事を返しそびれた。アイの方に向かおうと湯を蹴る。湯を蹴り……何かがおかしいと気が付いた。
その時、とうとう心配になったのか扉がそっと開く。隙間からひょこっとやはり先程の従者のどちらかが顔を出し……。
「……あ」
アイが固まった。赤くなった後、さぁっと青くなる。バサルも自分の下肢を見て、しまったと慌てて湯に浸かる。
潜った時にだろう。着けていたはずの下履きがなくなっていた。
「申し、わけない……」
大神官付きの従者の前で……なんたる粗相を。バサルも顔を手で覆う。アイは返事もできずに固まったまま、ぎこちなく扉を閉め……。
「お着換え!こちらに置いておきますっ!」
そう甲高い……いや、ひっくり返った声で叫ぶと、そのまま「きゃーっ!」と悲鳴を上げながらどこかへ走って行った。
バサルもしばらく動けなかった。
◇
さすがにのぼせた。あまり湯に浸かる習慣がないから仕方がないが、湯殿から出てしばらくは動けなかった。着替えが入った籠の横に水差しがあることに気が付き、ありがたくそれをいただく。
ふわんと花の香りがした。
火照った体に心地よく、飲み干してようやくほっとした。
濡れた体を手拭いで拭い、出された着替えを見て……おやと思った。
神官が着るローブではない。
久しぶりにズボンを見た。神殿に来て身に着けることもなかった。神殿に来た頃はローブの下は下履きだけという格好に慣れず、落ち着かなかった。女性の格好のようだとどこかで思っていたからだろう。
ズボンにシャツ。
これを着て……いいのか。
籠の脇には池で脱いだサンダルもある。そういえば、下履きは……。もしかして、マヌーサの目の前に浮かんだかもしれない下履きを想像し、額を押さえるしかない。回収するのも嫌だ。マヌーサに下履きの事を聞くのも嫌だ。
何事もなかったことにしよう。
そう決め、三年ぶりにズボンを身に着ける。ズボンを履くだけでやはり落ち着く。やはり、自分は神官には向いていないと心から思う。シャツを着て、細い革ひもを締める。
濡れた髪をどうしようかと考えたが、まあいいかと解いたままサンダルを履く。
その時、パタパタと誰かが走ってくる音がした。その音を聞いてバサルが固まる。まさか、アイが再び来たのだろうか。
謝らなければならないだろう。若い女性に大変に失礼な事をした。
「あ、よかった!」
思っていたより結構、勢いよく扉が開いた。扉の向こうにはやはりアイがいたが……考えてみれば、双子の片方がアイという名前だと教えてもらっただけで、バサルにはどちらがアイかわからない。
だが、どうも、先程のアイとは違うようだ。すたすたと入ってくると、てきぱきと濡れた手拭いと水差しを手に取り、にこりとバサルに笑いかけた。
「ごめんなさいね。あの子ったら案内まで頼まれていたのに、ほっぽりだしちゃって」
そうか……そう言えば、着替えた後どうすればいいのか聞いていなかった。
「アイ殿は……」
大丈夫だっただろうか……と恐る恐る聞くと、目の前の女性がきょとんとした。
「なんでしょう」
「いや、先程のアイ殿は……」
「……あ、ああ!」
そうか!ともう一度、女性が頷き、にこりと笑った。
「私もアイなんです」
双子の名前が……二人共、『アイ』?バサルは目を丸くした。
◇
庭の東屋に案内された。道すがらアイが自分達二人共『アイ』と呼ばれていると教えてくれる。マヌーサが面倒だということで、同じ名前を付けたらしい。二人いようが、一人だろうが『アイ』と呼ぶだけで事が足りると言う事なのだろう。
だが、それでいいのだろうか……とバサルが思う。用事を言いつける側はそれで事は足るのだろうが、個人的に話がしたい時はどうすればいいのだろう。
「ですが、お名前はあるのでしょう?」
バサルが聞くと、アイは少し眉を寄せた。何か言いづらいことがあると言う顔だ。
「大神官様がいらっしゃいますので」
あ、と思う。そうだった。大神官は選ばれた瞬間から生まれた時からつけられていた名前を捨て、『デュア・シュセリ』と名乗ることになる。
本当の名前など、ここでは必要ではない。
そうか、と考え込んでしまったバサルにアイがちらと視線を向けた。そして、どうしようかとしばらく考えていたようだったが、自分の右手首に嵌められた細いブレスレットを差し出した。
「右にこれをしている者が、大神官様の右に立ちます。そうですねぇ……私の事はアイルとでも」
それならば、先程のアイの左にも同じブレスレットがあるのだろう。
「マヌーサ様の前では、アイですよ」
念を押されたが、気を付けます、としか言いようがなかった。どうも、自分はあの老婆に弱い気がする。そのうちバレる気もするが、まあ、いいだろう。
しばらく二人で柔らかい草を歩いていると、先程、大神官を運んだ東屋が見えてきた。
そこに三人の人影が見える。マヌーサとアイ。そして、一番奥で何かを飲んでいる少女が……。
大神官 デュア・シュセリ。
バサルは東屋に入る前に片膝を地面に付き、改めて挨拶をした。
◇
入っていいと慇懃に言ったのはマヌーサだった。別に位がどうのこうのと言うわけではなく、ただ単にバサルが綺麗になったどうか見て分かったからだろう。
大神官も着替えていた。
どこか不貞腐れた顔で木でできたカップから何か飲んでいる。その隣にいたアイが、全くバサルを見ようとはせずに、同じ木のカップを出してくれた。
同じテーブルにつけという事なのだろうか。
さすがに不敬じゃないだろうかとマヌーサを見ると、顔を顰めて座れと顎で言われた。
しかも、大神官の前にだ。
アイルに助けを求めようと視線を向けるが、アイルはアイの様子がおかしいことを心配して、さっさとアイの隣に腰を下ろしてしまう。
本当に同じ顔に見える。
双子でも、ここまで同じ顔になるのだろうか。顔を手で隠しているアイの左手首にやはりブレスレットがあった。
「座ってくれない?」
幼い声が聞こえ、一瞬、誰だろうか思った。視線を落とすとぶすっとした顔で飲み物を口にしていた大神官が見上げている。
「首が痛くなるの」
恐れ多くも大神官を頭の上から見ろしていたことにようやく気が付き、慌てて椅子に腰かける。どうも、勝手が違う。自分の屋敷でも、騎士団でも、神殿でもこんなことはなかった。
身分の高い者と従者が同じテーブルにつくなど聞いたこともない。
居心地が悪い事、この上ない。さらになぜ、自分がここにいなければならないのかもわからない。いや、聞かねばならないことはあるのだが、こんな場所で聞いていいのかどうか。
アイルがどうぞとカップを勧めてくれる。マヌーサの前にもある。同じ飲み物なのだろう。
飲まなければ、飲まないで失礼か。バサルは軽く頭を下げると、カップに口を付けた。口を付ける前に先程、湯殿で飲んだ物と同じ花の香りがする。ここでは、飲み物と言えばこれなのだろう。
しばらく誰も口を開かなかった。思っていたよりも近くにある岩山から涼しい風が吹き抜ける。バサルの銀糸の髪が乾いたのか風で舞う。バサルは失礼と断り、手早く三つ編みにし、左肩から前に垂らした。マヌーサが巾着袋から見覚えのあるリボンを渡してくれる。バサルが池に入る前に髪を結んでいたものだ。やはり、池の方に浮いたらしい。
なら、と思うが、あえて、それは聞かない。マヌーサも知らんぷりをしている。それを好意と取り、バサルも黙る。
下履きは行方知れずだ。そういう事にしておこう。
なるべくゆっくりとカップの中身を飲んだ。他の四人も口を開かない。
一体、どうすればいいのだろうか。
何か言うべきか、帰るべきか……。バサルが心の底から悩み始めた時、こんどはバタバタと誰かが駆けてくる音がした。
◇
複数人がやってきた。全て神官だ。
神官は東屋の前に跪き、長々と何か口上を述べている。一体、なんだ?とバサルが眺めるが、どうやら神官達は先程までバサルも神官の姿をしていたことに気が付いていない。当たり前だ。おそらく、誰もバサルが神官だと思わないだろう。
服装一つで本当に変わるものだ。
マヌーサが立ち上がった。アイがお一人で大丈夫ですか?と声を掛けるが、マヌーサは肩をふんと揺らしただけで返事をしなかった。マヌーサを先頭に立たせ、神官達がぞろぞろと後をついて行く。後ろに並んでいた神官達の手に桶があったのを見て、あの池に行くのだろうと気が付いた。
「今から、お掃除ですよ~」
アイがお気の毒にと言う顔で神官達を見送る。もう、夜も近い。だが、おそらく大広間自体が大惨事になっているだろう。
「デュア様」
今度は一人の老人が現れた。白のローブに薄紫色の襟を着けている。
バサルはさすがに今度は立ち上がり、膝をついた。
神殿を大神官の代わりに取り仕切っている神官長だ。普段はこの神官長が実質、神殿を、神職を取り仕切る。
神官長 ソロ・ボツウル。
バサルの上司でもある。神官長は少し息を弾ませながら、おやと言う顔でバサルを見て、肩に手を置いた。略式だが、挨拶を受けたという印だ。
バサルが立ち上がると、自分よりだいぶ背が高いという驚いた目でバサルを見上げ、そして、にこっと笑った。
「よく、デュア様をお守りした」
まさか、神官長から直々にお褒めの言葉頂くとは思っていなかった。思わず右手を胸に当てる騎士団の礼の恰好をしてしまったが、慌てて両手を重ねる格好に変える。
神官が礼を述べる時はローブの長い袖の中で両手を重ねる。
どうも、身に付かなかったのが、ここでばれてしまった。
アイルがくっと笑い、アイがくふと笑う。ちらりと大神官を見れば、大神官は大きな欠伸をした。
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