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第一部
第二章 与えられた任務
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アイが神官長の前にもカップを置いた。神官長はマヌーサが座っていた場所にやれやれと腰かける。
「石の通路を通していただければ、遠回りをせずにすんだのですが」
石の通路?聞いたことがないが、おそらく石の扉から続くあのトンネルの様なものだろうと検討をつける。石の通路と呼ばれているのか。
「マヌーサが絶対に駄目って言ったわ」
大神官がぼそっと答える。アイ達もそうですと頷く。
「で、一体何があったのか。そろそろお聞きしてもよろしいか?」
神官長がカップに入っていた飲み物を一口飲み、落ち着いたと息を吐きだしながら、誰に聞けばよろしいかと首を傾げる。
誰に聞けばよろしいかと言われれば……。
その場にいた者の目が全てバサルに向けられる。やはり、そうなるか……。バサルは一応、大神官を見た。
「恐れ多くも申し……」
「それ、やめて」
話す前に位の高い人間に対する断りの口上を述べようとして、ぴしゃりと大神官に遮られた。
「後、私の事、大神官様とか言っても、ぶん殴る」
ぶん殴るときたか……。バサルがちらとアイルを見る。アイルが真面目な顔で頷く。おそらく本当にぶん殴るのだろう。
バサルもさすがに呼吸を整えた。
「デュア様……は何をされたか覚えては?」
デュアが、空になったカップをもういいとテーブルの上に押しやる。そして、軽く肩を竦める。
「覚えてないわ。気が付いたときは、ここで……」
何かを思い出したのか、ぐしゃりと顔を歪める。
「私……私の靴が……」
「デュア様……」
「後で、洗ってみますから」
そう言えば、体に付いた黒の飛沫は取れたが、布に付着したのはどうなるのだろうか。ローブは脱げと言われたが、あの池の水につけても取れないのだろうか。だが、広間の掃除の為に桶に水を汲みに来ている。石造りならどうにかなるのか?
「それで?」
神官長がのほほんとした様子でバサルに尋ねる。誰に聞けばいいのか分かったのだろう。バサルがなら、と神官長に体を向ける。
「恐れ……」
「儂にもいらんよ」
こちらにも、やんわりとだが、ぴしゃりと言われた。だいたい、神官長よりも身分が高い大神官がするなと言っているのに、と顔を顰められる。
神殿で遠くから眺めることしかできなかった存在の方だったが、こんなに気さくな方だとは思わなかった。
もしかして、神官長様と呼ぶことも駄目なんだろうか……。試す前に考えてやめた。
「……ソロ様はどのようにお聞きに?」
「ん?いや、聞くまでもいっとらん。神殿の方は今、大騒ぎじゃ」
「……大騒ぎ」
まぁ、そうだろうとバサルも思う。怪我人が出てもおかしくない騒ぎだった。
そして、おそらく誰に聞いても……はっきりと答えられる者はいないだろう。
自分を除いて。
バサルは何から話したものかと少し考えたが、あった事だけを簡潔に話すことにした。
自分の隣にいた神官が最初から様子がおかしかった事。
デュアが近づいてきて、手に色を塗り直している隙に、場所を移動したこと。
そして、神職選びがすんだ時、その神官のローブに黄色が付けられていたこと。
「なんと、愚かな事を」
全くそうは思っていない口調で言いソロが顔を顰めた。驚き嘆けば神官らしいと思ったが、ソロは愚かな事をと言いつつ、馬鹿な事をしおってと苦々し気だ。アイ達は目を丸くしてバサルを見ている。アイ達も初めてあった事なのだろう。
だが、デュアがなかった話ではないと呟いた。
「昔からいたわ。下心があって逃げる者。神を試そうと逃げる者」
「どちらにしても、愚かです」
ソロがぴしゃりと言う。神を試そうとする者も……いたのか。
「だから、マヌーサ様は通路を使っては駄目だとおっしゃったんですね」
アイの方が呟く。そうか……バサルも気が付く。
あの頭から黒い液体をぶちまけられた男は神に対し不遜だった。逃げられると思った。だが、とバサルが顔を上げ、デュアを見る。
「デュア様は、あの時、筒は取られてましたよね?」
壇上に戻り、大広間の神官達に御尊顔を見せようとしていた時だ。意識はあったように見えたが、そういえば、記憶がないと言った。
「神職選びの時は何も見えてらっしゃらないと思ってましたが、一体どうやって……」
あの男の事が分かったのだろう。だが、バサルの問いにデュアは簡単に答えた。
「私じゃないわ。神がしたのよ」
簡潔に答えられ、物が言えなくなったバサルがソロを見る。ソロも肩を竦める。
言ってはならぬのだろうが……。
喧嘩っ早い神もいたものだ。
「初代じゃありません?」
アイルがくすくすと笑いながら言う。そう言えばとアイは顔を顰めた。
「初代のデュア様も、そうとう喧嘩っ早いとお聞きしたことがございます」
なるほど。
バサルがもう一度、デュアを見る。デュアは顔を顰めたまま可愛い靴を履いていたはずの小さな足をぶらぶらさせている。
オルゲニア王国の神も、その神に仕えた初代デュア・シュセリも、喧嘩っ早かったという事だな。
なんとなく納得してしまい、バサルは笑いそうになる口元をカップで隠した。
◇
両手の桶に水を溢れんばかりに入れた神官達がわらわらと戻ってくる。東屋に神官長のソロがいると気が付き、また膝をつきごにゃごにゃと口上を述べる。
デュアもソロもうんざりした顔をしているが、跪いている者には見えない。そのうち、マヌーサが戻り、神官達を追い出した。石の通路を通れないという事は、あの桶の水を遠回りで神殿まで運ぶのだろう。
自分は本当は、あちらにいなければならないのではないだろうか。
バサルはふとそう思い、腰を上げた。皆の視線がん?とバサルに向けられる。
「私も、水を運ばなければならないかと……」
なんとなく歯切れが悪いのは、どうしてもここから早く離れたいという気持ちがあるからだ。だいたい、貴族の家長でもない自分が、大神官と神官長と同じテーブルについていることがおかしい。
だが、デュアの指がついっ、とバサルを指した。
「言ったでしょう。逃げられるとでも思ったのって」
ソロがおや?とバサルとデュアを見比べる。こちらの話は聞いていないという顔だ。アイ達も再びきょとんとしている。
逃げられるとでも思ったの。
バサルがやはりとデュアを見る。そして、椅子に座りなおす。
ようやく、自分のローブに色が付けられなかった理由が聞けるらしい。
「私に色が付かなかったのにも……理由があるのですね?」
「そうよ」
ソロが驚いたようにデュアを見た。デュアは眉を顰めひどく考え込んでいる。
「デュア様……まさか」
アイ達も気が付いたらしい。マヌーサは大きく顔を顰め溜息を吐く。
「国益ももたらすモノがくる」
デュアの口から出た言葉の意味がバサルには分からなかった。だが、ソロ達はやはりそうかと……なぜか難しい顔をした。
「……モノが来るんですか?」
モノとは何だろう。来るというのは……どこからだろう。
それと自分がどう関係するのだろう。
分からない事ばかりで、バサルも誰かが何かを話し出すのを待つしかない。だが、ふああっとデュアが大きな欠伸をした。
「もう、ねっむい……。お腹も空いた」
アイ達が慌ててそうですねと立ち上がる。ソロもすっかり日が暮れた空を見上げる。星が瞬いている。
「マヌーサ、儂も今夜はこちらで構わないかね」
「支度は、ご自分でなさってくださいませね」
それと、とマヌーサがバサルを見る。
「あんた、名前はなんていうんだい」
ん?と皆が再びバサルを見る。バサルもそう言えば、自分がまだ名乗っていなかったことに気が付いた。
慌てて椅子から立ち上がり、名前を名乗ろうとして。
「バサルよ。次に来るモノの世話をする役目を神から与えられた者」
大きな欠伸をしながら、デュアが何でもない事のようにバサルの名前とその役目を皆に伝えた。
◇
国益をもたらすモノが来る。
言葉だけ並べてみれば、意味は分かる。だが、分からないことだらけだ。
結局、あの後、眠い、お腹が空いた!と駄々をこねだしたデュアの宥め役を仰せつかった。マヌーサはどこかに消え、アイルの方が神殿の奥の調理場に消えたが……。
出てきた料理が美味しくない。
バサルが思わず同じ物を口にしているソロを見てしまうほど美味しくない。騎士団の料理より、格段に味が薄いと思っていた神殿の料理より美味しくない。
材料が違うのかと一瞬思ったが、乱雑に刻まれた材料は見たことのある物ばかりだ。
「……アイル。美味しくない」
さすがにデュアも口にスプーンを咥えたまま、ジト目で皿を見る。ソロは黙って食べている。アイの方がなぜか申し訳なさそうだ。
「今日は人数も増えましたし、色々と忙しかったでしょう」
マヌーサが消えたのをもしかしてと疑ってしまうほどの味だ。というか……味するか?これ?
「料理人は……いないのか」
バサルが聞くと、アイルが肩を竦める。まぁ、大神官が暮らす宮殿だ。むやみやたらに人を増やすのもいかがなものだとは思うが……。
「果物で、いい……」
とうとうデュアが皿を押しやった。小さい子がもう、食べないと半べそになっている。それを見て、さすがにアイルの顔も歪む。
あまり料理が得意ではないし、好きでもないのだろう。
アイルが何かを言い出そうとする前に、バサルが皿を持って立ち上がった。
「調理場をお借りしていいか?」
「……へ?は、はい」
アイルがバサルを調理場に連れて行ってくれる。その調理場に行き、バサルは目を見張った。
ピカピカしている。
いや、アイルの奮闘の後はあちこちに残ってはいるが、なんというのだろう。新築の調理場だ。
ということは、ここではろくに調理がされていないということではないだろうか。
「バサル様?」
「あ、バサルで」
何かを煮たらしい鍋の蓋を取り、調味料はどこだとアイルに聞く。アイルはぱたぱたと走り、籠を一つ持ってきた。その籠を見て、バサルは考える。
もしかして、いちいち、味付けの時にその籠を取りに走っているのだろうか。
それでは落ち着いて味付けもできないだろう。バサルがアイルに味を足していいか尋ねると、ぶんぶんと縦に首を振られた。味に問題があるという事は、アイルも分かっているのだろう。
「味見は?」
「しません」
即答で返され、動きが一度止まる。それは……なにか、大神官様への配慮か何かだろうか。それならば、味見をすることも難しいが。と、そこにその大神官がやってきた。果物を取りに来たのだろう。アイが後ろに控えている。
「デュア様」
「……もう、食べない」
「いや、あの、人が味見した物は食べられないとかでしょうか」
デュアが何を言っているのかわからないという顔をした。アイにそうか?と聞くと、いいえ?と答えられる。なら、味見をしないというのは、ただ単にアイルのこだわりか、なんかなのだろう。
バサルが籠の中の調味料を見る。よく知っている味の物から、見たことも聞いたこともないものまで種類は豊富だ。
とりあえず、その籠の中から岩塩を砕いたものと、ぴりっと刺激がある香辛料を二つ出す。鍋の中の煮物かスープかわからない物を少し小さめな鍋に移し、味を見る。
味がしない。いや、材料は良いのだろう。素材の味がよく出ているが、言ってしまえばその風味しかしない。これは、きつい。
オルゲニア国の神殿では肉食も許されている。肉はないのか?と聞くと、今度はデュアが調理場の隣にある小部屋に飛んで行った。アイが慌てて追いかける。
「これ、この干し肉、いい?」
デュアの目が輝いている。干し肉……でかしたと思わずデュアの頭を撫でてしまい……固まった。
俺は今、もしかしてものすごい不敬な事をしでかしたのではないか。
冷や汗がだらだら出てくる。恐れ多くも一国の神官の頂上に立つ大神官の頭を……俺は、今、撫でたか?
「バサル?」
干し肉の塊を両手で持つデュアが動かなくなったバサルを見上げる。デュア自体は不敬に気が付いた様子はなかったが……。バサルがぎぎぎと首を回す。ソロが面白い物を見たという顔でほくそ笑んでいる。
「も……申し訳……」
「そんなにいい肉ではないのよ?保存しすぎてカピカピしてるもの」
いや、肉に謝ったわけではなく……。デュアがぐいっとバサルに干し肉を早く受け取れと差し出す。思わず受け取った肉は……デュアが言う通り、少し干からびている。
バサルの無礼をデュアは気にした様子ではない。もしかしたら、後でソロから何か言われるぐらいなら……もう、いい。
バサルは改めて干し肉を眺め……その足の部分にある焼き印を見て、これはとほくそ笑んだ。
◇
デュアの目が輝いた。
「ぬっ!むっ!」
何を叫んだのかはわからないが、皿を抱き込んで煮物を口にしている。アイ達も目を丸くしている。
「すごい上等干し肉だったんだ。献上品かなんかだろう」
干し肉に焼き印など、献上品か特級品だ。その干し肉をじっくりと油で炒め、香りと旨味を油に移した。
その油に先程アイルがこしらえた野菜の煮物を少しづつ加えていった。
「肉からすごい良い脂が出たんだ。コクも旨味もで出る」
「ですが、獣肉でしょう?なぜ、臭みがありませんの?」
アイが不思議そうに尋ねた。アイルは難しい顔で料理を口に運んでいる。
「香辛料だ」
「香辛料?」
「ふたっぴゅ、使ったわ!」
口に物を入れて喋ろうとするデュアをバサルが行儀が悪いと軽く睨む。だが、デュアがアイ達より料理に慣れていた。
考えてみれば、三年前まで普通の家の娘だったのだ。母親の側で料理をするのも見ていただろう。二人で並んで料理をするうちに、バサルはデュアに普通の子供として接していた。
「……美味しい」
アイルが悔しそうに言う。バサルが味を覚えれば、大丈夫だと頷く。
美味しい物を食べたことがない者に、美味しい物を作れという方が難しい。美味しい物を食べたかったら、作らせる者には美味しい物を食べさせなければならない。
「肉を炒めてた時と、最後よ!」
ソロが自分でお代わりをよそいに行く。ここでは自分の事は自分でするらしい。バサルも自分の皿の料理を食べ、久しぶりに味の濃い物を食べたと口の端が上がる。
騎士団が野営の時によく作っていたスープだ。
デュアがソロの後ろに並び、あまり取らないでねとソロに頼み込んでいる。あまりに真面目なお願いに、ソロは自分よりも先にデュアの皿をスープで満たした。
アイが零されたら大変と慌てて迎えに行く。
「バサル様」
「バサルでいい」
先程からアイルと何度このやり取りをしただろうか。だが、アイルはがんと受け付けない。
「なぜ、お料理を?」
ん?とアイルを見る。なぜと聞かれ、自分でもん?と思う。当たり前だが、貴族である自分の屋敷では料理などしたことはない。屋敷にはそれなりに腕の立つ料理人がいたからだ。父が、美食家でも有名だった。おそらく、味の良し悪しはその頃に身に付いたのだろう。
なら、騎士団かと考え……ある事を思い出し、顔を顰めた。
「騎士団では野営の時、交代で料理をするんだ」
デュア達も騎士団の話など聞くことがないのだろう。スプーンが止まる。
「野営って何?」
お外で寝る事ですよとアイルが答える。まぁ、簡単に言えばそうだ。くすくすとバサルが笑いながら頷く。
「その時、初めて料理をするという奴がいて……」
思い出せば、今ならば、笑える。だが、訓練の食事が唯一の楽しみだったあの時は、部隊の皆が怒り狂った。
「鳥をそのまま鍋に放り込んで、蓋をしたんだ」
ぐげっ、とおかしな声を上げたのはソロだった。デュアが思いっきり顔を顰める。
「……間違えたんじゃないの?」
「……なにをでございますか」
アイの声が引きつっている。想像するだけで恐ろしいのだろう。バサルがデュアに向かい、そう!と指を振った。
「そいつは羽をむしる為の湯で、そのまま煮てしまったんだ」
アイ達が悲鳴に近い声を上げた。ソロは机に突っ伏して体を震わせている。デュアはあきれたと肩を竦めた。
「もう、生臭いやら、おそろしいやらで……」
地獄絵図というのだろう。あれからしばらくバサルは鳥が苦手になった。今は、普通に食べられるが。
「騎士団にいたのかい」
どこからかマヌーサが現れた。ことり、ことりとバサルとソロの前にカップを置いてくれる。水ならあるのに、と思ってカップの中の液体の香りを嗅いで、おっ?となった。ソロが、椅子の上で小躍りしている。
「お神酒だ」
だから、有難くいただくようにと偉そうだが、酒は酒だ。
神殿では酒は神の飲み物で禁止されている。トラブルのもとになるからだろう。
これは……ご馳走になってしまったな。
さすがにバサルも思っていた以上に豪華な食事になり、目を丸くする。いや、最初からこうではなかったが……まるで。
まるで……と考えて……首を横に振った。
自分にはその記憶はない。家族の団欒など……ある家ではなかった。
「マヌーサ。味見して。本当においしいの」
自分の皿をマヌーサに差し出し、真面目な顔でデュアが言う。マヌーサは少しだけ肉を食べ、顔を顰めた。
「ただの野菜スープに贅沢な肉を使って」
ばれた。バサルとデュアは目を合わせて肩を竦めた。
◇
久しぶりの酒は強かった。あまりバサルは飲んだことのない強さの酒だったが、ソロは喜んでいた。ちびちびと舐めるように口にしていた。
夕食後、マヌーサにここだと部屋に案内された。食事を取った部屋がある建物の二階だった。さすがに神殿に帰るつもりではいたのだが、デュアが『神から与えられた役目』については明日ねと言い、手を振った。
アイルには明日の朝、朝食を一緒に作って欲しいとも懇願された。
部屋は掃除がきちんと行き届いており、清潔感が溢れていた。もしかして、先程、マヌーサが消えたのは、バサルとソロの部屋を整えに行っていたからかもしれない。
寝台にクローゼット。小さな机まである。物書きの為だろう。
そこに三冊の本が重ねておいてあった。
革表紙で重い重厚な造りの本だ。外装を見ただけで高級品でもあり、貴重な物でもあるのだろうと思う。
一体、何の本だ。手に取ると、やはりずしりと重い。
出窓の所に置いてあった書見台を持ってきて机に置き、そこに本を置いた。
緑の革表紙。黄色の革表紙。赤の革表紙。
部屋に持ってきた酒のはいったカップから濃い酒をチロと舐めるように飲む。あまりに酒の度数が強く、むせたバサルに、ソロが鼻で息をして香りを楽しむと教えてくれた。
舐めた酒を舌の上で気化させ、香りを楽しむ。
騎士団にいた時は、酒は飲む量で競ったものだが、こういう飲み方をする酒もあるのだろう。
お神酒と言ったか。
もしかしたらこの酒もこの国の物ではないのかもしれない。隣国の献上品であってもおかしくはない。
バサルが酒を舐めながらじっと机の上の三冊を眺める。
この色に覚えがある。
緑は神。黄色は城。赤は騎士団。
だが、と気が付いた。なら、黒の革表紙の本もあるはずだ。
色と同じ意味を持つならば。
バサルはそこまで考え……肩を竦めて机に背を向けた。
今から読んでも頭に入るわけがない。なら、明日、デュア達に話を聞いた方が早い。
バサルは大きく伸びをして、寝台にひっくり返った。
◇
夢を見た。
あの石の扉に続く道だ。バサルはそこを駆けていた。走っても、走っても、あの石の扉はどんどん小さくなる。
必死に走る自分の隣にアイがいた。いや、アイルだ。右腕にブレスレットをしているが、それも激しく揺れている。
そのアイルの姿が違う者に変わる。
「デュア!」
思わず叫んだ。デュアはまっすぐに扉に向かい、信じられない事に、バサルの前へ出た。
追い越された?!
デュアの小さな背中がどんどん小さくなる。石の扉もデュアに追い付かれるのを嫌うようにどんどん離れていく。追いつけない。
「モノが来る」
バサルはいつの間にか走るのをやめていた。暗闇の中、どこからともなく声がする。
「マヌーサ!どこだ?!」
「国益をもたらすモノが来る」
ソロの声が遠くに聞こえる。バサルが顎を伝う汗をぬぐい、もう、どこに向かえばいいのかわからないほどの暗闇になった道を歩き出す。あるはずの壁すらない。
「デュア!ソロ様!マヌーサ!アイ!アイル!」
声を張り上げるだけ上げ、どこからか返事が聞こえないかと耳を澄ませる。
自分の声すら闇に消える。
くそったれ。これもまじないか。
「……くそ」
暗闇を睨みつけていた自分の隣に、いつの間にか誰かがいた。ぼんやりとその影だけ闇に浮かぶ。
子供?いや、少年?
「#$%%&&’’」
その誰かが自分には分からない言葉で何かを言う。思わず、その影から離れる。
「なんだっ?!何が言いたい?!お前は誰だっ?!」
背中に汗が浮く。信じられないほど、隣に立つ誰かが怖い。
怖い?
なぜ……なぜ自分が子供に恐怖を感じる?それすらわからずに、その誰かから離れようと一歩下がろうとする。その背を誰かが押した。その子供の方にバサルを押し戻した。振り返ると背が高い女性と少女がいた。
「駄目よ」
「デュア?!」
「駄目です」
「アイルっ?!」
自分とその誰かの間にマヌーサが立つ。そして、バサルの腹をとんと杖で小突いた。
「お役目でございます」
逃げることは許されない。
「逃げられるとでも思った?」
バサルの背でデュアが笑う。その手には黒の液体が入った瓶。
「バッカじゃないの」
背は届かないはずだ。デュアはバサルの胸のあたりまでしか背はない。それなのに……。
バサルが額から流れ落ちてきた液体を拭う。
黒。
液体は拭っても、拭っても額から滴り落ち、銀髪を黒く変える。
黒に染まる。
「やめろ……」
闇雲に腕で顔を拭う。いつの間にか身に着けていた白いローブも黒く染まる。ソロの声がする。
「神官ではない。お前には違う役目がある」
いや、最初から神官ではなかった。望んで神殿に来たのではない!仕方なく来た!諦めて来た!
家族がそうしろと願う!
「俺は騎士団にいたかった!残りたかった!」
「それでも、これはもう、神が決めたことでございます」
「アイル!」
国益をもたらすモノが来る。
だが、それは……本当に国益をもたらすだけのモノなのか?
アイルの手に黒の革表紙の本があった。アイルがその本を鍋に入れようとする。
「アイル……駄目だ」
それは駄目だ。それは大事なものだ。
「やめろ!アイル!」
いつの間にか、アイルの手には黒髪の少年の首がぶら下がっていた。
「それは俺のモノだ!」
◇
飛び起きた。飛び起きて、その勢いで寝台から落ちる。
落ちた後、反射で寝台の下に潜った。考えてした事ではない。体がもう勝手にそう動く。
逃げろ。
荒い息を必死に整える。すでに夜は明けたのだろう。窓から差し込む光は朝の光だ。
その光の中で自分の髪を確かめる。確かめて、ほっとする。銀糸のままだ。
自分の髪を確かめて……ようやくバサルは自分が夢を見ていたのかと気が付いた。
「……なん、つぅ夢を……」
言葉が出ない。恐ろしさをこれほどまで感じる夢など見たことがない。体中、冷や汗だらけだ。悪夢にしてもほどがある。
黒髪の少年。
その少年の生首をアイルが握っていた。いや、鍋に入れようとしていた。
「……は」
無理やり笑おうとして失敗する。
バサルは寝台の下に隠れ、顔を腕で覆い、勇気が出るまでそこから出ることができなかった。
「石の通路を通していただければ、遠回りをせずにすんだのですが」
石の通路?聞いたことがないが、おそらく石の扉から続くあのトンネルの様なものだろうと検討をつける。石の通路と呼ばれているのか。
「マヌーサが絶対に駄目って言ったわ」
大神官がぼそっと答える。アイ達もそうですと頷く。
「で、一体何があったのか。そろそろお聞きしてもよろしいか?」
神官長がカップに入っていた飲み物を一口飲み、落ち着いたと息を吐きだしながら、誰に聞けばよろしいかと首を傾げる。
誰に聞けばよろしいかと言われれば……。
その場にいた者の目が全てバサルに向けられる。やはり、そうなるか……。バサルは一応、大神官を見た。
「恐れ多くも申し……」
「それ、やめて」
話す前に位の高い人間に対する断りの口上を述べようとして、ぴしゃりと大神官に遮られた。
「後、私の事、大神官様とか言っても、ぶん殴る」
ぶん殴るときたか……。バサルがちらとアイルを見る。アイルが真面目な顔で頷く。おそらく本当にぶん殴るのだろう。
バサルもさすがに呼吸を整えた。
「デュア様……は何をされたか覚えては?」
デュアが、空になったカップをもういいとテーブルの上に押しやる。そして、軽く肩を竦める。
「覚えてないわ。気が付いたときは、ここで……」
何かを思い出したのか、ぐしゃりと顔を歪める。
「私……私の靴が……」
「デュア様……」
「後で、洗ってみますから」
そう言えば、体に付いた黒の飛沫は取れたが、布に付着したのはどうなるのだろうか。ローブは脱げと言われたが、あの池の水につけても取れないのだろうか。だが、広間の掃除の為に桶に水を汲みに来ている。石造りならどうにかなるのか?
「それで?」
神官長がのほほんとした様子でバサルに尋ねる。誰に聞けばいいのか分かったのだろう。バサルがなら、と神官長に体を向ける。
「恐れ……」
「儂にもいらんよ」
こちらにも、やんわりとだが、ぴしゃりと言われた。だいたい、神官長よりも身分が高い大神官がするなと言っているのに、と顔を顰められる。
神殿で遠くから眺めることしかできなかった存在の方だったが、こんなに気さくな方だとは思わなかった。
もしかして、神官長様と呼ぶことも駄目なんだろうか……。試す前に考えてやめた。
「……ソロ様はどのようにお聞きに?」
「ん?いや、聞くまでもいっとらん。神殿の方は今、大騒ぎじゃ」
「……大騒ぎ」
まぁ、そうだろうとバサルも思う。怪我人が出てもおかしくない騒ぎだった。
そして、おそらく誰に聞いても……はっきりと答えられる者はいないだろう。
自分を除いて。
バサルは何から話したものかと少し考えたが、あった事だけを簡潔に話すことにした。
自分の隣にいた神官が最初から様子がおかしかった事。
デュアが近づいてきて、手に色を塗り直している隙に、場所を移動したこと。
そして、神職選びがすんだ時、その神官のローブに黄色が付けられていたこと。
「なんと、愚かな事を」
全くそうは思っていない口調で言いソロが顔を顰めた。驚き嘆けば神官らしいと思ったが、ソロは愚かな事をと言いつつ、馬鹿な事をしおってと苦々し気だ。アイ達は目を丸くしてバサルを見ている。アイ達も初めてあった事なのだろう。
だが、デュアがなかった話ではないと呟いた。
「昔からいたわ。下心があって逃げる者。神を試そうと逃げる者」
「どちらにしても、愚かです」
ソロがぴしゃりと言う。神を試そうとする者も……いたのか。
「だから、マヌーサ様は通路を使っては駄目だとおっしゃったんですね」
アイの方が呟く。そうか……バサルも気が付く。
あの頭から黒い液体をぶちまけられた男は神に対し不遜だった。逃げられると思った。だが、とバサルが顔を上げ、デュアを見る。
「デュア様は、あの時、筒は取られてましたよね?」
壇上に戻り、大広間の神官達に御尊顔を見せようとしていた時だ。意識はあったように見えたが、そういえば、記憶がないと言った。
「神職選びの時は何も見えてらっしゃらないと思ってましたが、一体どうやって……」
あの男の事が分かったのだろう。だが、バサルの問いにデュアは簡単に答えた。
「私じゃないわ。神がしたのよ」
簡潔に答えられ、物が言えなくなったバサルがソロを見る。ソロも肩を竦める。
言ってはならぬのだろうが……。
喧嘩っ早い神もいたものだ。
「初代じゃありません?」
アイルがくすくすと笑いながら言う。そう言えばとアイは顔を顰めた。
「初代のデュア様も、そうとう喧嘩っ早いとお聞きしたことがございます」
なるほど。
バサルがもう一度、デュアを見る。デュアは顔を顰めたまま可愛い靴を履いていたはずの小さな足をぶらぶらさせている。
オルゲニア王国の神も、その神に仕えた初代デュア・シュセリも、喧嘩っ早かったという事だな。
なんとなく納得してしまい、バサルは笑いそうになる口元をカップで隠した。
◇
両手の桶に水を溢れんばかりに入れた神官達がわらわらと戻ってくる。東屋に神官長のソロがいると気が付き、また膝をつきごにゃごにゃと口上を述べる。
デュアもソロもうんざりした顔をしているが、跪いている者には見えない。そのうち、マヌーサが戻り、神官達を追い出した。石の通路を通れないという事は、あの桶の水を遠回りで神殿まで運ぶのだろう。
自分は本当は、あちらにいなければならないのではないだろうか。
バサルはふとそう思い、腰を上げた。皆の視線がん?とバサルに向けられる。
「私も、水を運ばなければならないかと……」
なんとなく歯切れが悪いのは、どうしてもここから早く離れたいという気持ちがあるからだ。だいたい、貴族の家長でもない自分が、大神官と神官長と同じテーブルについていることがおかしい。
だが、デュアの指がついっ、とバサルを指した。
「言ったでしょう。逃げられるとでも思ったのって」
ソロがおや?とバサルとデュアを見比べる。こちらの話は聞いていないという顔だ。アイ達も再びきょとんとしている。
逃げられるとでも思ったの。
バサルがやはりとデュアを見る。そして、椅子に座りなおす。
ようやく、自分のローブに色が付けられなかった理由が聞けるらしい。
「私に色が付かなかったのにも……理由があるのですね?」
「そうよ」
ソロが驚いたようにデュアを見た。デュアは眉を顰めひどく考え込んでいる。
「デュア様……まさか」
アイ達も気が付いたらしい。マヌーサは大きく顔を顰め溜息を吐く。
「国益ももたらすモノがくる」
デュアの口から出た言葉の意味がバサルには分からなかった。だが、ソロ達はやはりそうかと……なぜか難しい顔をした。
「……モノが来るんですか?」
モノとは何だろう。来るというのは……どこからだろう。
それと自分がどう関係するのだろう。
分からない事ばかりで、バサルも誰かが何かを話し出すのを待つしかない。だが、ふああっとデュアが大きな欠伸をした。
「もう、ねっむい……。お腹も空いた」
アイ達が慌ててそうですねと立ち上がる。ソロもすっかり日が暮れた空を見上げる。星が瞬いている。
「マヌーサ、儂も今夜はこちらで構わないかね」
「支度は、ご自分でなさってくださいませね」
それと、とマヌーサがバサルを見る。
「あんた、名前はなんていうんだい」
ん?と皆が再びバサルを見る。バサルもそう言えば、自分がまだ名乗っていなかったことに気が付いた。
慌てて椅子から立ち上がり、名前を名乗ろうとして。
「バサルよ。次に来るモノの世話をする役目を神から与えられた者」
大きな欠伸をしながら、デュアが何でもない事のようにバサルの名前とその役目を皆に伝えた。
◇
国益をもたらすモノが来る。
言葉だけ並べてみれば、意味は分かる。だが、分からないことだらけだ。
結局、あの後、眠い、お腹が空いた!と駄々をこねだしたデュアの宥め役を仰せつかった。マヌーサはどこかに消え、アイルの方が神殿の奥の調理場に消えたが……。
出てきた料理が美味しくない。
バサルが思わず同じ物を口にしているソロを見てしまうほど美味しくない。騎士団の料理より、格段に味が薄いと思っていた神殿の料理より美味しくない。
材料が違うのかと一瞬思ったが、乱雑に刻まれた材料は見たことのある物ばかりだ。
「……アイル。美味しくない」
さすがにデュアも口にスプーンを咥えたまま、ジト目で皿を見る。ソロは黙って食べている。アイの方がなぜか申し訳なさそうだ。
「今日は人数も増えましたし、色々と忙しかったでしょう」
マヌーサが消えたのをもしかしてと疑ってしまうほどの味だ。というか……味するか?これ?
「料理人は……いないのか」
バサルが聞くと、アイルが肩を竦める。まぁ、大神官が暮らす宮殿だ。むやみやたらに人を増やすのもいかがなものだとは思うが……。
「果物で、いい……」
とうとうデュアが皿を押しやった。小さい子がもう、食べないと半べそになっている。それを見て、さすがにアイルの顔も歪む。
あまり料理が得意ではないし、好きでもないのだろう。
アイルが何かを言い出そうとする前に、バサルが皿を持って立ち上がった。
「調理場をお借りしていいか?」
「……へ?は、はい」
アイルがバサルを調理場に連れて行ってくれる。その調理場に行き、バサルは目を見張った。
ピカピカしている。
いや、アイルの奮闘の後はあちこちに残ってはいるが、なんというのだろう。新築の調理場だ。
ということは、ここではろくに調理がされていないということではないだろうか。
「バサル様?」
「あ、バサルで」
何かを煮たらしい鍋の蓋を取り、調味料はどこだとアイルに聞く。アイルはぱたぱたと走り、籠を一つ持ってきた。その籠を見て、バサルは考える。
もしかして、いちいち、味付けの時にその籠を取りに走っているのだろうか。
それでは落ち着いて味付けもできないだろう。バサルがアイルに味を足していいか尋ねると、ぶんぶんと縦に首を振られた。味に問題があるという事は、アイルも分かっているのだろう。
「味見は?」
「しません」
即答で返され、動きが一度止まる。それは……なにか、大神官様への配慮か何かだろうか。それならば、味見をすることも難しいが。と、そこにその大神官がやってきた。果物を取りに来たのだろう。アイが後ろに控えている。
「デュア様」
「……もう、食べない」
「いや、あの、人が味見した物は食べられないとかでしょうか」
デュアが何を言っているのかわからないという顔をした。アイにそうか?と聞くと、いいえ?と答えられる。なら、味見をしないというのは、ただ単にアイルのこだわりか、なんかなのだろう。
バサルが籠の中の調味料を見る。よく知っている味の物から、見たことも聞いたこともないものまで種類は豊富だ。
とりあえず、その籠の中から岩塩を砕いたものと、ぴりっと刺激がある香辛料を二つ出す。鍋の中の煮物かスープかわからない物を少し小さめな鍋に移し、味を見る。
味がしない。いや、材料は良いのだろう。素材の味がよく出ているが、言ってしまえばその風味しかしない。これは、きつい。
オルゲニア国の神殿では肉食も許されている。肉はないのか?と聞くと、今度はデュアが調理場の隣にある小部屋に飛んで行った。アイが慌てて追いかける。
「これ、この干し肉、いい?」
デュアの目が輝いている。干し肉……でかしたと思わずデュアの頭を撫でてしまい……固まった。
俺は今、もしかしてものすごい不敬な事をしでかしたのではないか。
冷や汗がだらだら出てくる。恐れ多くも一国の神官の頂上に立つ大神官の頭を……俺は、今、撫でたか?
「バサル?」
干し肉の塊を両手で持つデュアが動かなくなったバサルを見上げる。デュア自体は不敬に気が付いた様子はなかったが……。バサルがぎぎぎと首を回す。ソロが面白い物を見たという顔でほくそ笑んでいる。
「も……申し訳……」
「そんなにいい肉ではないのよ?保存しすぎてカピカピしてるもの」
いや、肉に謝ったわけではなく……。デュアがぐいっとバサルに干し肉を早く受け取れと差し出す。思わず受け取った肉は……デュアが言う通り、少し干からびている。
バサルの無礼をデュアは気にした様子ではない。もしかしたら、後でソロから何か言われるぐらいなら……もう、いい。
バサルは改めて干し肉を眺め……その足の部分にある焼き印を見て、これはとほくそ笑んだ。
◇
デュアの目が輝いた。
「ぬっ!むっ!」
何を叫んだのかはわからないが、皿を抱き込んで煮物を口にしている。アイ達も目を丸くしている。
「すごい上等干し肉だったんだ。献上品かなんかだろう」
干し肉に焼き印など、献上品か特級品だ。その干し肉をじっくりと油で炒め、香りと旨味を油に移した。
その油に先程アイルがこしらえた野菜の煮物を少しづつ加えていった。
「肉からすごい良い脂が出たんだ。コクも旨味もで出る」
「ですが、獣肉でしょう?なぜ、臭みがありませんの?」
アイが不思議そうに尋ねた。アイルは難しい顔で料理を口に運んでいる。
「香辛料だ」
「香辛料?」
「ふたっぴゅ、使ったわ!」
口に物を入れて喋ろうとするデュアをバサルが行儀が悪いと軽く睨む。だが、デュアがアイ達より料理に慣れていた。
考えてみれば、三年前まで普通の家の娘だったのだ。母親の側で料理をするのも見ていただろう。二人で並んで料理をするうちに、バサルはデュアに普通の子供として接していた。
「……美味しい」
アイルが悔しそうに言う。バサルが味を覚えれば、大丈夫だと頷く。
美味しい物を食べたことがない者に、美味しい物を作れという方が難しい。美味しい物を食べたかったら、作らせる者には美味しい物を食べさせなければならない。
「肉を炒めてた時と、最後よ!」
ソロが自分でお代わりをよそいに行く。ここでは自分の事は自分でするらしい。バサルも自分の皿の料理を食べ、久しぶりに味の濃い物を食べたと口の端が上がる。
騎士団が野営の時によく作っていたスープだ。
デュアがソロの後ろに並び、あまり取らないでねとソロに頼み込んでいる。あまりに真面目なお願いに、ソロは自分よりも先にデュアの皿をスープで満たした。
アイが零されたら大変と慌てて迎えに行く。
「バサル様」
「バサルでいい」
先程からアイルと何度このやり取りをしただろうか。だが、アイルはがんと受け付けない。
「なぜ、お料理を?」
ん?とアイルを見る。なぜと聞かれ、自分でもん?と思う。当たり前だが、貴族である自分の屋敷では料理などしたことはない。屋敷にはそれなりに腕の立つ料理人がいたからだ。父が、美食家でも有名だった。おそらく、味の良し悪しはその頃に身に付いたのだろう。
なら、騎士団かと考え……ある事を思い出し、顔を顰めた。
「騎士団では野営の時、交代で料理をするんだ」
デュア達も騎士団の話など聞くことがないのだろう。スプーンが止まる。
「野営って何?」
お外で寝る事ですよとアイルが答える。まぁ、簡単に言えばそうだ。くすくすとバサルが笑いながら頷く。
「その時、初めて料理をするという奴がいて……」
思い出せば、今ならば、笑える。だが、訓練の食事が唯一の楽しみだったあの時は、部隊の皆が怒り狂った。
「鳥をそのまま鍋に放り込んで、蓋をしたんだ」
ぐげっ、とおかしな声を上げたのはソロだった。デュアが思いっきり顔を顰める。
「……間違えたんじゃないの?」
「……なにをでございますか」
アイの声が引きつっている。想像するだけで恐ろしいのだろう。バサルがデュアに向かい、そう!と指を振った。
「そいつは羽をむしる為の湯で、そのまま煮てしまったんだ」
アイ達が悲鳴に近い声を上げた。ソロは机に突っ伏して体を震わせている。デュアはあきれたと肩を竦めた。
「もう、生臭いやら、おそろしいやらで……」
地獄絵図というのだろう。あれからしばらくバサルは鳥が苦手になった。今は、普通に食べられるが。
「騎士団にいたのかい」
どこからかマヌーサが現れた。ことり、ことりとバサルとソロの前にカップを置いてくれる。水ならあるのに、と思ってカップの中の液体の香りを嗅いで、おっ?となった。ソロが、椅子の上で小躍りしている。
「お神酒だ」
だから、有難くいただくようにと偉そうだが、酒は酒だ。
神殿では酒は神の飲み物で禁止されている。トラブルのもとになるからだろう。
これは……ご馳走になってしまったな。
さすがにバサルも思っていた以上に豪華な食事になり、目を丸くする。いや、最初からこうではなかったが……まるで。
まるで……と考えて……首を横に振った。
自分にはその記憶はない。家族の団欒など……ある家ではなかった。
「マヌーサ。味見して。本当においしいの」
自分の皿をマヌーサに差し出し、真面目な顔でデュアが言う。マヌーサは少しだけ肉を食べ、顔を顰めた。
「ただの野菜スープに贅沢な肉を使って」
ばれた。バサルとデュアは目を合わせて肩を竦めた。
◇
久しぶりの酒は強かった。あまりバサルは飲んだことのない強さの酒だったが、ソロは喜んでいた。ちびちびと舐めるように口にしていた。
夕食後、マヌーサにここだと部屋に案内された。食事を取った部屋がある建物の二階だった。さすがに神殿に帰るつもりではいたのだが、デュアが『神から与えられた役目』については明日ねと言い、手を振った。
アイルには明日の朝、朝食を一緒に作って欲しいとも懇願された。
部屋は掃除がきちんと行き届いており、清潔感が溢れていた。もしかして、先程、マヌーサが消えたのは、バサルとソロの部屋を整えに行っていたからかもしれない。
寝台にクローゼット。小さな机まである。物書きの為だろう。
そこに三冊の本が重ねておいてあった。
革表紙で重い重厚な造りの本だ。外装を見ただけで高級品でもあり、貴重な物でもあるのだろうと思う。
一体、何の本だ。手に取ると、やはりずしりと重い。
出窓の所に置いてあった書見台を持ってきて机に置き、そこに本を置いた。
緑の革表紙。黄色の革表紙。赤の革表紙。
部屋に持ってきた酒のはいったカップから濃い酒をチロと舐めるように飲む。あまりに酒の度数が強く、むせたバサルに、ソロが鼻で息をして香りを楽しむと教えてくれた。
舐めた酒を舌の上で気化させ、香りを楽しむ。
騎士団にいた時は、酒は飲む量で競ったものだが、こういう飲み方をする酒もあるのだろう。
お神酒と言ったか。
もしかしたらこの酒もこの国の物ではないのかもしれない。隣国の献上品であってもおかしくはない。
バサルが酒を舐めながらじっと机の上の三冊を眺める。
この色に覚えがある。
緑は神。黄色は城。赤は騎士団。
だが、と気が付いた。なら、黒の革表紙の本もあるはずだ。
色と同じ意味を持つならば。
バサルはそこまで考え……肩を竦めて机に背を向けた。
今から読んでも頭に入るわけがない。なら、明日、デュア達に話を聞いた方が早い。
バサルは大きく伸びをして、寝台にひっくり返った。
◇
夢を見た。
あの石の扉に続く道だ。バサルはそこを駆けていた。走っても、走っても、あの石の扉はどんどん小さくなる。
必死に走る自分の隣にアイがいた。いや、アイルだ。右腕にブレスレットをしているが、それも激しく揺れている。
そのアイルの姿が違う者に変わる。
「デュア!」
思わず叫んだ。デュアはまっすぐに扉に向かい、信じられない事に、バサルの前へ出た。
追い越された?!
デュアの小さな背中がどんどん小さくなる。石の扉もデュアに追い付かれるのを嫌うようにどんどん離れていく。追いつけない。
「モノが来る」
バサルはいつの間にか走るのをやめていた。暗闇の中、どこからともなく声がする。
「マヌーサ!どこだ?!」
「国益をもたらすモノが来る」
ソロの声が遠くに聞こえる。バサルが顎を伝う汗をぬぐい、もう、どこに向かえばいいのかわからないほどの暗闇になった道を歩き出す。あるはずの壁すらない。
「デュア!ソロ様!マヌーサ!アイ!アイル!」
声を張り上げるだけ上げ、どこからか返事が聞こえないかと耳を澄ませる。
自分の声すら闇に消える。
くそったれ。これもまじないか。
「……くそ」
暗闇を睨みつけていた自分の隣に、いつの間にか誰かがいた。ぼんやりとその影だけ闇に浮かぶ。
子供?いや、少年?
「#$%%&&’’」
その誰かが自分には分からない言葉で何かを言う。思わず、その影から離れる。
「なんだっ?!何が言いたい?!お前は誰だっ?!」
背中に汗が浮く。信じられないほど、隣に立つ誰かが怖い。
怖い?
なぜ……なぜ自分が子供に恐怖を感じる?それすらわからずに、その誰かから離れようと一歩下がろうとする。その背を誰かが押した。その子供の方にバサルを押し戻した。振り返ると背が高い女性と少女がいた。
「駄目よ」
「デュア?!」
「駄目です」
「アイルっ?!」
自分とその誰かの間にマヌーサが立つ。そして、バサルの腹をとんと杖で小突いた。
「お役目でございます」
逃げることは許されない。
「逃げられるとでも思った?」
バサルの背でデュアが笑う。その手には黒の液体が入った瓶。
「バッカじゃないの」
背は届かないはずだ。デュアはバサルの胸のあたりまでしか背はない。それなのに……。
バサルが額から流れ落ちてきた液体を拭う。
黒。
液体は拭っても、拭っても額から滴り落ち、銀髪を黒く変える。
黒に染まる。
「やめろ……」
闇雲に腕で顔を拭う。いつの間にか身に着けていた白いローブも黒く染まる。ソロの声がする。
「神官ではない。お前には違う役目がある」
いや、最初から神官ではなかった。望んで神殿に来たのではない!仕方なく来た!諦めて来た!
家族がそうしろと願う!
「俺は騎士団にいたかった!残りたかった!」
「それでも、これはもう、神が決めたことでございます」
「アイル!」
国益をもたらすモノが来る。
だが、それは……本当に国益をもたらすだけのモノなのか?
アイルの手に黒の革表紙の本があった。アイルがその本を鍋に入れようとする。
「アイル……駄目だ」
それは駄目だ。それは大事なものだ。
「やめろ!アイル!」
いつの間にか、アイルの手には黒髪の少年の首がぶら下がっていた。
「それは俺のモノだ!」
◇
飛び起きた。飛び起きて、その勢いで寝台から落ちる。
落ちた後、反射で寝台の下に潜った。考えてした事ではない。体がもう勝手にそう動く。
逃げろ。
荒い息を必死に整える。すでに夜は明けたのだろう。窓から差し込む光は朝の光だ。
その光の中で自分の髪を確かめる。確かめて、ほっとする。銀糸のままだ。
自分の髪を確かめて……ようやくバサルは自分が夢を見ていたのかと気が付いた。
「……なん、つぅ夢を……」
言葉が出ない。恐ろしさをこれほどまで感じる夢など見たことがない。体中、冷や汗だらけだ。悪夢にしてもほどがある。
黒髪の少年。
その少年の生首をアイルが握っていた。いや、鍋に入れようとしていた。
「……は」
無理やり笑おうとして失敗する。
バサルは寝台の下に隠れ、顔を腕で覆い、勇気が出るまでそこから出ることができなかった。
応援ありがとうございます!
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