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第一部

第七章 覚悟

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 来る。

 デュアの言葉になぜかぞっとした。

 国益をもたらすモノが来る。

 そのモノの為に……自分が選ばれた。

「……バサル、座りなさい」

 デュアの声に自分が立ち尽くしていた事に気が付いた。アイロが心配そうにバサルを見上げている。

「いつですか」
「次の新月」

 次の新月……そう言われても、バサルには分からない。誰か分からないかと食堂を見回すと、アイルが首を傾げて、あと十日ですと答える。ソロも頷く。神殿では天文も見ている。報告はあるのだろう。

「あと……十日」

 それは一体、早いのか……遅いのか。
 いや……とバサルがテーブルに置いた拳に力を入れる。
 自分の覚悟ができたかどうか……。

 毎日、あの洞穴に行き、小屋に入り、壁にかけられた武器を見るたびに思う。
 これを使うなら、おそらく自分もその覚悟がいる。

 来たモノを討ち取る覚悟。そして、それに討ち取られる覚悟。

 命懸けになる。

「……バサル」

 デュアが静かに名前を呼ぶ。返事もできずに顔だけを向けると、デュアがまっすぐにバサルを見ている。

「躊躇わないで」

 デュアの顔が歪んでいる。
 そうかと急にバサルも気が付いた。デュアはおそらくその可能性があると分かっていても、バサルにそう言わざるをえない。
 他の命を守るために。

「……はい」

 思っていたよりも小さな声になり、歯を食いしばる。違うと強く目をつぶる。
 騎士団にいた頃は、国の為、民の為、命を懸けて戦うと誓ったはずだ。誓っていた。
 何が違う?

 バサルは立ち上がり、食堂の床に膝をついた。
 もう、神官ではないとソロは言った。なら、バサルは今はただの男でしかない。

「大神官 デュア・シュセリ様。神官長 ソロ・ボツウル様」

 二人の視線がバサルに向けられるのがわかる。二人は以前、そのようなことはしなくていいと言ったが。

 これはバサル・アデランテの覚悟だ。

「神から届けられるモノ。責任をもって……」

 世話をしますといえばいいのか、殺しますといえばいいのか……。
 どちらの言葉を選べばいいのか一瞬わからなかった。
 
「面倒を見ます」

 自分でも、思ってもいない言葉がするりと出てきた。自分で言って面食らう。

 面倒を見る?来るモノの?

 デュアも少し驚いた顔で、ソロと顔を見合わせたが、やはり、言葉が出なかったのだろう。

「……まあ、面倒よね。結局」
「そうでございます……かねぇ」

 なんともしまらなくなったが、そう言わざるをえない。次第にバサルの顔が赤くなる。
 非常に恥ずかしいのは、なぜだ?

「バサル様の面倒見は最高だと思います!」
「きっと、来るモノも、よろこんで、面倒を見させてくれると思います!」

 いや……面倒を見させるって。
 デュアに立ちなさいと言われて、赤くなった顔を伏せたまま立ち上がる。椅子に座り、テーブルにあったお茶を一気に飲む。

「まぁ、気持ちは通じたわ。バサル」

 デュアが少しだけ笑って首を傾げた。

「来るモノの面倒を見てあげてね」
「……はい」

 顔を赤くしたまま、頷くことしかできなかった。

 ◇

 恥ずかしかったが……。
 まあ、考えてみれば、ああ言うしかない……ことではあるよな?

 何かが来て、それを……どう国益があるのか確かめて。そして、世話をするか……殺すか決める。
 最初の国益の『火』の時は、そりゃ、最初は吹っ飛ばされるということがあって、世話をするもくそもなかっただろうが、他の人間が、おそらく神官が、火を神殿に移し大事にした。
 コブだって……コブだって?

「生き物が……動物が来たらどうするんだ?」

 ん?となる。コブは今や騎士団にも町にもいる。以前は騎士団の馬などと一緒に飼育されていることが多かったらしいが、そのうち、商売人がコブ屋を開き、必要な人間はそこで借りることもできるようになった。
 交易商の人間達が陸路の際には使うと聞く。海の場合は船だが。

「繁殖させないと……意味がないだろう」

 バサルは慌てて机の上の赤色の革表紙の本を手にした。うおっと言うほど重い。
 この本を初めて見た日は酒に酔っていたため、重さなど感じた記憶がない。

「どう……読む」

 表紙を捲り、何かずらずらと書いてあるところは飛ばす。
 おそらく赤でいいばずだ。黄色は城。緑が神だった。普段、それがいる場所……。

「あ、これか」

 最初らへんにコブの絵を見つけた。どうやらこの本は記録のような物らしい。
 ページの上の方に『コブ』と違うインクで書いてある。来たばかりのモノに名前などないから、ここは後から書いたのだろう。
 ここに届いた日。六頭。

「……腹に子供がいたのか」

 六頭のうち、三頭に腹の中に子供ありと書かれている。それから、騎士団の騎獣担当の者を呼んだらしい。

「ということは……これをかいたのは役目の奴か」

 なるほど……と読みながら思う。どうやら、役目を仰せつかった者が一人で頑張らなくてもいいらしい。
 その分野に長けた人間に助けを求めることはいいのだろう。
 それはそうだ。
 いきなり、コブが六頭も来られたら、自分なら慌てるだけ慌てる。
 だが、コブは刺激さえしなければ、大人しい動物だ。群れで動く動物でもあるから、一頭が動き出せば、皆ついてくる……が。

「んなこと、すぐ、わかるはずがねぇよなぁ」

 自分より大きな動物が六頭。それがあの穴に現れた時、役目の者もしばらく考えただろう。
 何を食べるのか、からか。

 最初は果物をやったらしい。食べたらしいが、今度は量がわからずに、困ったとある。
 幸い大人しいようだったので、外に出したら、神殿に生えている草を全部食べられた。

「……くく」

 コブは食欲が旺盛だ。だが、食べる物がなければ、食べなくてもいいという不思議な動物でもある。

 だが、それを見抜けなければ……ならない。
 
 祭壇にある消えない火と同じだ。

「どうやったんだ?」

 腹に子供がいたコブ三頭が無事子供を産み、九頭になった。そこで、一匹を野営に連れて行ってみることにしたとある。どれだけ移動できるのか試してみたのだろう。馬に勝つとある。そして、今度は荷物を載せて運ばせたらしい。これも馬に勝つ。

「……餌をやらなかった時期がどっかにあるはず」

 だが、その記載はなかった。おそらく、この記録を書いたずいぶん後に分かった事なのだろう。
 それも……故意か偶然かはわからないが。

 コブのページに他に何もない事を確かめて、ぺらぺらとページを捲る。

 植物の絵が描いてあったり、鳥の絵が描いてあったりする。その絵もうまかったり、少し雑だったりするが……。

「……これは」

 その中に一枚、ひどく凶暴そうな……獣がいた。何か名前を書いてあった場所を塗り潰している。
 四つ足。その背に大きな翼。口元には鋭い牙。
 これか、と思い当たった。これをどうにかしようとして……襲われて人が死んだという来たモノ。

「……んー」

 四つ足なのに翼がある。その翼も大きい。と言う事は……空を飛ぶのだろう。
 気性荒らし。餌、肉。人も喰らうと淡々と書いてはある。
 ここから出せなかった。

「出すわけにはいかない……」

 外に出せば、取り返しがつかない。おそらく空を飛び、人を襲う。
 最後の所にデュアの命により、殺処分とある。ふと、これはいつのことだろう気になった。日付を探すが、月日は書いてあるが、年号がない。後ろのページに進めば、年月日が記されているということは、大分昔の事だろう。

「……ん?」

 おや、と何かが記憶に触れた。この来たモノの事を……自分に教えたのはデュアではない。
 そう、マヌーサだ。

「え?」

 なぜ、マヌーサが……この事を知っているのだろう。何か他にも記録が残っているのだろうか。いや、だが、あの口調は……。

「まるで、その時、そこにいたようだった……」

 そんな馬鹿なとも思う。だが、誰かが、最古参だとも言った。最古参?

「あほか……」

 最古参にしてもほどがある。バサルは軽く頭を振り、次のページを見て……飛び上がった。

 ◇

「デュア!」

 庭の東屋でソロと何かを話していたデュアが何事?と言う顔で駆けてきたバサルを振り返った。バサルが脇に革表紙の本を抱えているのを見て、ああ、と渋い顔をする。

「人間も来るのかっ?!」

 そう、あの殺処分された獣の次のページには一人の女性の姿が描いてあった。
 だが、その女性は上半身が裸だった。腰に布を巻きつけているだけの姿だ。

「ああ……その人」

 デュアが開いたページを見て、思い出したと言う顔をする。

「闘剣士だった人ね」
「とっ?!闘剣士っ?!」

 闘剣士?!女性がっ?!
 顔色を失くしたバサルにデュアが、ほらここと不思議な形をした絵を指し示す。何か動物の肋骨の骨の様な形をした……いや、これは……。

「三日月刀……か?」
「その原型でしょうね」

 三日月刀。細い刃の短剣だ。その名の通り、三日月の形をしているが……。

「接近戦でしか使えんと……」
「今は使われてないわね」

 確かに……。今は剣が主流だ。それと槍。こんな短剣な物の様な刀は今は使われていない。
 しかも、それを持って来たモノが……女性の闘剣士?

「は、裸、だがっ?!」
「そう。その格好で来たもの」
「この格好で来たっ?!」

 バサルが頭を抱える。
 モノだとばかり言われていた。獣、役に立つ物。そのモノに人間が含まれているなど考えた事もなかった。

「どっ、どこから来たんだ?」
「……バサル、大丈夫?」

 取り乱すだけ取り乱したバサルにデュアが心配そうに聞く。

「空からって言ったっでしょう?多分だけど」
「違うっ!どこの国の人間だったんだっ?!」

 女性の闘剣士など、バサルは聞いたことがない。しかも、その女性は裸に近い格好で来たと言う。
 どこの国でそんな恰好で女を戦わす国があるんだっ?!

「……オルゲニア国の近くではないのは確かよ」
「……ここに、ローマとありますな」
「ローマ?」

 聞いたことがない。ソロが指さした場所に確かにローマとある。ローマと言う国から来たと言う事なのだろう。
 ちょっと待て、ちょっと待てとバサルが混乱するだけ混乱した頭を必死に整理しようとする。

「……そんな、聞いたこともない国から来た人間と……なぜ、言葉が通じる」

 交易船で入ってくる人間ですら、たまに言葉が通じない者がいる。そういう者には通訳者が間に立つ。だが、それでも、その人間がどこから来たとかは分かる。国が分かるから、使う言語も分かるからだ。

 どこの国からきたのかすらわからない人間と、どう、話せと?!

「あ、言葉の心配はいらなかったわ」

 そういう事?とデュアが少し安心したと言う顔でバサルを見る。一体、何でそんなにバサルが混乱しているのか分からなかったのだろう。

「……言葉の心配がない?」
「大まかな言葉は通じるみたい。ただ、なんて言うのかしら……その来た人が使う物の名前?ええと、そう、これとか、こちらでは三日月刀って言うようになったけど、この人は『シカ』と言っていたもの」

 デュアがここと指さした場所には確かに『シカ』と書かれている。シカ……とバサルが口の中で繰り返す。

「言葉は一応、通じると考えていい。だけど、おそらく細かい言葉はあちらの言葉に合わせるか、こちらで使いやすい言葉に変えるかしていかないと……」

 なるほどとぎこちなく頷きながら、バサルがどうにかその女性のページを読む。

 ローマという国名。コプラという名前。闘剣士。

「裸で……闘わせる?」
「……危ないわね」
「いや……負け知らずだったと書いてある」

 バサルが目を見開く。

「こちらでも、騎士団の人間と闘ったのか!」
「え?裸で?」

 そこまでは書いてないが、確かに騎士団から人を呼んだと書いてある。男三人と闘わせ、全て不能にす。
 殺したのか……怪我をさせたのか。書いてはいないが、そのどちらかしかないだろう。

 強かったのだ。

「ちょっと、待て……身体能力高し。独特の体術を使う。シカは暗器としても使用」
「……暗器。物騒な」
 
 ソロが顎髭を撫でながら、顔を顰める。暗殺の為に使う武器の事だ。

「……デュア」
「何」
「ここら辺の時代って……まだ、国交って整ってなかった頃か」

 デュアがうーん?と唸りながら、ページを捲る。その前のページの獣を見て、はっきりと思い出したらしい。顔を顰めたまま頷く。

「戦が絶えなかった時期ではあったわね。あっちと停戦したら、今度はこっちって」

 バサルがなら、と考える。こういう武器……今でこそ、三日月刀と言われる短剣だが、シカを体に潜ませて、女性が敵領に潜り込めたら?あわよくば、下女として領主の側に近寄れれば?

「……暗殺すら容易いのか」
「え」

 さすがに、言葉が出ない。
 国益……と言えば、国益になるのだろうが……そんな女性の暗殺集団でも作れと神は言いたかったのだろうか。
 それとも、女でも騎士団に入れると示したかったのか。
 考え込んだバサルの横で、ぺらぺらとデュアが紙をめくる。バサルは気が付かなかったが、本の半分は白紙だった。
 これから来るのモノの為のページなのだろう。

「デュア」
「何?」
「それで……この、シカを持って来たモノは……どうしたんだ?」

 デュアが手を止める。そして、もう一度、その女性の事が書かれたページを開く。
 国、名前、その国益となりえる……この場合は『シカ』の特徴。女性の身体能力の高さを評価する箇条書きのような物。

「どうしたとは……書いてないわね」
「……家に……帰さなかったのか」

 ぴくりとデュアの手が止まる。ソロが顔を上げ、バサルを見る。
 バサルは二人の動きでわかった。
 頭を抱えていた手で、髪を強く握りしめる。

「……勝手に!勝手に連れてきて!国益のためだか、なんだか知らんが!呼びつけて、いや攫ってきて!そのままかっ?!」
「どうしろって言うのよっ!!」
「人だったんだろうっ?!動物じゃないじゃないかっ!人間だったんだろうっ!俺達と同じ人間だったんだろうがっ!お前はっ……!」

 デュアは躊躇うなとバサルに言った。命に関わるような危険なモノだと判断すれば、迷うなと言った!

「お前は俺に!俺に!どっからか攫ってきた奴が、役に立たなきゃ、危なけりゃ殺せと言うのかっ?!人間を獣み……」

 ぱんっ!と甲高い音がした。
 頬に走った痛みにバサルが思わず口を閉じる。
 デュアが大きな目に涙を溜めるだけ溜め、バサルを睨みつけていた。

「どうしろって!言うのよっ!!」

 小さい拳を体の横で震わせ、小さい体を怒りに震わせ。
 バサルがぶたれた頬を押さえる。
 どうしろと……言うのよ。
 デュアが東屋から飛び出していく。ちょうど、洗濯物を取り入れたアイル達が気が付き、どちらかが走って行く。おそらくアイルだろう。

「……バサル」

 ソロが渋い顔で目の前で立ち尽くすバサルに声を掛ける。

「デュア様がしていることではないぞ」

 ぎりっと歯を噛みしめる。そうだった。デュアはただ、神託を受けるしかできない存在だ。

「デュア様は……自分が口にした事を出しっぱなしにはしたくないからと、ここにおられる」
「どういう?」
「……神託なんぞ言いっぱなしで構わないとは思わんか?」

 言われた意味が分からず、バサルが首を傾げる。

「こんな辺鄙な神殿なんぞにおらんで、王宮の一室にでもおったって、神託は受けられる。そこで、偉そうにふんぞり返って、神託でございます、って言えばいい」
「……神託は……場所を選ばないから?」
「どこでもいい」
「……そうなんですか」

 いや、そうだろう。さもなきゃ、表の神殿の大広間で神職選びなどできるはずがない。

「神からの御言葉を下々のお前達に授ける。ありがたく聞け。あとは良きにはからえ。で、すむことを……デュア様はよしとしなかった」
「……あ」
「神託は告げざるをえない。それはもう、大神官様の務めじゃ。だが、デュア様はそれ以上の事をしようといつも必死じゃ」

 命を守るため。

 そうかとバサルが頭を再び抱える。神の神託を受けられるから大神官なのだ。それ以上の事など、本来なら関わらなくてもいいだろう。いや、関わる必要もないはずだ。

 国益をもたらすモノが来ます。

 とだけ言い、あとは任せた、と引っ込んでいてもおかしくない存在なのに。
 あの小さな体で、デュアは必死にどうにかできないかと模索している。
 おそらく、この本を作るように指示したのもデュアだろう。記録を残し、後世の人間が見ることができるように。

 あれだけ、命の事を気にするデュアが、例え他国の者の命でも、ないがしろにするはずがないのに。

 オルゲニア国だろうが、他の国の人間だろうが、同じ命だとデュアが一番分かっているのに。

「ソロ様、バサル様」

 後ろから控えめな声がした。ゆっくりと顔を向けるとアイロが立っている。だが、バサルはその腕の中にあった物に目が釘付けになった。

 黒の革表紙。

「マヌーサが、これを持って行けと」

 アイロがそっとバサルにその重たい本を手渡す。バサルがその重たさを受け止め切らずに本が揺れると、アイロがバサルの手ごと本を支えた。

「その本には……名前も告げずに亡くなった者が書いてある」

 名前も告げず?バサルがアイロの手を借りながら、その重い本をテーブルに置く。アイロは本をテーブルに置くと、どこかに行こうとしたが、ふと、何か思い直したかのように、バサルの隣に座った。その存在にバサルがほっとする。黒い革表紙の本がひどくバサルは怖い。
 息を整えてソロに向き直る。何から聞けばいいのか考えて、口を開く。

「言葉は通じるんですよね?」

 それなのに、なぜ?

「口をきかなんだ」

 え、とバサルもアイロもソロを見る。ソロはふぅと大きな息を吐くとそうだの、とバサルを見た。

「攫ってきた……という言い方があっておるのかもしれんな」

 人攫い。いや……神が攫う。国すらどこにあるのか分からない人間を、神がここの空から落とす。

「ここはどこだと叫び続け、泣き続け、家に帰してくれと願うが……デュア様にもどうしようもできない」

 そうかとバサルも俯く。言葉が通じると言う事は、自国にいると思う人間の方が多いだろう。

 何が願いだ!どうすれば家に帰してくれる?!

 デュアには答えようがない。その人間がどのような国益をもたらすのも分からないというのに。そして、家になど帰せないだろう。その者の国がどこにあるかもわからないのだから。

 バサルがのろのろと指で黒の革表紙を開く。風でページが捲れるのを、アイロの細い指が押さえる。

 書いてあることは簡単な事ばかりだった。

 男か女か。来ていた時に身に着けていた服。持ち物。おおよその年齢。

 それでも、十人前後。

「儂が神殿に来てからも一人おった」

 ソロがそれの最後じゃとアイロに言う。アイロがページを捲ると、最後のページに女と書いてあった。

「あの穴の中から出ようとせん。おぬしのように役目だと言われ連れてこられたのもいたが、気持ち悪がって逃げる始末じゃ」

 逃げる。

「女の方は……大人で?」

 アイロが小さな声で聞く。なぜか、そのページにはおおよその年齢の記載がない。ソロはしばらく無言ののち、いやと首を横に振った。
 バサルが思わず拳を握る。こめかみに青筋が立つ。

「……子供が……子供が、なんの国益になると」
「……わからん」

 いや、とソロが言葉を続ける。分からずじまいだったと。
 アイロがそっとバサルのきつく握られた拳の上に手を重ねた。その柔らかさに、バサルが息を吐く。

「くそだな……」

 だが、口から出た言葉は神を罵る言葉だった。アイロが目を伏せる。ソロが肩を落とす。

「デュア様は神の事をそう呼ぶ」

 え、とバサルとアイロがソロを見る。ソロは自分の前に置いてあったカップを手に取り、立ち上がりながら呟いた。

「記憶が戻るたびに、くそがと思うそうだ。一体、いつになれば、自分を自由にしてくれるんだと喚き散らして泣くそうだ。だが、泣いても、喚いても、デュア様はデュア様じゃ。ここに戻らざるをえん」

 オルゲニア国建国の頃から。

 ◇

 机に突っ伏したままバサルは立ち上がれずにいた。組んだ腕の中に顔を埋め、身動きすら取れない。

 何が神だ。何が役目だ。何が覚悟だ。

 ここに来て、あの本はずっとバサルのへ部屋にあった。それを読まなかったのは自分だ。デュア達もまさか読んでいなかったとは思わなかっただろう。あの本に来たモノを記録するのもバサルの役目だったのだから。

 俺が、くそだ。

 来れば分かるだろうと思っていた。来るのはよくわからんものと決めつけていた。来ても動物ぐらいだろうと考えていた。

 まさか、人間が来るとは思ってもいなかった。

 世話をするとかの話じゃない。そんな上から見ていい物じゃない。

 神が攫って来た人間の面倒を見なければならない。いきなり、連れてこられたと分かっている人間の面倒を見なければならない。

 どうしろと?!

「……いやになる」

 呟いたバサルの隣に座るアイロがなんですか?と柔らかく聞く。

「この国も、この国の神も……この俺も……いやになる」

 役目を放り出して逃げたという前任者の事を思う。逃げたくもなる。来る相手は世話をする相手を、バサルを敵だと思うだろう。

 敵だと思ったから……子供は口もきかずに死んだのだ。

 ぐぐっ、と再び拳に力が入る。親から引き離され、どれだけ恐ろしかっただろう。怖かっただろう。悲しかっただろう。あんな、穴に落とされ、あんな広場に出され。

 どれだけ、絶望して……死んでいったのだろう。

「デュア様は、おそばにおられたはずですよ」

 アイロがなんでもない事のように言った。バサルがぴくりとする。

「おそらく、前のデュア様だとは思いますが……デュア様は絶対にお子を一人にはさせなかったと思いますよ」

 デュアが……デュア様が子供を一人にさせるはずがない。
 のろのろと、どうにか顔だけ腕の中から上げたバサルに、アイロは少し考え込んだ。そして、いきなり、着ている服の肩紐を片方外した。
 バサルがぎょっとして……くるりと背を向けたアイロの背に目を見開いた。

「……ア、アイロ」

 真っ白な背中に……むごい火傷の痕。いや、これは……これは焼き印。バサルが口元を押さえる。なぜ、こんな……。
 アイロが急いでまた肩紐を結び直す。

「お姉様には言わないでくださいね。お姉様は、ここに来れた日に、自分でこれを焼きました」

 バサルが絶句する。焼き印を……さらに焼いた?

「約束ですよ?お姉様は、こんなものを背負って生きるなんてまっぴらだと言って……」
「わかった。絶対に言わない。本当に言わない」

 アイロと違い、気の強い所があるとは気が付いていたが、バサルが思っていた以上に……気性が激しいのだろう。 
 アイロがふぅと息を吐いて、空を見上げる。何から話せばいいかしらと考え込んで……話し始める。

「私達はこの国の生まれではありません。お気づきでしたか?」
「いや……いや、ただ、背は高いなとは思っていたが」

 異国の民だとは知らなかった。気が付かなかった。

「この国では双子は珍しいとお聞きしましたが……」

 バサルがそれはそうだと頷く。いるとは知ってはいるが、見たことはない。おそらく、バサルはアイル達が初めての双子になる。

「私達の国では、珍しい事でもなんでもなかったんです」

 くすくすとアイロが笑う。

「双子が……多いのか」
「親も双子。子も双子。双子同士が結婚して、また双子」

 きょとんとしたバサルにアイロがふふと笑う。だが、その笑みが消える。

「それでも……私達みたいにそっくりな双子は珍しかったんです」

 親ですら見分けがつかなかったとアイルが言っていた。その為に目印を付けた。

「年頃になって、奉公に出た先で……攫われました」
「え」
「ほら、私達、その時から美人さんでしたから……」

 にっこりと笑うアイロは確かに綺麗だ。だが、バサルは笑えない。

「人買い……っていうんですかね。二人揃って売られて、二人揃って買われて……」
「アイロ、もう、いい。もう、いい」

 バサルが体を起こしアイロに向き直る。だが、アイロは軽く首を傾げ言葉を続ける。

「この国の献上品に……お土産にするんだって言われて連れてこられたんです」

 バサルが思わずアイルの手を取る。細い手を握りしめる。
 献上品。その為の……焼き印。
 干し肉と同じ扱いを……こんなに若く綺麗な女にするクズがいる。獣がいる。
 アイルの左腕のブレスレットが揺れる。

「よ、く……逃げたな」
「私は……もう、諦めてたんですけどね」

 アイロが小さく呟いた。それはそうだろう。体に焼き印まで付けられ、土産にすると言われ。逃げる気力すら奪われる。逃げても……先がないと諦める。

「山を越える馬車が崖から落ちたんです。もう、死んだ。ああ、よかったって私は思ったんですけど……」

 どこまで……。どこまで……。

 バサルがアイロの手を握り、額に押し当てる。ちりっとブレスレットが小さな音を立てる。

「お姉様が、行くわよって。逃げるわよって」

 この国の神が助けてくれたんだわ!

 そう叫んで崖の下の神殿に飛び込んだ。オルゲニア国では人買いは禁止されている。アイル達は神官に匿われ、どうにか逃げ切り、ここに来た。

「ソロ様にお会いできて、ここに来て。デュア様と会えて、マヌーサと会えて。普通にお洗濯してお料理を作って食べて……」

 アイロがふふっと笑う。だが、その目尻に涙が浮かぶ。

「信じられないほど、幸せなんです。本当に……幸せなんです」

 バサルは腕を伸ばして、アイロの細い体を抱きしめた。アイロが少し、照れたような笑い方をする。

「だから……ここに来る人間が……全部、不幸だと思わないでくださいね。きっと、バサル様も、デュア様……」
「ん。わかった。わかった。アイロ」

 もう、いい。本当に大丈夫だと、アイロの頭を自分の肩に押し付け、自分も呼吸を整え……空を睨む。自分に喝を入れる。

 不幸だと……思わせない。悲しいと思わせない。それも、一緒に抱えてバサルが生きればいい。

「来るモノも幸せにしよう」
「はい」

 ぐすと鼻をすするアイロの額にバサルは親愛のキスをし、立ち上がった。アイロがきょとんとする。

「デュア!デュア様!どこだっ?!」

 脇に黒の革表紙の本を挟み、自分が傷つけてしまったデュアを探す。アイロも慌てて追いかけてくる。

「デュア様っ!デュア様ーっ!お姉様ーっ!」

 すると、神殿の陰に小さな姿が現れた。杖を突いている。

「マヌーサ!」

 マヌーサが杖をどこかに向ける。どこだ?とそちらを見て、雑木林だと気が付く。

「あ……」

 礼を言おうとして振り返った時にはもう、見えなかった。年寄のくせ、足が速い。

「デュア!デュア様!」
「お姉様!」

 がさごそと音がし、ひょいとアイルが頭を出した。

「アイル!デュア様はどこだ?!」

 アイルがそっと自分の足元を指す。そこになぜか洗濯物の山がある。バサルが近づくと山が揺れる。

「……様つけたって、許さないから」

 バサルがこの中かとその山の隣にしゃがみこむ。

「デュア様。申し訳なかった」
「デュア様、暑くないですか?」

 アイロもしゃがみこむ。アイルがもう、どうにもこうにもと両手を上げている。

「デュア様、本当に申し訳なかった。お顔を見せて下さい」

 バサルが真面目な顔で頼む。すでに正座だ。

「デュア様のお気持ちも考えず、浅はかな物言いをいたしました。どうぞ、お許しください」

 正座して、頭まで下げたバサルにアイルがひっ!と声を上げる。バサルの隣で、慌ててアイロも座り込み、頭を下げる。

「アイロっ?!何っ?!どうしたのっ?!」
「バサル様が、みんなで幸せになりましょうって!来たモノも幸せになれるようにしましょうって!」
「何が来ても、誰が来ても!その来たモノがここに来て悪くなかったと思ってくれれば!俺が、そのために、そのモノに仕えます!」
「私も、頑張ります!」
「アイロっ?!」

 アイロが何かを頑張ると言ったことが今までなかったのだろう。アイルが固まったまま、動けなくなる。
 もぞっと洗濯物の山が動いた。地面に伏せて泣いていたらしいデュアが顔を覗かせる。
 泣き腫らした顔がぶすくれている。

「……礼を言った方がよいか?」
「とんでもない!」
「デュア様!」

 出てきてください!とアイロが言い、デュアがぷはと洗濯物の山の下から現れる。
 汗、びっしょりだ。

「デュア様」
 
 顔を見せたデュアに地面に座ったまま、顔を近づける。デュアが顔を顰めたまま、なんだと顎を引く。

「俺はデュア様も……幸せにしたい。恐れ多いとは思いますが」
「私も、そう思います!だって、私、今、すごくありがたいです!」

 アイロの言葉にはっとアイルが振り返った。じっと妹を見て、ふっと笑う。そして、アイロの隣に同じように座り込んだ。

「私も、本当にありがたく思っております」

 アイルが頭を下げ、アイロも習う。その隣で、バサルも頭を再び下げる。

「俺は未熟者で、馬鹿です。デュア様の足元にも及びませんが、精進します。鍛えます。来るモノが来てよかったと思えるように」

 国益をもたらすモノが来る。そのモノの為に。このデュアの為に。この神殿にいる者達の為に。

「自分の為に」

 デュアが立ち上がった。風が吹き抜け、洗濯物が飛んでいく。それを目で追いながら、デュアが風で膨らんだ髪を押さえる。

「許す」

 大神官 デュア・シュセリが呟く。それを頭の上で聞き、三人が深く頭を下げる。

 腹の底に何かが溜まる。ようやくすべきこと、なすべきことが分かった気がする。

「立ちなさい」

 デュアが静かに言う。バサル達が顔を上げると、いつの間にかデュアの隣にソロがいた。ソロがほっとしたように笑う。

「なによりじゃ」

 デュアがソロの言葉に小さく頷き、バサルに向かい手を伸ばした。

「だっこ」

 一瞬、ぽかんとしたが、バサルが、はいと大きく頷き、立ち上がる。小さな体を抱き上げ、肩に乗せる。

「よし!飯にしよう!」

 アイル達が歓声を上げた。

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