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第一話 オムライスと野菜スープ

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はじまりの言葉

「嫌いなものを数えるよりも、数えきれないくらいたくさんの好きがあるほうが、とても楽しいものよ」

 柔らかな微笑みとともに与えらえたその言葉は、世界を照らす希望の言葉になった。








 如月きさらぎ紗和子さわこは、ベンチに腰掛け雲一つない青空を見上げて、ため息を一つ零した。
桜の花びらが柔いそよ風にのって、ひらひらと舞い踊っている。
 公園の花壇には、パンジーやヴィオラが溢れんばかりに花を咲かせ、公園を囲むように植えられた桜の木の下では、幼い子どもたちを連れた母親たちのグループや学生たちが花見を楽しむ姿がある。今日は平日だから、混んでいるというほどではないが、明日の休日には、大勢の人で賑わうのだろう。
 花見を楽しむ人々は皆、楽しそうに笑っていて、不安や絶望なんて無縁のように見える。
 ゆっくりと瞬きをすると、更に世界が賑やかになる。
 人々の心から様々な色の糸やリボンが伸びて、楽しそうに揺れている。女子大生と思われる若い女性の心から伸びるピンク色のリボンは、隣に座る同じ大学生なのだろう男性へと延びて、彼の肩にそっと触れている。すると男性の心から伸びる青い毛糸が伸びてきて、女性のリボンにそっと触れた。
 きっと、彼女と彼は恋人同士かあるいは、恋人になる前の両片思いの頃なのだろうなと微笑ましくなって紗和子は小さく笑みを零した。
 紗和子には、物心ついた時から不思議な「糸」が見えた。
 それは大体、胸のあたりから伸びていて、色も材質も様々だが、全てひも状の物体だ。だから、紗和子は総じてこれを「糸」と呼んでいる。
 おそらくこれは心から溢れる「感情」というものなのだろうと紗和子は思っている。
 だが、見えるからと言って触れるわけでもないし、何ができるわけでも、まして、生活の助けになるわけではない。
 紗和子が何度目ともつかぬ溜め息を零すと、足元にちょこんと座って居た愛犬が顔を上げる。柴犬風の雑種犬で、まだ八カ月の愛犬は幼さの残る顔をしている。

「……不甲斐ない飼い主で、ごめんなさい、春ノ助はるのすけ

 黒い円らな瞳が、じっと紗和子を見つめている。

「きゅーん……」

 飼い主の元気がないことが分かるのか、春ノ助は立ち上がり紗和子の膝に頭をのせて「撫でると元気出るよ!」とでも言いたげに紗和子を見つめる。紗和子は、思わずふっと笑みを零して、春ノ助のふわふわの頭を撫でた。
 紗和子は、途方に暮れていた。もうどうやって立ち上がればいいのかも分からなくなりそうで、唇を噛む。
 紗和子には、祖父と両親と弟妹がいるが、家族とは疎遠だった。高校を卒業し、寮のある大学に進学してからは一切の連絡を絶っていた。
 紗和子が進学先に選んだのは、卒業と共に実務経験不要で国家試験の受験資格が貰え、その試験にさえ受かれば管理栄養士の資格が取れる学部のある四年生の大学だ。卒業後は、在学中からアルバイトをしていたひまわり家政婦紹介所に就職した。その紹介所には古いが家賃が僅か二万で住める寮代わりのアパートがあり、そこで暮らしながら先月までは家政婦として働いていた。
 『働いていた』。そう、過去形だ。過去のことだ。
 勤務先の社長が不祥事を起こし、ひまわり家政婦紹介所は、業務が縮小されることになったのだ。よりにもよって社長が顧客の奥さんと浮気をしたのだ。社長は既婚だったので、W不倫だ。この業界で最大のタブーと言ってもいい。
 結果、信用は地に堕ち、多くの契約が打ち切られた。紗和子も二件の契約先から『貴女、見た目が派手だから前々から心配だったの』と理不尽に契約解除を言い渡された。他の三件の契約先も、転職や引っ越しと重なり、惜しまれながらも契約終了となった。
 自惚れではなく、紗和子は家政婦として優秀だった。契約はひっきりなしであったし、他社からスカウトされたこともあった。
 だが、今回の件で「顧客と不倫する社長のところの家政婦」というレッテル張られ、スカウトされていた会社に連絡を入れても無視されて終わりだった。
 家政婦は、どうやっても家庭に関わる仕事だ。家事の代理なのだから、極力関わらないようにしていても難しい。故にこの社長の不倫というのは、家政婦である紗和子たちにとって本当に最悪だった。
 紗和子ははっきりとした顔立ちで、よく『派手な美人』と揶揄される。ぱっちり二重のアーモンド形の目、鼻筋の通った小さな鼻、薄紅色の唇は形よく、それぞれのパーツが小さな顔に絶妙な配置で納まっている。それに加えて生まれつき色素の薄い亜麻色の髪や飴色の目が余計に派手さを増長させているらしい。こういったことを言われるのは初めてではなかったし、それが原因で契約を更新してもらえなかったことも、事実、顧客の男性に言い寄られて困ったこともあった。
 最終的に、事情を理解した上で顧客から続けて欲しいと言われた家政婦のみが契約を続けるが、新規契約は取らず、また既存の契約も延長、更新などは無し。最終的には閉所されることになったのだ。
その上、会社所有の寮になっていたアパートは、売り払われて慰謝料に充てられることになり、今月末までに立ち退きを要求される羽目になった。
 他に五人ほど寮に住んでいたのだが皆、早い段階で行く当ても次の就職先も決まって残るは紗和子と春ノ助の一人と一匹になった。期限は、あと三日だ。
 古いアパートだから飼育許可が下りた春ノ助という愛犬がいた紗和子の新しい住まい探しは難航した。ペット可の物件が普通に比べて少なく、更に家賃というのは、総じて高いのだ。その上、三カ月ほど前、こんなことになるとは知らず奨学金をまとめて返済してしまったので貯金も雀の涙だった。失業保険が出ても家が見つからなければ話にならない。
 だが、厄介事というのは一度に集まる習性でもあるのか、短大進学を機に連絡を絶ったはずの実家から、どこで聞きつけたのか最後の契約が打ち切れられたその日、「家に戻れ」と連絡を寄越してきたのだ。
 絶対の絶対にお断りだと拒否する紗和子の意思を父は相変わらず無視して、一方的に「見合いの席を設けた。もう結婚は決定している。一週間以内に戻るように」と告げた。
 それが一カ月ほど前のことだ。紗和子は実家関係の番号を全て着信拒否設定にして、父がそうしたように紗和子も父の存在を無視した。
だが、一週間ほど前、最悪なことに先方の男が、見合い写真の紗和子に一目ぼれをしたと言って事務所に押し掛けてきたのだ。
 タイミングの悪いことに、紗和子はその日、事務所にあれこれ荷物や書類を受け取りに行っていて、鉢合わせしてしまったのだ。
 あの日は、同じく書類を取りに来ていた同僚たちがかばってくれたおかげで、なんとか逃げ遂せたが、あれから毎日、男は事務所に訪れて紗和子はどこだと騒いでいるそうだ。社長は、自分が不祥事を起こしたことに負い目があるのか、今のところは紗和子を庇ってくれて、所在は知らせないようにしてくれている。

「……ううっ、春ノ助~」

 頭を抱えるように抱き締めれば、春ノ助のくるんとした尻尾がぶんぶんと揺れる。
 春ノ助を手放すことだけは絶対に嫌だった。紗和子にとって唯一の家族なのだ。

「見ィつけた」

 不意に聞こえてきた声に勢いよく顔を上げると、数歩先に男が一人、立っていた。

「あ、綾小路あやのこうじさん……っ」

 それは、父が勝手に決めた見合い相手の綾小路哲也てつやだった。
 明るい茶色の髪はおしゃれにセットされ、一見して高級だと分かる服に身を包んだ姿は、誰が見てもどこか良い家の坊ちゃんといった身なりだ。
 だが、彼の紗和子を見る目には、ぞっとするような何かが潜んでいる。

「ど、どうしてここに……」

 思わず立ち上がり、春ノ助のリードと荷物を握りしめてベンチから外れるように徐々に移動する。
 先程何気なく「糸」を見てそのままにしておいたのを酷く後悔した。こんなことならば、すぐに見えないようにしておくべきだった。
 綾小路から伸びる「糸」は真っ黒でどろどろした恐ろしい何かに覆われていた。それがゆっくりと紗和子へと延びているのだ。
 それを視界から消すために紗和子は急いで、しかしゆっくりと瞬きを一つした。

「紗和子、帰ろう。君のために新居も用意したんだ」

「私はあなたと結婚する気はありません……っ。私は如月の家とは無関係なんです。父に何を言われたかは知りませんが、お引き取り下さい」

 声が震えないように精一杯虚勢を張った。春ノ助が、ヴーと低い唸り声を上げて、綾小路を睨みつけている。
 だが、綾小路は引き攣ったような嫌な笑みを浮かべて小首を傾げた。

「父? 如月? そんなの関係ないよ。俺が君を気に入ったんだから、他の誰かなんて関係ないだろう? 君は僕の花嫁になるんだ」

 春ノ助の唸り声がますます大きくなる一方で、紗和子は、じわじわと近づいて来る綾小路から逃げるように後ずさる。

「一目見た時から運命だって分かったんだ。さあ、紗和子。我が儘を言っていないで帰ろう。いや、帰る前に君のウェディングドレスを見るのもいいね。それとその薄汚い犬は、ここに置いて行ってくれよ。俺、動物は嫌いなんだ。紗和子なら知っているだろう?」

 この人は何を言っているのだ、と恐怖に震えそうになる脚をどうにか動かす。
 だが伸びてきた手に手首を捕まれる。まるで骨でも折ろうとするかのように、力加減など一切なく、振りほどこうとするとさらに力が強くなる。あまりの痛みに「ひっ」と口から悲鳴が漏れた。手に持っていた紗和子のバッグとエコバッグが落ちて、春ノ助の缶詰がころころと散らばった。

「さあ、帰ろう。紗和子。もう二度とひとりで外に出てはいけないよ。外の世界は君にとって危ないからね」

 春ノ助が牙をむき出しにして吠える。周りの花見客が何事かとこちらを気にしている様子が視界の端に映る。助けを求めようにも、あまりの恐怖に声が出ない。
 綾小路の視線がぎろりと春ノ助に向けられる。

「うるせぇな……クソ犬、死ねよっ!」

 綾小路が足を引いた。紗和子は、火事場の馬鹿力で綾小路の腕を振り払い春ノ助を庇うように抱き締め、襲ってくるであろう痛みを覚悟して固く目を閉じ、歯を食いしばった。
 だが、待てど暮らせど痛みは襲って来ず、紗和子は恐る恐る目を開ける。
 ふわりと白檀が香る。

「か弱い女性や動物に暴力をふるうのはいただけませんね」

 低い声は威圧感を伴っている。
 随分と背の高い和装の男性が綾小路の腕を後ろにひねり上げていた。綾小路が痛みに顔を歪めている。

「てめぇ、何しやがる、放せ! 俺はこいつの婚約者だ! しゃしゃり出んな!」

 綾小路が吠えると男性は、ぱっと腕を放した。だが、紗和子を背に庇うようにして、するりと二人の間に立ちはだかる。ふわりとまた白檀が香る。

「お嬢さん、この方は本当に貴女の婚約者ですか?」

 振り返った男性に紗和子はぶんぶんと首を横に振った。男性は、こくりと頷くと、再び綾小路に顔を向ける。

「あまり手荒な真似はしたくありません。今すぐに立ち去ってください」

 淡々と紡がれる言葉は、穏やかなようでいて相手を従わせる何かがあった。
 綾小路が後ずさる。

「……今、すぐに」

 男性が念を押すように告げると同時にどこからかパトカーのサイレンが鳴り響く。綾小路が舌打ちをして後ずさる。

「……紗和子、後で家に迎えに行くから、待ってるんだよ」

 まるで子どもに言い聞かせるように言って、綾小路が逃げ出していく。

「……大丈夫ですか? えっと、さわこ、さん?」

 男性が振り返り、目の前にしゃがみこむ。紗和子は、がたがたと震えながら春ノ助を抱き締め、頷いてはみたが説得力はないだろう。

「――ますか? ぼ――千春ちはる、いいま――」

 ドクンドクンと恐怖に鳴る心臓のせいで、男性の言葉はよく聞こえなかったが、辛うじて千春という名前だけは分かった。
「あり、ありがとうございました……っ」
 震えてしまって舌を噛みそうになる。
 男性――千春が心配そうに眉を下げた。その顔を最後に急に揺れ出した世界に逆らうことができず、紗和子は目を閉じた。がくんと落ちていく感覚に戸惑いながら、抗うことも出来ずに意識を手放してしまったのだった。
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