称号は神を土下座させた男。

春志乃

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第三十七話 相応しい男

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「……どうしてこんな、酷いことを……っ」

 一路が震える声で囁くように告げた言葉は、そこかしこで零される嗚咽に呑まれて消えていく。
 真尋は唇を噛み締めて拳を握りしめた。
 クルィークの一階、連日、大勢の客で賑やかだったはずの店内の床には、三十数名の遺体が並んでいる。店の奥から現れた騎士たちがまた一人、床にそっと横たえた。

「……神父殿」

 強張った声に呼ばれて顔を上げる。

「ラウラス殿、遺体はこれで全てですか?」

「いや、上にマノリスとエイブがまだ……そのことで神父殿を呼んで来いとアルトゥロ院長に言われたんだ」

「分かりました。すぐに行きます」

「僕は此処に居るよ。彼らの体に何か残っているかもしれないし、何かあっても困るから」

 一路が言った。真尋は、分かったとだけ告げてラウラスについて店の奥へと進んでいく。奥にあった階段を上がる。
 真尋が槍を拝借したエルフ族の男性騎士は、クラージュ騎士団第一師団第一大隊副大隊長という肩書を持つ騎士だった。ウィルフレッドが留守にし、大隊長や師団長、副師団長までいない今、彼が騎士団本部のトップなのだという。ラウラスは見た目こそ真尋と変わらぬように見えるが、実際はジョシュアやウィルフレッドよりも年上だそうだ。非常に優秀でウィルフレッドが信を置く人物でもあり、リヨンズを監視する役目を担っていたのだという。第二小隊にクルィークを調査するように言ったのも彼だった。
 ロークで真尋とラウラスが挨拶を交わした後、騒ぎは起きた。
 ラウラスの指示でクルィークに行った騎士が顔を真っ青にして戻って来たのだ。
『ラウラス副大隊長! 大変です、クルィークの店内に多数の死体がっ!』
 その叫びに真尋たちはクルィークに掛けこみ、広がる地獄を目の当たりにした。
 従業員と使用人が全員、無残な姿で発見されたのだ。しかも皆、肉が抉れるほど胸を掻き毟り、苦悶の表情を浮かべてこと切れていた。遺体は店の中だけではなく、店の上にある住居スペースや厨房、浴槽、トイレとありとあらゆるところで見つかった。鍵がかかった物置の中に居た者もいた。

「アルトゥロ院長、神父殿をお連れした」

 開けっ放しのままのドアの前に立って、形ばかりラウラスが声を掛けた。どうぞ、とアルトゥロの返事を聞いて、二人は部屋の中に入る。
 金の壺や彫刻、裸婦画に贅の限りを尽くした様な趣味の悪い部屋は、おそらくマノリスの寝室だろう。広い部屋の奥の方にはキングサイズのベッドが置かれている。
 アルトゥロが立って居たのは、そのベッドの向こうだった。近づいて行けば、彼の足元に二人の死体が転がっているのに気付いた。ぶくぶく肥った男とひょろりと痩せた男の遺体だ。肥った男の方は服を着ておらず全裸だった。

「マノリスとエイブです。この二人だけ死因が異なるようです」

 アルトゥロが言った。
 真尋は手を合わせてから死体に近付き、様子を見る。
 マノリスは酷い暴行を受けた様で体中痣だらけだった。胸に鋭利な刃物を突き立てられたような跡があって、彼の体の下には血だまりが出来ていた。その横に転がる痩せた男は、自分で首を一突きにしたらしい。口と喉の周りが血まみれだった。

「……お前は、エイブじゃないな」

「神父殿?」

 真尋は痩せた男の遺体に手を翳して、隠蔽解除を唱えた。
 そこに現れたのは、薄汚れた服を身に纏って、痩せこけた体躯の中年の男だった。

「なっ、誰だ?」

 ラウラスが目を瞬かせる。

「恐らくギルドカードを持たない身元不明者だ。貧民街かどこかで適当に見繕って来たんだろう。この人とマノリスは、インサニアで殺されたのではない、見た通りの死因で間違いないだろう」

 真尋は、男性に手を合わせてから立ち上がる。

「……従業員や使用人は、皆、インサニアの餌にされたんだ。インサニアを育てるために……あいつらは、何かをやらかす気だ」

「インサニアを、育てる?」

 アルトゥロが首を傾げる。
 真尋は立ち上がり、窓辺へと向かう。ラウラスの許可を取ってカーテンを開けて窓を開ける。そうしなければ立ち込める血の臭いに囚われてしまいそうだった。湿った風がふわりと部屋の中に入り込んでくる。

「ザラームが言っていた。自分はインサニアを生み出せると、そして、それを育てるにはこの核を与え、」

 真尋は黒い魔石の入った小瓶を取り出して二人に見せる。

「人の魔力と命を餌にすることでより強く、邪悪に育つのだと」

「……そんな、ことのために此処の人々は、貧民街の人々は、犠牲になったというのですか……?」

 アルトゥロが言った。

「あいつは貧民街でインサニアの力を試していた。あそこには、小さいがグリースマウスという魔獣も居るし、貧民街の住人は騎士を嫌うから事件は一向に解決しないだろうと思ったんだろう。俺達が知らないだけで、もしかしたら騎士団に通報されず、葬られた遺体もあるかも知れない」

 真尋は空を仰ぎ見るように窓枠に寄り掛かり上体を反らせた。

「これはまだ弱い。誰の力も得ていないからな、この核の中のあいつの魔力が消えればそれで終わりだ」

 真尋は小瓶を振ってみせた。

「確かそれはリヨンズが持って来たんですよね?」

「ああ。リヨンズの馬鹿が騒ぎに乗じてな。あいつは、俺の屋敷をここと同じような状態にしようとしたんだ。あわよくば俺や一路という唯一、インサニアに対抗しうる存在を消したかったんだろう」

 大通りは騒然となり、町民たちが不安そうに様子を窺っている。

「……あいつらは、この町を殺す気だ」

「町を、殺す?」

 アルトゥロが首を傾げた。長い髪がさらりと揺れる。

「ザラームは俺に言った。明日にはこの町は終わってしまう、と」

「……領主を殺すということか?」

「いいや違う。領主は俺と同じだ。あわよくば殺せればいい、という程度だ。その証拠にエイブが使う中で最も能力値の高いザラームはこの町に居る。おそらく、領主様を襲っている奴の頭はザラームが作り出した人の形をしたものだ。だがそれは、俺達が閣下に託したものでどうにかなる。あいつらの狙いは、この町で間違いない」

「やはり二百年前の北の悲劇をこの町で起こそうとしているということですか?」

 アルトゥロが言った。

「それが分からん。俺達は、あいつらが生きたままの魔獣をこの町に運び込んで来たと考えていた。だが、それらを保管していた倉庫が消えたんだ。もしかしたら、クルィークのようにインサニアで町民を殺そうとしているのか、それとも倉庫は目隠しで、魔獣たちはこの町のどこかに隠されているのか……」

「生きたままの魔獣の話は、ウィルから聞いている。だが、魔獣だって弱いのもいれば強いのも居るだろう?」

「カマルが、三週間近く前に魔の森でヴェルデウルフの幼獣を保護した」

「今は、見習い神父さんの従魔なんだろう?」

 ああ、と頷いて真尋は窓に背を向けて枠に腰掛ける。

「もし、その幼獣が親の成獣を呼び出すための囮だったら?」

「……まさか、神父殿はヴェルデウルフの成獣をあいつらが捕えたと考えているのか?」

「あいつらが魔獣を調達していたのは、おそらく平原のその先、魔の森だ。可能性は否定できない。最悪の事態を想定していなければ、我々は後手へ後手へと回ることになるぞ」

 ラウラスは、参ったと言わんばかりにため息を零して、がしがしと髪を掻いた。アルトゥロも難しい顔で何かを考え込んでいるようだ。

「ラウラス殿」

「何だ?」

「……信頼に足る騎士はどれほどいる?」

 マノリスを見ていたラウラスが顔を上げる。

「この町の警護を担当する第一大隊は、半分がリヨンズ派だ。大隊長がそもそもリヨンズ寄りというか、貴族主義だからな。だが、大隊長は第五中隊を連れて領主様の救援に向かって居る。残るは、第一から第四中隊だ。……四百強といったところだが、内、二百弱がリヨンズ派或はリヨンズ寄りの連中だ」

「半分か……他の大隊は?」

「近衛の第二の残りとダンジョンと運河を監視する第三は持ち場を離れる訳にはいかない。雨期の今、川から目を離す訳にはいかんからな。近隣の村に散らばる第四は今から伝令を飛ばしたとしても、集まるのは明日の夜になるだろう。それに第四も半分が先月の嵐で甚大な被害を被った南東の集落への災害派遣で留守にしている」

 真尋は、ため息を吐き出したくなるのをぐっとこらえて、空を仰いだ。雨はこちらの気も知らずにざあざあと降って来る。イヤホンからは相変わらず馬車の音と雨の音しか聞こえない。

「……おや? マヒロさん、あれ」

 アルトゥロが真尋の向こう、窓の外を指差した。真尋は、何だ、と首を傾げつつ体の向きを変える。
 雨の中、見慣れた白い紙の小鳥がパタパタと一生懸命翼を動かしてこちらに飛んで来る。

「あれは……屋敷で何かあったのか?」

 嫌な想像が脳裏をかすめて、それを振り払うように頭を横に降り、小鳥に指を差し出す。

『マヒロさん! 中三小二と中二小五事務官含む計四十五名、捕まっちゃいました! すみません!! その上殺されかけまして何とか無事ですが出られないので助けて下さい! 全員、騎士団本部の大地下牢にいます!! お願いします!!』

 真尋はさっき我慢したはずのため息を長々と零して、くしゃりと前髪を掻き上げた。役目を終えた小鳥に魔力を注いでおき、いつでも使える状態にして懐に戻す。

「あの馬鹿は……いないと思えば、これだ」

 小鳥から聞こえて来たのは、真尋が預かっている馬鹿、ではなく、エドワードだった。声と報告内容からしてカロリーナたちと一緒ということだろう。

「神父殿、悪い知らせだ」

 ラスラスが腕を組んで遠くを見つめている。

「その二つの小隊の四十五名は、団長派の中枢で優秀な騎士たちだ。つまり、俺達の戦力は百五十を切った」

 遠くを見つめたまま、ははっと乾いた笑いを零すラウラスに、真尋は深々とため息を零して、エドワードを殴ろうと決意したのだった。









 階下へと降りれば、雨音の隙間を縫うように漏れ聞こえる嗚咽がまた少し大きくなっていた。
 ここに勤めていた人々の家族や親せき、友人が身元の確認のために次から次へと来ているから。腕章を付けた商業ギルドの職員が真っ黒になったサブカードを手に騎士が回収したギルドカードと照合して身元を確認している。
 そこかしこから漏れ聞こえる嗚咽は、押し殺されて苦しそうだった。

「ラウラス副大隊長、全ての部屋の捜索が完了しました。生存者零名、被害者は三十八名です」

 こちらに気付いて駆け寄ってきた騎士がラウラスに報告をする。ラウラスは、分かった、と頷き、また別の指示を与える。
 それを横目に少女の遺体の傍にしゃがみこむ一路の傍へと向かう。一路は少女の胸の傷にガーゼを当てて包帯を巻いていた。彼の周りの遺体には、目に分かる治療の痕がある。魔法を使った訳じゃない。死体に治癒魔法は効かない。一路がしているのは、包帯やガーゼを当てて文字通り、手当てをしているだけだ。

「痛かったね、怖かったでしょう? 助けてあげられなくてごめんね、でも……もう大丈夫。もう、大丈夫だよ……」

 一路は騎士に声を掛けて少女の体を起こしてもらうと丁寧に包帯を巻いて行く。

「神父さまっ、教会は……っ、神様は、死した者さえ蘇らせると、聞いたことがあります……っ」

 少女の傍にしゃがみこんでいた男が顔を上げて、一路の肩を掴んだ。
きっとこの少女の父親だ。その隣には呆然と座り込んだまま涙を流す母親の姿が有る。彼女は娘の手をきつく握りしめたまま、ただぽろぽろと涙を零している。

「貴方は、最近、この町に来たっていう神父様ですよね……っ!? 俺が差し出せるものは、何だって金だって、家だって……この命だって差し出します……っ!! だから、だからどうか……娘を、俺のメアリをどうか、どうか……助けてくださいっ!」

 一路の顔が哀しみに歪んだ。
 周りにいた家族たちが父親の発した言葉に顔を上げてこちらを振り返る。嗚咽が止んで、店の中が雨音だけになる。

「…………ごめんなさい」

 一路が小さな声で囁く。

「僕には、こうして……手当てをしてあげることしか、出来ないのです」

「そんなっ! やっぱり、貴族や大金持ちじゃ無ければだめだっていうのか! ふざけるなっ!!」

 びりびりと空気が震えるような怒鳴り声に一路が肩をびくりと強張らせた。
 真尋は、咄嗟に一路に振り上げられた拳をその腕を掴んで止めた。父親がばっとこちらを振り返る。

「どれほどの金を積まれようとも、どれほどの豪邸を差し出されようと、例え、百人の人間の命を差し出されようとも……死んだものを蘇らせることは、神にさえも出来ないことだ」

「真尋くん……」

 一路は漸く真尋に気付いたようだった。

「命あるものは、皆、何れ死を迎え、その魂は神の御胸に帰る。そこには苦しみも悲しみも無い。穏やかな幸福と平穏が魂を迎え入れてくれる。神は愛しい我が子らの魂をその深い慈愛で持って抱き締めてくれるだろう」

 真尋は掴んでいた父親の腕を離す。

「だが、愛する人の死を早々と受け入れられるほど、人の心は単純には出来ていない。何故、この子なんだ。どうしてこの子だったんだ。何でこの子が死ななければならないんだ、そういう憎しみがお前の胸に溢れているのだろう。お前だけじゃない、皆の心の中に溢れているのだろう」

「だって、だって神父様っ、兄さんはここで働いてだけなんだ、なーんにも悪いことなんかしちゃいない! なのに何でこんな、無残な死に方をしなきゃいけないのさ!!」

 近くに居た女が叫ぶように言った。
 彼女の傍には中年の男性の遺体が横たわっている。

「あんたたちが祀り上げる神様は、わたしらを愛しい我が子だって言うなら何で、助けてくれなかったんだっ!!」

「そう、だ、そうだ! メアリはまだ十四だったんだぞ!!」

「神が全ての願いを叶えてくれる存在だったとしたら、世界はどうなると思う?……きっと人々は、なにもしなくなるだろう。願うだけですべてが思い通りに行くのなら、きっと人は、滅んでいただろう。だから我らの親愛なる神は、ティーンクトゥス神は見守ることを選んだ。それがどれだけ辛いことであろうとも」

真尋は上体を屈めて転がっていた包帯を手に取る。

「……だから、俺達がいる」

 ぽろぽろと涙を零していた母親が顔を上げて真尋を見上げる。

「神が差し伸べる手は、きっと誰にも見えないし、握れないから、代わりに俺達が差し伸べよう。神が我が子らに出来ることはきっと、俺達が貴方方に出来ることと大差はない」

 母親の手が真尋が差し出した手から包帯を受け取り、娘の手へと包帯を巻き始めた。傷だらけの幼い少女の手に白い包帯が巻かれる。
真尋はその母と子の手を包む様に握りしめた。母親は、驚いたように少しだけ体を強張らせた。

「……声を上げて泣きなさい」

 母の青い瞳が揺れる。

「……いけない、わ。だって……悲しいのは、私だけじゃない、もの……」

「貴女の哀しみは、誰のものでもない。貴女だけのものだ。貴女とこの哀しみを分け合えるのは、隣にいる貴女の夫だけ」

 真尋は娘の手を握りしめる母親の手を父親に握らせた。父親のごつごつした大きな手が二人の手を包み込む。

「今はただ、泣いてしまうといい。哀しみが誘うままに、泣いてしまえ。大事な人を失った哀しみは耐えがたいものなのだから」

 二人の手を包み込むように両手を添えれば、二人の目からぼたぼたと大粒の涙が零れて真尋の手を濡らした。次から次へと溢れるそれと一緒に耐えがたい悲しみを嘆く声が零される。
 泣き出した夫婦を皮切りにそこかしこで、悲愴な慟哭が上がって店の中は涙の海でも出来てしまいそうな程に哀しみで溢れる。

「アルトゥロ、包帯やガーゼを買い取らせてくれ。手当をしよう、手が空いている者は、手伝ってくれると有難い」

「馬鹿言わないでくださいよ、僕は治療院の院長ですよ。包帯もガーゼも腐るほど持っていますから、私も微力ながらお手伝いをさせて下さい、神父殿」

 鼻の頭を赤くしたアルトゥロが笑おうとして失敗したような顔で言った。

「……そうか、ありがとう」

「キアラン第三小隊長、オーブリー第四小隊長は前に。この後のことを話し合おう。それ以外の者は、神父殿とアルトゥロ殿の指示に従え。以上だ」

 若い騎士と壮年の騎士が二人、前に出て来て、ラウラスと共に店の奥に消えた。それ以外の騎士たちは、泣き叫ぶ人々の間に入り、アルトゥロが配るガーゼや包帯を使って手当てを始める。真尋と一路は、血で汚れてしまって居る遺体の体にクリーンを掛けて回った。








 慟哭にも似た悲愴な泣き声が一枚のドアを隔てたその向こうから聞こえて来る。
 ラウラスは、休憩室を見回した。ここでは誰も死んでいなかった。テーブルの上には精霊の姿が描かれたカードが有った。絵合わせをして楽しむこの国では一般的な娯楽品だ。散らばっているカードは、直前までここで過ごしていた人々が当たり前のように生きていたのを如実に伝えて来る。
 どかり、と椅子に腰を下ろした。後から入って来た小隊長が二人、何とも言えぬ顔で立ち尽くしている。

「……神父、か」

 ラウラスは呟いて、目を伏せた。
 その美しい神父の噂は、ラウラスの耳にも入っていた。レイと互角の実力を持ち、人とは思えぬほど美しい神父だと、息抜きに町へ出れば頼んでも居ないのに町の人々が教えてくれたのだ。
 ラウラスも二日ほど前、私服でこっそりと貧民街に出向いた。その時、神父は居なかったが、冒険者や貧民街の住人から神父の話を聞くことが出来た。
 皆が皆、口を揃えて「二人とも優しい人だよ」とそう言った。
 神に仕える者に相応しい感想だと、軽々しく嗤えるほどその言葉は軽いものでは無かった。
 神父の話をする彼らの表情は、見たことも無いくらいに優しいものだった。ラウラスがこれまで目にしてきた貧民街の住人たちは、いつも目つきが鋭く暗い顔をしていたのに、神父の話をする彼らの顔は穏やかで柔らかかった。

『神父様はね、手は差し伸べて下さるし、抱き締めてくれるけれど、抱き上げて運んではくれないんだよ』

 そう言ったのは、皺だらけの手で配給のスープを配る老婆だった。

『あの方は、私達を憐れんでいるよ。でも、決して私達を下に見たりしない。その代わり、一つだけパンを下さる。それはまるで明日も生きていてくださいと言われているようで、生きていることを赦されたようで、私はそれに救われた気がした。憐れんでくれる人は、この町にもたくさんいるよ、でも物乞いの婆に与えられる金は同情だ。神父様のようにこんな婆の明日を望んでくれる人はいなかった』

 老婆の顔は、優しかった。はいよ、と渡されたスープと同じくらい、温かくもあった。
 そのスープも具材が多くなって、パンまでついたのは神父のお蔭なのだと言ったのは、イオアネスだった。古くからの友人である彼は、大分、趣味は変わっているが人としてはギルマスに選ばれるほど出来た男だ。本人はアンナと呼べと煩いが。
 神父が金貨を一枚、当たり前のように投げてよこしたのだとイオアネスは言った。不思議なことに神父がくれた金で肉を多めにしたら、いつもは我先にと肉をとる冒険者たちがそれをしないのだという。子どもたちに率先して肉を分け与えて、ポヴァンのミルクは全て子供たちにあげているのだと。神父が何か言った訳ではない。ただ、神父さんならそうするだろうと思って、と彼らは言った。

「……あの人達は、本当に神に仕える人なんだな」

 ラウラスは懐から紙莨を取り出す。最近、流行り始めたものだ。パイプよりずっと手軽なのもいい。
 テーブルの上にあった燭台から火を貰って、煙を吐き出す。

「神父殿は、哀しむことを、赦したんだ」

「……哀しむことを、ですか」

 キアランが首を傾げる。

「人というのは、哀しければ哀しい程、辛ければ辛い程、どうしていいか分からなくなる。それで哀しむことすら罪悪だと思ってしまう時が有る。あの娘の母親のようにな。だから神父殿は、哀しむことを赦したんだ」

 そして、手当てをすることで少しでも哀しみを和らげようとしている。少しでも救い上げようとしている。

「我々も働かねばな。神父殿には負けてはいられない。エイブとザラームを緊急手配、東西、南門を閉門し、見張りを増員する。各ギルドにも協力を要請し、町中に一斉捜索を掛ける。何としてでもエイブとザラームをみつけ出すんだ」

「はっ」

「それと捕まっている中三小二と中二小五の救出だが」

「捕まっている?」

 オーブリーとキアランがぱちりと目を瞬かせた。

「エドワードから本部の大地下牢に仲良く捕まっていると神父殿に連絡がきた。……問題は、どうやって助け出すかだ」

「私が行きましょうか?」

 キアランが言った。

「駄目だ。あいつらは絶対に俺達を見張っている。エドワードの口ぶりから向こうはどういう訳かエドワードたちを殺したつもりでいる筈だ。俺達が動けば、リヨンズ派の連中がエドワードたちの死に疑いを持つ。今度こそ本気で殺しに行くだろう。大地下牢内では碌な反撃は出来ないのだから無駄死にさせることになる」

「では、どうすれば……」

「そこで俺に考えがある」

 紫煙を吐き出してラウラスは笑った。二人の頬がぴくぴくと引き攣った。

「あの糞をぶちのめす良いチャンスだ」


 







「……神父殿、潜入には自信はあるか?」

 呼ばれて部屋に入った直後、放たれた言葉に流石の真尋も僅かに首を傾げた。

「潜入?」

 ここは店の奥の従業員の休憩スペースだった部屋だ。
 今しがた、真尋と一路は犠牲者たちへの追悼の祈りを終えた所である。

「ラウラス殿、神父殿に何をさせる気ですか?」

 一緒にやって来たアルトゥロが訝しむ様に眉を寄せた。

「失礼します!! 地図をお持ちしました!!」

 開けっ放しのドアの所で騎士が叫ぶように言った。
 ラウラスが、ここにと告げればテーブルの上にそれが広げられた。ブランレトゥの詳細な地図だった。

「先ほど、エイブとザラームに指名手配を掛けた。緊急配備を発令して、町中に騎士たちが散っている。それに今、商業ギルドと職人ギルドにも協力を要請し、空き家という空き家やクルィークと関係ある商会の倉庫の鍵も開けさせて、ありとあらゆる場所に探りを入れさせる」

「貧民街はどうするおつもりですか? あそこは騎士を嫌いますが」

「貧民街にはイオアネスが居るだろう? あいつに連絡をとって、冒険者たちに探ってもらう」

 一瞬、イオアネスとは誰だったかと真尋と一路は顔を見合わせる。それに気づいたアルトゥロが「アンナさんですよ」とこそっと教えてくれた。二人は、ああ、と納得して顔を地図へ戻す。

「騎士団にこの事件の本部は置かない。この事件の捜査本部は、ここだ」

 ラウラスは、とんとんとテーブルを叩いた。

「クルィークを拠点にするんですか?」

 一路が目を瞬かせる。

「騎士団本部だとマヒロ神父殿が潜入出来ないだろう? それにどうせここで現場検証と遺体の身元確認をしなきゃならん。立地的には、中央広場にも騎士団本部や魔導院にも近いから問題は無い。そして……私はここにリヨンズを呼び出す」

 ラウラスの言葉に皆が顔を見合わせる。

「それは危険では? まだ領主様がリヨンズを排除するためにどのような手札を持っているのか、我々には分からないというの。万が一にも領主様が……」

「アルトゥロ、ここで少しでも明日、起こりうる危険を回避するために動かなければ、どのみちこの町は終わりだ。領主様は帰る場所を失ってしまう。……リヨンズは四日前、第二小隊からこのクルィークの捜査権限を奪って、自分が可愛がっている第一小隊に与えたんだ。だというのに第一小隊は、異変に気付かなかった。そのことについて、責任を問うだけだ」

「リヨンズをここに引き留めている間にエディたちを救い出して来いと?」

 真尋の問いにラウラスは、ああ、と軽く頷いた。

「リヨンズがエドワードたちの生存に勘付けば、大地下牢の中に居るエドワードたちは手も足も出せない。俺達は動きたくても動けない。神父殿、行ってはくれないか?」

 一路が、どうするの、と目で問うてくる。無論、助けに行かないという選択肢は無い。
 ただ、ノアとミアのことが気がかりだった。ナルキーサスが側にいてくれているとはいえ、不安は尽きない。真尋が戻ったからと言って、何が出来る訳でもないが、傍に居てやるくらいは出来るし、傍に居てやりたい。
 しかし、エドワードたちを見捨てる訳にもいかない。

「……リックを呼んでくれ。二人で行って来る」

「なら僕は、君の代わりに屋敷と皆を守るよ。有事の時は、小鳥を君に飛ばすから」

 一路が告げた言葉に真尋は頷いた。











「見事な刃ですね」

 リックが感嘆の息を漏らす。
 真尋は、銀に輝く刀身を鞘に戻しながら、ああ、と頷いた。

「……受け取るのには、苦労したがな」

 真尋は、その時のことを思い出して、はぁ、とため息を零した。一緒に行ったリックが苦笑を零して、そうですね、と頷いた。
 リヨンズを呼び出すまで時間がかかるということで、真尋は呼び出されて駆け付けたリックと共にジルコンの店、武器屋・鉄槌にこの刀を受け取りに行ったのだ。
 ジルコンは、真尋の顔を見た途端にすっぱいような顔をして工房に逃げ込もうとしたが、弟子に捕まり羽交い絞めにされて連行されて来た。どうやら弟子たちに再三、渡して来いと怒られていたようだ。だが、ジルコンは握った刀をどうやっても離さなかった。数人がかりで引っぺがそうとしても意地であの爺は離さなかった。
 曰く、自分でも褒めちぎりたくなるほど素晴らしい出来のカタナが出来たから手放したくない、とのことで二時間も駄々を捏ねられた。結局、真尋がSランクの無属性の魔石をチラつかせ、そちらに気を取られている隙に刀をその手から抜き取った。ぎゃーぎゃー騒ぐジルコンを弟子たちがなだめすかしながら工房に連行し、弟子頭だというジルコンに引っ掻かれた痕を頬に残す中年の男に代金を支払い、ロークへと戻ってきたのだ。

「値段は高いが相応だと思うし、出来も素晴らしいがあの騒ぎだけはどうにかならんのか?」

「前に噂で聞いたところによるとレイさんのクレイモアもかなり駄々を捏ねたそうですよ。職人街では有名な話だそうです」

 リックの言葉に、やれやれと真尋は肩を竦めたのだった。
 ジルコンの刀は、本当に素晴らしい出来だった。黒塗りの艶やかな鞘、柄は深い青の紐が巻かれ白い菱形が綺麗に浮かび上がっている。普通は鮫革だが、これは何が使われているのだろか。

「綺麗な細工の鍔ですね」

「……ああ。雪輪文と雪華紋と言ってな。俺達の故郷で、雪を紋様化したものだ」

 真尋は、銀色の鍔を撫でた。
 円に凸凹を加えた雪輪文の中に六角形を主体とした複雑な雪の結晶を図案化した雪輪紋が散らばっている。両方とも着物に使用される文様の一つだ。

「俺の妻の名は、雪から取ったものだ。だから、なんとなく資料に描いておいたんだが採用してくれたらしい」

 真尋は、お礼にチラつかせただけだった魔石をジルコンにあげようか、と思う位にはこの鍔の細工が気に入っていた。
 コンコン、と控えめなノックの音がして顔を上げる。

「来たか?」

 そう声を掛ければ、真尋達を騎士団に潜り込ませる役目を担うキアラン騎士が顔を出した。

「……神父殿、リヨンズが漸く騎士団を出ました。現在、こちらに向かっています」

「漸くか。ったく、俺の時間は高くつくぞ、あの馬鹿貴族」

 真尋は腕時計に視線を落として言った。既に時刻は、夜の七時を過ぎている。ジルコンも駄々を捏ねたが、リヨンズも駄々を捏ねて、あれこれと言い訳をしては本部から出て来なかったのだ。大幅な時間ロスである。
 真尋は刀をアイテムボックスにしまって、カマルが嬉々として貸してくれたこの店のお抱え獣術師の制服に身を包んだ。木綿のシャツに動きやすい綿のズボン、膝には当て布がされていて革のエプロンという地味な出で立ちだ。だが、エプロンの胸元には、ロークの店のマークが焼き印で施されている。これに茶色のキャスケットを被れば、魔物屋ロークお抱えの獣術師の出来上がりだ。リックも騎士服では無く同じ格好だ。

「私が先導で入ります。既に根回しは済んでおりますので、ご安心ください。神父殿たちの仮のギルドカードです」

 はいと渡されたギルドカードを受け取る。応援に駆け付けたクロードが胃を抑えながら発行してくれたものだ。

「ふむ、今夜の俺はアルバートというらしいぞ」

「私はトーリスです。アルバート先生」

 リックがギルドカードを軽く掲げて笑う。

「リヨンズがクルィークに入ったら、先生方には騎士団に向かって貰います。名目は、シェーマス一級騎士の愛馬・ヴァンの治療です。正直、飼い主同様、酷い怪我だったので生きているかどうかは分かりませんが、死んでいたとしても一応、魔法攻撃を受けた痕が有ったので死体検分をするので問題はありません」

「……シェーマス騎士が、屋敷でかなり心配をしていました。エディもそうですが、騎士は馬にかなり愛を注ぐ者が多いので」

「騎士にとって馬は、剣と同様に大事な大事なものだからな。シェーマスはヴァンが原因で女に振られることもあるほど、あいつを大事にしていたんだが、この騒ぎでロークから獣術師が派遣できなかったんだ。治療院は、馬は診てくれないからな」

 キアランは寂しそうに言った。

「エディも以前、私と馬とどっちが大事なのよ、と言われて女性に振られたことがありますから、二人は話が合うかもしれませんね」

 リックの言葉にキアランがそうだな、と小さく笑った。

「……ところでザラームやエイブの行方は?」

「今のところ何の手掛かりもありません。町中を捜索しています。門には二人が出て行った痕跡は無いのですが……倉庫の方も捜索中ですがこちらも音沙汰はありません」

「そうか。……そろそろ店で待機しよう」

 真尋の言葉に二人が頷き、真尋達は店の方へと移動する。 
 灯りの落とされた店の中は静かだ。魔物たちは、ロークの敷地内にある畜舎に移動済みだ。カマルが離れようとしなかったので、一路が落として、無理矢理連行して行った。畜舎の番は、見習い騎士たちがしているらしい。何でも家で牧場や畜産をやっていた者たちを選んで来たそうだ。

「まるで昼のようだな」

 扉を僅かに開けて三人はトーテムポールのように外を覗き込む。雨はいつの間にか止んでいた、夜だというのに昼のように煌々と灯りを零すクルィークは賑やかで少しうるさい位だ。馬車が次から次へとやって来ては去っていく。

「先ほど、マノリスの元奥様が到着して遺体を確認してくれたんですが、奥さん、泣き崩れてしまって……愛人たちは、あらそう、で顔も見せていないというのに」

 キアランが言った。

「愛とは複雑なものだからな。特に夫婦の仲なんてものは、外から見ただけでは分からない事の方が多い」

「……そういえば、噂で聞いたんですが神父殿、十八歳なのに既婚って本当ですか?」

「ああ。故郷に置いて来てしまったが愛しい妻がいる」

 キアランが「俺より十三も年下なのにっ」と悲愴な顔をして片手で口を押えて項垂れる。リックが「分かります、分かりますよ、先輩」と慰めるように彼の肩を叩いた。真尋が「何だこいつら」と首を傾げている間に、一台の馬車がクルィークの前に停まった。騎士たちが駆け寄っていく。

「キアラン、あれは?」

「リヨンズの馬車です」

 はっと我に返ったキアランが外を見て答えた。
この間、屋敷に来た時と同じ馬車だった。中の人間を降ろすと馬車は、急いで店の前から退く。次の馬車が来る僅かな間に見えた、錆色の髪は間違いなくリヨンズのものだった。偽物は入れない様に真尋が細工したクルィークに何の障害も無く入って行ったということは、あれは本物だ。

「……よし、行くか。トーリス先生」

「はい、アルバート先生」

 二人は頷き合って、店の外に出た。タイミングを見計らったかのように目の前に停まった馬車に乗り込めば、キアランが御者席に乗り込んで馬車は騎士団へと動き出したのだった。








 正面の門では無く、業者用の門から真尋達は騎士団本部の敷地内へと入って行く。
 騎士団の畜舎は、とにかく広くて大きかった。半分ほどは出かけているようだが、それで二百頭近い馬が残されている。
 案内されたのは、畜舎の入り口近くの区切られたスペースだった。黒毛の馬が横たわってしまっている。よほど大事にされていたのだろう、筋肉の付き方もバランスが良く、しっかりとした体躯の雄馬だ。
 はぁはぁと荒い呼吸が聞こえる。
 真尋は横たわる馬の傍にしゃがみ込んで、その顔を撫でた。

「先生方が来てくれて良かった、ヴァンはもう虫の息で」

「今から処置をする。邪魔になるから向こうに行って居てくれ」

 馬番の青年に離れているように言った。青年は、心配そうだがキアランにも言われて後ろ髪を引かれながらも去っていく。

「アルバート先生? あの、何を?」

 キアランが首を傾げる。

「何って治療だ。俺は獣術師のアルバートだからな」

「は?」

真尋は馬の調子を見ながら、大量の血を溢れさせている傷口に手を当てて治癒呪文を唱える。幸い、毒矢などは使われていないし、骨折などもしてないようだった。だが、上になっているわき腹に酷い火傷の後が有って、これにも治癒を掛ける。シェーマスも火傷を負っていたというから彼を乗せていたヴァンにも被害が及んだのだろう。

「トーリス、水を飲ませる。桶を」

「はい」

 リックが桶を探しにその場を離れる。
 火傷が癒えると馬がその首を起こした。真尋は近づいて来た顔を撫でてやる。

「よしよし、お前は良い馬だ。主を背に乗せよく走りぬいた。ああ、そうだなんか薬があったな」

 真尋は馬車の中に用意されていた獣術師の鞄を漁って、中から薬を取り出す。ラベルに「回復薬(馬用)」と書かれていた。リックが持って来た桶の中に垂らして、桶の中の水を聖水に変える。それを飲ませると少ししてヴァンは、ふらつきながらも立ち上がった。まるで礼でもいう様に真尋に大きな顔を摺り寄せて来る。真尋は小声でシェーマスが無事だと伝えた。すると言葉が分かるのか、何かが伝わったのか馬は更に嬉しそうに真尋に顔を摺り寄せて来た。

「……先生は、何者なんですか?」

「見ての通り、ロークお抱えの獣術師だ。この町の危機を伝えるという素晴らしい働きをした馬を失うのは惜しいだろう?」

「は、はぁ……」

「キアラン先輩、魔法の呪文を教えて差し上げますね。すごくよく効きますから。いいですか? だってアルバートさんだからな、です」

 訳知り顔でリックが言って、キアランの肩をぽんと叩いた。

「さて、では本命の仕事と行くか。キアラン、あいつらの馬に馬具を装備して、いつでも出かけられるように支度をするように言っておいてくれ。行くぞ、トーリス先生」

「はい! では、キアラン先輩、行って参ります!」

 真尋はリックを連れて、さっさと畜舎を後にする。取り残されたキアランは戻って来た馬番の青年に肩を叩かれるまで、そこで固まっていたのだった。








 真尋はリックの案内で騎士団内で働く人々が使う裏口から中へと入る。革のエプロンを外して忍び込んだ更衣室からくすねた掃除夫の青いエプロンと三角巾を身に着け、埃避け用の白い布で口元を覆う。

「アルバートさん、掃除をするフリくらいは出来ますか?」

 モップと木製の桶を手にリックが首を傾げた。

「俺を馬鹿にし過ぎじゃないのか?」

「馬鹿にしてるんじゃなくて、心配してるんです。ハタキでシャンデリアを壊す人にモップなんか渡したら誰だって心配します。モップの方が殺傷能力が高いんですよ?」

 リックが真顔で首を傾げた。

「アルバートさんはこれを持っていてください。これならきっと大丈夫です」

 そう言ってリックが渡してきたのは、雑巾と錫のバケツだった。
 真尋は渋々それを受け取り、バケツのふちに雑巾を引っ掛けた。真尋の姿をじろじろと見ながらリックが眉を寄せる。

「真尋さん掃除夫には見えませんね。ちょっとその気品をしまって貰えますか?」

「……お前のそれは冗談か本気か分からんな」

 行くぞ、と真尋は更衣室から廊下へと出る。ここは使用人たちが使う部屋が並んでいる場所だからか騎士の姿は無い。それに今は、本部待機の騎士以外殆どが外へ出ているから、建物の中は静かだ。

「あの馬鹿が捕まっているのは、大地下牢と言ったな、どこにある?」

「それがとっても厄介なんですよ。特殊な鉱石で作られた牢で魔法も使えませんし、剣で切り捨てることも出来ません。それに大地下牢は、もう何百年か使ってないですし、地下三階なので幾ら騒いでも外に声が届かないので気付かれないんです」

「なら、そこから行くか」

「でも、地下牢に入るには鍵が必要です」

「鍵か……面ど」

「言っておきますが、地下一階は数年前に手を入れて新しいのでいいですけど、地下二階と地下三階、そしてエディたちが居る階の更に下の地下四階の地下牢まで全て歴史的重要文化財です。この騎士団本部の建物自体が重要文化財なので壊すと怒られますよ、商業ギルドの文化財管理課とイチロさんに」

「……お前は逞しくなったな」

「マヒロさんの傍に居ると自然と逞しくなるんだってイチロさんが言ってました」

 リックは嬉しそうに顔をほころばせた。
 真面目な青年は、どこまでも真面目だなと思いながらもこいつも割と天然だよな、と真尋は苦笑を浮かべた。

「それで地下牢と鍵の場所は?」

「地下牢は、本部の東にある建物です。三階建で地上階には監視役の部屋や取調室なんかがあります。あと簡単な留置所も。いつも見張りが外に二名います。一階の地下牢に捕まえて来た犯罪者が居れば、中にも見張りが二名居ますし、一階の留置所には何時もなにかどうか居るので監視役が常駐している筈です。大地下牢への鍵はこの本部内の事務所にあります。マヒロさ、ではなく、アルバートさんなら、ドアを吹っ飛ばすくらいは出来ると思いますが、牢を壊すことは出来ないと思います。牢は特殊な鉱石で出来ているので」

「さっきも言っていたがその特殊な鉱石ってなんだ?」

「私も良くは知りません。ですが、ウン百年前は、アルゲンテウス領内で採掘されていたらしいのです。魔法を無効にして、剣でも切れない特殊な鉱石です。加工技術も途絶えてしまっているそうです。私も大地下牢は見習い時代に一度、指導員に連れられて行ったきりです」

「……なら事務所に行くか」

 そうですね、とリックが頷き二人は、三階にあるという事務所へと歩き出したのだった。









「あそこが事務所か」

 窓を拭きながら廊下にモップを掛けるリックに問う。

「そうです、あそこが事務所です。……窓ガラス、割らないでくださいね」

 廊下の突き当りにある事務所は、横長の大きな窓口が有ってその奥に机がいくつも並んでいるが、数は少ない。
 事務官と事務員は、全く別のもので事務官は役職持ちの秘書みたいなもので、事務員は備品の管理から会議室の管理などをする仕事だそうだ。会社で言うところの総務課に当たる部署だろう。

「今は時間的にほとんどが帰宅した筈ですから……ただ地下牢の鍵は、副大隊長以上の者から許可証にサインを貰わないといけないんですよね」

「忍び込んで取って来るしかないな、どこだ?」

「即決が過ぎますっ! ここは慎重に行きましょうっ」

 小声で怒られた。

「だが、お前は除籍されているし、俺はただの掃除夫だ。サインなんか貰えないだろう?」

「いえ、こんなこともあろうかとラウラス副大隊長から許可証は貰っています。問題はこれをどうやって提出して鍵を貰うか、です」

「そんなのは簡単だ、俺が制服を着て騎士になればいい。よし、そこらへんを歩いている騎士を捕まえよう」

 真尋は雑巾をバケツに放り込んで言った。
 事務所から見えると厄介だ、と少し離れた場所へと歩き出して、目星の騎士を探す。

「何で追剥になろうとしているんですかっ」

「あ、じゃあお前の制服を貸せ。お前の顔は割れているから駄目だが俺なら」

「……すみません、すっかり忘れていたんですけど除籍されてしまったので制服は返却済みで……ガストンが持ってるんです。私の制服」
 
 リックがそっと目を逸らした。
 二人は廊下の隅に避けて、再び掃除をするふりをする。足音が聞こえたのだ。

「ならやっぱりその辺の騎士から剥ごう」

「だからどうしてそうなるんですっ。このすぐ上の階に備品庫がありますから、そこに予備の制服が有る筈です」

「ややこしいな。追剥はだめか?」

「駄目に決まってるじゃないですか! 言われたでしょう、穏便にって!」

「全く、どうして俺がわざわざ、あいつらの死体の確認なんかしなきゃならねぇんだっつーの」

「しょうがないだろう? 中隊長がそうしろって言うんだ。さっさと確認して、帰ってくりゃ良いよ」

 聞こえて来た騎士たちの会話に真尋とリックは顔を見合わせる。
 真尋を盾にしてリックがそちらを覗き見る。

「アーロンとレイバンです」

「……ああ、あのエディと殴り合いの喧嘩をした奴か。もう一方は、リヨンズの後ろに居た奴だな」

「そうです。アーロンとエディは領が隣同士で昔から仲が悪いそうですが……ってそんなのはどうだっていいんですよ。あいつらは、第三中隊の第一小隊の所属です。リヨンズの取り巻き、或は犬って陰で呼ばれてるんですよ」

「犬はロビンに失礼だろう?」

「そ、そうですね……ならなんと、」

「おい。そこの」

 声を掛けられて顔を見合わせる。

「聞こえなかったのか、そこの掃除夫、お前たちだ」

 リックが「俯いていてください」というので真尋は俯く。代わりにリックが顔を伏せたまま後ろへと体を向けた。

「はい、騎士様、何か御用でしょうか?」

 少し声音を変えてリックが答えた。
 真尋は窓ガラスに映るアーロンの様子を窺う。

「……やはり、見無い顔だな。名は?」

「トーリスといいます、こっちは俺の兄さんのアルバートです」

 リックが少し鈍った口調で紹介してくれたので、真尋は、素っ気ない会釈を返す。
 アーロンは、ふーん、と気の無い返事をしながらもじろじろと此方の様子を窺う。彼の隣でレイバンも不審な目をこちらに向けている。

「掃除夫にしては随分とガタイが良いな、二人とも」

「へ、へぇ。俺も兄さんもいつかは騎士様になれたらって思って、鍛えてはいたですけんど、どーにもこーにも頭が足らねぇもんで、んだけんど、なんかはしてぇなって思って掃除夫をさせてもらってるんです。騎士様を間近で見られるいい仕事だ、なぁ、兄さん」

「……ん」

 真尋は短く答えた。

「そうか。中には騎士紛いの田舎者や礼儀知らずの平民も居るからな、精々、気を付けたまえ」

 アーロンは、偉そうにそう告げるとレイバンを伴って去っていく。リックが、ふぅ、と息を吐きだした。

「あんな田舎者が騎士だなんて、馬鹿な奴らだな」

「平民が騎士になること自体がおかしいんだよ」

 そんな会話が角を曲がる直前、聞こえて来た。リックを見れば苦笑を零している。やれやれと言ったあきれ顔だ。これがエドワードだったら喧嘩になっていただろうが、こうやって流してしまえる分、リックの方が利口だ。真尋はぽんぽんとリックの頭を撫でた。

「アルバートさん?」

「俺よりお前の方が年上の筈だがな、弟よ」

「あ、そういえばそうでした……」

「まあいいさ、それより、あいつらだ」

 真尋はひょいと肩を竦めてバケツと雑巾片手に角から向こうを覗き込む。アーロンとレイバンはそのまま真っ直ぐに事務所に向かっている。

「さっきの会話から推測するに、あいつらは大地下牢にエディたちの死体を確認しに行く気だ」

「どこかで情報がばれたってことですか?」

「……これは俺の仮説だが、リヨンズはザラームの協力でエディたちをインサニアで殺そうとしたんだ。だから一か所に集め、外に悲鳴の聞こえない大地下牢に閉じ込めた。ザラームは闇の属性を持っているから、空間移動が出来る筈だ。それを使ってエディたちを一気に大地下牢へ移動させたんだ。そしてインサニアを放った。インサニアに対抗する力を持たないエドワードたちは死んだとリヨンズが勘違いしたんだ」

「……で、でもエドワードは、インサニアに対抗できる力なんて」

「あるさ。エディとカロリーナ殿にはお前を助けたものと同じ力の込められた魔石を渡してあるからな。それでインサニアが戻ってこないことにザラームが気付いて、リヨンズに何か言ったんじゃないか? お、獲物が鍵を受け取ったみたいだぞ。こちらに戻って来る」

 リックと真尋は慌てて顔を引っ込めた。
 真尋は辺りを見回す
 ほとんどの騎士が町へ出ているから長い廊下に人の気配はない。アーロンとレイバンの会話をする声や足音が良く響く。真尋は傍にあった部屋のドアを開ける。中はリネン室のようでシーツや枕、布団などが山のように積まれていた。
 ここでいいか、と真尋は一人納得して曲がり角へと戻る。

「……アルバート兄さん、何する気ですか?」

「弟よ、時に正義を貫くには、多少の犠牲も必要なのだ。……それに誰だって鴨がネギ背負って歩いていたら捕まえるだろ?」

 角を曲がってアーロンとレイバンが戻って来る。
 先に真尋に気付いたのはレイバンだった。一瞬、遅れてアーロンが後ろのリックに気付いた。

「おまっ」

 アーロンの腹に真尋は躊躇うことなく華麗に一発決めた。アーロンの体がぐらりと倒れ込んで来たのをリックに任せて、レイバンが剣を抜こうとした手を蹴り上げて、そのまま彼の鳩尾にも拳を一発決めて落とす。

「トーリス、お前、体術はどれだけ使える?」

「ほ、程々に」

「なら今度、体術を訓練してやる。急所に当てれば、こうやって一発で落とせて便利だからな。覚えておいて損は無い」

 廊下に倒れた二人を真尋は見下ろして、優しく笑う。

「お坊ちゃんはちゃーんとお布団で寝かせてやるから安心すると良い。ほら、トーリス、二人をそこの部屋に運び入れるぞ」

 頬を引き攣らせながらリックが、はい、とぎこちなく頷いたのだった。


―――――――――――――――
ここまで読んで下さって、ありがとうございます!
いつも感想、お気に入り登録、評価、本当にありがとございます。皆さまのお言葉一つ、一つに励まされております!

神父になったり、獣術師になったり、掃除夫になったり、追剥になったりしましたが、次回はご察しの通り、騎士に転職します。

次のお話も楽しんで頂ければ、幸いです。
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