称号は神を土下座させた男。

春志乃

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番外編

水無月家の執事になる前の話 1

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 五度目まして、水無月家の執事、園田充でございます。
 白凛学園の盛大な学園祭も終わり、十月も終わりになりますとぐっと秋の空気が濃くなり、少しずつ冬の便りが届く季節となりました。
 名門の子女が通う白凛学園の学園祭は、財力、人脈をフルに活用し、生徒たちはその統率力、企画力などを試されるそこいらの高校にはない緊張感のある学園祭です。ですのでそもそもの規模が違います。今年は学園を王国に見立てたテーマパークでした。真尋様は無論、国王様としてキャスティングされておりました。品と知性と威厳溢れる衣装に身を包んだ我が王の神々しさに私は膝から崩れ落ち、むせび泣きました。しかも神々しく美しく威厳溢れる我が王の隣には、慈愛に満ち溢れた微笑みを湛え、優しさと美を備えた王妃様も居られるのですから、私は身も世も無く泣きながら神々に真尋様と雪乃様の存在がこの世にある奇跡に感謝いたしました。
 学園祭の最後、後夜祭では生徒会の引継ぎが王国というテーマでしたので戴冠式を模して行われ全校生徒が見守る中、一年の秋から三年の秋までの二年間、生徒会長として学園を治めた真尋様から次期生徒会長であり現生徒会の二年生の生徒へとその役目が引き継がれました。
 真尋様が新・生徒会長となった後輩へ贈られた言葉は、無論録音・録画共にばっちりなのですが慈愛と威厳に満ち溢れたその声とと言葉を思い出すだけで私は未だに涙が溢れます。
 そして役目を終えた真尋様は漸く肩の荷を下ろして自宅でゆっくりと過ごしておられます。世間一般で言えば受験生となる訳ですが、優秀な真尋様はそんなに切羽詰まって勉強をする理由もございませんので、雪乃様や双子さんたちとの時間を大事にしておられます。
 さて、そんなこんなで十月最後の週末、いつも家の中に賑やかさを添える真智様と真咲様がお友達の家に遊びに行っているので、今は私と真尋様と雪乃様しかおられません。私は真尋様が与えて下さった自室でアルバムの整理をしております。水無月家の皆様が中心ですが、遊びに来る皆さんの友人のお写真もあります。ただ少しだけ、いえ正直に言いましょう。大分、真尋様の写真が多いです。割合だけで言うと真尋様:他=7:3です。
 私の部屋には、ベッドが一つとデスクが一つ、そして壁を覆う本棚しかありません。クローゼットはもともと部屋に備え付けられていたもので数着の執事服と真尋様が下さった少々の私服があるのみです。三つある本棚の内、二つを占めるのは、殆どがアルバムです。残りの一つには私の趣味である時代小説や時代劇のDVDが収納されています。
 私は数少ない家具の一つであるシンプルなデスクに向かって、写真を丁寧に仕分けて行きます。先日の双子さんの運動会の時のものです。真尋様が撮られた写真は、双子さんの一瞬の躍動を見事に切り取られております。真咲様の真剣な面差し、真智様のはじけるような笑顔、汗の臭いや笑い声が聞こえてきそうな程素晴らしい写真です。個展も開けそうな程で、真尋様の才能の豊かさに私は唇を噛んで溢れる気持ちを抑え込みます。もしも真尋様が個展など開かれましたら、私は仕事の合間を縫って毎日通います。
 ふと時計を見ますと午後二時を過ぎていました。そろそろ夕食の買出しに行かなければなりません。昨夜、雪乃様が三日分の献立を決めておられましたので私は、雪乃様に代わってその材料を買いに行くのです。三日に一度の買出しは私の大切な仕事です。本当ならば、水無月ほどの家ですから贔屓にしている店から野菜や肉などの食材を届けてもらうことも出来るのですが、真尋様が嫌がるのです。真尋様は、ご友人以外の他人が水無月家に来ることがあまりお好きでは無いのです。しかし、こればかりは真尋様の心情を思えば致し方のないことで御座います。
 未整理の写真はカゴに入れて引き出しにしまい、アルバムは閉じて重ねておきます。また寝る前に少し作業を進めようと決めて私は自室を後にしました。
 私の部屋の隣には真尋様の書斎があります。ドアが開いたままでしたので中を覗くとデスクの上が本と紙の束で溢れ返っておりました。デスクの上だけでなく床にも散らばる真っ白だったはずの用紙には何らかの数式が真尋様の筆跡で残されています。時間が余っている今は確か数学の未解決問題の一つ、加法的整数論上のゴールドバッハの予想というものに取り組んでおいでだった筈です。流石の私も話が難しすぎてチンプンカンプンですが、私にご説明下さった時の真尋様の無表情が生き生きしておられましたので、楽しいのだと思われます。真尋様が楽しければ、私も楽しいです。
 ですが、この散らかりようだと徹夜をしたか、椅子の上でおざなりに仮眠を取ったかのどちらかだと思われます。そういえば、今朝、私が早朝に起床した折、隣の部屋で物音が聞こえましたので、真尋様は恐らく自室のベッドには戻っておられないのでしょう。
 真尋様は勉学、運動、共に人の数倍、いえ数十倍は優れた才能をお持ちですが、家事に関する才能だけは何をどうしてどうやっても壊滅的です。そして、存外、ずぼらです。しかし、真尋様にとってそんなものはささやかなもので御座います。寧ろ、完璧すぎる真尋様にそういった弱点があるかと思うと親近感さえ湧いて、ますます魅力的に見えると私は思っております。それに家事の類など、執事である私がフォローすれば良いことですし、真尋様にはお料理上手で家事の得意な雪乃様という素晴らしい奥様が居るのですから、それで良いのです。
 ですが、この徹夜癖と仮眠癖だけは、私もあまり良くは思えません。真尋様の健康を著しく損なう恐れがあるからでございます。真尋様は人の三大欲求であるうちの睡眠に対して、非常に欲が薄いのが私は心配です。
 それもこれも真尋様を夜這いしたという憎き家政婦の所為です。話を聞いた時は、成敗致そうと思った所存ですが真尋様と雪乃様に止められましたので、諦めざるを得ませんでした。
 階段を降りて広いリビングへと入ります。
 昼下がりのリビングは、雨の音が静かに染み渡り、少しだけ薄暗いです。リビングの南側は、一面ガラス張りになっていて、水無月家の庭の木々が雨に濡れて色を濃くしています。
 黒い革張りのソファに雪乃様の後姿を見つけました。

「雪乃様」

 振り返った雪乃様が、しーっと人差し指を唇に当てて小さく笑いました。私は、はっと片手で口を押えて後ろから覗き込みます。
 一瞬、あまりのお美しさに涙が溢れそうになって、唇を噛んでぐっと堪えます。感動で手が震えてしまいました。
 真尋様が雪乃様の膝を枕に眠っておられました。その寝顔は恐ろしい程に美しく完璧です。長い睫毛が頬に影を作っています。薄く開いた唇からは、規則正しい寝息が零れ落ちていました。
 普段、真尋様は非常に大人びて見えますが、それは、神に愛されたこの美貌と何より、夜を閉じ込めたかのような強く優しい光を宿す双眸が真尋様を大人びて見せるのです。けれど、こうして眠っている真尋様は、十八歳の年相応の青年に見えます。
ただ、真尋様の唇に雪乃様の唇に彩りを添えている薄紅のリップが少々、色移りしているのには気付かないふりを致します。私は優秀な執事ですし、そもそもこれはよくあることでございます。

「眠っておられるですか?」

 私は出来る限り声を潜めて雪乃様に確認致します。雪乃様は、ええ、と頷いて右手で真尋様の髪を撫でました。黒く艶やかでサラサラの真尋様の髪を雪乃様の白く細い手が愛おしむ様にゆっくりと撫でます。

「耳かきをしてあげていたら、いつの間にか眠ってしまったんです」

「昨夜、数学の問題に没頭するあまりに眠るのを忘れたようです」

「……起きたらお説教ね」

 雪乃様の眼差しに少し剣呑な光が宿りました。
 私や一路様の言うことは渋々といった具合で、それも半分ほどしか聞いてくれないのですが、雪乃様の「めっ」の一言に真尋様は逆らえませんので、この徹夜癖を私はいつもの雪乃様に言いつけます。真尋様の健康を思えばこそ、主を愛しているが故の苦渋の決断です。
 実は真尋様の眠る姿というのは、非常にレアです。あの事件以来、真尋様は眠りが浅く、人の気配に非常に敏感で、今年の春先に行われた三泊四日の修学旅行では殆ど眠らなかったと一路様がおっしゃられておりました。双子さんや一路様ですら、真尋様の寝顔を拝見する機会は余りありません。留守がちのご両親は尚のことでございます。ですが、ただ一人、雪乃様がご一緒の時に極稀にこうして人前で眠ることがあるのです。
 私は音を立てないようにソファの前に回り、落ちていた真尋様の右腕をそっと体の上に戻します。雪乃様の膝枕が無ければ、この時点で下手をすると私は床と友達になっている可能性がありますが、雪乃様がいると真尋様は深く眠られますので大丈夫なのです。以前、うつらうつらしていた真尋様に毛布を掛けようと触れた瞬間、私は床に転がっていました。投げられたのだと気づいた時に一番驚いていたのが真尋様でしたが。その時は、お詫びに何でもすると真尋様が言って下さったので、私のお気に入りである時代劇、遠山の金さんを一緒に観ました。
 ふと見れば真尋様の胸にある真尋様の左手に雪乃様の左手が重ねられています。真尋様の手は男らしく長い指と少し薄めの手のひらが特徴的です。一方の雪乃様の手は、細く華奢で真尋様の大きな手に寄り添っているとその小ささを実感します。お二人の薬指に輝く揃いの結婚指輪が綺麗で私は、スマートフォンを取り出して、雪乃様に断りを入れてから写真に納めました。ついでに貴重な寝顔の写真もスマホの中のメモリと私の脳内のメモリに残します。
 顔を上げれば、雪乃様の優し気な眼差しを見つけました。
 膝の上の愛する人を見つめる大きな黒い瞳は、泣きたくなるほど優しい愛を宿しています。私は、雪乃様が真尋様に、真尋様が雪乃様に向けるその眼差しがとても好きで、いつまでも眺めていたい気分になります。私はお二人がこうして寄り添っている姿が何より好きなのです。

「……丁度、こんな雨の日でしたね、充さんがうちに来たのは」

 雪乃様が真尋様を見つめたまま言いました。

「はい。十一月の七日で丸々五年、今年で六年目になります」

「初めて真尋さんから紹介された時は驚きました。突拍子もないことをしたり、言ったりする人だけれど、まさか人を拾って来るとは思わなかったんですもの」

 くすくすと零される笑い声は、羽のように柔らかく降ってきます。私はつられるように自分の顔に笑みが浮かぶのを感じました。

「あの時から、真尋様は私の神様なのです」

 私はもう一つのソファの上にあった雪乃様のひざ掛けを手に取って真尋様のお腹にかけます。真尋様がお腹を壊したら大変です。

「雪乃様、それでは買出しに行ってまいります」

「お願いしますね。あ、そうそう、お出汁用の昆布と鰹節をお願いしてもいいかしら? 三好屋さんには、電話をしてありますから」

「かしこまりました。では、失礼いたします」

 私は立ち上がり、名残惜しさに立ち止まりそうになる足を叱咤してリビングを後にしました。真尋様の寝顔とそれを見つめる雪乃様のお姿を延々と鑑賞していたいのですが、余りに長居をすると真尋様が起きてしまわれますので、致し方ありません。
 裏口から外へ出ますと、雨の匂いがぐんと濃くなりました。エアコンの室外機が立てる音が雨音の中、少し異質です。私は、普段、真尋様や双子さんを送迎する時に使うリムジンの横に留められた買出し用の車に乗り込みます。この車は、旦那様が「リムジンだと目立つだろ」と免許を取った際に買い与えて下さった車です。ハイブリッド車ですので、エンジン音がほとんどせず、車は静かに走り出しました。
 フロントガラスを曇らせる雨のカーテンをワイパーがぬぐい取ります。それでも何度も何度も雨のカーテンは広がります。

「……もう、五年か」

 ぽつりと呟いて、アクセルを踏みました。
 









 真尋様と出会ったのは、今から五年前、六月が終わりを告げて七月が始まり、丁度、梅雨と呼ばれるような季節でした。あの年は梅雨らしく雨が良く降っていたのを覚えております。
 私は、当時、十八歳でした。私はその時、父方の遠縁の親戚の女性のところにご厄介になっていました。高校には通えなかったのですが、それでも大学に入りたいという想いを捨てきれませんでしたので、バイトをしながら寝る魔も惜しんで勉強し十七歳の時には大学入学資格試験を受けて無事に合格することが出来ました。それからは日中はバイト、夜は延々、参考書と向き合って受験勉強に励んで居ました。家で勉強すると色々と不都合があったので、私はその当時住まわせてもらっていたアパートの近くにある喫茶店で火曜日と金曜日の夕方から閉店までの時間だけ勉強をしていました。
 その住宅街の片隅にある喫茶店は初老のご夫婦が経営されていて、とても人の良いマスターは、いつも閉店時間までいる私は迷惑だったでしょうに、頑張っているね、とココアや時に軽食を御馳走してくださいました。私はいつも一番安いコーヒーを一杯しか注文できなかったのに、マスターも奥さんも嫌な顔一つせず、私を応援してくれていたのです。
 その喫茶店で私は、真尋様に出逢ったのです。




 雨の音とクラシックをBGMにルーズリーフの上にシャーペンを走らせます。
 喫茶店「クレマチス」は、カウンター席が五つと二人掛けのテーブル席が五つの小さな喫茶店です。私はいつも窓際に置かれた五つのテーブル席の内、一番奥のテーブルで勉強しています。
 コーヒーの香ばしい匂いとマスターが常連客と言葉を交わす声は私の集中力を高めてくれます。私は、目の前の数式の答えが、どうしてか参考書の最後に乗せられた答えと合わないことに頭を抱えておりました。ですから、目の前の椅子に誰かが座ったのにも全く気付きませんでした。

「そこ、4-2が1になっている」

 声変りをしたばかりだと思われるまだ微かに幼さを残した声がして、突然現れた細く長い指がトントンと阿呆みたいな計算ミスをしている箇所を叩きました。驚いて顔を上げて、私は更に驚きました。
この時のことを思い出すたびに真尋様は「愉快な顔をしていた」と仰います。それほどこの時の私は間抜けな顔をしていたのですが、それもこれも真尋様があまりにお美しかったからです。
 大人びてはいるけれど、幼さも僅かに残る少年から青年へと成長していく過程のその顔は、私が今まで出会ったどんな人よりも美しかったのです。薄い唇もすっと通った高い鼻も艶やかな黒い髪も、まるで神様がこの世にある一番美しいもので作り上げたかのようでした。そして、何より印象的なのは切れ長の二重の瞳です。夜を閉じ込めたかのような黒い瞳は、真っ直ぐで強い光を宿しているように私には見えました。
目が合った瞬間、背筋に何かが走り抜けました。今思えば、私は多分、その瞬間、真尋様に恐怖したのです。それは恐らく、真尋様のそのお顔が美しすぎるが故でした。

「……ここ、間違っている」

 耳に心地よい声が再び言葉を紡いで、トントンと長い指が同じ場所を叩きました。

「うふふ、充くんたら真尋さんに見惚れちゃっているのねぇ」

 奥さんが笑いながら言って、その人の前にブラックコーヒーの入ったカップを置きました。私はその香りに漸く我に返ります。どうやら無意識の内に息を止めていたらしい私は、大きく息を吐きだしました。

「あ、あの……貴方は?」

「人に名を尋ねる時には、まず自分から名乗るものだと思わんか?」

 カップを片手にその人は首を傾げて言いました。偉そうな口調でしたが、全く違和感はありませんでした。私より年下だと思われるのに不思議です。

「あ、は、はい。そうですよね、すみません! 私は藤谷充といいます、十八歳です」

 慌てて頭を下げて名乗った私にその人は、素直だな、と言ってカップをソーサーに戻しました。その仕草は、非常に優雅でソーサーにカップが戻されたというのに音がしませんでした、凄いです。

「俺は、水無月真尋。十三歳だ」

 五つも年下でした。随分と大人びた容姿をしているので、十五、六位だと思って居ましたので私は少々、驚きました。声に残る幼さとその容姿の大人びた雰囲気のアンバランスさが余計に目の前のその人を美しく引き立てているような気がします。

「さっさとそこを直せ」

 真尋さんと名乗ったその人は、またトントンとそこを指先で叩きました。私は、慌てて消しゴムを掛けてそこから計算をし直しました。すると参考書の答えと私の出した答えは漸く同じになりました。

「真尋さん、充くんは自力でお勉強して、大検っていうのに合格したんですよ。それで来年のセンター試験に備えて勉強をしているんです」

 奥さんが嬉しそうに真尋さんに言いました。真尋さんは、ふむ、と頷いて私の参考書を手に取り、ページを眺めます。真尋さんは、十三歳ですから中学校一年生か、或は、二年生です。だから大学入試レベルの問題は分からないのでしょう、パラパラとページをめくっていきます。

「T大を目指しているのか」

 その参考書の帯に書かれた「T大学入試対策にも!」の部分を指差して真尋さんが首を傾げました。
 この人は殆ど表情がありません。実はお喋り機能搭載のアンドロイドですと言われても納得できてしまうくらいには無表情です。

「あ、いえ……一番難しい所の勉強をすればどこにでも受かるかな、と思いまして」

「斬新なアイディアだな」

 真尋さんはそう言ってまた参考書の中身を眺めはじめました。
 長い足を組んで椅子に座る姿が一枚の絵画の様です。

「あまりに難関大学だとバイトに追われる私は卒業が危ぶまれますので、もう少しレベルを落とした国立大学を考えています」

「奨学金制度を利用するのか?」

 真尋さんは参考書に視線を落としたまま問いかけて来ます。

「いえ、出来れば自力で稼いで学費を納めて行きたいので……奨学金は将来的に返金しなければなりませんから」

「そうか。まあそれも一つの選択肢だな。……ところでこの参考書、少し問題が偏り過ぎているな。あまり優秀な参考書とは言えん」

「……え?」

「確かに難関大学と言われる大学入試向けの問題だが、少々、出題に偏りがある。もう一冊買うなら、G出版の参考書がおすすめだが、あれは値段がな」

「あ、あの、分かる、んですか?」

 私は目を白黒させながら問いかけました。
 真尋さんは、参考書から顔を上げて、ああ、と事も無げに頷いてコーヒーカップに手を伸ばしました。

「人より頭の出来が良いからな、高校三年までの範囲はとうに終わってしまった。だから今は、ロシア語を習得しようと思ってそっちを勉強している」

 呆気にとられた私を全く気にせず真尋さんは参考書を広げて、これを解いてみろ、と言われ私は言われるがまま問題を解き、私のどこを気に入って下さったのか、それから真尋さんは毎週火曜日と金曜日の夜にこの喫茶店で勉強を見てくれることになったのです。まさか五つも年下の子供に大学受験の勉強を見てもらうことになるとは人生何があるか分からないものです。









「真尋さんは、将来は何になりたいんですか?」

 勉強の合間、真尋さんが奢ってくれたカツサンドを食べながら束の間の休憩です。
 真尋さんはロシア語で書かれた本を読みながらカツサンドを食べています。ロシア語も殆どマスターして後は発音だそうです。
 真尋さんと出会って早二か月近くが経ちました。真尋さんは、本当に素晴らしい先生でした。頭の出来が良いだけではなく、知識量が半端では無いのです。どんなジャンルの話題を振っても、そつなく答えてくれますし、ちょっとした雑学を教えて下さることもあります。真尋さんには、年の離れた双子の弟さんが居て、その子たちがいかに可愛いかという兄馬鹿話や幼馴染の一路さん、恋人の雪乃さんの話をよくしてくれます。彼らの話をする時、真尋さんの無表情が僅かに緩むのを見つけると私は何故か嬉しくなります。
この美しい人と過ごす時間は、私にとってとても心地よいものでした。

「起業したい。一から自分の力を試したいんだ。今の所、どういった会社を作るかはまだ決めていないが、それに起用する人員はそろそろ育成しないとな」

「でも、真尋さんのお父さんは会社の社長さん、なんですよね? その会社の後を継がないのですか?」

 詳しくは知りませんが、真尋さんのお父様は会社経営をなさっているそうですので、真尋さんは社長令息になるわけです。

「俺以外にも優れた後継者は山ほどいる。それに俺の父は仕事が忙しくて殆ど家に居ないどころか国内に居ない。俺も父のことは尊敬しているし、家族として好きだとは思うが……思い出と呼べるほどのものがないな。俺は将来、妻にも子供にもそんな寂しい思いをさせたくはない。一生遊んで暮らせるほどの金が欲しい訳じゃない。家族が平穏に生きていけるだけで、同じものを見て笑って、泣いて幸せを築いていければ俺は良いと思っている」

 何と言うか、子どもらしくないと言えば子どもらしくないけれど、それは何より叶い難い願いのようにも私には思えました。

「……いいですね。私も……普通の幸せが欲しいです。お嫁さんと子どもと、子どもが拾って来た犬を飼ったりして、家のローンがあと三十二年残ってるとか言いながら節約術を試したりして、喧嘩したりしながらも賑やかに楽しく家族で生きていければ幸せですね」

 カツサンドを頬張ればその美味しさに自然と頬が緩みます。

「こういう所謂、普通の幸せは世界中、至る所にあって、身近にたくさん転がっていて、それを手にしている人は大勢いますけど……いつの間にか、その幸せをより多く望むようになってしまうんですよね。そうして出来た理想と現実のズレが、いつかその幸せを壊してしまうのに」

「……まるで見て来たかのようだな」

 真尋さんが二個目のカツサンドに手を伸ばしました。三つで一皿なのですが、実は真尋さんは三皿目です。
 私は、良く食べるなぁ、と感心しながらアールグレイのミルクティーを飲みます。これも真尋さんの奢りです。

「私の父と母がそうだったんです」

 真尋さんは目だけで話の先を促してきます。私はカップを両手で包んで、カップの中身に視線を落としました。

「母は心の弱い人で、少しでも気に入らないことや上手くいかないことがあるとこんなはずじゃなかったと嘆く人でした。そんな母に嫌気がさして、父は外に愛人を作りました。母も母でどこで捕まえて来たのか愛人を作っていて、二人は顔を合わせれば喧嘩ばかりをして、こんなはずじゃなかった、とそんなことばかり言って喧嘩をしていました」

 私は、思わず苦笑を零します。今思い出しても、いえ、今だからこそ本当に仕様がない人たちだったと思ってしまうのです。

「……共に夢に描いた理想を壊したのは、他ならない自分達だったのに」

 ぽつりと呟いて、紅茶のカップを口へと運びます。ここのミルクティーは、茶葉の香りが豊かでミルクのコクとまろやかさのハーモニーが絶品です。

「私が七歳の時に離婚して、二人とも家を出て行きました。余程、私を見たくなかったのか、母は愛人とどこかへ、父も仕事を言い訳に海外に逃げてしまい、残った私は、父方の祖母に引き取られました。祖母は私が小学五年生の時に他界してしまって、それからは、親戚の家を転々としています。今居る所は十四の頃からお世話になっているんです」

 私はどうして、五つも年下の子供にこんなことを話しているのでしょう。思わず紅茶を飲む手を止めて首を傾げました。
こんな面白くも無い話、好んで聞きたいなんて言う人は、いえ、居るには居るでしょうけれど、真尋さんはその手の下世話な人たちとは違いますから、面白くない話をしてしまいましたと反省します。

「すみません、こんなつまらない話……」

「お前の、その艶の無い髪や」

 真尋さんは私の謝罪を遮りました。顔を上げた先で、真っ直ぐな光を宿す瞳に囚われます。

「いつ見ても青白い顔や身長の割に細すぎる所と……夏だと言うのにいつも長袖を着ている所、そして……その空っぽの笑顔は実に不愉快だ」

 その言葉は私の喉を締め付けました。まるで首を絞められているように錯覚してしまいます。声や言葉が出て来ないどころの話ではありませんでした。心に鋭く大きなナイフを突き立てられたかのような痛みに咄嗟に私は唇を噛みました。そうでもしなければ、更に不愉快な思いを目の前の神様みたいに綺麗な人にさせてしまうことになるからです。

「お前が不愉快なんじゃない、お前をそうさせる、誰か、だ」

 真尋さんが本を置いて立ち上がり、私の方へ回って来ると、私が我に返るより先に私の服を捲り上げました。真尋さん越しにマスターと奥さんが息を飲んで固まる姿がありました。
 私の左の脇腹には成人男性の両手を広げたくらいの大きな痣があるでしょう。右には薄くなった痣が有る筈ですし、何だか色々と傷痕があると思います。そして、真尋さんが次に捲った腕には、煙草を押し付けられたかのような痕が点々とある筈です。
 ああ、見られてしまいました。こんなにも美しく綺麗な人にこんな汚いものを見せてしまうなど、私は本当に駄目な人間です。

「……この火傷、まだ新しいな」

 真尋さんは、私の腕を掴んだまま肘近くにあるそれに目を細めました。

「……誰にやられた」

 真尋さんの声が低く唸るように問いかけて来ます。
 私は出来る限りの笑みを顔に浮かべました。

「バイト先のファミレスで油が跳ねただけです。こっちの痣は転んだだけですよ。ほら、私ってぽやぽやしているところがあるので、しょっちゅう怪我をす」

 私の言い訳を遮るようにダンッと真尋さんがテーブルを殴りつけました。カチャンを跳ねたカップからミルクティーが零れてノートにシミを作りました。

「俺は、誰に、やられた、と聞いている」

 低く唸るその声はビリビリと空気を震わせる怒気を孕んでいました。
 夜色の真っ直ぐな眼差しが私の全てを見透かすかのように細められました。それが怖くて、これ以上、醜い私を知られたくなくて私は、逃げるように顔を俯け、手早く荷物を纏めました。

「真尋さん、マスター、奥さん、今までありがとうございました」

 上手く笑えていたかどうか自信はありません。
 それよりも早く、早く逃げなければと私は真尋さんの脇をすり抜けて逃げ出しました。真尋さんが咄嗟に伸ばした手を避けて、そのまま喫茶店を飛び出します。カランカランとドアベルが鳴る音が背後でしました。

「藤谷充!!」

 真尋さんが呼ぶ声が夜に響き渡りました。

「充くん!」

「充くん! 戻っておいで!」

 奥さんとマスターまで私を呼んでくれています。
 けれど、その声や優しさに応える資格が私にはありませんでした。薄暗い道を駆けだして、私は只管に走って、走って、でも他に行くとこころなんてどこにもなくて私と私を引き取ってくれた人が住むアパートへと戻りました。








 外から見上げれば、二階の一番奥の隅、目の前に立つ三階建てのアパートの影になって日の当たらない部屋には灯りが点いていました。私はボロボロの鉄製の階段を上がって、軋む廊下を慎重に歩きながら部屋のドアノブに手を掛けました。音を立てないように慎重にドアを開けて中に入ります。テレビから聞こえるどこかわざとらしい笑い声が私を迎え入れました。
 八畳一間、1Kの狭いアパートに私と私を引き取ってくれた四十代の女性が住んでいます。猫の額ほどの玄関の土間には紅いハイヒールと黒いサンダルがありました。どうやら三か月ほど前からお付き合いをしているという彼氏も来ているようです。

「ただいま戻りました」

 そっと声を掛けましたが返事はありません。ドアはないので暖簾が掛けられたリビングの向こうには確かに人の気配がありました。染み付いた煙草の臭いに酒の臭いが混じっている所をみるとどうやらお酒を飲んでいる様です。あははは、とレイコさんの大きな笑い声が聞こえて「馬鹿な奴らだな」と鼻で笑うレイコさんの彼氏のコウジさんの声も聞こえて来ました。
 ほんの数歩で通り抜けられる廊下には小さなキッチンがあり、キッチンの向かいにはトイレとお風呂があります。私の部屋は、お風呂の隣、本来は恐らく洗濯機を置くのであろう小さなスペースです。そこに突っ張り棒で布を掛けて私の部屋として使っています。あるのは座布団が二枚と薄手の毛布が一枚ですが、膝を抱えて毛布に包まって眠れば狭さが案外、心地よいです。
 私はそのスペースの毛布の中に隠すように鞄を置いて、洗い物が溢れているシンクへと向かいます。袖を捲ってからスポンジに洗剤を馴染ませて汚れた食器を洗っていきます。ちらりと見た先、玄関わきの僅かなスペースには酒の空瓶、大きな焼酎のペットボトルが溢れています。ここのレイコさんはお酒をたくさん飲みます。
 食器を洗い終えたら冷蔵庫と戸棚の中身を確認します。おつまみ類とお酒は在庫を切らすと怒られますので、毎日のチェックは欠かせません。またビールを買っておかないと、と私が脳内にメモをしていると後ろから声が掛けられました。

「帰ってたの?」

 酒焼けしたその声に振り返れば、レイコさんが立っていました。その右手には煙草があって、脱色して明るい茶色の長い髪を無造作に一つにまとめています。はげかけた真っ赤な口紅に彩られた唇が楽しそうに笑っていました。
レイコさんは、父の遠縁だそうですが良くは知りません。

「は、はい。先ほど戻りました」

「……そう」

 くらくらするような甘くてきつい香水の香りが近づいて来て私の隣に立ちました。女性にしては背が高いレイコさんが私の顔を覗き込んできました。ふーっと吹きかけられた煙草の煙にむせそうになるのをぐっと堪えます。

「あんた、火曜と金曜の夜、バイト行ってないんだってねぇ」

 ひやりと心臓が凍った気がしました。唇を固く引き結んで、言い訳を探そうと試みたのですがそれより早く、腕に激痛が走って上げそうにあった悲鳴を唇を噛んでどうにか押し留めました。左腕に煙草が押し付けられていました。

「ねえ、先月、あんたミスばっかりして時給下げられたから金が減ったって言ったよねぇ? あんた、嘘吐いたの?」

「ちがっ、あっ、うぐっ」

 みっともない悲鳴が漏れてしまいそうで、私は咄嗟に右手の甲を口に押し当て噛みつきました。右手の痛みが強くなればなるほど、左腕の激痛が遠のくような気がしました。

「次、嘘吐いたらさ、あんたの若いお友達のとこに挨拶に行くから」

「……っ」

「随分と綺麗な男の子ねぇ。見たのよ、あんたのお友達がすっごい高そうな車から降りて来てあの寂れた喫茶店に入るの。ああ、あんたみたいなのを入店させてくれたんだからあの店の人たちにもちゃーんとお礼を言わないとねぇ」

 血の気が引いて、ただただ私はレイコさんの顔をじっと見つめました。淀んだ双眸は愉悦の色を宿して細められ、放り投げられた煙草が狭いシンクの中で息絶えるように熱を失っていきます。赤いマニキュアの塗られた鋭い爪を持つレイコさんの骨ばった手が私の頬を撫でました。

「あんたまだ若いんだからさぁ、一日二時間も眠れば十分でしょ? その分、たーっぷり働いてね、そうしたら許してあげる」

 深紅の唇が愉しそうに紡いだ言葉に私は、はい、と乾いた声で返事をすることしか出来ませんでした。

「レイコ、早く持ってこいよ」

「今行くわぁ」

 コウジさんがレイコさんを呼ぶ声が聞こえて、レイコさんの手が私の頬を離れて行きました。レイコさんは固まる私の脇を通り過ぎて、冷蔵庫へいくと中から缶ビールを三本取り出してコウジさんのいる方へと戻ります。

「なんかおつまみ作ってよ。早くね」

「はい」

 暖簾を潜りながら言われた言葉に返事をして、その背が見えなくなると私は冷蔵庫を開けてベーコンとジャガイモとチーズを取り出しました。
 左腕に残っているはずの痛みはどこか遠く、右手の甲には歯型に沿うように出来た血のあとも蛇口をひねって流れだした水に流れて醜い痣を残すだけになりました。
 レイコさんは、私が約束を守らなかったら本当に真尋さんや喫茶店に行くでしょう。
 マスターのコーヒーの味をもっと舌に刻み込んでおけばよかったです。奥さんが時々くれた金平糖、どこで売っているのか聞いておけばよかったです。どうしても解けなかった応用問題の解き方を真尋さんに教わりたかったです。そういえば、奢って頂いたのにカツサンドのお礼を言うのを忘れていました。
 夢の終わりなんていつも、呆気無いものです。
 それでもあの優しい人たちにもう二度と会えなくなるのなら、もう少しだけまともな別れ方をしてくれば良かったとそんな後悔を抱きました。








「あの頃の私は、とんだお馬鹿さんでしたねぇ」

 そう苦笑を零しながら私は買い物を終えて車庫に車を入れ、裏口から家の中へと入ります。そのままキッチンへと向かいました。人の気配と話し声が聞こえてくるところをみるに真尋様もお昼寝から目覚めたようです。

「おかえり」

「あら、おかえりなさい、充さん」

「ただいま戻りました」

 対面式のキッチンにはエプロンをつけた雪乃様がいて、カウンターには真尋様が頬杖をついて雪乃様を愛おしそうに見つめておられました。
 雪乃様は何故か手際よく焼きそばを作っておられます。

「真尋さんがお昼寝から起きたらお腹が空いたって言うからおやつに焼きそばを作ってるんですよ」

 じゅーじゅーとソースの焼ける香ばしい匂いが私の空腹中枢をも刺激します。流石は雪乃様です。真尋様のためにと料理を覚えた雪乃様はとても料理上手です。愛の力は偉大ですね。
 私は手に持っていた荷物を手早く片付けて食器棚からお皿を一枚取り出してコンロの横の作業スペースに置きました。そして真尋様のお箸を引き出しから出して、飲み物の用意もしなくてはとコップも取り出します。

「充さん、お皿をもう一枚、お願いできるかしら」

「あ、はい、ただいま」

 どうやら珍しいことに雪乃様も召し上がられるようです。おやつを食べられるほど元気だなんてすばらしいことです。
私はもう一枚、お皿を取り出して雪乃様に渡しました。雪乃様は二つのお皿に焼きそばを盛りつけていきます。私は青のりと紅しょうがを冷蔵庫から取り出して雪乃様の手元に置きます。ついでに麦茶の入ったボトルも取り出して、ダイニングのテーブルの上にランチョンマットをしいてセットを完了させれば、真尋様が焼きそばの盛られたお皿をランチョンマットの上に置きました。

「お前の分が出ていない」

「え?」

「私は真尋さんのを少し貰うだけよ。はい、充さんの分」

 そう言って雪乃様は私の席にランチョンマットを敷いて箸や箸置きまで用意してくださいました。

「ありがとうございますっ!」

 私は思わず笑みを零してしまいました。
 子どもみたいだな、と小さく笑った真尋様の手が伸びて来て、くしゃりと髪を撫でられました。至福の瞬間です。この真尋様の手の温もりや感触を写真やビデオのように何かに記録できればいいのにといつも思うのです。

「……大分、慣れたな」

「はい?」

 何かを真尋様が呟かれた気がしましたが、真尋様に撫でてもらえたことに胸を震わせていた私は、うっかりと聞き逃してしまいました。
 真尋様は「何でもない」と返して、お箸と小皿を持って戻ってきた雪乃様の為に椅子を引きました。雪乃様がお礼を言って座ると真尋様も席に着きます。私も座るように促されて慌てて自分の席へと座りました。

「いただきます」

「いただきます」

「どうぞ、めしあがれ」

 真尋様に合わせてきちんと挨拶をしてから、私は焼きそばを食べます。ソースの絶妙な旨味が濃厚で青のりの風味と紅ショウガ、キャベツの甘みや豚肉のコク、口いっぱいに美味しさが広がります。

「雪乃様、美味しいです!」

「ふふっ、良かったわ」

「前に俺が作った時は炭になったのにな。雪乃は凄いな」

「それは真尋さんが焼きそばを油で揚げたからよ」

 雪乃様は、うふふと笑っておられますが少々、怖いです。真尋様がそっと視線を逸らしました。あの時、真尋様は「かた焼きそばを作ろうと思った」とリビングでソファに座る雪乃様の前で正座をして言い訳していらっしゃいました。
 ダイニングテーブルの所謂お誕生日席が私の席で真尋様と雪乃様は並んで座り、その向かいが双子さんの席になっています。一路様と海斗様が来られた場合は、お二人は真尋様の隣か双子さんの間、或は私の正面の席と自由に座りますが「正面はダメージが大きすぎる」とのことで大抵、真尋様の隣か私の正面の席を選ばれます。一体、何のダメージがあるというのでしょうか。
私は一時、双子さんの要望でお二人の間に席を頂き、ご飯を食べていたのですが、真正面で真尋様と雪乃様が仲睦まじくお食事をとられるお姿に胸がいっぱいになりまして、幸福すぎる光景に泣きながら拝みつつご飯を食べておりましたら「鬱陶しい」と真尋様に言われ、泣く泣く今の席へと移動したのです。その時、心優しい双子さんは「お兄ちゃん、みっちゃんは病気なんだから仕方ないよ!」「お兄ちゃん、やっぱり病院に連れて行ってあげなよ」と庇って下さいました。真尋様は「そいつの頭は残念ながらもう治らん」とおっしゃっていましたが、雪乃様が「大丈夫よ、充さん。拾っちゃった以上、どんな御病気でも捨てたりしませんからね」と私に声を掛けて下さいました。

「そう言えば、園田」

「はい」

 名前を呼ばれて顔を上げます。

「十一月の最初の週末、二泊三日で出かけるから仕度をしておけ。俺のは雪乃がするから、お前の分だぞ」

「お出かけ、ですか? どちらへ?」

 私は思わず首を傾げました。

「まだ秘密だ。当日は、朝五時出発で俺達と一路と海斗も来る。運転手は市村さんが担ってくれることになっているからな」

 市村さんは一路様と海斗様の家の運転手さんですが、一体、どこへ行かれるのでしょうか。
 しかし、真尋様がおっしゃることに逆らう理由も御座いませんので私は「分かりました」と頷きます。

「皆で旅行に行くのは初めてね。楽しみだわ」

「そうだな。真智と真咲には今夜言うつもりだが……まだ早いか?」

「今から言っておけば、当日には多少、興奮も治まるんじゃないかしら」

「今夜はうるさそうだな、まあ可愛いからいいか」

「ふふっ、真尋さんたら相変わらず兄馬鹿なんだから」

 真尋様と雪乃様を包む空気の穏やかさに焼きそばがますます美味しいです。
 それから焼きそばを堪能しつつ、主夫妻の仲の良さを目と耳に焼きつけつつ、おやつの時間が終わりました。

「それでは、真尋様、雪乃様。双子さんを迎えに行ってまいります」

「ああ、頼んだぞ」

「気を付けて行って来て下さいね。あ、まだ言っちゃだめよ、車の中ではしゃぐと危ないから」

「勿論でございます。それは行ってまいります」

「行ってらっしゃい」

 真尋様が私に下さった真尋様お手製の有難い革のキーホルダーを付けた車の鍵を手に私はリビングを後にしました。
 今夜、兄夫婦の提案にはしゃぐ双子さんの喜ぶ顔を思い浮かべながら、私は再び外へと出て車へと乗り込んだのでした。




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ここまで読んで下さってありがとうございました!!
いつも閲覧、感想、お気に入り登録、励みになっております!!
皆様の感想を読んで、そう思って下さったのか!とはっとしたり、喜んだり、或は、へへっそこに気付いてくれましたかとニヤニヤしたりして、創作意欲を高めております!!

今回は以前からお声を頂いていた執事・園田充の過去のお話です。
次のお話は、もしかしたら園田ではなく、一路のお兄ちゃん視点のお話になるかもしれません!

次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。
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