称号は神を土下座させた男。

春志乃

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番外編

水無月家の執事になる前の話 4

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「これで、よし、と……本当に気が短いんだから」

 傷薬を塗って少し大きめの絆創膏を真尋さんの手のひらに出来た傷に貼ります。

「あの男に投げつけなかっただけ褒めて欲しいくらいだ」

「馬鹿言わないの」

 むっつりと珍しくあからさまに不機嫌を隠しもしない真尋さんは、絆創膏の貼られた手を引っ込めると、誰が用意したのかノートパソコンに手を戻してカタカタとキーボードを打ちます。英語のそれは、どうやらアメリカの方の子会社とのやり取りのようです。
私は部屋の隅にお茶のセットがあったので改めてお茶を淹れ直します。ノートパソコンの周りには、書類が散らばっていて、割れた湯呑もお盆の上に放置してあります。
 私の旦那様は、びっくりするほど頭も良くて、スポーツも卒なくこなす方だけど、整理整頓と料理が壊滅的に出来ないの。電子レンジで卵をチンされた時には、本当にこの人は頭が良いのか悩んだこともあるんですけどね。

「真尋さん、怖い顔」

 私はそっと書類を退けた彼の傍に膝をついて、真尋さんの顔を覗き込みました。
 夜みたいに綺麗な黒の瞳が私を見つけると珍しく眉間に寄っていた皺がすっと解けて、ふわりと唇にキスが落とされました。ふふっと笑って私からもキスを返して、お茶をどうぞ、と真尋さんの手に湯呑を渡します。

「あいつらは?」

 ずずっとお茶を啜りながら真尋さんが言いました。

「泣きつかれて寝てるわ。海斗くんと一くんに任せて来たから大丈夫よ」

「……泣いたのか? まさか、父親だと思い出したのか?」

 湯呑を口に運ぶ手を止めて真尋さんが顔を上げる。私は、その辺に散らばる書類を片付けながら、違うわ、と振り返ります。

「意地悪かもしれないけれど貴方の実のお父様よ、という言葉を私は口にする気はこれっぽっちもないのよ。充さんが自力で思い出してしまったら仕方がないと思うけれど、思い出さない方がきっと充さんの為だと思うから」

「意地悪なものか。一生思い出す必要なんかない」

 真尋さんは、随分ときっぱり言い切りました。
 基本、白か黒かで物事をはっきりわける人なんです。

「私も同意見よ。でも、充さんが自分のことを知っていたようだって悩んでいたから、私、こう言ったの。「スカウトマンよ」って」

「スカウトマン?」

 書類の中身を見ながら、種類ごとに分けて行きます。
真尋さんは一度読むと全部頭に入ってしまうから、書類がどこにどう散らばっていようと気にしないの。該当書類がなくても頭の中にぜーんぶ入っているんだもの。

「そう。優秀な執事さんの噂を聞きつけて、是非うちにって誘いに来たのよって言ったら、双子ちゃんが充さんにしがみついて泣き出しちゃったの」

「……何故?」

「んー、子どもって敏感だから、かしら」

 私が書類の整理整頓を終えると真尋さんが、ぽんぽんと胡坐を掻く自分の膝を叩きました。私は素直に真尋さんのお膝にお邪魔します。背中を預けるんじゃなくて、すぐにお姫様が抱っこできるような恰好って言ったら良いのかしら。
真尋さんって武道を嗜むから割と筋肉質で彼の腕の中はとても安心できる場所なんですよ。背も高いから私をすっぽりと包み込んでしまうこの腕の中は私のお気に入りの場所なの。とはいっても二人きりの時だけですよ、恥ずかしいもの。

「みーくんは、僕んちの執事なの、みーくん、どっかに行ったらヤダ!って充さんにしがみ付いて大泣きで、みーくんはただの執事じゃなくて僕んちの家族だからダメ! 僕とちぃのもう一人のお兄ちゃんなの! って言われた充さんも嬉しくて泣き出しちゃったのよ」

「……うちの弟は天使のように良い子だな」

 しみじみとそう告げるこの人は海斗君を馬鹿に出来ないくらいには兄馬鹿です。でも、私も似たようなものだけれど。
 赤ちゃんの頃から知っているし、雪ちゃん、雪ちゃんっていつも全力で愛情表現をしてくれる双子ちゃんが可愛くて仕方がないの。

「それで今は、戻って来た海斗くんと一くんが敷いてくれた布団でぐっすりよ。今夜は眠れないって騒ぐかもしれないけど……双子ちゃんもなんとなく充さんがふわふわしてるのは気付いているのね」

「あの馬鹿は、」

 真尋さんの手がパソコンに伸びて、器用に右手だけで操作する。どうやら海外の誰かとメールのやり取りをしているようです。

「居場所というものに固執する割に、何年経っても自分の居場所に自信がない馬鹿だからな。真智も真咲も聡明で敏感だから、園田のそういう危うい部分を言葉に出来ずとも何となく肌で感じているんだろうな」

「そうね。でも最近は、自分で自分の部屋に飾るものを買ってきたりするのよ、充さん。真尋さんとか一くんたちがプレゼントした時代劇関連のもの以外にも少しずつ私物を増やし始めたの。この間、私が仕立てたエプロンも気に入ってくれて使わない時は壁にかけて飾っているみたい」

「俺は貰ってない」

「あなたにエプロンなんて猫に小判よ」

 真尋さんはあからさまにヤキモチを妬きます。私のことに関しては、とても心が狭いのが真尋さんなのだけれど、好きな人がヤキモチを妬いてくれるなんて嬉しいの。調子に乗るから真尋さんには内緒ですよ。

「充さんからとっちゃだめよ?」

「君は俺を何だと思ってるんだ」

「さあ? ふふっ、それより充さんのお父様はどうなさったの? お帰りになったの?」

 真尋さんはまだ何か言いたそうだったけれど、頬にキスをして「ね? どうしたの?」と問いを重ねればすぐに機嫌を直して話し始めます。こういう割と単純な所も好きです。

「松田たちに迎えに来させて、うちの系列のホテルの一室で丁重におもてなしをするように言ってある。これから色々な書類にサインをしてもらわないといけなくなるからな」

 松田さんというのは、真尋さんのお父様が真尋さんに付けているボディガードさんです。真尋さん、双子ちゃんに一人ずつ松田さん、竹内さん、梅原さんという方が身辺警護を主な任務として専属でついています。こうしてお出かけしている時なんかは姿は見せずとも必ず近くにいるんです。ただこの三人の名前が本名かどうかは私は知らないですけどね。

「ねえ、真尋さん」

 英語で書かれるメールの文面をぼんやりと追う。

「充さんは、いつか……思い出すのかしら。お父様のことや忘れてしまった傷痕のこと」

「どうだろうな。そればかりは流石に俺にも分からない」

 寄り掛かった真尋さんの胸はしっかりとしていて安心します。とくん、とくんと規則正しく刻まれる心臓の音はいつも私を落ち着かせてくれます。
 真尋さんほどではないにしろ、充さんも優れた頭脳と記憶力をお持ちなのだけれど、彼の記憶には所々に穴が空いているのを感じる時があるんですよ。真尋さん拾われて以降はそんなことはないのだけれど、それ以前の彼が――「藤谷充」だった時の記憶はぽつぽつと穴があるんです。彼の体に多く残る傷痕の中には骨折した痕もあって、そんな覚えていない方がおかしいような大きな怪我をどうしてしたのか覚えていなかったり、充さんの実のご両親が喧嘩した時に交わされた言葉は覚えているのに二人の顔は覚えていなかったり。そういう不思議な記憶の穴が充さんの中には存在しているの。
 でもそれはきっと、充さんの防衛本能が自分の心を護ろうとして働いたものだと私も真尋さんも思っているんです。覚えているだけで息苦しくなるような出来事を、心が抉られそうになるような出来事を、充さんは自分を護るために忘れてしまったのね。

「……真尋さんは、いつか充さんに充さんのお母様のことをお話するの?」

 パソコンを弄っていた真尋さんの手が止まって、画面に向けられていた双眸が私に向けられます。私は彼の腕の中から、その綺麗な顔を見上げて答えを待ちました。真尋さんは、少しの間、私をじっと見つめていたけれど私の額にキスを落とすと私を抱き締めて座椅子の背もたれに寄り掛かるように体の力を抜きました。二人分の体重を受け止めた座椅子が、ギギッと軋む音を立てます。

「知らないなら知らない方が幸せなことは山ほどある」

 耳を当てたままの胸に響く、聞き慣れているはずの声はくぐもって、いつもと少しだけ違う響きで私の鼓膜を揺らします。

「……でも、もし……悪意を持った誰かに突然、知らされるよりは俺があいつに直接教えたほうが良いのではと思う時がある。水無月という家に引き込んでしまった以上は無論、守るつもりはあるし、あいつは執事だから基本は家のことを任せているから早々、あれらと関わることも無いだろうが」

「私は、いつ伝えるかは別として他の誰かが教えてしまうより、やっぱり真尋さんから伝えるのが一番だと思うわ」

「……そうか。なら、俺が高校を卒業したら、伝えるとしよう。その時は傍にいてくれ」

「ええ、もちろん」

 顔を上げれば、安心したように少しだけ目を細める真尋さんの顔があって、あ、と思った時にはキスをされるの。真尋さんは、兎に角スキンシップが好きなんです。勿論、私だって好きです。やっぱり好きな人に触れるのも、触れられるのもとても心地が良いですからね。ただ、油断すると所かまわずなのは真尋さんの困った所だわ。
 そんな風にしてじゃれ合うようにキスをして、暫く二人きりの時間を堪能した後、真尋さんの用事が片付くのを待って一緒に部屋へと戻りました。
 それからは特に問題はありませんでしたけれど、双子ちゃんは充さんにべったりになってしまいました。とはいえ充さんが幸せそうだったので、やっぱり何も問題はありません。
 双子ちゃんは何度も何度も「みーくんは、うちの大事な執事だよ」「大事な家族なんだよ」と口にしました。その度に充さんは、幸せそうに笑いながら何度も、何度も、ありがとうございます、と頷いていました。
 充さんがああして幸せを素直に受け止められるようになったことが何だか私も嬉しくなってしまいました。





 あれは、充さんが水無月家に来てひと月と少しが経った頃でした。
 当時、私は誕生日を迎えたばかりの十二歳の白凛学園初等部の六年生でした。今よりもずっと体の調子は不安定で少しのことで熱は出てしまうし、入院なんてしょっちゅうでした。
 私の両親は、真尋さんのご両親ほどではないけれど忙しい方たちで、真尋さんたっての希望で私は基本的に隣の水無月家に居ました。
水無月家には時塚さんという真尋さんのお父様の代から水無月家に仕えている家政婦さんがいて、私は幼いころから彼女に家事を教わりました。勿論、体調の良い日だけでしたけれど、それでも私の家事能力の基礎を作ってくれたのは時塚さんです。
その時塚さんは真尋さんが中学校に上がると同時に高齢を理由に退職することになりました。その後に来たのは、大手派遣会社から派遣されて来た家政婦さんで私にも優しくしてくださった至って普通の方だったのですが、まさか夜中に真尋さんを襲うなんて、検査入院をしていた私は、本当に驚きました。検査の数値が悪かったので私はそれから夏の間中、入院していて真尋さんも心配したお母様にフランスに連行されてしまいました。
そして、色々な事件を経て、十一月の七日、雨の降る日に園田充さんは我が家にやってきました。
 充さんの荷物は、参考書の入った少し草臥れた鞄が一つと着替えが少しだけでした。
 真尋さんから充さんのそれまでの人生に付つては聞いていましたけれど、体以外は何不自由なく育った私には想像も出来ない辛い日々を過ごしてきた充さんとの生活は、最初の頃、シャツのボタンを掛け違えてしまったみたいに小さなズレがあってうまくいかないことが多々ありました。
 充さんは家族として扱われることに随分と戸惑ってしまっていました。一緒に食事をすることも、あたたかなお風呂に一緒に入ることも(入ったのは真尋さんとか双子ちゃんよ)、柔らかいベッドで眠ることも、何もかもが彼にとっては未知のことで、それは嬉しいことで幸せなことだったのでしょうけれど、今まで床で残り物を食べて、冷たいシャワーだけで済ませ、洗濯機を置く小さなスペースで眠っていた充さんには享受しきれないことだったのです。
 結局、充さんは我が家にきてひと月も経たない内にストレスが原因の心労で熱を出して倒れてしまいました。
 コンコン、とノックをすれば「どうぞ」と掠れた声が返事をくれました。
 私はお粥の入った土鍋を片手に部屋の中へと入ります。暖房と加湿器のおかげで部屋の中はもわんとした空気に包まれていました。

「お昼ご飯を作ったんです。食べられますか? 大丈夫、無理に起きないでください」

 私はサイドボードにお粥の乗ったお盆を置いて、元から置いてあった椅子に腰かけました。
 ベッドに沈む充さんは、熱のせいで赤い顔をしてぼんやりとした目で私を見ていました。私が手を伸ばすとビクッと震えましたけれど、気付かなかったふりをしてその額に乗っていたタオルを外して、濡れた前髪をそっと払って手を当てました。

「なかなか下がりませんね……」

 手のひらからはじんわりと高い熱が伝わってきます。
 私はタオルを氷水に浸して絞り、充さんの額に乗せ直します。

「あ、の……」

「はい」

「私は、大丈夫ですので……貴女の具合が悪くなったら、困ります……」

「大丈夫よ。充さん、風邪じゃないからうつらないし、それにいつも看病される側だからとても新鮮です。チビちゃん達は時々、具合を悪くして寝込むけどその場合、大体、私も入院しているし……真尋さんに至ってはそもそも風邪を引くことが滅多にありませんし。一度、誰かの看病をしてみたかったんです」

「ですが……」

「それより食欲はありますか? 食欲がなかったらせめて水分だけはきちんととって下さいね」

 私は充さんの言葉を遮って、枕元に転がっていた水のペットボトルのキャップを外して充さんに渡しました。充さんは、すみません、とそれを受け取って頭をもたげてごくごくと飲みました。余程、喉が渇いていたのか一気に半分ほど飲んでしまいました。軽くなったペットボトルを受け取って蓋をします。

「……すみません。こんなことになってしまって……」

「謝ることなんか一つも無いですよ。充さん、頑張り屋さんだから頑張り過ぎて疲れてしまっただけですもの」

 ふふっと笑って私は、土鍋の蓋を開けました。ふわりと卵と味噌とお出汁の良い香りが鼻先を撫でます。

「私なんてしょっちゅう倒れますし、入院なんて日常茶飯事ですもの。この間も少し貧血を起こしてしまって、充さんにもとても心配をかけてしまいましたね。ごめんなさい」

「そ、それは貴女が謝るようなことでは……っ」

 慌てた充さんの言葉に私はくすくすと笑って顔を上げます。

「ほら、それと同じですよ。充さん」

 充さんは虚を突かれたような顔になって、徐々に困り顔になってしまいました。きっと彼の中で、私と貴女は違うのに、と悩んでいるのでしょう。

「充さん、真尋さんはねああ見えて不器用なところもある人なんですよ」

 私は土鍋に蓋をして、充さんに向き直りました。
 充さんは私の言葉に小さく首を傾げています。

「貴方に執事という役目を与えたのは、家族を知らない貴方が自分の居場所を疑わないようにするためだと私は思っているんです。家族の形って、とても曖昧なの。その点、執事というのは家や主人に仕えるという明確な立場があります。世間一般的には、血の繋がりが家族を培うものなんでしょうけれど、血が繋がっていてもうまくいかないことなんて山ほどあるんですよ」

 充さんは私の言葉に目を瞬かせました。じっとこちらを見つめる目は、何だか小さな子どもみたいに純粋です。六つも年下の十二歳の私の方が間違いなく子どもなのに、不思議ですね。

「……ねえ、充さんには将来の夢がありますか?」

「夢、ですか?」

「ええ。ちなみに私の将来の夢は、真尋さんのお嫁さんになることなの。今から真尋さんが十八歳になるのが待ち遠しくて仕方ないんです」

「素敵な夢ですね。貴女はとても可愛らしい方なので、きっと素敵なお嫁さんになります」

 充さんはにこにこ笑いながら、そう言ってくれました。

「ふふっ、ありがとうございます。でも、真尋さんのお嫁さんになるには、料理もお掃除も洗濯も覚えて頑張らなくちゃいけないの。あの人、経済力はありそうだけれど生活力はなさそうだから」

 私の言葉に充さんは、困ったような顔になりました。この一か月で真尋さんがどれだけ適当で大雑把で整理整頓が苦手なのかは分かっているのでしょうけれど、優しくて真面目な充さんは、そうですね、と素直には頷けないのだと思います。

「でもね、真尋さんのお家はとてもお金持ちで人を雇ってしまえば、別に私があれこれする必要はないんです。現に充さんには、お掃除やお洗濯なんかは助けて貰っていますし、食事の仕度だって。ついこの間までは家政婦さんが居て私は体調の良い日に簡単な料理を作ってあげることしか出来ませんでしたから」

「わ、私、出しゃばった真似をしていたでしょうか?」

 ぐっといきなり体を起こした充さんの額から、ぱさりとタオルが落ちました。
 私は、まさか、と慌てて充さんの不安を否定しました。

「とても助かっています。真尋さん、あの事件からどうも見知らぬ人に私物を触られるのが嫌になってしまったみたいで……」

「なら私も控えた方が……」

「そんな必要はありませんよ。真尋さんは、貴方を信頼しているからこうして家に連れて来て、部屋まで与えたんですもの。真尋さんはね、少しでも気に入らない人間は絶対に家に入れない大人げない主義の方だから、大丈夫よ。この間も真尋さんのお父様の第一秘書の村山さんを出禁にしたばかりで……困った人よね」

 ほら、横になってと促したけれど、充さんは掛け布団をぎゅうと握りしめて不安そうにしています。

「そ、その村山さんという方は……なぜ?」

 少し躊躇いながら充さんが尋ねて来ます。

「村山さんは、とっても勤勉で真面目な方で悪い人じゃないわ。ただ……真尋さんのお父様の真琴さん第一主義の方でね。全ての事象において真琴さんが正しいと思い込んでいる節があって昔から真尋さんとはあまりそりが合わなかったんですけど、この間、遂に村山さんは真尋さんの地雷を踏み抜いてしまったの」

「地雷、ですか?」

「ええ……私のことよ」

「貴女の?」

「そう、私。……真尋さんにお見合いの話を持ち掛けたの。ミナヅキに相応しいグループのお嬢様とのね」

「お見合いって……真尋様はまだ十三歳です」

「勿論、正式なものじゃないですけれど……正確に言うと真尋さんが怒ったのはお見合いの話をしたことじゃないの。だって候補なんて昔から山ほどいますし、そんなお話は再三耳にしていますから。でも村山さんは、私の体のことを引き合いに出して真尋さんの前で「雪乃様は真尋様に相応しくない」って言ってしまったのよ。これ、真尋さんがこの世で一番嫌いな言葉だから、覚えておくといいですよ。もしも、お外でそんなことを言う方がいたら真尋さんが何かする前に止めて下さいね。あの人、割と短気だから」

「真尋様が怒るのは当然です。だって、貴女以上に真尋様に相応しい方なんていません。真尋様は以前から、私に貴女の話をよくして下さいました。貴女のお話をされる真尋様はいつもとても幸せそうで……それにこの一か月、貴女の存在がどれほど真尋様を支えているか、私は目の当たりにしたのですから!」

 充さんの言葉に今度は私が驚く番でした。それと同時に真尋さんは、本当にこの人を気に入って拾って来ちゃったのね、と何だかおかしくなって、思わず笑ってしまいました。

「ふふっ、ありがとう。充さんは優しい方ね」

「いえ、私は本当のことを言ったまでで……っ!」

「それでも嬉しいものは、嬉しいもの」

 充さんは、何だか照れてしまったようでそれでなくとも熱で赤い顔をまた少し赤くして顔を俯けてしまいました。可愛い方です。純粋で優しい素敵な方。真尋さんが気に入るのも頷けてしまいます。

「でも、真尋さんのお嫁さんになるっていう夢を果たすためには、きっと。その言葉にだって負けないようにしないといけないと思うの。何も村山さんが初めてじゃないもの」

 ふふっと笑った私とは逆に充さんは、再び困ったような顔になる。

「夢って簡単には叶わないです。でも私、真尋さんのお嫁さんになりたいの。あの人が美味しいって言ってくれる料理を作ってあげたいし、あの人がくつろげるようにお部屋を整えてあげたい。自分でも呆れちゃうくらいに、私は真尋さんが好きで好きで、大好きで仕方がないの。……でも、私一人では出来ることもまだまだ少なくて、あの人を支えるのはとても難しいです。だから、」

 私は不安そうに布団を握りしめたままだった充さんの手を自分の両手でそっと包み込みました。私の小さな手の下で充さんの大きな手がギッと強張ります。

「充さんが立派な執事になって、私と真尋さんを支えて下さい」

「……私が、ですか?」

 声まで呆然とさせながら充さんが言いました。私は、ええ、と頷きます。

「真尋さんが気に入って拾って来ちゃうくらいですもの、貴方は貴方が思っているよりもずっと優秀で素晴らしい人なのよ。言っておくけど、真尋さんは同情だけで自分の傍に居る人間を決めるような優しい人じゃないですよ」

 充さんは、暫くの間、呆然として私を見つめていましたが、悩むように眉間に皺を寄せた後、逃げるように顔を俯けてしまいました。私の手の下で握りしめられた手が微かに震えているのに気付きました。

「……俺なんかに、あの人を支えることなんて……っ」

「なんか、なんて寂しいことを言わないで。充さんは、あの水無月真尋にその価値を認められて、水無月家に仕えることを許された素晴らしい人なんですよ。貴方の主人が認めた価値を、貴方が否定してはいけないわ」

 ぎゅうと充さんの手を強く握りしめました。充さんがゆっくりと顔を上げます。私は今にも泣き出しそうなほど不安そうにしている充さんが少しでも安心できるようにと想いを込めて微笑みかけました。

「……夢なんて、分からないのですが……」

 ぼそぼそと囁くような小さな声が言葉を紡ぎ出しました。

「……真尋様のお役に少しでも立てるような……立派な執事に、俺は、なりたいです……っ」

「大丈夫。充さんならきっとなれるわ。胸を張って、水無月家の執事です、と言い切れる立派な執事になれます」

 私はきっぱりと言い切りました。口から出まかせではありませんし、根拠なく言っている訳ではありません。人を気遣うことができて、頭もよく、何でも器用にこなす充さんは立派な執事になれると確信しているからです。

「でも、ゆっくりでいいですからね。焦ったって良いことなんて、一つもないの。だから今はしっかり休んで元気になりましょう?」

「……はいっ」

 ぐすんと鼻を啜る音が聞こえたけれど、きっと年上の男性として私のような子供に涙を見せるのは恥ずかしいでしょうから気付かないふりをしてぽんぽんと握りしめていた充さんの手を撫でて私は、土鍋に向き直ります。お部屋の中も温かいので、土鍋の中の卵粥はまだまだ湯気を立てています。私は、木製の小さなお玉で卵粥をお茶碗によそいます。

「そうね、立派な執事への第一歩として、まずはこのお粥を食べてお薬を飲みましょう?」

 レンゲでお粥を掬って、ふーふーと息を吹きかけます。
 はい、と口元に差し出すと鼻を赤くした充さんは、びっくりしたような顔をしていましたが、気恥ずかしそうにしながらもぱくりとお粥を食べてくれました。

「大丈夫? 熱くないですか?」

「はひっ、おいひいれふ、雪乃さま」

 はふはふ言っていましたけれど、充さんは無邪気な子供みたいに緩み切った笑みを浮かべてくれました。初めて見るその笑顔が私はとっても嬉しくなって、せっせと充さんにお粥を食べさせていたんですけれど、心配して学校を早退して様子を見に帰って来た真尋さんがヤキモチを妬いて「だったら俺がする」と宣言して、充さんにお粥を食べさせてくれました。充さんは、真尋さんには本人が意識していなくても感情表現が素直な方ですので私が食べさせるよりは嬉しそうに食べていましたけどね。
 でも、この日から少しずつ、充さんは私に懐いてくれて、そうして双子ちゃんにも慕われるようになり、水無月家の一員として馴染んでいったのです。
まさか五年後、立派な執事の前に合法ストーカーと真尋さんに言わしめる存在に成長するとは思ってはいませんでしたけれど。











「みーくん、旅行、楽しかった?」

「はい! とっても!」

 翌朝、少し遅めの朝ごはんを終えて最後にもう一度だけ、と一路くんと双子ちゃんが言うので温泉に浸かって、私たちは帰路へ着くために二晩を過ごした部屋を後にして、本館の玄関へと移動しました。
 双子ちゃんは、充さんにぺったりと張り付いています。海斗君は、玄関先に車を止めて待ってくれている運転手の市村さんとお話をしていて、真尋さんは少し離れた所で挨拶と見送りに出て来た女将さんと板長さんと支配人さんと……兎に角、旅館の偉い人たちとお話をしています。

「なら、今度は飛行機とか乗って、沖縄とか北海道も良いよね」

 一くんの言葉に双子ちゃんと充さんが顔を輝かせます。無邪気でとても可愛らしいわ。

「素敵ね。でも、テレビで見たんだけれど私、電車の旅もしてみたいの」

「僕、電車の中でお泊りしてみたい!」

「電車の中で温泉も入れるんだよ!」

 双子ちゃんがぴょこぴょこ飛び跳ねて喜びを露わにします。
 一くんが、危ないよ、と声を掛けると跳ねるのを素直にやめて、二人で充さんの腕を引っ張ります。

「みーくん、電車の旅行、お兄ちゃんに頼んでみようね」

「冬休みになったらいけるかな?」

「ですが、テレビで予約は凄い倍率だとお聞きしましたが……」

「そしたら普通の電車でもいいよ。ガタンゴトンってやつ。僕、電車乗ったこと無いから」

 安全面の問題で双子ちゃんは基本、充さんの運転する車での送迎です。そういえば、私も電車やバスといった公共機関を利用したことはありません。私の場合、体の問題もあるので仕方がないですけど、双子ちゃんは一度くらいはそういう経験も必要ですよね。今度、真尋さんに相談してみないと。
 充さんは昔、バイトや大学に行くのに電車を利用していたので、双子さんにその時の話を強請られています。興味深そうに充さんの話を聞く双子ちゃんに充さんも一生懸命です。

「真尋くん、まだまだかかりそうだし、僕らは先に車に乗っていようか? 雪ちゃんもその方が楽でしょ?」

「ありがとう。そうね、まだ帰りは長いから座っていたいわ」

 一くんの気遣いに私はお礼を言って、その提案に乗ることにしました。
 ところが私たちが、歩き出そうとした時、海斗くんの怒鳴り声が響き渡ったのです。

「待て! この野郎!」

 振り返れば、市村さんが蹲っていて、それを気にするより先に一くんの「わぁ!」という驚きの声がしました。

「一路!」

 双子ちゃんが私を護るように抱き着いて来て、充さんがそんな私たちをすぐに背に庇ってくれます。

「あちゃー、ごめん、捕まっちゃった」

 緊張感の欠片も無い声が緊張感漂う玄関に落とされます。
 どういう訳か一くんが、昨日、ホテルに連行されて監視付きでおもてなしされている筈の充さんの実のお父様の藤谷さんに首にナイフを突きつけられるようにして人質にとられていました。

「動くなっ! 動くとこいつを殺すぞ!」

 よれよれのスーツ、血走った目に、ぼさぼさの髪、どうやってここへ来たかは知りませんが正常な様子ではありません。
 真尋さんも流石に足を止めて、眉間に皺を寄せて不機嫌そうに藤谷さんを睨んでいます。

「松田たちは、特別訓練だな」

 ぼそっと呟く声が真尋さんから聞こえました。
 真尋さんに一応、つけられているボディガードさんですが、正直な所、どういう訳か護衛対象である真尋さんの方が強いんです。私の旦那様は本当に料理と掃除以外は完璧なんです。

「用件はなんだ」

 真尋さんが一応尋ねます。
 捕まった一くんと対応する真尋さんがあまりにも平然としているので、今一つ、女将さんたちもどう反応して良いか困っているみたいです。パニックは人から人へ伝染しますけど、逆の場合も然りなんですね。

「充を寄越せ」

 藤谷さんは、そう宣いました。
 真尋さんはその言葉を受け止めて、無表情のまま鼻で嗤い飛ばしました。

「はっ、何で俺が俺のものを貴様如きに呉れてやらねばならん」
 
 私はその時、見逃しませんでした。私と双子ちゃんを庇う充さんが、ちゃっかりジャケットの内側でボイスレコーダーを構えて真尋さんのその発言を録音していたことを。充さん、片手で口元を覆って鳴かないようにしていて、双子ちゃんが憐れみの目をしています。

「はいっ! 私は髪の一本から細胞の一つに至るまで全て真尋様のもので構いませんっ! というか寧ろ、私は真尋様に拾われたその日から全て真尋様のも」

「馬鹿はちょっと黙ってろ」

「はいっ!」

 いつも思うのだけれど、どうして充さんは真尋さんに怒られる時にちょっと嬉しそうなのかしら。これもやっぱり頭の病気のせいかしら。
 藤谷さんは、人質までとって喉元にナイフを突きつけているというのにちっとも要求に応じる気のない真尋さんや真尋さんしか見ていない充さんとそもそも欠伸を零している人質の一くんにペースを乱されているようです。普通なら、ここでパニックが起きて、向こうが優位に立てる筈ですものね。でも、残念ながら真尋さんにしても一くんにしても、こういうことは割と日常茶飯事なんです。

「充は俺の息子だ!! 息子が父親を助けるのは当然だろう!?」

 油断していた隙に藤谷さんがそう叫んでしまいました。私は咄嗟に充さんの耳を塞ごうとしましたが、どういう訳か充さんは全くダメージを受けていないどころか、ドヤ顔をしています。

「真尋様の仰る通りですね。私の父を騙って、水無月家の恩恵に肖ろうなど馬鹿馬鹿しすぎて笑えます」

 そういえば昨夜、お庭で何かをお話していたようだけれど真尋さんたらいつの間にか手は打っていたのね。充さんたら真尋さんの言葉は何でもかんでも簡単に信じてしまうから、私は少し心配です。変なことを教えなければいいけど。

「何を言っているんだ! 俺だ、俺がお前の父親だ!!」

「……残念ですが私の父は父では無く母になったと昨日、真尋様が私を気遣いながら教えてくださいました。真尋様はとても心お優しい方ですので、そのお心遣いたるや、いえ、貴方如きにお聞かせるすのは勿体無いので割愛いたします」

 充さんが大真面目に言いました。どうしましょう、既に変なことを教えられた後だったようです。思わず私は真尋さんを睨み付けました。真尋さんはそっと視線を逸らして逃げました。

「母と離婚してアメリカに渡った父は、輸入雑貨の会社を起業しましたがなかなかうまくいかず、その心労と疲労で女装というものに目覚めてのめり込み、遂には体も女性となってしまったと真尋様が教えて下さったんです。真尋様は私がショックを受けないように細心の注意を払いながら教えて下さったんですよ。私の父だった母は、今、カナダで幸せに暮らしているそうです」

「馬鹿を言え! 俺は男のままだ! そんな趣味はない! 俺がお前の父親なんだ!!」

 藤谷さんが必死に叫びます。ですが真尋さんが嘘を言うという発想の無い充さんは憐れみの眼差しを藤谷さんに向けています。真尋さんはあとでお説教ですし、充さんも何でもかんでも信じすぎです。

「それに最近、そういった詐欺が流行っていると真智様と真咲様にもお教えいただきました。これがオレオレ詐欺ってやつですね!!」

 充さん、ドヤ顔で宣言なさるのは構わないけれど、これはオレオレ詐欺ではないわ。遂に海斗くんが噴き出して、一くんが震えだしたわ。真尋さんですらそっぽを向いて無意味な咳払いをしているもの。

「そうだそうだ! みーくんは、オレオレ詐欺になんか引っ掛からないもん!」

「みーくんは、うちの優秀な執事なんだからな!」

 双子ちゃんが充さんに加勢します。

「そうなのです。私は優秀な執事で御座います。……ですので、さっさと片を付けさせて頂きたく存じます」

 私は充さんの左手が自分の腰にそっと手を伸ばしたのに気付いて、双子ちゃんと一緒に一歩下がりました。

「な、なにをごちゃごちゃと!! 俺はお前の父親だ!! お前さえ言うことを聞けばいいんだ!! でなきゃお前も殺す!!」

 一くんの首に突きつけられていたナイフが充さんに向けられました。

「見て下さい、お父さん!! あんな所にあんなものが!!」

 充さんが咄嗟に叫んで指差した先を藤谷さんは素直に見ました。その隙を逃すような方ではありませんので、それからはもう見事なものでした。
充さんが腰に常時携帯している折り畳み式の警棒でナイフを持つ手を押さえ、右手で藤谷さんの顔を殴りつけました。それに藤谷さんが怯んだ瞬間、警棒を見事にあやつりながら腕を背後に捻り上げて拘束し、足を払って地面に引き倒しました。

「充っ! 父親にこんなことをして赦されると思っているのかっ!!」

 尚も喚く藤谷さんに充さんは拘束する力を強めました、痛い痛い、と喚いていますが、もっとやっていいと思います。

「私は貴方の息子ではございません。水無月家の執事の園田充でございます」

 充さんはきっぱりと言い切って、ますます力を強めました。藤谷さんは、遂には呻き声を上げることしか出来なくなってしまったようです。

「真尋様!!」

「お怪我は!!」

 黒スーツのガタイの良い男性が二人、飛び込んできました。松田さんと竹内さんです。
 
「遅い」

 低く唸るような真尋さんの声に真尋さんより背も高く体も大きい筈の二人は、顔を真っ青にして固まってしまいました。二人は、真尋さんに命令されるままに藤谷さんを担ぎ上げて、どこかへと去って行きました。







 結局、私の体調を心配した真尋さんの意向でもう一泊することになりました。
 一くんはナイフが掠めて出来た小さな切り傷、市村さんも突き飛ばされて膝を打ち付けて、手を擦りむいてしまいましたが二人とも命に関わるような怪我がなくて本当に良かったです。
 そして私は、少し疲れてしまったのでお部屋で充さんと一緒にお留守番です。
 一くんと海斗くんと双子ちゃんは、昨日行けなかった町の方に出かけています。真尋さんは「言い訳を聞いて来る」とにっこり笑って出かけて行きました。松田さんたちの胃が心配ですが、職務を全うできなかった以上は仕方のないことです。

「雪乃様、ハーブティーをご用意致しました」

「ありがとう。頂くわ」

 充さんがテーブルの上に手際よく用意してくれたガラスのティーカップを手に取り、そっと鼻を近づけるとリンゴのように爽やかで甘い香りがしました。

「カモミールね」

「はい。気分を落ち着かせてくれる作用がございます」

「香りだけでも気持ちが和らぐわ……まだいっぱいあるみたいだし、充さんもご一緒にいかが?」

「宜しいのですか?」

「もちろん」

 私が頷くと充さんは、では、と頷いてキッチンに行き、自分の分のカップを持って来ました。私はティーポットを手に取って充さんのカップに注ぎます。充さんは、ありがとうございます、と嬉しそうにお礼を言ってくれました。
 私は家に居ることが多いので充さんと二人きりで過ごす時間は誰よりも長いです。ですので、こうして一緒にお茶を飲むことは珍しいことではありません。

「充さん、警棒術の腕を上げましたね」

「はい。真尋様に直接ご指導頂いておりますし、月に一度は松田さんたちの訓練に混ぜて頂いておりますので」

 真尋さんは、はっきり言って自分の身は自分で守れます。ミナヅキという大きなグループの跡取りということで昔はしょっちゅう誘拐されたり、されかけたりしていましたが、今では誘拐する方が難しいほどです。でも、双子ちゃんはまだ小学五年生。護身術は学んでいますが、真尋さんは超人なので一緒にしてはいけません。ですので、充さんは警棒術、合気道、古武術などの護身術を真尋さんや松田さんたちに習っていて、護衛も兼ねてくれているのです。

「ですが、人質に取られたのが雪乃様や双子さんでは私では手も足も出なかったでしょう。一路様は大変、お強いので私も安心してあの方を取り押さえることが出来ました。それにあの方もあの手に掛かって下さるとは思いませんでしたので」

 充さんが苦笑を零しました。私も、そうですね、と苦笑いを零します。
 まさかあの場面であんなに素直に、充さんが指差した先を見てくれるとは思いませんでした。

「でも、何であの人は私の父を騙ろうと思ったんでしょうか」

「あの方は、用意周到に貴方のことを調べ上げてきたの。貴方が生きて来たこれまでの時間をね。そこで貴方が実のご両親と縁が希薄なのを知って付け込もうと思ったんじゃないかしら。充さんは執事として、我が家のことに詳しいですし、真尋さんのお気に入りですからね」

「お、お気に入りだなんて、そんな! 光栄です!」

 ぶれないわね、この人はと私は可笑しくなって思わず笑ってしまいました。

「とはいえ、流石の私も実の父が女性になっていたというのは、本当に驚きました」

「……充さんは、藤谷のお父様に会いたいと思いますか? 今はお母様だそうですけど」

 私の問いに充さんは、うーん、と悩むようなそぶりを見せた後、いえ、と首を横に振りました。

「顔も覚えておりませんし、法律上は親子でも私は全ての権利を放棄しています。私の父は、園田の父一人だけです。藤谷の父は私の遺伝子上に痕跡が残っているくらいの存在なので、今、幸せに暮らしているというのなら、男でも女でも良いと思っておりますし、会いたいとは思いません。私も今、幸せに生きていますから、お互い、水を差さずに生きていくほうが賢明です」

「そう。充さんがそれで良いなら良いと思うわ。私は狭量な人間だから、充さんに寂しい思いをさせた藤谷のお父様になんか会う必要はこれっぽっちも無いと思っているのよ」

「狭量だなんてことはありません。私は心優しく慈愛に溢れた主人夫妻に仕えられることを心から誇りに想っております」

 充さんは穏やかに微笑みながら、そう言ってくれました。
 なんだか昔の自信を持てず、いつも不安そうにしていた彼は、何時の間にか随分と強く立派になったのだと嬉しくなりました。

「ねえ、充さん。五年前に貴方が寝込んだ時のことを覚えている? 丁度、私の誕生日から一週間後くらいのことだったと思うのだけど」

「はい、勿論です。あの日、食べた卵粥の美味しさは未だに忘れられません」

 充さんは即答しました。

「なら、あの時、夢についてお話したことは?」

「覚えておりますよ。あれから五年、雪乃様は色々な苦難を乗り越えて見事に夢を叶えられました、素晴らしいことです」

「真尋さんや充さん、双子ちゃん、周りの皆の支えがあったからこそ叶えられた夢です。今は、結婚式を挙げるのが夢なの。真尋さんがドレスをデザインしてくれるんですって、凄く楽しみだわ」

 私の体のことや真尋さんのこれからのことを考えて結婚式は、私が成人したら挙げる予定なのです。

「はい、私も今からとっても楽しみにしております。実は私も既に披露宴で上映予定の『真尋様と雪乃様の愛の奇跡~20th Anniversary Special ver.~(仮)』の制作に取り掛かっておりまして、再現ドラマや関係者へのインタビューなど内容はバラエティに富んだものでして、亜希子さんを筆頭としたファンクラブの方々が出資して下さっていますし、真尋様監修ですのでご安心くださいね」

 何にもご安心できない上に自分の旦那様が加担していると知った私の気持ちは、何とも言えないものです。でも、充さんがあまりに嬉しそうで誇らしげなので、今この場で無情に制作中止を言い渡すことは私には出来そうもありません。とりあえず「そう、程々にね」という曖昧な言葉で濁しました。

「そんなことより、充さん。この五年で、貴方の夢は見つかりました?」

 こうなったらさっさと話題を変えましょう。事情聴取は後で真尋さん本人を捕まえてやらなければ意味がありませんから。
 充さんは、私の言葉に少し驚いたような顔をしましたが、すぐに笑顔になって頷きました。

「はい。私の夢は、これからますます御成長なさる真尋様を支えるべく更に有能で優秀な執事になることです」

 充さんはすっと背筋を伸ばして、私の目を真っ直ぐに見据えてそう言い切りました。
 何だか胸が暖かくなって、ハーブティーよりもずっと私の胸を温かく、穏やかにしてくれました。

「充さんなら必ずなれます。今でもスカウトマンが来るほど優秀な執事さんですもの。いつも細やかな気配りをして下さって、家のため、私たちの為に心を尽くして下さって本当に感謝しているのよ。私だけじゃなく、勿論、真尋さんも。この旅行だって、そんな貴方への感謝を形にしたくて計画したの。貴方の存在に私たち家族がどれだけ助けられているか、どれほど支えられているか。迷惑をかけてしまうことも、心配をかけてしまうこともあるでしょうけど、これからも私たちを宜しくね、充さん」

 充さんは、はい、と心の底から嬉しそうに頷きました。

「私の方こそ、これからもどうぞよろしくお願い致します。……園田充は、これからもずっと水無月家の執事でございます」

 そう言って充さんは、自信に満ち溢れて幸せそうな笑顔を零しました。







――――――――――――
ここまで読んで下さってありがとうございました!
いつも閲覧、感想、お気に入り登録、励みにさせて頂いております><。

園田さんの過去編はこれにて一件落着です。

風邪を引いて歯痛に見舞われて更新が大分遅れてしまってすみません……orz
次は、本編の番外編更新予定です。

本編の第二部はまだまだ先になりそうです。
第一部では、途中で改変を致しましたが、第二部はそう言ったことの無いようにしたいのです。
更新催促をしていただいたとしても私自身が納得できなければ更新は出来ませんので、番外編を楽しみながら気長にお待ちいただければと思います。

次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪
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