悪役に恋した無能

慈悲と狂気

「あなたは、私のことをずっと語り続けてくれるのよね？」

夜、学院の窓辺で。
紅茶に砂糖を三つ、ミルクをたっぷり入れたカップを前にして、オリビア様はいつものように微笑んでいた。

「もちろんです。お嬢様。
　私はあなたの語り部です。
　この国がどう変わろうと、誰が何を言おうと……私は、お嬢様を語り続けます。」

そう答えたとき――オリビア様は小さく笑った。
それは慈しみに満ちた笑み。
けれど同時に、どこか底知れぬものを含んでいた。

「……なら、安心ね。
　あなたが私を裏切ることなんて、絶対にないわよね？」

「裏切る？　そんなこと……」

「いいえ。あるのよ。」
オリビア様の声が甘く低く落ちる。
「人は変わるもの。
　でも、あなたには変わってほしくない。
　だから――私の傍から決して離れないで。」

言葉と同時に、彼女は私の手を握った。
その手は温かく、優しい。
けれど、決して逃がさぬように強く。



日が経つごとに、オリビア様の“慈悲”は私に向けて深くなっていった。

「あなたがいてくれなければ、私は聖女ではいられないわ。」
「だからお願い……他の誰かに心を向けないで。貴方が語るのは、私だけでいいの。」

学院の子供たちと談笑していると、オリビア様の視線が静かに突き刺さった。
フレアが私に話しかけると、彼女は優しい笑顔で私たちを見守りながら、膝の上で組んだ指に力を込めていた。

――優しさの仮面の下で、狂気が確かに揺らめいている。



ある夜。

「ねぇ……あなた。」
オリビア様は私の耳元で囁いた。
「もし、あなたが私のことを語るのをやめたら……
　私、どうなってしまうのかしら。」

その声は震えていた。
慈悲深い聖女の声ではなく、愛を失うことを恐れるひとりの女の声。

「私はあなたを信じたい。
　でも……信じるのが怖いの。
　だから、誓って。
　あなたの一生を、私に捧げると。」

彼女の手が、首筋に触れた。
優しいのに、冷たく、逃れられない。

私は答えた。
「――ええ。お嬢様。
　私は、生涯、あなたを語り続けます。」

その瞬間、オリビア様はほっとしたように、微笑んだ。
その笑みはやはり慈悲深く――けれども、狂気に囚われた所有の微笑みでもあった。



――慈悲は人を救い、狂気は人を縛る。
そのどちらも、オリビア様の真実だった。

そして私は。
救われながら、縛られながら。
それでも、この方の語り部であり続けるのだろう。
お嬢様は慈悲深い。
だけど、そんなお嬢様を苦しめ変えてしまったのはお嬢様が愛する民でありお嬢様を慈しむはずだった身内だ。
だから、そんな哀れなお嬢様を私だけはいつまでも変わらず愛すると決めました。

死に戻る前に踏み躙られたトラウマがお嬢様の悪役たる根幹に深く根付いておられる。
慈悲と狂気に揺れ動くお嬢様は私を離すことはないでしょう。