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明け易し夏 ミツキの疑惑
プロローグ 星降る夜 心穏やかに
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もはや、これはホラーである。ホラー映画の一幕に違いない。タクシーのヘッドライトが切り裂く漆黒の森に、僕だけではなく、隣で僕の右腕に体重を預けながら、車窓の向こう側を見るミツキさえも来てしまったことを後悔しているに違いない。
「ほ、本当に大丈夫?」
「多分……」
民家どころか、対向車すら目に入らない森——というか山。光害がない、なんていうと綺麗に聞こえるかもしれないけれど、光がない世界で人は生きられない。こんなところで、エンストでもして遭難をすれば、発狂した挙句、幽霊の幻覚でも見て闇の海のなかで溺れ死ぬこと間違いない。いや、実際のところ、心霊現象などというあり得ない現象が起こっても不思議ではない。要はそれだけ暗い。
着きましたよ、とタクシーの運転手が揺るぎない言葉で告げる目的地は、ダムのすぐ下の遊歩道であった。蛍ロードとも呼ばれる名所は、ただただ暗い。川のせせらぎが聞こえるのだけれども、暗黒に目が慣れないうちは道がどこにあるのか分からない。だが、人の囁《ささや》く声が聞こえる、なんていうとまた怪奇現象のように聞こえるが、実際に人がいる。それも、一人や二人ではない。蛍を鑑賞に来る人がそれほど多いのだ。
しかし、今日は蛍を見に来ただけではないだろう。それは僕たちも同じだった。
「シュン君、すごい! 見て!」
ミツキが指を差した方角が正直分からなかった。暗すぎて腕を上げたことくらいしか認識できなかったのだけれど、ミツキの言いたいことは分かる。
大空に散りばめられた天の川を駆ける星屑が、儚《はかな》く消え行く姿と、蛍の乱舞が煌《きら》びやかに共演を果たす。夏の香りが雨の匂いと混じって、仄《ほの》かに僕とミツキの体温を上昇させていた。
目が慣れてきた頃、ようやくミツキの表情を見ることができたことに歓喜する。嬉しそうに微笑むミツキの瞳に映る、漆黒に散りばめられた宝石から流れ落ちる雫《しずく》のような、儚い星たちが線香花火のように跳ねていた。
一匹の蛍が頭上の虚空に軌跡を描いて、僕とミツキは視線で追う。前方に目線を戻すと、蛍の大群が僕とミツキの周りをスノードームに反射するキャンドルの光のように揺らめいていて、幻想的といえば簡単であるが、耽美《たんび》な空間と時の流れに思わず感嘆した。
「シュン君、これって、きっと」
「うん。すごいね」
「わたしたち、きっと祝福されているんだね」
何を祝福されているのか、それを聞いたら野暮だろうと僕は沈黙した。しかし、ミツキの言いたいことは分かる。ミツキは日常こそ現実的であったものの、二人きりのときはロマンティストな一面を垣間見ることができた。叙情的《じょじょうてき》であり、文学的で、かつ僅《わず》かに寂寥感《せきりょうかん》を併せ持つ、アーティスティックな彼女は少しだけ涙もろい。
「シュン君。やっぱり大好き」
そう言って僕の胸に飛び込んでくるミツキは、やはり涙もろい。また夜空に弧を描いた一閃に願いを込めたミツキは、僕の名前を口ずさんだ。未来を口にする彼女は、やはりロマンティストであり、僕もそれを望んだ。
ミツキは少しだけ汗ばんでいて、吸い付くような柔らかい白い肌が僕の体温をさらに上昇させる。同時に、僕の頬に指先で触れて呟く。————キスして、と。
やさしく触れるミツキの唇は、やはり柔らかくて。瞳を見ていたかったのに、ミツキはそれを隠してしまう。カールした長い睫毛《まつげ》は、少しだけ湿っている。なんで泣いたのだろう。都会では見ることのできない、この圧倒的矮小で至極甘美なスノードームの世界に、また心を奪われてしまったのだろうか。それとも、降り続ける星が、彼女の心の中をかき乱したのだろうか。どちらにしても、君はすでにこの広大な自然の織りなす世界の一部で、絵になっていて、とても美しかった。
僕の顔から微《かす》かに遠ざかり、ミツキはゆっくりと瞳を開けて僕を見つめた。やはりスノードームのような瞳の中に映る蛍と流星群は、僕の心を捕らえて離さない。僕はもう一度ミツキを抱き締めて、今度はミツキの唇を奪った。絶対に誰にも渡さない。ミツキは僕のものだ。互いに絡まった夕顔のような心の蔓《つる》は、絶対に離れないだろう。
「もう。シュン君。今日はどうしたの?」
「ミツキから離れたくない。だから、もう少しこのままでいい?」
ミツキは何も言わなかった。でも、身体を密着させたまま、顎をこくりと動かして僕の心を優しく撫でていく。僕が心穏やかでいられるのは、きっとミツキのおかげだ。
ミツキがもし、僕の元を去ってしまうとしたら、それは僕の心が同時に死ぬ時だ。
「ほ、本当に大丈夫?」
「多分……」
民家どころか、対向車すら目に入らない森——というか山。光害がない、なんていうと綺麗に聞こえるかもしれないけれど、光がない世界で人は生きられない。こんなところで、エンストでもして遭難をすれば、発狂した挙句、幽霊の幻覚でも見て闇の海のなかで溺れ死ぬこと間違いない。いや、実際のところ、心霊現象などというあり得ない現象が起こっても不思議ではない。要はそれだけ暗い。
着きましたよ、とタクシーの運転手が揺るぎない言葉で告げる目的地は、ダムのすぐ下の遊歩道であった。蛍ロードとも呼ばれる名所は、ただただ暗い。川のせせらぎが聞こえるのだけれども、暗黒に目が慣れないうちは道がどこにあるのか分からない。だが、人の囁《ささや》く声が聞こえる、なんていうとまた怪奇現象のように聞こえるが、実際に人がいる。それも、一人や二人ではない。蛍を鑑賞に来る人がそれほど多いのだ。
しかし、今日は蛍を見に来ただけではないだろう。それは僕たちも同じだった。
「シュン君、すごい! 見て!」
ミツキが指を差した方角が正直分からなかった。暗すぎて腕を上げたことくらいしか認識できなかったのだけれど、ミツキの言いたいことは分かる。
大空に散りばめられた天の川を駆ける星屑が、儚《はかな》く消え行く姿と、蛍の乱舞が煌《きら》びやかに共演を果たす。夏の香りが雨の匂いと混じって、仄《ほの》かに僕とミツキの体温を上昇させていた。
目が慣れてきた頃、ようやくミツキの表情を見ることができたことに歓喜する。嬉しそうに微笑むミツキの瞳に映る、漆黒に散りばめられた宝石から流れ落ちる雫《しずく》のような、儚い星たちが線香花火のように跳ねていた。
一匹の蛍が頭上の虚空に軌跡を描いて、僕とミツキは視線で追う。前方に目線を戻すと、蛍の大群が僕とミツキの周りをスノードームに反射するキャンドルの光のように揺らめいていて、幻想的といえば簡単であるが、耽美《たんび》な空間と時の流れに思わず感嘆した。
「シュン君、これって、きっと」
「うん。すごいね」
「わたしたち、きっと祝福されているんだね」
何を祝福されているのか、それを聞いたら野暮だろうと僕は沈黙した。しかし、ミツキの言いたいことは分かる。ミツキは日常こそ現実的であったものの、二人きりのときはロマンティストな一面を垣間見ることができた。叙情的《じょじょうてき》であり、文学的で、かつ僅《わず》かに寂寥感《せきりょうかん》を併せ持つ、アーティスティックな彼女は少しだけ涙もろい。
「シュン君。やっぱり大好き」
そう言って僕の胸に飛び込んでくるミツキは、やはり涙もろい。また夜空に弧を描いた一閃に願いを込めたミツキは、僕の名前を口ずさんだ。未来を口にする彼女は、やはりロマンティストであり、僕もそれを望んだ。
ミツキは少しだけ汗ばんでいて、吸い付くような柔らかい白い肌が僕の体温をさらに上昇させる。同時に、僕の頬に指先で触れて呟く。————キスして、と。
やさしく触れるミツキの唇は、やはり柔らかくて。瞳を見ていたかったのに、ミツキはそれを隠してしまう。カールした長い睫毛《まつげ》は、少しだけ湿っている。なんで泣いたのだろう。都会では見ることのできない、この圧倒的矮小で至極甘美なスノードームの世界に、また心を奪われてしまったのだろうか。それとも、降り続ける星が、彼女の心の中をかき乱したのだろうか。どちらにしても、君はすでにこの広大な自然の織りなす世界の一部で、絵になっていて、とても美しかった。
僕の顔から微《かす》かに遠ざかり、ミツキはゆっくりと瞳を開けて僕を見つめた。やはりスノードームのような瞳の中に映る蛍と流星群は、僕の心を捕らえて離さない。僕はもう一度ミツキを抱き締めて、今度はミツキの唇を奪った。絶対に誰にも渡さない。ミツキは僕のものだ。互いに絡まった夕顔のような心の蔓《つる》は、絶対に離れないだろう。
「もう。シュン君。今日はどうしたの?」
「ミツキから離れたくない。だから、もう少しこのままでいい?」
ミツキは何も言わなかった。でも、身体を密着させたまま、顎をこくりと動かして僕の心を優しく撫でていく。僕が心穏やかでいられるのは、きっとミツキのおかげだ。
ミツキがもし、僕の元を去ってしまうとしたら、それは僕の心が同時に死ぬ時だ。
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