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明け易し夏 ミツキの疑惑
ミツキの憂鬱
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烈火のごとく、などという言葉で表現することに違和感を覚えるくらい、怒りすぎていた。顔色一つ変えずに僕を罵《ののし》る女医は、声色こそ変えなかったものの、言葉の端々《はしばし》に感じる叱責《しっせき》と歪《いびつ》な殺し文句に、僕は俯いてすいません、と言うほかなかった。
死にますよ。白い壁の中で青春を終わりにしたいのですか。別に私はそれでもいいのですけれどね。彼女さんも大変なのは分かりますが、しっかり言ってあげてください。え、そんなに大変な症状なんですかって、当たり前ですよ。このカリウムの数値見てください。もう監視つけますからね、はい、倉美月《くらみつき》さんはここにサインしてください。ご家族はこちらに。え、あ、そういうサインじゃなくて、署名です署名。そういうサインは色紙《しきし》にしてください。
個室の病室に入れられて、点滴を打たれると、横になりたくないのにベッドに寝かせられる。身体に違和感はないのか、といえば確かに否定せざるを得ない。脈も落ち着かないために、このまま日常生活に戻るにはあまりにも不安であった。だが、またしても世間の注目を浴びてしまったミツキのほうが遥かに心配で仕方なかった。一人にはできない。
それをミツキに話すと、彼女は嘆息しながら言う。心配しすぎだよ、と。
「ねえ、本当にいいの? アイドルを引退なんて。なんだか勿体なくない?」
「またそうやって。それよりも、なにか楽しいこと探したいの。もちろん、ダンスは続けるけれど、その他に、なにか本気で何か打ち込めることしたいの」
特に何もすることがない入院生活で、ミツキは毎日お見舞いに来ては、ベッドサイドに座り込んで読書に耽《ふけ》っていた。僕は、ミツキに持ってきてもらったノートパソコンを開いて、こんなときにしかできない写真の現像を始める。特に編集したり加工したりする必要はあまりないのだが、それでも、露出補正やトーンカーブ、彩度の調整は場合によっては必要だし、第一、注視しなければいけないのは、写ってはいけないものだ。例えば、短いスカートを履いたミツキのパンチラを納品するわけにはいかない。だから、確認の意味を込めても現像はしっかりしなければいけないのだ。
狂ったように泣き叫ぶ貪欲《どんよく》な空が、青空を侵食し始める。瞬《またた》く閃光とともに地割れのような音が奏でる夏の音色は、窓に打ち付ける雨の大粒のリズムと相成《あいな》って、壮大なストーリーを織りなしていく。起承転結のようにあちこちで生まれる稲光《いなびかり》は、まるで神話の中の神々の恋愛のように、光に追いつくことがない音の神が仄暗《ほのぐら》い中で嘆いているようだった。
「ああ、これは帰れないね。今日は泊っていく」
「病院だもの無理でしょうそれ。スコールだし、すぐに止むんじゃない?」
「ええ~。だって、帰りたくない」
「病院だから、きっと出るよ。アレ」
「————なにそれ?」
「薄暗い廊下を歩く女の子。まだ自分が死んだことに気付かず、パジャマ姿で裸足のまま彷徨《さまよ》う中学生の女の子」
ミツキは本を閉じて唇を固く閉じると、僕を訝《いぶか》しんだ。今作ったのでしょう、と。ミツキがそういった類の話を聞いてどう思うのか、反応を見たかったのもあるのだけれど。怖がるミツキはどういう顔をするのか、幽霊とかオバケに耐性があるのか。
「ほんと無理。わたし、ホラー映画とかサムネイルだけでも無理なの」
「じゃあ、今度、荒治療として、僕のおすすめホラーを一緒に観よう」
「ひぇぇ。ちょっと怖いけど、シュン君が一緒なら……」
遠雷が響く熱帯魚でも泳いでいそうな空の水槽は、秋刀魚《さんま》のような雲が悠々とこちらを一瞥《いちべつ》していて、ひぐらしの声がさらに侘《わび》しさを重ねていく。そうか。四季で言えば立秋なのか。まだ八月の上旬なのに。秋なんて言われてしまえば、それは寂しくもなるだろう。
「倉美月さん、バイタルの時間ですよ」
若い女性の看護師が入室してくると、ミツキは再び本を閉じて立ち上がり会釈する。看護師は僅かな時間、ミツキを見つめると咳払いをしながら僕の脇の下に体温計を入れて、サチュレーションモニターを指に挟む。点滴の残量を見て、あと、一時間くらいですね、と言って微笑んだ。はじめは怖い人なのかと思っていただけに、少しでも微笑を浮かべられると、なんだかとても優しい人に感じられるのだから、男は馬鹿なのだな、と自分でも思う。
「花神楽《はなかぐら》さんですよね?」
「はい。すいません。ご迷惑をおかけして」
「いえ。ここにいる限りは、誰も寄せ付けませんから。安心してください。私、花プリのファンでした。なんだか、話してみたら印象が違うから。逆に、好感が持てると言うか」
「そう言っていただけると、とても助かります」
「しっかりしていますね。とても高校生とは思えない。ネットの噂は本当っぽいですね」
「噂……ですか?」
「花神楽美月は、嵌《は》められたっていう内部告発みたいなの、ですね。何が本当か分からない時代ですから。私は、信じていますし、応援しています。復帰したら絶対にライブ観に行きますから」
ミツキは黙ってしまい、それ以上なにも言えなくなってしまった。まさか、これから引退をして、早くも余生をまったりと過ごします、なんて言えるはずもないのだろう。
それにしても、自分を応援してくれる人が、こうして間近にもいることを知ってしまったミツキはどう思ったのだろうか。少しだけ寂しそうな表情とも見て取れるけれど、僕と二人きりの時を除いて、あまり感情を露《あらわ》にしないミツキはやはり押し黙ってしまう。学校での生活だってそうだ。だから、一人にするのが心配なのだ。がんばってしまうから。
慣れた手つきで電子カルテの入力を終えると、看護師は会釈をして退出する。その背中を視線で追って、足音が聞こえなくなるくらいに遠ざかった頃に、僕とミツキは同時に溜息を吐いた。普通なら他人に対してこんなにも緊張することはないのだけれど、例の記事がネットニュースを騒がせてからは、どうにもこうにも他人を意識してしまう。
生皮をはがされた状態で潮風にさらされる白兎のように、敏感になってしまった僕は他人が常に好奇の目で自分を見ているような気がして、常に緊張状態だった。
だが、この状態をずっと継続しているミツキのストレスがどれほどのものなのかを知った時、僕は改めてミツキのことを守りたいと思った。いったい何度目だよ。でも、今ならミツキの気持ちがわかる。だからこそ、ミツキを一人にしたくない。
それでも面会の終了時間である七時になってしまい、帰らなくてはいけないミツキをベッド上で見送った。明日も来るからね、というミツキはやはり僕の前では感情豊かに、悲しみと寂しさを目一杯に表わしている。しかし、僕に気付かれないようにかぶりを振って、それ以上何も言わずに下唇を噛みながら、無理やり作った笑顔で手を振って退出していくミツキの足音が、僅かに僕の心臓を叩いていた。
底の見えない暗闇の井戸の中に、心が引きずり込まれる想いだった。ようやく暗くなった空の鉄紺色の中に仄かに輝く宵の明星が、爛々《らんらん》とした飛行機と重なって、僕の気持ちはそわそわしはじめた。暗い夜道を一人で帰るのは危険なのではないか。僕がいなくても、暗い夜に一人で立ち向かえるのか。
————この金星《ヴィーナス》がもっとこの暗い夜を照らしてくれますように。
翌日、女医がまだ八時五分前だというのに、僕を叩き起こした——実際にはやることがなく、夜は九時に寝ているから五時には起きていたのだけれど、やはり暇すぎて二度寝した。
わざわざ就業時間前に、僕のところに来るなんてどういうことなのか。
女医の話を聞いて、少し取り乱したけれど、それでも落ち着きを取り戻すのに時間は掛からなかった。粗方《あらかた》予想の通りであったし、今すぐにどうという話でもない。
————高校生なのだから、意思は尊重されるはずだ。
ミツキはそれからすぐに来て、女医は気を使ったのか、それとも話がそれ以上無意味だと感じたのか、退出していった。
「シュン君、先生なんのお話だったの?」
「あ、えっと、うん。明日退院していいって」
「ほんと!? 良かったぁ」
「ありがとう。ごめんね、一人にしちゃって」
いいの、と言って、寝そべる僕のお腹に顔を埋《うず》めるミツキは、やはりストロベリーの香りがして、僕は少し泣きそうだった。
蝉が煩《うるさ》く泣き叫ぶ昼を照らす残酷な太陽は、今日も凶悪な顔をして地面を焼き尽くそうとしている。この世に地獄を作ろうとしているのだから、なんとも酷い話である。死んでもいないのに、灼熱地獄を味わうこととなった下界の人たちは、汗が止まらずに、今にも泣きそうな顔をしている。はやくこっちにおいで。冷房は君たちを拒んだりしない。
「わたしね、シュン君のために少し病気の勉強をしようと思うの」
「嬉しいけど、大丈夫だよ。日常生活を送る上では問題ないから。それよりも、もっとミツキのやりたいこと探そうよ。ほら、歌とダンス以外にやってみたいことない?」
「聞いて。もしまた、目の前で倒れちゃったりしたら嫌だから。シュン君に運動をさせちゃだめだって志桜里《しおり》ちゃんが言っていたことを思い出して、少し——かなり反省したの。ごめんねシュン君」
志桜里からは、未だにメッセージが届く。それもそのはずだ。僕とミツキが付き合っている事実を知らない。いや、ネットニュースを見ればすぐに分かることなのだから、認識はしているのかもしれない。ただ、本人から言われていないことを信じるような人間でもないし。それに、僕とミツキの関係の記事が流れた後も、何事もなかったようにメッセージを送信してくるのだから、やはり信じていないのかな。
「ミツキ、それは————」
「やっぱり、ストレスとかも関係あるの?」
「ミツキ、僕は————いや、うん、そうだね。でも実際、なにが引き金か、今回のことは分からないみたい。先生は、たまたま偶然が重なったって言っていたから」
「わたし、料理も勉強しようと思って。シュン君の身体に良い物を頑張って作れるようにするね。いつまでもアスカさんとお父さんに頼ってばかりじゃいけないのかなって」
花神楽美月の気配が全く感じられない花山充希《はなやまみつき》は、屈託《くったく》のない微笑みを僕に投げかけていて、やはり抱きしめたくなってしまう。
ミツキはバッグからスマホを取り出して着信を確認すると、ごめん、と言って病室を飛び出していった。部屋に残ったストロベリーの甘い香りが、エアコンの上昇気流に乗って、僅かに僕の鼻先をかすめていく。
…………もしかして、僕の判断は間違っているのかもしれない。
帰ってきたミツキは、部屋を出て行く前の彼女とは別人のような表情で、椅子に腰かけて顔を両手で覆ってしまった。何があったのかを訊いていいのかどうか、判断がつかなかったが、ミツキは僕の心配に気を使ったのかもしれない。口を開いて、少しため息交じりに呟く。
「————引退できないかも」
「どうし……て?」
「引退するなら、違約金三億だって」
眩暈《めまい》がした。比喩ではない。ミツキのこと、僕の現状——病状、そしてミツキを取り巻く環境とゴシップがメリーゴーランドのようにぐるぐると回り始めて、僕の乗る白馬がこちらを振り返り顔を向けて、こう話す。————お前はピエロだな、と。
ふざけるなよッ!!!!
僕にも貯えくらいある。写真で稼いだお金と、ニューチューブを配信していた時の広告料とスポンサー料、それに、書籍も僅かながら売れた。しかし、三億なんて遠く及ばない。ミツキはどうだろう。
「三億なんてお金あるの?」
「————ないの」
つまり、これで引退はできないことになる。一生を奴隷のように生きて、お金に縛られながら好きでもない人に尽くす人生のように感じられる。ミツキのこれからに、僕は何ができるだろう。
そもそも復帰を全力で支えるはずだったミツキを、今度は引退するために助力するというのは、幾分おかしな話なのだが。でも、実情を知ると、そうせざるを得ない気がする。
「シュン君……わたし。どうしよう」
今にも泣きだしそうなミツキの手を握り、僕は何も言わずに摩った。
今はこれしかできない。何もしてやれない。
悔しいよ。
死にますよ。白い壁の中で青春を終わりにしたいのですか。別に私はそれでもいいのですけれどね。彼女さんも大変なのは分かりますが、しっかり言ってあげてください。え、そんなに大変な症状なんですかって、当たり前ですよ。このカリウムの数値見てください。もう監視つけますからね、はい、倉美月《くらみつき》さんはここにサインしてください。ご家族はこちらに。え、あ、そういうサインじゃなくて、署名です署名。そういうサインは色紙《しきし》にしてください。
個室の病室に入れられて、点滴を打たれると、横になりたくないのにベッドに寝かせられる。身体に違和感はないのか、といえば確かに否定せざるを得ない。脈も落ち着かないために、このまま日常生活に戻るにはあまりにも不安であった。だが、またしても世間の注目を浴びてしまったミツキのほうが遥かに心配で仕方なかった。一人にはできない。
それをミツキに話すと、彼女は嘆息しながら言う。心配しすぎだよ、と。
「ねえ、本当にいいの? アイドルを引退なんて。なんだか勿体なくない?」
「またそうやって。それよりも、なにか楽しいこと探したいの。もちろん、ダンスは続けるけれど、その他に、なにか本気で何か打ち込めることしたいの」
特に何もすることがない入院生活で、ミツキは毎日お見舞いに来ては、ベッドサイドに座り込んで読書に耽《ふけ》っていた。僕は、ミツキに持ってきてもらったノートパソコンを開いて、こんなときにしかできない写真の現像を始める。特に編集したり加工したりする必要はあまりないのだが、それでも、露出補正やトーンカーブ、彩度の調整は場合によっては必要だし、第一、注視しなければいけないのは、写ってはいけないものだ。例えば、短いスカートを履いたミツキのパンチラを納品するわけにはいかない。だから、確認の意味を込めても現像はしっかりしなければいけないのだ。
狂ったように泣き叫ぶ貪欲《どんよく》な空が、青空を侵食し始める。瞬《またた》く閃光とともに地割れのような音が奏でる夏の音色は、窓に打ち付ける雨の大粒のリズムと相成《あいな》って、壮大なストーリーを織りなしていく。起承転結のようにあちこちで生まれる稲光《いなびかり》は、まるで神話の中の神々の恋愛のように、光に追いつくことがない音の神が仄暗《ほのぐら》い中で嘆いているようだった。
「ああ、これは帰れないね。今日は泊っていく」
「病院だもの無理でしょうそれ。スコールだし、すぐに止むんじゃない?」
「ええ~。だって、帰りたくない」
「病院だから、きっと出るよ。アレ」
「————なにそれ?」
「薄暗い廊下を歩く女の子。まだ自分が死んだことに気付かず、パジャマ姿で裸足のまま彷徨《さまよ》う中学生の女の子」
ミツキは本を閉じて唇を固く閉じると、僕を訝《いぶか》しんだ。今作ったのでしょう、と。ミツキがそういった類の話を聞いてどう思うのか、反応を見たかったのもあるのだけれど。怖がるミツキはどういう顔をするのか、幽霊とかオバケに耐性があるのか。
「ほんと無理。わたし、ホラー映画とかサムネイルだけでも無理なの」
「じゃあ、今度、荒治療として、僕のおすすめホラーを一緒に観よう」
「ひぇぇ。ちょっと怖いけど、シュン君が一緒なら……」
遠雷が響く熱帯魚でも泳いでいそうな空の水槽は、秋刀魚《さんま》のような雲が悠々とこちらを一瞥《いちべつ》していて、ひぐらしの声がさらに侘《わび》しさを重ねていく。そうか。四季で言えば立秋なのか。まだ八月の上旬なのに。秋なんて言われてしまえば、それは寂しくもなるだろう。
「倉美月さん、バイタルの時間ですよ」
若い女性の看護師が入室してくると、ミツキは再び本を閉じて立ち上がり会釈する。看護師は僅かな時間、ミツキを見つめると咳払いをしながら僕の脇の下に体温計を入れて、サチュレーションモニターを指に挟む。点滴の残量を見て、あと、一時間くらいですね、と言って微笑んだ。はじめは怖い人なのかと思っていただけに、少しでも微笑を浮かべられると、なんだかとても優しい人に感じられるのだから、男は馬鹿なのだな、と自分でも思う。
「花神楽《はなかぐら》さんですよね?」
「はい。すいません。ご迷惑をおかけして」
「いえ。ここにいる限りは、誰も寄せ付けませんから。安心してください。私、花プリのファンでした。なんだか、話してみたら印象が違うから。逆に、好感が持てると言うか」
「そう言っていただけると、とても助かります」
「しっかりしていますね。とても高校生とは思えない。ネットの噂は本当っぽいですね」
「噂……ですか?」
「花神楽美月は、嵌《は》められたっていう内部告発みたいなの、ですね。何が本当か分からない時代ですから。私は、信じていますし、応援しています。復帰したら絶対にライブ観に行きますから」
ミツキは黙ってしまい、それ以上なにも言えなくなってしまった。まさか、これから引退をして、早くも余生をまったりと過ごします、なんて言えるはずもないのだろう。
それにしても、自分を応援してくれる人が、こうして間近にもいることを知ってしまったミツキはどう思ったのだろうか。少しだけ寂しそうな表情とも見て取れるけれど、僕と二人きりの時を除いて、あまり感情を露《あらわ》にしないミツキはやはり押し黙ってしまう。学校での生活だってそうだ。だから、一人にするのが心配なのだ。がんばってしまうから。
慣れた手つきで電子カルテの入力を終えると、看護師は会釈をして退出する。その背中を視線で追って、足音が聞こえなくなるくらいに遠ざかった頃に、僕とミツキは同時に溜息を吐いた。普通なら他人に対してこんなにも緊張することはないのだけれど、例の記事がネットニュースを騒がせてからは、どうにもこうにも他人を意識してしまう。
生皮をはがされた状態で潮風にさらされる白兎のように、敏感になってしまった僕は他人が常に好奇の目で自分を見ているような気がして、常に緊張状態だった。
だが、この状態をずっと継続しているミツキのストレスがどれほどのものなのかを知った時、僕は改めてミツキのことを守りたいと思った。いったい何度目だよ。でも、今ならミツキの気持ちがわかる。だからこそ、ミツキを一人にしたくない。
それでも面会の終了時間である七時になってしまい、帰らなくてはいけないミツキをベッド上で見送った。明日も来るからね、というミツキはやはり僕の前では感情豊かに、悲しみと寂しさを目一杯に表わしている。しかし、僕に気付かれないようにかぶりを振って、それ以上何も言わずに下唇を噛みながら、無理やり作った笑顔で手を振って退出していくミツキの足音が、僅かに僕の心臓を叩いていた。
底の見えない暗闇の井戸の中に、心が引きずり込まれる想いだった。ようやく暗くなった空の鉄紺色の中に仄かに輝く宵の明星が、爛々《らんらん》とした飛行機と重なって、僕の気持ちはそわそわしはじめた。暗い夜道を一人で帰るのは危険なのではないか。僕がいなくても、暗い夜に一人で立ち向かえるのか。
————この金星《ヴィーナス》がもっとこの暗い夜を照らしてくれますように。
翌日、女医がまだ八時五分前だというのに、僕を叩き起こした——実際にはやることがなく、夜は九時に寝ているから五時には起きていたのだけれど、やはり暇すぎて二度寝した。
わざわざ就業時間前に、僕のところに来るなんてどういうことなのか。
女医の話を聞いて、少し取り乱したけれど、それでも落ち着きを取り戻すのに時間は掛からなかった。粗方《あらかた》予想の通りであったし、今すぐにどうという話でもない。
————高校生なのだから、意思は尊重されるはずだ。
ミツキはそれからすぐに来て、女医は気を使ったのか、それとも話がそれ以上無意味だと感じたのか、退出していった。
「シュン君、先生なんのお話だったの?」
「あ、えっと、うん。明日退院していいって」
「ほんと!? 良かったぁ」
「ありがとう。ごめんね、一人にしちゃって」
いいの、と言って、寝そべる僕のお腹に顔を埋《うず》めるミツキは、やはりストロベリーの香りがして、僕は少し泣きそうだった。
蝉が煩《うるさ》く泣き叫ぶ昼を照らす残酷な太陽は、今日も凶悪な顔をして地面を焼き尽くそうとしている。この世に地獄を作ろうとしているのだから、なんとも酷い話である。死んでもいないのに、灼熱地獄を味わうこととなった下界の人たちは、汗が止まらずに、今にも泣きそうな顔をしている。はやくこっちにおいで。冷房は君たちを拒んだりしない。
「わたしね、シュン君のために少し病気の勉強をしようと思うの」
「嬉しいけど、大丈夫だよ。日常生活を送る上では問題ないから。それよりも、もっとミツキのやりたいこと探そうよ。ほら、歌とダンス以外にやってみたいことない?」
「聞いて。もしまた、目の前で倒れちゃったりしたら嫌だから。シュン君に運動をさせちゃだめだって志桜里《しおり》ちゃんが言っていたことを思い出して、少し——かなり反省したの。ごめんねシュン君」
志桜里からは、未だにメッセージが届く。それもそのはずだ。僕とミツキが付き合っている事実を知らない。いや、ネットニュースを見ればすぐに分かることなのだから、認識はしているのかもしれない。ただ、本人から言われていないことを信じるような人間でもないし。それに、僕とミツキの関係の記事が流れた後も、何事もなかったようにメッセージを送信してくるのだから、やはり信じていないのかな。
「ミツキ、それは————」
「やっぱり、ストレスとかも関係あるの?」
「ミツキ、僕は————いや、うん、そうだね。でも実際、なにが引き金か、今回のことは分からないみたい。先生は、たまたま偶然が重なったって言っていたから」
「わたし、料理も勉強しようと思って。シュン君の身体に良い物を頑張って作れるようにするね。いつまでもアスカさんとお父さんに頼ってばかりじゃいけないのかなって」
花神楽美月の気配が全く感じられない花山充希《はなやまみつき》は、屈託《くったく》のない微笑みを僕に投げかけていて、やはり抱きしめたくなってしまう。
ミツキはバッグからスマホを取り出して着信を確認すると、ごめん、と言って病室を飛び出していった。部屋に残ったストロベリーの甘い香りが、エアコンの上昇気流に乗って、僅かに僕の鼻先をかすめていく。
…………もしかして、僕の判断は間違っているのかもしれない。
帰ってきたミツキは、部屋を出て行く前の彼女とは別人のような表情で、椅子に腰かけて顔を両手で覆ってしまった。何があったのかを訊いていいのかどうか、判断がつかなかったが、ミツキは僕の心配に気を使ったのかもしれない。口を開いて、少しため息交じりに呟く。
「————引退できないかも」
「どうし……て?」
「引退するなら、違約金三億だって」
眩暈《めまい》がした。比喩ではない。ミツキのこと、僕の現状——病状、そしてミツキを取り巻く環境とゴシップがメリーゴーランドのようにぐるぐると回り始めて、僕の乗る白馬がこちらを振り返り顔を向けて、こう話す。————お前はピエロだな、と。
ふざけるなよッ!!!!
僕にも貯えくらいある。写真で稼いだお金と、ニューチューブを配信していた時の広告料とスポンサー料、それに、書籍も僅かながら売れた。しかし、三億なんて遠く及ばない。ミツキはどうだろう。
「三億なんてお金あるの?」
「————ないの」
つまり、これで引退はできないことになる。一生を奴隷のように生きて、お金に縛られながら好きでもない人に尽くす人生のように感じられる。ミツキのこれからに、僕は何ができるだろう。
そもそも復帰を全力で支えるはずだったミツキを、今度は引退するために助力するというのは、幾分おかしな話なのだが。でも、実情を知ると、そうせざるを得ない気がする。
「シュン君……わたし。どうしよう」
今にも泣きだしそうなミツキの手を握り、僕は何も言わずに摩った。
今はこれしかできない。何もしてやれない。
悔しいよ。
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