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明け易し夏 ミツキの疑惑
明け易し夏・ミツキの疑惑
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食事が喉を通らない、なんていうけれど、本当に食欲がないのは昨年ぶりだった。ダイニングテーブルの上に置かれた鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》と白米は、姉さんが通販で取り寄せたものだ。それに、キャベツの千切りとプチトマトが鰻の蒲焼とアンバランスに置かれている。向かいに座るミツキも、食事に手をつけようとせずに、僕をじっと見ていた。その隣に座る姉さんは、すでにジョガーと無地のTシャツに着替えていて、僕を睨《にら》みつけている。四面楚歌《しめんそか》だ。逃げ場のない袋小路。蛇に睨まれた蛙。ごくりと飲んだ唾が、喉元で引っ掛かる。僕は、視線を鰻の一点に集中させていて、鰻以外何も目に入らないし、気にも留めない。そう決めたのだが。
「そうですよね。わたしが首を突っ込むことではないですよね。家族でもないのに」
言葉の端々に感じる引っ掛かりを、あえて武器にしてくるミツキは知能犯だ。僕の琴線《きんせん》を知っていて、それでいて、姉さんの味方をしようとする。ミツキは家族だ、と僕が口走るのは当たり前のことで、それを言うと藪蛇《やぶへび》になる。実によくできたトリックだよワトソン君。
「シュン。あんたいつまで意地張っているのよ。ミツキちゃんに言わなくて本当にいいの?」
「シュン君、教えて。いったいどうしたの? アスカさんに聞いても教えてくれないし」
「僕は……なんでもない。今はまだ言えない。お願いだからそっとしておいて」
「でも……身体のことじゃないの? 本当に大丈夫なの?」
「ごめん。一人にして」
待ってシュン君、という言葉を無視して——正確には僕の鼓膜の手前で止まってしまって——自室の扉を開く。プリントアウトしたL版の写真が机の上に広がっていたけれど、僕はすべて左手でなぎ払った。宙を舞い落ちていく写真が廊下の電球の光を浴びてきらきらと。乱暴に投げ捨てた本が床を跳ねていく。ハードカバーの本はきっと角が折れてしまったのだろう。八つ当たりをしてごめん。でも、僕は机を占領したかったんだ。開きっぱなしになった扉を閉める気にもならずに、椅子に座り込んで僕は机に突っ伏した。
深く落ちていく。深淵《しんえん》の緑は翡翠《ひすい》のように輝いていて、触れた僕の手がもぎれて、地面に落ちてしまった。叫びたいのに言葉が出ない。まるで藻の張った水槽の中のようで、外側が見えないくせに、僕の身体を細切れにしていく。息ができないくせに呼吸をしていて、溺れていく僕を、その肺を満たしていく空気が痛い。動悸を止めない心臓が、摺《す》り切れるくらいに動いていて、僕は止める方法を知らなかった。
——シュン君!!
こんなところまでミツキはついてきたのか。早く帰りなよ。僕はこのままここで溺れていくんだ。浮上できずに、外を見ることもなく、ただ息をしているだけなんだ。
————シュン君!!
一人にしてほしいのに。なんで僕を呼ぶんだろう。僕は、もうこのまま——。
「シュン君。ごめんね。起こしたかったわけじゃないんだけど」
顔を上げると、ミツキが眉尻を下げながら僕の顔を覗き込んでいて、その手には散らばったはずの写真が丁寧に重ねられていた。その下に見えるハードカバーの本が僕を睨みつけている。傷つけられた写真と本は僕を許してくれるのだろうか。きっと怒っているのかな。だから、反抗して角を曲げてしまったのだろう。ごめん。
「いいよ。なんだか気持ち悪い夢を見ていたから」
「扉が開いていたから。そしたら、すごく苦しそうで。それと、足元に写真が落ちていて。これ」
ミツキが手渡した写真は、僕とミツキが一緒に写っている紫陽花の森での一枚だった。標準レンズで自撮りした一枚だったから、頬がついてしまうくらいに二人とも寄っていて。こんなに近くにいるのに。自分のこととなると僕は、せっかく心配してくれているミツキに対して何も言えない。悪いとは思っている。
ミツキの傍《そば》にいたいと思う自分は、もしかして逃げているだけなの?
「なんだか、そんなに時間は経っていないのに懐かしい。涼森くんに見つかっちゃった時は、すごくショックだったけれど、今は良い思い出だよね」
「うん」
「それから、帰りのバスで、シュン君が寝ているわたしを起こそうとして。すごく可愛かった」
「……うん」
「それでね、それで。みんなに内緒で温泉も行ったよね。コーヒー牛乳がおいしくて、料理が食べきれないくらい多くて。夜はシュン君が優しくて。月が綺麗で。深夜に部屋の温泉に入ったとき、つい寝ちゃったんだよね。シュン君が起こしてくれなかったら死んでいたかも、なんて。その他にも、色んなことがあって。何かをするたびにシュン君をもっと、もっと、ずっと好きになっていって。今日だって、シュン君がいなければ縁日なんて行かなかっただろうし、それでね」
「ミツキ、もういいよ。もういい」
「きっと、これから、わたしとシュン君は高校を卒業して、それで、わたしはきっとアイドルを辞めて、シュン君は写真家になるのかな、それともダンスの指導者とか。それでお互い今までできなかったデートをいっぱいして。海外とかも二人で行ってみたいし、ドライブだってしてみたい。順調に愛を育んでいって、プロポーズするの。シュン君から。それともわたしからかな。二人同時でもいいかも。結婚式は二人だけで小高い丘の上の教会で、誓いの言葉を言い合って。子供は二人くらい欲しいな。男の子と女の子。それでね」
「ミツキ。お願いだから」
「きっと……きっと……ジュンぐんがね……わだじに……ね」
メイクが流れ落ちて、真っ黒になった目の周りと、溶けてしまった頬が滲《にじ》んでいて、俯いたまま僕から顔を背けるミツキは、しゃくりあげながら僕に写真と本を手渡した。何気ない視線が写真を通り抜けていく。渋谷の雑踏《ざっとう》の中の花神楽美月《はなかぐらみつき》は凛《りん》としていた。僕の方を真っ直ぐ見ていて、突き抜けていく視線が今の僕には痛い。裏にした写真を机に置いて僕は立ち上がり、ミツキを抱き締めたかったけれど、それをすることは今の僕にはできなかった。ミツキを通り過ぎてベッドに上半身を投げ出すと、ミツキは振り返り、なんで、と口にする。
「なんで、シュン君は教えてくれないの。本当に、本当にこのままで大丈夫なの?」
「僕だって。ミツキの傍にいたいのに」
「それは、いつまでも……」
「僕は、僕は……逃げていたんだ。本当はすごく怖いんだ。どうしていいか分からないくらい怖いんだ。結局最後は一人で。どうしようもなく怖い」
背中に感じる柔らかい感触と、耳元に感じる吐息が囁《ささや》く言葉で、大丈夫、と。ミツキの毛先が頬に触れるくすぐったい感触に、思わず顔を背けた。
「シュン君はなにを恐れているの? シュン君は一人じゃないよ」
「怖いんだよ。僕はもう……。だから考えないようにしていて、よくよく考えれば逃げていたんだ。ミツキのせいにして。ミツキに寄り添いたいなんて思っていて。本当は恐いだけなんだ」
「シュン君は、何を恐れているの?」
「ミツキを失ってしまうことになるんじゃないかって。それが一番怖くて。ミツキがアイドルに復帰して、それでも僕と一緒にいてくれるのかって。僕が目を離したら、逃げて行っちゃうんじゃないかって。だから、だから僕はミツキを掴んでおきたいんだ。でも、それは、僕の弱さであって。ミツキを信じていないわけじゃないんだ。僕がミツキの元を離れて、しばらく会えなくなるなんて……すごく怖くて」
「——分かった。シュン君はわたしが近くにいるとダメなのかな。わたしが枷《かせ》になっちゃって、臆病《おくびょう》になっちゃうのかな」
やめて。お願いだから。やめて。それ以上、先のことを言わないで。なんでもするから。だから、やめて。僕を殺さないで。ミツキ、君を失う時は……僕の心が死ぬ時なのだから。
「シュン君。聞いて。必ずあなたのところに戻るから。だから、今はわたしを忘れて」
「な……に言っているの……」
僕から離れていくミツキの顔。そして腕。密着していた身体。すべてが白々《しらじら》しく、何事もなかったように離れていって、涙を拭ったミツキの顔は、花神楽美月のように刺さる視線で僕を射抜き殺す。とても近づけないような雰囲気を纏《まと》っていて、僕は呆気《あっけ》に取られた。
「シュン君。すべきことをして。わたしはあなたのためなら、嫌われても構わない。今はわたしを忘れて。もう一度、出会ったときに再び恋に落ちることができれば。それでいい。だから」
…………さようなら
「なッ!! だめだ、絶対にだめだ。ミツキ、頼む。それはだめだ。だって、僕が。僕が……。ミツキ。頼む。僕はミツキがいなければ……」
「シュン君。必ず病気を克服して。未来設計は、もう出来上がっているんだから」
滲んでミツキがその後どうなったのか、見ることができなかった。
もう何も考えられない。
————虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無。
そう。ミツキを好きになる前と好きなった後で、僕のまわりを取り巻く景色と匂い、香ばしい味や季節の音、すべてが物語の中の情景のように変わっていった。しかし、それが今、こんなにも簡単に無くなっていく。あんなに美しかった世界が、すべてモノクロームに戻っていく。脳内を満たしていた言葉を紡ぐこともできず。僕は、ひたすらそのまま朝になっても眠ることができずに、枯れた涙が頬を伝うこともなくなり、静かに訪れる死を待つように。————微動だにできなかった。
支離滅裂《しりめつれつ》な言葉が踊り狂い、感情は虚無《きょむ》。悲しくもない。失望もない。ただ、なにも感じることができなくなっていた。
「シュン。あんた。ミツキちゃんに何言ったの。今朝早く出て行ったわよ。荷物まとめて」
「……ああ。そう」
「シュン? ちょっと?」
「……ああ」
翌日も。その翌日も。その次もその次の次も。ミツキは帰ってくることはなかった。僕は部屋から一歩も出ることができなくなり、茫然《ぼうぜん》と外を眺める毎日に逆戻りした。
何気なく開いたスマホのニュースアプリの芸能欄を見て、僕の中の止まっていた呼吸が動き始める。
————花神楽美月とイケメンアイドル、白木坂慶介《しらきざかけいすけ》熱愛!!
ミツキが白木坂慶介とモノクロームの写真の中、抱き合っていた。
熱が戻ってきた僕の身体は、震え始めて、やがて握った拳が壁紙に穴をあける。
絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に。
許さない————。
「そうですよね。わたしが首を突っ込むことではないですよね。家族でもないのに」
言葉の端々に感じる引っ掛かりを、あえて武器にしてくるミツキは知能犯だ。僕の琴線《きんせん》を知っていて、それでいて、姉さんの味方をしようとする。ミツキは家族だ、と僕が口走るのは当たり前のことで、それを言うと藪蛇《やぶへび》になる。実によくできたトリックだよワトソン君。
「シュン。あんたいつまで意地張っているのよ。ミツキちゃんに言わなくて本当にいいの?」
「シュン君、教えて。いったいどうしたの? アスカさんに聞いても教えてくれないし」
「僕は……なんでもない。今はまだ言えない。お願いだからそっとしておいて」
「でも……身体のことじゃないの? 本当に大丈夫なの?」
「ごめん。一人にして」
待ってシュン君、という言葉を無視して——正確には僕の鼓膜の手前で止まってしまって——自室の扉を開く。プリントアウトしたL版の写真が机の上に広がっていたけれど、僕はすべて左手でなぎ払った。宙を舞い落ちていく写真が廊下の電球の光を浴びてきらきらと。乱暴に投げ捨てた本が床を跳ねていく。ハードカバーの本はきっと角が折れてしまったのだろう。八つ当たりをしてごめん。でも、僕は机を占領したかったんだ。開きっぱなしになった扉を閉める気にもならずに、椅子に座り込んで僕は机に突っ伏した。
深く落ちていく。深淵《しんえん》の緑は翡翠《ひすい》のように輝いていて、触れた僕の手がもぎれて、地面に落ちてしまった。叫びたいのに言葉が出ない。まるで藻の張った水槽の中のようで、外側が見えないくせに、僕の身体を細切れにしていく。息ができないくせに呼吸をしていて、溺れていく僕を、その肺を満たしていく空気が痛い。動悸を止めない心臓が、摺《す》り切れるくらいに動いていて、僕は止める方法を知らなかった。
——シュン君!!
こんなところまでミツキはついてきたのか。早く帰りなよ。僕はこのままここで溺れていくんだ。浮上できずに、外を見ることもなく、ただ息をしているだけなんだ。
————シュン君!!
一人にしてほしいのに。なんで僕を呼ぶんだろう。僕は、もうこのまま——。
「シュン君。ごめんね。起こしたかったわけじゃないんだけど」
顔を上げると、ミツキが眉尻を下げながら僕の顔を覗き込んでいて、その手には散らばったはずの写真が丁寧に重ねられていた。その下に見えるハードカバーの本が僕を睨みつけている。傷つけられた写真と本は僕を許してくれるのだろうか。きっと怒っているのかな。だから、反抗して角を曲げてしまったのだろう。ごめん。
「いいよ。なんだか気持ち悪い夢を見ていたから」
「扉が開いていたから。そしたら、すごく苦しそうで。それと、足元に写真が落ちていて。これ」
ミツキが手渡した写真は、僕とミツキが一緒に写っている紫陽花の森での一枚だった。標準レンズで自撮りした一枚だったから、頬がついてしまうくらいに二人とも寄っていて。こんなに近くにいるのに。自分のこととなると僕は、せっかく心配してくれているミツキに対して何も言えない。悪いとは思っている。
ミツキの傍《そば》にいたいと思う自分は、もしかして逃げているだけなの?
「なんだか、そんなに時間は経っていないのに懐かしい。涼森くんに見つかっちゃった時は、すごくショックだったけれど、今は良い思い出だよね」
「うん」
「それから、帰りのバスで、シュン君が寝ているわたしを起こそうとして。すごく可愛かった」
「……うん」
「それでね、それで。みんなに内緒で温泉も行ったよね。コーヒー牛乳がおいしくて、料理が食べきれないくらい多くて。夜はシュン君が優しくて。月が綺麗で。深夜に部屋の温泉に入ったとき、つい寝ちゃったんだよね。シュン君が起こしてくれなかったら死んでいたかも、なんて。その他にも、色んなことがあって。何かをするたびにシュン君をもっと、もっと、ずっと好きになっていって。今日だって、シュン君がいなければ縁日なんて行かなかっただろうし、それでね」
「ミツキ、もういいよ。もういい」
「きっと、これから、わたしとシュン君は高校を卒業して、それで、わたしはきっとアイドルを辞めて、シュン君は写真家になるのかな、それともダンスの指導者とか。それでお互い今までできなかったデートをいっぱいして。海外とかも二人で行ってみたいし、ドライブだってしてみたい。順調に愛を育んでいって、プロポーズするの。シュン君から。それともわたしからかな。二人同時でもいいかも。結婚式は二人だけで小高い丘の上の教会で、誓いの言葉を言い合って。子供は二人くらい欲しいな。男の子と女の子。それでね」
「ミツキ。お願いだから」
「きっと……きっと……ジュンぐんがね……わだじに……ね」
メイクが流れ落ちて、真っ黒になった目の周りと、溶けてしまった頬が滲《にじ》んでいて、俯いたまま僕から顔を背けるミツキは、しゃくりあげながら僕に写真と本を手渡した。何気ない視線が写真を通り抜けていく。渋谷の雑踏《ざっとう》の中の花神楽美月《はなかぐらみつき》は凛《りん》としていた。僕の方を真っ直ぐ見ていて、突き抜けていく視線が今の僕には痛い。裏にした写真を机に置いて僕は立ち上がり、ミツキを抱き締めたかったけれど、それをすることは今の僕にはできなかった。ミツキを通り過ぎてベッドに上半身を投げ出すと、ミツキは振り返り、なんで、と口にする。
「なんで、シュン君は教えてくれないの。本当に、本当にこのままで大丈夫なの?」
「僕だって。ミツキの傍にいたいのに」
「それは、いつまでも……」
「僕は、僕は……逃げていたんだ。本当はすごく怖いんだ。どうしていいか分からないくらい怖いんだ。結局最後は一人で。どうしようもなく怖い」
背中に感じる柔らかい感触と、耳元に感じる吐息が囁《ささや》く言葉で、大丈夫、と。ミツキの毛先が頬に触れるくすぐったい感触に、思わず顔を背けた。
「シュン君はなにを恐れているの? シュン君は一人じゃないよ」
「怖いんだよ。僕はもう……。だから考えないようにしていて、よくよく考えれば逃げていたんだ。ミツキのせいにして。ミツキに寄り添いたいなんて思っていて。本当は恐いだけなんだ」
「シュン君は、何を恐れているの?」
「ミツキを失ってしまうことになるんじゃないかって。それが一番怖くて。ミツキがアイドルに復帰して、それでも僕と一緒にいてくれるのかって。僕が目を離したら、逃げて行っちゃうんじゃないかって。だから、だから僕はミツキを掴んでおきたいんだ。でも、それは、僕の弱さであって。ミツキを信じていないわけじゃないんだ。僕がミツキの元を離れて、しばらく会えなくなるなんて……すごく怖くて」
「——分かった。シュン君はわたしが近くにいるとダメなのかな。わたしが枷《かせ》になっちゃって、臆病《おくびょう》になっちゃうのかな」
やめて。お願いだから。やめて。それ以上、先のことを言わないで。なんでもするから。だから、やめて。僕を殺さないで。ミツキ、君を失う時は……僕の心が死ぬ時なのだから。
「シュン君。聞いて。必ずあなたのところに戻るから。だから、今はわたしを忘れて」
「な……に言っているの……」
僕から離れていくミツキの顔。そして腕。密着していた身体。すべてが白々《しらじら》しく、何事もなかったように離れていって、涙を拭ったミツキの顔は、花神楽美月のように刺さる視線で僕を射抜き殺す。とても近づけないような雰囲気を纏《まと》っていて、僕は呆気《あっけ》に取られた。
「シュン君。すべきことをして。わたしはあなたのためなら、嫌われても構わない。今はわたしを忘れて。もう一度、出会ったときに再び恋に落ちることができれば。それでいい。だから」
…………さようなら
「なッ!! だめだ、絶対にだめだ。ミツキ、頼む。それはだめだ。だって、僕が。僕が……。ミツキ。頼む。僕はミツキがいなければ……」
「シュン君。必ず病気を克服して。未来設計は、もう出来上がっているんだから」
滲んでミツキがその後どうなったのか、見ることができなかった。
もう何も考えられない。
————虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無。
そう。ミツキを好きになる前と好きなった後で、僕のまわりを取り巻く景色と匂い、香ばしい味や季節の音、すべてが物語の中の情景のように変わっていった。しかし、それが今、こんなにも簡単に無くなっていく。あんなに美しかった世界が、すべてモノクロームに戻っていく。脳内を満たしていた言葉を紡ぐこともできず。僕は、ひたすらそのまま朝になっても眠ることができずに、枯れた涙が頬を伝うこともなくなり、静かに訪れる死を待つように。————微動だにできなかった。
支離滅裂《しりめつれつ》な言葉が踊り狂い、感情は虚無《きょむ》。悲しくもない。失望もない。ただ、なにも感じることができなくなっていた。
「シュン。あんた。ミツキちゃんに何言ったの。今朝早く出て行ったわよ。荷物まとめて」
「……ああ。そう」
「シュン? ちょっと?」
「……ああ」
翌日も。その翌日も。その次もその次の次も。ミツキは帰ってくることはなかった。僕は部屋から一歩も出ることができなくなり、茫然《ぼうぜん》と外を眺める毎日に逆戻りした。
何気なく開いたスマホのニュースアプリの芸能欄を見て、僕の中の止まっていた呼吸が動き始める。
————花神楽美月とイケメンアイドル、白木坂慶介《しらきざかけいすけ》熱愛!!
ミツキが白木坂慶介とモノクロームの写真の中、抱き合っていた。
熱が戻ってきた僕の身体は、震え始めて、やがて握った拳が壁紙に穴をあける。
絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に。
許さない————。
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