27 / 61
明け易し夏 ミツキの疑惑
明け易し夏・ミツキの疑惑
しおりを挟む
食事が喉を通らない、なんていうけれど、本当に食欲がないのは昨年ぶりだった。ダイニングテーブルの上に置かれた鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》と白米は、姉さんが通販で取り寄せたものだ。それに、キャベツの千切りとプチトマトが鰻の蒲焼とアンバランスに置かれている。向かいに座るミツキも、食事に手をつけようとせずに、僕をじっと見ていた。その隣に座る姉さんは、すでにジョガーと無地のTシャツに着替えていて、僕を睨《にら》みつけている。四面楚歌《しめんそか》だ。逃げ場のない袋小路。蛇に睨まれた蛙。ごくりと飲んだ唾が、喉元で引っ掛かる。僕は、視線を鰻の一点に集中させていて、鰻以外何も目に入らないし、気にも留めない。そう決めたのだが。
「そうですよね。わたしが首を突っ込むことではないですよね。家族でもないのに」
言葉の端々に感じる引っ掛かりを、あえて武器にしてくるミツキは知能犯だ。僕の琴線《きんせん》を知っていて、それでいて、姉さんの味方をしようとする。ミツキは家族だ、と僕が口走るのは当たり前のことで、それを言うと藪蛇《やぶへび》になる。実によくできたトリックだよワトソン君。
「シュン。あんたいつまで意地張っているのよ。ミツキちゃんに言わなくて本当にいいの?」
「シュン君、教えて。いったいどうしたの? アスカさんに聞いても教えてくれないし」
「僕は……なんでもない。今はまだ言えない。お願いだからそっとしておいて」
「でも……身体のことじゃないの? 本当に大丈夫なの?」
「ごめん。一人にして」
待ってシュン君、という言葉を無視して——正確には僕の鼓膜の手前で止まってしまって——自室の扉を開く。プリントアウトしたL版の写真が机の上に広がっていたけれど、僕はすべて左手でなぎ払った。宙を舞い落ちていく写真が廊下の電球の光を浴びてきらきらと。乱暴に投げ捨てた本が床を跳ねていく。ハードカバーの本はきっと角が折れてしまったのだろう。八つ当たりをしてごめん。でも、僕は机を占領したかったんだ。開きっぱなしになった扉を閉める気にもならずに、椅子に座り込んで僕は机に突っ伏した。
深く落ちていく。深淵《しんえん》の緑は翡翠《ひすい》のように輝いていて、触れた僕の手がもぎれて、地面に落ちてしまった。叫びたいのに言葉が出ない。まるで藻の張った水槽の中のようで、外側が見えないくせに、僕の身体を細切れにしていく。息ができないくせに呼吸をしていて、溺れていく僕を、その肺を満たしていく空気が痛い。動悸を止めない心臓が、摺《す》り切れるくらいに動いていて、僕は止める方法を知らなかった。
——シュン君!!
こんなところまでミツキはついてきたのか。早く帰りなよ。僕はこのままここで溺れていくんだ。浮上できずに、外を見ることもなく、ただ息をしているだけなんだ。
————シュン君!!
一人にしてほしいのに。なんで僕を呼ぶんだろう。僕は、もうこのまま——。
「シュン君。ごめんね。起こしたかったわけじゃないんだけど」
顔を上げると、ミツキが眉尻を下げながら僕の顔を覗き込んでいて、その手には散らばったはずの写真が丁寧に重ねられていた。その下に見えるハードカバーの本が僕を睨みつけている。傷つけられた写真と本は僕を許してくれるのだろうか。きっと怒っているのかな。だから、反抗して角を曲げてしまったのだろう。ごめん。
「いいよ。なんだか気持ち悪い夢を見ていたから」
「扉が開いていたから。そしたら、すごく苦しそうで。それと、足元に写真が落ちていて。これ」
ミツキが手渡した写真は、僕とミツキが一緒に写っている紫陽花の森での一枚だった。標準レンズで自撮りした一枚だったから、頬がついてしまうくらいに二人とも寄っていて。こんなに近くにいるのに。自分のこととなると僕は、せっかく心配してくれているミツキに対して何も言えない。悪いとは思っている。
ミツキの傍《そば》にいたいと思う自分は、もしかして逃げているだけなの?
「なんだか、そんなに時間は経っていないのに懐かしい。涼森くんに見つかっちゃった時は、すごくショックだったけれど、今は良い思い出だよね」
「うん」
「それから、帰りのバスで、シュン君が寝ているわたしを起こそうとして。すごく可愛かった」
「……うん」
「それでね、それで。みんなに内緒で温泉も行ったよね。コーヒー牛乳がおいしくて、料理が食べきれないくらい多くて。夜はシュン君が優しくて。月が綺麗で。深夜に部屋の温泉に入ったとき、つい寝ちゃったんだよね。シュン君が起こしてくれなかったら死んでいたかも、なんて。その他にも、色んなことがあって。何かをするたびにシュン君をもっと、もっと、ずっと好きになっていって。今日だって、シュン君がいなければ縁日なんて行かなかっただろうし、それでね」
「ミツキ、もういいよ。もういい」
「きっと、これから、わたしとシュン君は高校を卒業して、それで、わたしはきっとアイドルを辞めて、シュン君は写真家になるのかな、それともダンスの指導者とか。それでお互い今までできなかったデートをいっぱいして。海外とかも二人で行ってみたいし、ドライブだってしてみたい。順調に愛を育んでいって、プロポーズするの。シュン君から。それともわたしからかな。二人同時でもいいかも。結婚式は二人だけで小高い丘の上の教会で、誓いの言葉を言い合って。子供は二人くらい欲しいな。男の子と女の子。それでね」
「ミツキ。お願いだから」
「きっと……きっと……ジュンぐんがね……わだじに……ね」
メイクが流れ落ちて、真っ黒になった目の周りと、溶けてしまった頬が滲《にじ》んでいて、俯いたまま僕から顔を背けるミツキは、しゃくりあげながら僕に写真と本を手渡した。何気ない視線が写真を通り抜けていく。渋谷の雑踏《ざっとう》の中の花神楽美月《はなかぐらみつき》は凛《りん》としていた。僕の方を真っ直ぐ見ていて、突き抜けていく視線が今の僕には痛い。裏にした写真を机に置いて僕は立ち上がり、ミツキを抱き締めたかったけれど、それをすることは今の僕にはできなかった。ミツキを通り過ぎてベッドに上半身を投げ出すと、ミツキは振り返り、なんで、と口にする。
「なんで、シュン君は教えてくれないの。本当に、本当にこのままで大丈夫なの?」
「僕だって。ミツキの傍にいたいのに」
「それは、いつまでも……」
「僕は、僕は……逃げていたんだ。本当はすごく怖いんだ。どうしていいか分からないくらい怖いんだ。結局最後は一人で。どうしようもなく怖い」
背中に感じる柔らかい感触と、耳元に感じる吐息が囁《ささや》く言葉で、大丈夫、と。ミツキの毛先が頬に触れるくすぐったい感触に、思わず顔を背けた。
「シュン君はなにを恐れているの? シュン君は一人じゃないよ」
「怖いんだよ。僕はもう……。だから考えないようにしていて、よくよく考えれば逃げていたんだ。ミツキのせいにして。ミツキに寄り添いたいなんて思っていて。本当は恐いだけなんだ」
「シュン君は、何を恐れているの?」
「ミツキを失ってしまうことになるんじゃないかって。それが一番怖くて。ミツキがアイドルに復帰して、それでも僕と一緒にいてくれるのかって。僕が目を離したら、逃げて行っちゃうんじゃないかって。だから、だから僕はミツキを掴んでおきたいんだ。でも、それは、僕の弱さであって。ミツキを信じていないわけじゃないんだ。僕がミツキの元を離れて、しばらく会えなくなるなんて……すごく怖くて」
「——分かった。シュン君はわたしが近くにいるとダメなのかな。わたしが枷《かせ》になっちゃって、臆病《おくびょう》になっちゃうのかな」
やめて。お願いだから。やめて。それ以上、先のことを言わないで。なんでもするから。だから、やめて。僕を殺さないで。ミツキ、君を失う時は……僕の心が死ぬ時なのだから。
「シュン君。聞いて。必ずあなたのところに戻るから。だから、今はわたしを忘れて」
「な……に言っているの……」
僕から離れていくミツキの顔。そして腕。密着していた身体。すべてが白々《しらじら》しく、何事もなかったように離れていって、涙を拭ったミツキの顔は、花神楽美月のように刺さる視線で僕を射抜き殺す。とても近づけないような雰囲気を纏《まと》っていて、僕は呆気《あっけ》に取られた。
「シュン君。すべきことをして。わたしはあなたのためなら、嫌われても構わない。今はわたしを忘れて。もう一度、出会ったときに再び恋に落ちることができれば。それでいい。だから」
…………さようなら
「なッ!! だめだ、絶対にだめだ。ミツキ、頼む。それはだめだ。だって、僕が。僕が……。ミツキ。頼む。僕はミツキがいなければ……」
「シュン君。必ず病気を克服して。未来設計は、もう出来上がっているんだから」
滲んでミツキがその後どうなったのか、見ることができなかった。
もう何も考えられない。
————虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無。
そう。ミツキを好きになる前と好きなった後で、僕のまわりを取り巻く景色と匂い、香ばしい味や季節の音、すべてが物語の中の情景のように変わっていった。しかし、それが今、こんなにも簡単に無くなっていく。あんなに美しかった世界が、すべてモノクロームに戻っていく。脳内を満たしていた言葉を紡ぐこともできず。僕は、ひたすらそのまま朝になっても眠ることができずに、枯れた涙が頬を伝うこともなくなり、静かに訪れる死を待つように。————微動だにできなかった。
支離滅裂《しりめつれつ》な言葉が踊り狂い、感情は虚無《きょむ》。悲しくもない。失望もない。ただ、なにも感じることができなくなっていた。
「シュン。あんた。ミツキちゃんに何言ったの。今朝早く出て行ったわよ。荷物まとめて」
「……ああ。そう」
「シュン? ちょっと?」
「……ああ」
翌日も。その翌日も。その次もその次の次も。ミツキは帰ってくることはなかった。僕は部屋から一歩も出ることができなくなり、茫然《ぼうぜん》と外を眺める毎日に逆戻りした。
何気なく開いたスマホのニュースアプリの芸能欄を見て、僕の中の止まっていた呼吸が動き始める。
————花神楽美月とイケメンアイドル、白木坂慶介《しらきざかけいすけ》熱愛!!
ミツキが白木坂慶介とモノクロームの写真の中、抱き合っていた。
熱が戻ってきた僕の身体は、震え始めて、やがて握った拳が壁紙に穴をあける。
絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に。
許さない————。
「そうですよね。わたしが首を突っ込むことではないですよね。家族でもないのに」
言葉の端々に感じる引っ掛かりを、あえて武器にしてくるミツキは知能犯だ。僕の琴線《きんせん》を知っていて、それでいて、姉さんの味方をしようとする。ミツキは家族だ、と僕が口走るのは当たり前のことで、それを言うと藪蛇《やぶへび》になる。実によくできたトリックだよワトソン君。
「シュン。あんたいつまで意地張っているのよ。ミツキちゃんに言わなくて本当にいいの?」
「シュン君、教えて。いったいどうしたの? アスカさんに聞いても教えてくれないし」
「僕は……なんでもない。今はまだ言えない。お願いだからそっとしておいて」
「でも……身体のことじゃないの? 本当に大丈夫なの?」
「ごめん。一人にして」
待ってシュン君、という言葉を無視して——正確には僕の鼓膜の手前で止まってしまって——自室の扉を開く。プリントアウトしたL版の写真が机の上に広がっていたけれど、僕はすべて左手でなぎ払った。宙を舞い落ちていく写真が廊下の電球の光を浴びてきらきらと。乱暴に投げ捨てた本が床を跳ねていく。ハードカバーの本はきっと角が折れてしまったのだろう。八つ当たりをしてごめん。でも、僕は机を占領したかったんだ。開きっぱなしになった扉を閉める気にもならずに、椅子に座り込んで僕は机に突っ伏した。
深く落ちていく。深淵《しんえん》の緑は翡翠《ひすい》のように輝いていて、触れた僕の手がもぎれて、地面に落ちてしまった。叫びたいのに言葉が出ない。まるで藻の張った水槽の中のようで、外側が見えないくせに、僕の身体を細切れにしていく。息ができないくせに呼吸をしていて、溺れていく僕を、その肺を満たしていく空気が痛い。動悸を止めない心臓が、摺《す》り切れるくらいに動いていて、僕は止める方法を知らなかった。
——シュン君!!
こんなところまでミツキはついてきたのか。早く帰りなよ。僕はこのままここで溺れていくんだ。浮上できずに、外を見ることもなく、ただ息をしているだけなんだ。
————シュン君!!
一人にしてほしいのに。なんで僕を呼ぶんだろう。僕は、もうこのまま——。
「シュン君。ごめんね。起こしたかったわけじゃないんだけど」
顔を上げると、ミツキが眉尻を下げながら僕の顔を覗き込んでいて、その手には散らばったはずの写真が丁寧に重ねられていた。その下に見えるハードカバーの本が僕を睨みつけている。傷つけられた写真と本は僕を許してくれるのだろうか。きっと怒っているのかな。だから、反抗して角を曲げてしまったのだろう。ごめん。
「いいよ。なんだか気持ち悪い夢を見ていたから」
「扉が開いていたから。そしたら、すごく苦しそうで。それと、足元に写真が落ちていて。これ」
ミツキが手渡した写真は、僕とミツキが一緒に写っている紫陽花の森での一枚だった。標準レンズで自撮りした一枚だったから、頬がついてしまうくらいに二人とも寄っていて。こんなに近くにいるのに。自分のこととなると僕は、せっかく心配してくれているミツキに対して何も言えない。悪いとは思っている。
ミツキの傍《そば》にいたいと思う自分は、もしかして逃げているだけなの?
「なんだか、そんなに時間は経っていないのに懐かしい。涼森くんに見つかっちゃった時は、すごくショックだったけれど、今は良い思い出だよね」
「うん」
「それから、帰りのバスで、シュン君が寝ているわたしを起こそうとして。すごく可愛かった」
「……うん」
「それでね、それで。みんなに内緒で温泉も行ったよね。コーヒー牛乳がおいしくて、料理が食べきれないくらい多くて。夜はシュン君が優しくて。月が綺麗で。深夜に部屋の温泉に入ったとき、つい寝ちゃったんだよね。シュン君が起こしてくれなかったら死んでいたかも、なんて。その他にも、色んなことがあって。何かをするたびにシュン君をもっと、もっと、ずっと好きになっていって。今日だって、シュン君がいなければ縁日なんて行かなかっただろうし、それでね」
「ミツキ、もういいよ。もういい」
「きっと、これから、わたしとシュン君は高校を卒業して、それで、わたしはきっとアイドルを辞めて、シュン君は写真家になるのかな、それともダンスの指導者とか。それでお互い今までできなかったデートをいっぱいして。海外とかも二人で行ってみたいし、ドライブだってしてみたい。順調に愛を育んでいって、プロポーズするの。シュン君から。それともわたしからかな。二人同時でもいいかも。結婚式は二人だけで小高い丘の上の教会で、誓いの言葉を言い合って。子供は二人くらい欲しいな。男の子と女の子。それでね」
「ミツキ。お願いだから」
「きっと……きっと……ジュンぐんがね……わだじに……ね」
メイクが流れ落ちて、真っ黒になった目の周りと、溶けてしまった頬が滲《にじ》んでいて、俯いたまま僕から顔を背けるミツキは、しゃくりあげながら僕に写真と本を手渡した。何気ない視線が写真を通り抜けていく。渋谷の雑踏《ざっとう》の中の花神楽美月《はなかぐらみつき》は凛《りん》としていた。僕の方を真っ直ぐ見ていて、突き抜けていく視線が今の僕には痛い。裏にした写真を机に置いて僕は立ち上がり、ミツキを抱き締めたかったけれど、それをすることは今の僕にはできなかった。ミツキを通り過ぎてベッドに上半身を投げ出すと、ミツキは振り返り、なんで、と口にする。
「なんで、シュン君は教えてくれないの。本当に、本当にこのままで大丈夫なの?」
「僕だって。ミツキの傍にいたいのに」
「それは、いつまでも……」
「僕は、僕は……逃げていたんだ。本当はすごく怖いんだ。どうしていいか分からないくらい怖いんだ。結局最後は一人で。どうしようもなく怖い」
背中に感じる柔らかい感触と、耳元に感じる吐息が囁《ささや》く言葉で、大丈夫、と。ミツキの毛先が頬に触れるくすぐったい感触に、思わず顔を背けた。
「シュン君はなにを恐れているの? シュン君は一人じゃないよ」
「怖いんだよ。僕はもう……。だから考えないようにしていて、よくよく考えれば逃げていたんだ。ミツキのせいにして。ミツキに寄り添いたいなんて思っていて。本当は恐いだけなんだ」
「シュン君は、何を恐れているの?」
「ミツキを失ってしまうことになるんじゃないかって。それが一番怖くて。ミツキがアイドルに復帰して、それでも僕と一緒にいてくれるのかって。僕が目を離したら、逃げて行っちゃうんじゃないかって。だから、だから僕はミツキを掴んでおきたいんだ。でも、それは、僕の弱さであって。ミツキを信じていないわけじゃないんだ。僕がミツキの元を離れて、しばらく会えなくなるなんて……すごく怖くて」
「——分かった。シュン君はわたしが近くにいるとダメなのかな。わたしが枷《かせ》になっちゃって、臆病《おくびょう》になっちゃうのかな」
やめて。お願いだから。やめて。それ以上、先のことを言わないで。なんでもするから。だから、やめて。僕を殺さないで。ミツキ、君を失う時は……僕の心が死ぬ時なのだから。
「シュン君。聞いて。必ずあなたのところに戻るから。だから、今はわたしを忘れて」
「な……に言っているの……」
僕から離れていくミツキの顔。そして腕。密着していた身体。すべてが白々《しらじら》しく、何事もなかったように離れていって、涙を拭ったミツキの顔は、花神楽美月のように刺さる視線で僕を射抜き殺す。とても近づけないような雰囲気を纏《まと》っていて、僕は呆気《あっけ》に取られた。
「シュン君。すべきことをして。わたしはあなたのためなら、嫌われても構わない。今はわたしを忘れて。もう一度、出会ったときに再び恋に落ちることができれば。それでいい。だから」
…………さようなら
「なッ!! だめだ、絶対にだめだ。ミツキ、頼む。それはだめだ。だって、僕が。僕が……。ミツキ。頼む。僕はミツキがいなければ……」
「シュン君。必ず病気を克服して。未来設計は、もう出来上がっているんだから」
滲んでミツキがその後どうなったのか、見ることができなかった。
もう何も考えられない。
————虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無虚無。
そう。ミツキを好きになる前と好きなった後で、僕のまわりを取り巻く景色と匂い、香ばしい味や季節の音、すべてが物語の中の情景のように変わっていった。しかし、それが今、こんなにも簡単に無くなっていく。あんなに美しかった世界が、すべてモノクロームに戻っていく。脳内を満たしていた言葉を紡ぐこともできず。僕は、ひたすらそのまま朝になっても眠ることができずに、枯れた涙が頬を伝うこともなくなり、静かに訪れる死を待つように。————微動だにできなかった。
支離滅裂《しりめつれつ》な言葉が踊り狂い、感情は虚無《きょむ》。悲しくもない。失望もない。ただ、なにも感じることができなくなっていた。
「シュン。あんた。ミツキちゃんに何言ったの。今朝早く出て行ったわよ。荷物まとめて」
「……ああ。そう」
「シュン? ちょっと?」
「……ああ」
翌日も。その翌日も。その次もその次の次も。ミツキは帰ってくることはなかった。僕は部屋から一歩も出ることができなくなり、茫然《ぼうぜん》と外を眺める毎日に逆戻りした。
何気なく開いたスマホのニュースアプリの芸能欄を見て、僕の中の止まっていた呼吸が動き始める。
————花神楽美月とイケメンアイドル、白木坂慶介《しらきざかけいすけ》熱愛!!
ミツキが白木坂慶介とモノクロームの写真の中、抱き合っていた。
熱が戻ってきた僕の身体は、震え始めて、やがて握った拳が壁紙に穴をあける。
絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に。
許さない————。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【朗報】俺をこっぴどく振った幼馴染がレンカノしてたので2時間15,000円でレンタルしてみました
田中又雄
恋愛
俺には幼稚園の頃からの幼馴染がいた。
しかし、高校進学にあたり、別々の高校に行くことになったため、中学卒業のタイミングで思い切って告白してみた。
だが、返ってきたのは…「はぁ!?誰があんたみたいなのと付き合うのよ!」という酷い言葉だった。
それからは家は近所だったが、それからは一度も話をすることもなく、高校を卒業して、俺たちは同じ大学に行くことになった。
そんなある日、とある噂を聞いた。
どうやら、あいつがレンタル彼女なるものを始めたとか…。
気持ち悪いと思いながらも俺は予約を入れるのであった。
そうして、デート当日。
待ち合わせ場所に着くと、後ろから彼女がやってきた。
「あ、ごめんね!待たせちゃっ…た…よ…ね」と、どんどんと顔が青ざめる。
「…待ってないよ。マイハニー」
「なっ…!?なんであんたが…!ばっかじゃないの!?」
「あんた…?何を言っているんだい?彼女が彼氏にあんたとか言わないよね?」
「頭おかしいんじゃないの…」
そうして、ドン引きする幼馴染と俺は初デートをするのだった。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写と他もすべて架空です。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる