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龍淵に潜む秋・ミツキの求婚
お揃いだよ。シュン君————しよう
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さざ波の音が聞こえる病室だった。青いキャンバスに描かれたダイナミックな雲の筆さばきが風に溶けて、ペインティングナイフでスクラッチしたかのような飛行機雲がゆっくりと東の空に架かっている。開いた窓から薫る海は少しだけ異国情緒を感じさせたが、どこかの学校のチャイムがそれを全否定した。
一人でなくてよかった。もし一人でこんな個室に閉じ込められていたら、自分自身で心を滅ぼしていたかもしれない。一人で見る景色はきっと、こんなに色鮮やかに映らなかっただろう。ベッドサイドの椅子に腰かけるミツキの栗色の髪が、陽の光で輝いていた。陽だまりの中に浮かび上がる僕の最愛の人は、読書をしていて、たまに僕を見て微笑んでくれる。それだけで、僕は満足だった。
「ねえ。一か月もホテル借りて大丈夫なの?」
「そんなに高いお部屋じゃないから。帰って寝るだけだし。シュン君は、なにか食べたいものとかないの?」
「うーん。特に思い浮かばないかな。それよりも、なんか、暇させちゃってごめん。一か月もこんな生活耐えられないよね」
「全然そんなことないよ。むしろ、のんびりできて最高じゃない。こんなに海だって近いんだし。綺麗な病院だし」
窓の外に視線を送るミツキの横顔が、出会ったころに比べて少しだけ大人びた気がする。僅《わず》か半年なのに。僕と出会ったことで、重い荷を背負わしてしまったことに心が痛む。本当はこんなはずじゃなかった、と今でも思う。春爛漫《はるらんまん》のあの頃の僕は本当に普通の高校生だった。ただ普通に生活をしていて、ミツキと出会って。恋をして。
「ねえ。午後は少し散歩したいんだけど、いいかな」
「先生はいいって言ってたの?」
「うん。ほんの少しなら大丈夫って」
「……そう。じゃあ、少しだけね」
まるで母親だった。とにかく僕の身体を一番に考えていて、僕ができることだって手出しをする過保護な母親。ありがたいことなのではあるけれど、僕はもう少し自由にしたいかな、なんて贅沢なことを思っていたりする。だけど、ミツキがそうしたいなら、それでいいと思う。だって、それもかけがえのない時間の一部だから。
砂浜の上にできた遊歩道は細かい粒子が靴の中に入ることが少なく、散歩するにはとても快適である。未だ残暑のアフターエフェクトが大気を支配しているにも関わらず、吹きさらす秋風の薫りがこの頬を撫でいく。感じる季節がすっと心を満たしていき、とても優しくなれた。
「シュン君、大丈夫? もうそろそろ戻ろうか?」
「え? まだここにきて三分くらいしか経ってないよ!?」
「でも。風に当たるのはあまりよくないよ?」
「いや、まあ、確かにそうなんだろうけど。体力がないのも確かなんだけど。うん、そうだね。僕、すごく病人だわ」
「ふふ。そうね。じゃあ、もう少しだけ。ね?」
花鳥風月プリズムZの曲には、海で撮ったあるMVの作品がある。ロードムービー風で、ノイズを加えていて。砂浜を駆けていく四人が風を感じていた。今、まさにゲットフリーという曲に酩酊《めいてい》したい。うん、今聴きたくなった。
その話をミツキにすると、優しい眼差しに懐旧《かいきゅう》を浮かべる。志桜里《しおり》ちゃんと碧唯《あおい》ちゃんが大げんかしてね。全然ゲットフリーじゃなかったんだよ、なんて笑ってくれて。
少しだけ歩いた先にぽつんとベンチがあって、腰かけた僕とミツキは空と海の境界線って曖昧なんだね、なんて話をしていた。ポケットから取り出したスマホは、花プリのゲットフリーのMVを画面いっぱいに映し出していて、流れる曲に少しだけ涙が流れそうになる。
曲に感動したわけではないのだけれど、この曲を初めて聴いたとき、僕は今と同じように病院のベッドにいたことを鮮明に覚えている。志桜里が送ってきたニューチューブのURLをタップしたら、これが流れてきた。僕は思わず、こっちは全然自由じゃないよ、なんて返信したことを後悔はしていない。ただ、志桜里はゲットフリーの歌詞で僕を励ましたかったのだろう。それを知ったのは、ずっと後のことだった。
偶然にもこのMVと同じような海辺の近くの病院にいることに、思わず苦笑してしまった。
「シュン君。わたしね。来月から本格的に復帰したら、きっとあまりね……」
「大丈夫だよ。僕はどこにもいかないし、応援してる。それに、いつでも会えるでしょ」
「うん。でも決めたの」
「なにを?」
「一年。一年で決着つける。すべてが終わったら、シュン君とずっと一緒にいたい。だから————」
「うん」
「なんでもない。きっと、すべてうまくいく。そうでしょ?」
「うん。お互い、自由になれるときまで。ね」
病室に戻った僕とミツキはしばらく沈黙をしていたのだけれども、ミツキが突然、買い物に行くと口を開いた。
「何を買うの?」
「シュン君の生活用品が、圧倒的に足りないの。いったいどうやって準備したら、こんなに軽くなるの……」
「え……ちゃんと準備したよ?」
「ティッシュペーパーがなんでポケットティッシュ一個なの……それに、コップも入っていないし、替えのパジャマもないよ?」
「うぅ……ごめんなさい」
もう、と言って、ミツキはバッグを片手に行ってくるね、と病室を後にした。大抵の物は売店で揃うはずなのだが、個人的に欲しいものもある、ということもあって外に出たいみたいだ。確かに、ホテルと病院を行ったり来たりでは、とてもじゃないけれど息が詰まる。だけど、外に出てくると言ったミツキがなんとなく心配だ。しかし、子供じゃないのだからさすがに大丈夫だろう、とも思っていたのだが。
半分に切ったブラッドオレンジのような月が海の水面に揺らめいていて、僕の心臓はその実る季節外れの果実に動悸を覚えていた。時計の短針が七時を指している。長針は三を。ミツキはこともあろうか、スマホをサイドテーブルに置いたまま出かけてしまっていた。
なぜ、戻ってこないの。
買い物に五時間近くも費やすことは珍しい。なぜなら、ミツキは正体がバレることを恐れて、ウィンドウショッピングはしない人だから。それに、目当ての商品は初めからメモをしていて、売り場もすぐに店員に訊《たず》ねるという用意周到さは、目を見張るものがある。
つまり、なにか事件に巻き込まれた可能性が高い。あんな可愛い子が、人気のない道を歩いていれば誘拐だってありえることだし。最悪、襲われて、殺され……。
いよいよ、病院を抜け出してミツキを探しに行くか、と思った矢先、ミツキは満身創痍《まんしんそうい》を模したかのような表情で帰ってきた。何があったの、と聞いたら、目当てのものが売っていなかったから、県庁所在地の都市まで行ってきた、などと言う。電車で片道一時間半も掛かるというのに、ずいぶん冒険をしてきたものだ。
「もう。スマホまで忘れて行って。心配かけないでよ」
「ごめんなさい。でもね、シュン君。明日……」
「え?」
「明日、誕生日でしょう。だから、どうしても————」
「————うん」
「内緒。明日になったらね」
「ええええ。心配したのに」
もう心配かけないでよ、なんて呟く僕のことをよそに、面会の時間が無慈悲にも幕を下ろし、暗闇の時間が病室を支配する。夜が怖いミツキは、きっと一人で泣いてしまうから、眠るまで無料通話アプリを開いたままだ。移動中も、バッグに入れたまま繋ぎっぱなし。その方が僕も安心できた。何かあれば、すぐに助けを求められるよう、に。これを提案したときに、過保護な父親みたい、なんて言われた。よく言うよ。
————手術一日前。
カテーテルの手術で大丈夫だ、と告げられた時、僕は、それはそれは、安堵《あんど》した。太ももの血管から針金のような管を挿入する術式で、身体を切り刻まなくても済むのだから、精神的なストレスもだいぶ違ってくる。それに、わざわざ名医を紹介してもらったのだから、あの女医にも感謝したい。紹介状を書いてもらうときまで憤怒《ふんど》していたけれど。ミツキの提案で、ケーキの差し入れをしたらすぐにご機嫌になったりして。
食事はカロリー制限があってあまり食べてはいけない、ということだったが、そもそもそんなに食欲があるわけもないので、そこまで苦痛ではなかった。
ミツキのほうが心配をしていて、死んじゃったらどうしよう、なんて昨晩はスマホの向こう側で泣いていたのだが、今朝は何事もなかったかのように、普段通りの彼女に戻っていた。本人を目の前にして、死んじゃうなんて言葉使うなよ、とは思ったのだが。夜はミツキを弱々しくするのを知っていたために、気にしないことにした。
「シュン君。誕生日おめでとう。ケーキは食べられそうにないけど、退院したらちゃんとパーティーしようね。和佳子さんと光太郎さん、それにアスカさんも今晩来るんでしょ。それまでは、誕生日を独り占めしちゃうから」
陽だまりに身を置くミツキの笑顔がとても輝いていて、僕はそれだけで励まされた。今年の誕生日が、こんな形で訪れるとは夢にも思わなかったけど、とても幸せだ。
ミツキは僕の手を取って指を絡めると、僕の薬指をしきりに気にしていた。大丈夫かな、と言って、白い高級ブランド品が入っていそうな紙袋からリボンのついた小箱を取り出すと、はい、と言って僕に手渡す。
「え? もしかして?」
「誕生日プレゼント。付き合って初めての誕生日だから、特別なものにしたくて」
「やっぱり。それで昨日————」
泣きそうだった。僕のために危険を冒してまで、遠くに行ってくれて。心配したんだよ。もし、事件にでも巻き込まれて、なんて思ったら食事が喉を通らなかったんだから。でも、そんな冒険の末に見つけてきてくれたプレゼントは、きっと僕の永遠の宝物。嬉しい、なんて簡単な言葉で済ましたくない。だけどすごく嬉しい。
「開けていい?」
「うん。もちろん」
包装紙が破けないように丁寧にテープを剥がしていく。リボンはそのまま解かずに。中から現れた赤い箱を開くと指輪が真ん中に座していて、シンプルだけど、白銀色《プラチナカラー》に輝く流線形がとても綺麗だった。
「これ。指輪だよね」
「おそらく指輪だね。きっと指輪。入るといいんだけど」
ミツキはリングを僕から受け取って、左手の指に恐る恐る通していく。きつくもなく、ゆるくもなく。まるで、測ったかのようなジャストフィット感。なんでサイズ分かったの。
「すごい。ぴったり。ミツキすごいよ」
「よかった。いつも指を絡めているから、お店の人にリングサイズ棒を貸してもらって。あとは勘で」
「なに。ミツキってエスパーなの。そんなので分かるはず————」
「でも、分かっちゃったんだなぁ。愛の力ってすごい!」
そう言って笑うミツキは、左手で僕の左手を優しく包んだ。その左手には、僕とお揃いの指輪が光っていて。
お揃いだよ。シュン君————しよう。
「え? 聞こえなかったんだけど。今、なんて?」
「内緒。そうそう。お揃いの指輪するのって夢だったんだ。好きな人と同じアクセをするなんて、素敵だと思わない?」
「うん。ありがとう。これ一生大事にする。でも、こういうのって本当は男である僕から渡すものなのに。なんかごめん」
そうだね、なんて言って笑い始めるミツキはとても嬉しそうで、そんなミツキが可愛くて。僕は思わず上半身を起こして抱きしめた。点滴の管さえなければ、もっと強く抱きしめられたのに。それでも、ミツキは僕を抱きしめ返す。シュン君大好き、と今日、何度目かの同じ台詞を呟いて。
それから、ミツキと出会ってからの思い出をたくさん話した。あの時は実はこんなことを思っていた、とか。こんなこともあったよね、なんて。とにかく、時間が足りないくらい話をした。
————手術日の朝
特に緊張もなにもせず。病室には父さんと母さん、それに姉さんがいた。心配はしていない、なんて言っていたけど、それなりに心配はしてくれているみたいで。でも、ミツキがいないことに、僕は少しばかり不安を感じていた。それを訊くと、ミツキは家族に気を使って外で待っているということ。だけど、会いたい。絶対に失敗しない————とは医者は絶対に言わない。絶対に。そう絶対になどということはないから。でも、失敗する確率はほぼゼロに近い……はず。でもゼロじゃないなら、今生の別れになってしまうかもしれないのだから、会いたい。
今すぐに————会いたいよ。
僕を察したのか、家族はミツキを部屋に入れると、僕と二人きりにしてくれた。ミツキは笑顔だったけれど、瞳は潤んでいて、今にも土砂降りの雨が降りそうな空模様と同じだった。ぽつりぽつりと落ちてくる秋雨の欠片のように、静かに広がる波紋がミツキの表情を歪ませていく。眉尻を下げた頃には僕に抱きついてきて、わんわん泣いた。
冷たい秋雨が降り注ぐ地上の遥か反対側は、重たい鉛《なまり》のような空が支配していて、少しだけ肌寒い日だったようだ。
目を覚ますと、何事もなかったように僕の身体はそこにあって。ただ、身体の中心にある魂が存在するならば、それが深くベッドの下に落ちていくような感覚と、脳幹が頭蓋骨のなかでメリーゴーランドのように回る感覚、それに、全身の神経が操り人形の張ることができない緩んだ糸のように、言うことをきかない感覚が僕を支配していた。
痛くないのか、といえば多少は痛むものの、大したことなかった。これで終わりなのか、と呆気に取られていたけれど。
無事に生還したことを喜ぶ家族と、その後ろで微笑んでいたミツキがすごく印象的だった。
病室に戻るころには、やっとミツキと二人になることができて。またミツキはわんわん泣いていた。なんでこんなに泣き虫なんだろう、と呟くと、ミツキはかぶりを振った。
「シュン君の前でしか泣いたことないもん」
そういえば、そうだった。僕の前だけだ。ミツキが感情豊かなのは。例外はあるにしても。花神楽美月《はなかぐらみつき》のファンがこの姿を見たら、驚いて倒れるかもしれない。そんなことも忘れていた僕は、生を噛みしめながら、力の入らない手でミツキを求めた。
優しく手を握り返すミツキは言う。
おかえりなさい、と。
一人でなくてよかった。もし一人でこんな個室に閉じ込められていたら、自分自身で心を滅ぼしていたかもしれない。一人で見る景色はきっと、こんなに色鮮やかに映らなかっただろう。ベッドサイドの椅子に腰かけるミツキの栗色の髪が、陽の光で輝いていた。陽だまりの中に浮かび上がる僕の最愛の人は、読書をしていて、たまに僕を見て微笑んでくれる。それだけで、僕は満足だった。
「ねえ。一か月もホテル借りて大丈夫なの?」
「そんなに高いお部屋じゃないから。帰って寝るだけだし。シュン君は、なにか食べたいものとかないの?」
「うーん。特に思い浮かばないかな。それよりも、なんか、暇させちゃってごめん。一か月もこんな生活耐えられないよね」
「全然そんなことないよ。むしろ、のんびりできて最高じゃない。こんなに海だって近いんだし。綺麗な病院だし」
窓の外に視線を送るミツキの横顔が、出会ったころに比べて少しだけ大人びた気がする。僅《わず》か半年なのに。僕と出会ったことで、重い荷を背負わしてしまったことに心が痛む。本当はこんなはずじゃなかった、と今でも思う。春爛漫《はるらんまん》のあの頃の僕は本当に普通の高校生だった。ただ普通に生活をしていて、ミツキと出会って。恋をして。
「ねえ。午後は少し散歩したいんだけど、いいかな」
「先生はいいって言ってたの?」
「うん。ほんの少しなら大丈夫って」
「……そう。じゃあ、少しだけね」
まるで母親だった。とにかく僕の身体を一番に考えていて、僕ができることだって手出しをする過保護な母親。ありがたいことなのではあるけれど、僕はもう少し自由にしたいかな、なんて贅沢なことを思っていたりする。だけど、ミツキがそうしたいなら、それでいいと思う。だって、それもかけがえのない時間の一部だから。
砂浜の上にできた遊歩道は細かい粒子が靴の中に入ることが少なく、散歩するにはとても快適である。未だ残暑のアフターエフェクトが大気を支配しているにも関わらず、吹きさらす秋風の薫りがこの頬を撫でいく。感じる季節がすっと心を満たしていき、とても優しくなれた。
「シュン君、大丈夫? もうそろそろ戻ろうか?」
「え? まだここにきて三分くらいしか経ってないよ!?」
「でも。風に当たるのはあまりよくないよ?」
「いや、まあ、確かにそうなんだろうけど。体力がないのも確かなんだけど。うん、そうだね。僕、すごく病人だわ」
「ふふ。そうね。じゃあ、もう少しだけ。ね?」
花鳥風月プリズムZの曲には、海で撮ったあるMVの作品がある。ロードムービー風で、ノイズを加えていて。砂浜を駆けていく四人が風を感じていた。今、まさにゲットフリーという曲に酩酊《めいてい》したい。うん、今聴きたくなった。
その話をミツキにすると、優しい眼差しに懐旧《かいきゅう》を浮かべる。志桜里《しおり》ちゃんと碧唯《あおい》ちゃんが大げんかしてね。全然ゲットフリーじゃなかったんだよ、なんて笑ってくれて。
少しだけ歩いた先にぽつんとベンチがあって、腰かけた僕とミツキは空と海の境界線って曖昧なんだね、なんて話をしていた。ポケットから取り出したスマホは、花プリのゲットフリーのMVを画面いっぱいに映し出していて、流れる曲に少しだけ涙が流れそうになる。
曲に感動したわけではないのだけれど、この曲を初めて聴いたとき、僕は今と同じように病院のベッドにいたことを鮮明に覚えている。志桜里が送ってきたニューチューブのURLをタップしたら、これが流れてきた。僕は思わず、こっちは全然自由じゃないよ、なんて返信したことを後悔はしていない。ただ、志桜里はゲットフリーの歌詞で僕を励ましたかったのだろう。それを知ったのは、ずっと後のことだった。
偶然にもこのMVと同じような海辺の近くの病院にいることに、思わず苦笑してしまった。
「シュン君。わたしね。来月から本格的に復帰したら、きっとあまりね……」
「大丈夫だよ。僕はどこにもいかないし、応援してる。それに、いつでも会えるでしょ」
「うん。でも決めたの」
「なにを?」
「一年。一年で決着つける。すべてが終わったら、シュン君とずっと一緒にいたい。だから————」
「うん」
「なんでもない。きっと、すべてうまくいく。そうでしょ?」
「うん。お互い、自由になれるときまで。ね」
病室に戻った僕とミツキはしばらく沈黙をしていたのだけれども、ミツキが突然、買い物に行くと口を開いた。
「何を買うの?」
「シュン君の生活用品が、圧倒的に足りないの。いったいどうやって準備したら、こんなに軽くなるの……」
「え……ちゃんと準備したよ?」
「ティッシュペーパーがなんでポケットティッシュ一個なの……それに、コップも入っていないし、替えのパジャマもないよ?」
「うぅ……ごめんなさい」
もう、と言って、ミツキはバッグを片手に行ってくるね、と病室を後にした。大抵の物は売店で揃うはずなのだが、個人的に欲しいものもある、ということもあって外に出たいみたいだ。確かに、ホテルと病院を行ったり来たりでは、とてもじゃないけれど息が詰まる。だけど、外に出てくると言ったミツキがなんとなく心配だ。しかし、子供じゃないのだからさすがに大丈夫だろう、とも思っていたのだが。
半分に切ったブラッドオレンジのような月が海の水面に揺らめいていて、僕の心臓はその実る季節外れの果実に動悸を覚えていた。時計の短針が七時を指している。長針は三を。ミツキはこともあろうか、スマホをサイドテーブルに置いたまま出かけてしまっていた。
なぜ、戻ってこないの。
買い物に五時間近くも費やすことは珍しい。なぜなら、ミツキは正体がバレることを恐れて、ウィンドウショッピングはしない人だから。それに、目当ての商品は初めからメモをしていて、売り場もすぐに店員に訊《たず》ねるという用意周到さは、目を見張るものがある。
つまり、なにか事件に巻き込まれた可能性が高い。あんな可愛い子が、人気のない道を歩いていれば誘拐だってありえることだし。最悪、襲われて、殺され……。
いよいよ、病院を抜け出してミツキを探しに行くか、と思った矢先、ミツキは満身創痍《まんしんそうい》を模したかのような表情で帰ってきた。何があったの、と聞いたら、目当てのものが売っていなかったから、県庁所在地の都市まで行ってきた、などと言う。電車で片道一時間半も掛かるというのに、ずいぶん冒険をしてきたものだ。
「もう。スマホまで忘れて行って。心配かけないでよ」
「ごめんなさい。でもね、シュン君。明日……」
「え?」
「明日、誕生日でしょう。だから、どうしても————」
「————うん」
「内緒。明日になったらね」
「ええええ。心配したのに」
もう心配かけないでよ、なんて呟く僕のことをよそに、面会の時間が無慈悲にも幕を下ろし、暗闇の時間が病室を支配する。夜が怖いミツキは、きっと一人で泣いてしまうから、眠るまで無料通話アプリを開いたままだ。移動中も、バッグに入れたまま繋ぎっぱなし。その方が僕も安心できた。何かあれば、すぐに助けを求められるよう、に。これを提案したときに、過保護な父親みたい、なんて言われた。よく言うよ。
————手術一日前。
カテーテルの手術で大丈夫だ、と告げられた時、僕は、それはそれは、安堵《あんど》した。太ももの血管から針金のような管を挿入する術式で、身体を切り刻まなくても済むのだから、精神的なストレスもだいぶ違ってくる。それに、わざわざ名医を紹介してもらったのだから、あの女医にも感謝したい。紹介状を書いてもらうときまで憤怒《ふんど》していたけれど。ミツキの提案で、ケーキの差し入れをしたらすぐにご機嫌になったりして。
食事はカロリー制限があってあまり食べてはいけない、ということだったが、そもそもそんなに食欲があるわけもないので、そこまで苦痛ではなかった。
ミツキのほうが心配をしていて、死んじゃったらどうしよう、なんて昨晩はスマホの向こう側で泣いていたのだが、今朝は何事もなかったかのように、普段通りの彼女に戻っていた。本人を目の前にして、死んじゃうなんて言葉使うなよ、とは思ったのだが。夜はミツキを弱々しくするのを知っていたために、気にしないことにした。
「シュン君。誕生日おめでとう。ケーキは食べられそうにないけど、退院したらちゃんとパーティーしようね。和佳子さんと光太郎さん、それにアスカさんも今晩来るんでしょ。それまでは、誕生日を独り占めしちゃうから」
陽だまりに身を置くミツキの笑顔がとても輝いていて、僕はそれだけで励まされた。今年の誕生日が、こんな形で訪れるとは夢にも思わなかったけど、とても幸せだ。
ミツキは僕の手を取って指を絡めると、僕の薬指をしきりに気にしていた。大丈夫かな、と言って、白い高級ブランド品が入っていそうな紙袋からリボンのついた小箱を取り出すと、はい、と言って僕に手渡す。
「え? もしかして?」
「誕生日プレゼント。付き合って初めての誕生日だから、特別なものにしたくて」
「やっぱり。それで昨日————」
泣きそうだった。僕のために危険を冒してまで、遠くに行ってくれて。心配したんだよ。もし、事件にでも巻き込まれて、なんて思ったら食事が喉を通らなかったんだから。でも、そんな冒険の末に見つけてきてくれたプレゼントは、きっと僕の永遠の宝物。嬉しい、なんて簡単な言葉で済ましたくない。だけどすごく嬉しい。
「開けていい?」
「うん。もちろん」
包装紙が破けないように丁寧にテープを剥がしていく。リボンはそのまま解かずに。中から現れた赤い箱を開くと指輪が真ん中に座していて、シンプルだけど、白銀色《プラチナカラー》に輝く流線形がとても綺麗だった。
「これ。指輪だよね」
「おそらく指輪だね。きっと指輪。入るといいんだけど」
ミツキはリングを僕から受け取って、左手の指に恐る恐る通していく。きつくもなく、ゆるくもなく。まるで、測ったかのようなジャストフィット感。なんでサイズ分かったの。
「すごい。ぴったり。ミツキすごいよ」
「よかった。いつも指を絡めているから、お店の人にリングサイズ棒を貸してもらって。あとは勘で」
「なに。ミツキってエスパーなの。そんなので分かるはず————」
「でも、分かっちゃったんだなぁ。愛の力ってすごい!」
そう言って笑うミツキは、左手で僕の左手を優しく包んだ。その左手には、僕とお揃いの指輪が光っていて。
お揃いだよ。シュン君————しよう。
「え? 聞こえなかったんだけど。今、なんて?」
「内緒。そうそう。お揃いの指輪するのって夢だったんだ。好きな人と同じアクセをするなんて、素敵だと思わない?」
「うん。ありがとう。これ一生大事にする。でも、こういうのって本当は男である僕から渡すものなのに。なんかごめん」
そうだね、なんて言って笑い始めるミツキはとても嬉しそうで、そんなミツキが可愛くて。僕は思わず上半身を起こして抱きしめた。点滴の管さえなければ、もっと強く抱きしめられたのに。それでも、ミツキは僕を抱きしめ返す。シュン君大好き、と今日、何度目かの同じ台詞を呟いて。
それから、ミツキと出会ってからの思い出をたくさん話した。あの時は実はこんなことを思っていた、とか。こんなこともあったよね、なんて。とにかく、時間が足りないくらい話をした。
————手術日の朝
特に緊張もなにもせず。病室には父さんと母さん、それに姉さんがいた。心配はしていない、なんて言っていたけど、それなりに心配はしてくれているみたいで。でも、ミツキがいないことに、僕は少しばかり不安を感じていた。それを訊くと、ミツキは家族に気を使って外で待っているということ。だけど、会いたい。絶対に失敗しない————とは医者は絶対に言わない。絶対に。そう絶対になどということはないから。でも、失敗する確率はほぼゼロに近い……はず。でもゼロじゃないなら、今生の別れになってしまうかもしれないのだから、会いたい。
今すぐに————会いたいよ。
僕を察したのか、家族はミツキを部屋に入れると、僕と二人きりにしてくれた。ミツキは笑顔だったけれど、瞳は潤んでいて、今にも土砂降りの雨が降りそうな空模様と同じだった。ぽつりぽつりと落ちてくる秋雨の欠片のように、静かに広がる波紋がミツキの表情を歪ませていく。眉尻を下げた頃には僕に抱きついてきて、わんわん泣いた。
冷たい秋雨が降り注ぐ地上の遥か反対側は、重たい鉛《なまり》のような空が支配していて、少しだけ肌寒い日だったようだ。
目を覚ますと、何事もなかったように僕の身体はそこにあって。ただ、身体の中心にある魂が存在するならば、それが深くベッドの下に落ちていくような感覚と、脳幹が頭蓋骨のなかでメリーゴーランドのように回る感覚、それに、全身の神経が操り人形の張ることができない緩んだ糸のように、言うことをきかない感覚が僕を支配していた。
痛くないのか、といえば多少は痛むものの、大したことなかった。これで終わりなのか、と呆気に取られていたけれど。
無事に生還したことを喜ぶ家族と、その後ろで微笑んでいたミツキがすごく印象的だった。
病室に戻るころには、やっとミツキと二人になることができて。またミツキはわんわん泣いていた。なんでこんなに泣き虫なんだろう、と呟くと、ミツキはかぶりを振った。
「シュン君の前でしか泣いたことないもん」
そういえば、そうだった。僕の前だけだ。ミツキが感情豊かなのは。例外はあるにしても。花神楽美月《はなかぐらみつき》のファンがこの姿を見たら、驚いて倒れるかもしれない。そんなことも忘れていた僕は、生を噛みしめながら、力の入らない手でミツキを求めた。
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