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霜夜の冬・ミツキの雪
深淵に堕ちた二人
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真っ暗な瞼《まぶた》の内側を開いても、その外側は数多の電子音が鳴り響く、気がおかしくなるような暗闇だった。アスファルトに打ち付けた頭には包帯が巻かれていて、誰かがすぐ近くで半鐘《はんしょう》でも鳴らしているかのように響く鈍い痛みに、かたく瞳を閉じた。板のようなマットレスに、腰が悲鳴を上げている。いや、転んだ際に腰を打ったのだろう。きっと青痣《あおあざ》になっているはず。
「シュン……くん?」
ベッドサイドで俯いていたミツキの輪郭が、青白い月光に浮かび上がる。立ち上がり、僕の手を握るミツキの服は血塗《ちまみ》れだった。まるで惨劇の後の被害者のよう。ミツキ、汚しちゃってごめん、と謝る僕にかぶりを振ったミツキは、本当に良かった、と呟く。
意識は辛うじて脳裏に繋がれているのに、微睡《まどろ》む身体は麻酔でも打たれているのかと思うほど気だるかった。しかし、注がれる点滴がきっと睡眠を促す成分——実際は鎮痛作用——が入っているのだろうと思う。以前にも手術後に同じ点滴を打たれたときは、覚醒することが難しかったほどだ。
唐突に思い出す風見碧唯《かざみあおい》のこと。そうだ、僕は碧唯を追いかけて、それで倒れたのだった。あのペン型のカメラはどこに、どこに行ったのだろう。
「ミツキ、碧唯は!?」
「志桜里《しおり》ちゃんが捕まえて、今頃事情を聴いていると思う」
「もし、ミツキの飲酒が世間に広まったら大変だ」
起き上がろうとする僕の身体を、椅子から立ち上がり必死に抑えてミツキは言う。シュン君はだめだよ、と。しかし、僕があの時カメラを手にしていれば。倒れさえしなければ。そう思うと悔やんでも悔やみきれない。
「あのセダンの男を探しに行くから、だからミツキ行かせてよ」
「もうッ!! シュン君、一時的に心臓が止まったみたいだって先生言ってたのよ!! お願いだから、じっとしてて。それに、もう遅いんだよ……」
眉根を寄せるミツキは、その表情に悔しさを滲ませていて、それと同時に僕を見つめる瞳は悲しみを帯びていて。握ったら潰れてしまいそうな手を、丸めて口元に当てるミツキは、再び椅子に座るとスマホをフリックしていく。
「ねえ、何が遅いの?」
「なんでもない。ね、大丈夫だから、シュン君は心配しないでゆっくり休んで」
ミツキのスマホの画面を映し出す窓ガラスの文字は、花神楽美月《はなかぐらみつき》のスキャンダル第二弾、詳しくは明日の最新刊で。ゴシップ誌のツイーターの呟きが踊る画面を、ミツキは茫然《ぼうぜん》と眺める。僕は血の味がするほど、唇を噛んでいた。握った拳でベッドマットを叩くと、脳天を駆け巡る血流がベッドサイドモニターのグラフに激しい険しい山脈を描く。波打つ脈拍の異常に反応したミツキは、スマホを置いてナースコールを押し込んだ。
「シュン君!? ねえ、シュン君!?」
「——やっぱり、じっとなんてしていられないよ」
忙《せわ》しなく室内に入ってくる看護師と医師が、留置した点滴に注射器を接続して薬液を入れていく。倉美月《くらみつき》さん、大丈夫ですからね、などと言って僕の話を聞こうとしない。今すぐ楠川田《くすかわだ》に会って、殴らないと気が済まないと言うのに。だけど、僕の意思に反して、脳が蕩《とろ》けるように沈んでいく。無意識の中に落ちていく感覚は、まるでパラシュートでベッドマットの遥か下に降下していくよう。手を伸ばした先にいるミツキは、僕の右手に指を絡めて、やがてそれを両手で包み込んだ。涙を浮かべたミツキの表情を心に刻んだまま、僕は深い沼に沈んでいく。
志桜里ちゃん、どうだった。だめだった、ごめんミツキ。そう、やっぱり引退するしかないけど、お金がどうにもならないの。もし、ミツキがここで仕事を失うと、CMの違約金も併せて大変なことになるんじゃないの。うん、もうだめかも。あとは、シュンに泣きつくしかないかもね。それはできないよ。でも、他に道はないでしょ、会長に土下座でもしてなんとかしてもらうしか。無理だよ、志桜里ちゃん。
ゆっくりと開いた瞼の向こう側に溢れる光が瞳孔を収縮させる。雲の影が窓際のテーブルの上に揺らめいていて、幻想的な空が僕には灰色に映る。そんな眩しそうな僕に気付いたのか、ミツキはカーテンを閉めてくれた。
「シュン君大丈夫? 少し落ち着いた?」
「————分からない。でも、起きる気力もないくらい眠い」
「先生も落ち着いているから大丈夫って」
血塗れだったミツキの服は、白いパーカーにジーンズという質素なものに変わっていて彼女らしくない。垢抜けない印象すら受けるそのファッションは、飲酒スキャンダルのイメージ脱却からなのだろうか。それとも————。
「もしかして、ミツキ、その格好……」
「うん。謝罪会見に行ってくるね。あ、もちろんスーツに着替えるけど、高梨さんからスーツ受け取らないといけなくて。だから、会場に行くまでの服は地味にして来いって……」
何もしていないミツキが謝罪する————本当に悪いことをしている奴が謝罪もせずにほくそ笑んで生きている。これから、どれだけの社会的制裁をミツキが受けなければならないのか。想像しただけで痛々しい。考えただけでも腹立たしい。
「ミツキ、行くな。ミツキは何も悪いことしていないでしょ」
「そういうわけにはいかないよ。世間では、わたしがお酒を飲んで法を破ったという認識だけが独り歩きしているもの」
「じゃあ、僕も行く。ミツキの傍《かたわ》らで——」
「シュン君。だめ。終わったらすぐに帰ってくるから、ね?」
絡めた指をそのままに、僕の方を向いたままのミツキは後ろ歩きをしていく。少しずつ僕の指から滑り落ちるように離れて行って、やがて踵を返した。僕はなにも声を掛けることができずに、ただその背中を見送る。遥か向こう側に行ってしまったミツキに対して、小声で呟く言葉は、ミツキ、ごめん。
何に対して謝ったのか。ペン型カメラを奪えなかったことか、或《ある》いは、ミツキを守ることができない自分を容赦《ようしゃ》してほしいということなのか。自分でも自分が分からない。ただ、悔しさとミツキの身の危険を案ずる、不安心が全身を支配しているだけ。それ以外になにも感じられない。
★☆☆
窓から差し込む夕日に何の感動も覚えぬまま、ただ流れる雲の様子は、まるで静かな暗室の中に漂う鼻につくケミカルの匂いのよう。美しいと思う風景が、例え心象に語り掛けてこようが、僕の心は開くことはない。完全に閉ざされた暗室の中で、ぼんやりと浮き上がるネガを見つめるように、その真っ黒の写真を心に焼き付ける。そんな気分のまま、何気なくテレビを付けた。
ワイドショーに映る花神楽美月は毅然《きぜん》としていて、その瞳は真っ直ぐにこちらを見据えていた。この度は、多大なご迷惑をおかけいたしまして、本当に申し訳ありませんでした、というミツキの謝罪の言葉を口にして頭を下げる光景は、まるで喜劇。踊らされる世間一般の何も考えない愚民たちは、これで満足なのだろう。ふざけるなよ。
わたしの愚かな行為が皆様に与えた影響は計り知れず、お詫びの言葉を尽くしても尽くきれません。あなたの行為を見た同じ世代の高校生に何を伝えたいですか。はい、やはり法は守るべき秩序で、絶対に破ってはいけません、わたしのような愚かな行為は、身を滅ぼします。
————あなたを見た両親はどう思うでしょうね。
ストロボに包まれる静寂と、容赦なく浴びせられる雨のようなシャッターの中、ミツキはしばらく沈黙した。なぜそんなことを訊《き》く。ミツキの何を知っている。今すぐ、その記者をぶん殴ってやりたい。ミツキごめん、僕が守ってあげなくちゃいけないのに。
『父に言いたいです。ごめんなさい、と。本当にごめんなさい……』
震えるミツキの声色は、やがて涙の雫とともに悲哀《ひあい》な感情に変わっていく。今にも泣き崩れそうな表情を必死にこらえて、俯いた顔を上げるミツキは、唇を噛んで必死に戦っていた。たった一人でこんな大勢の人に囲まれて。その立ち尽くす姿を僕は見ていられない。まるで、四面楚歌《しめんそか》。四方八方から狙われる戦士は、降りしきる矢に手も足も出ずに朽ちていくよう。
スマホが鳴り響くと同時に、バイブレーションのけたたましい振動がベッドサイドテーブルを喚かせる。テレビを観ていた僕は、煩《わずら》わしいその音に思わず毒づきながらスマホを手にする。画面に映ったのは、見知らぬ番号。だけど、なんとなく誰なのか予想がついた。思わず嘆息して電話を受ける。本当に煩わしい。
————倉美月くん。わたしです。花山健逸《はなやまけんいつ》です。
予想通りだった。この人は悪くないけど、もし、あのとき会社を手放していれば、ミツキが傷つくこともなかったのかもしれない。そう考えると、複雑な心境だった。
『やはり、こうなってしまいました。もう会社は諦めることにします』
「あなたは悪くないかもしれない。だけど、何も関係ないミツキが巻き込まれている事実を、あなたはどう考えているんですか?」
『本当に、本当に申し訳なく思っています』
「言葉では簡単にそう言えるけど、だったら、ミツキの前でしっかり土下座なり、謝罪の言葉を伝えるなり、誠意を見せたらどうなんですかッ!?」
感情の赴《おもむ》くまま、花山健逸に告げた台詞は間違いではないけれど、現実的にそうはいかないことくらい分かっている。もし、ミツキに会えば危険が生じることなど理解している。だけど、苛立《いらだ》ちが収まらない僕にとって、言葉で責め立てるくらいではどうにも自分を納得させることなどできるはずもなく。刺々《とげとげ》しい言葉はさらに続いていく。
「あなたのせいで、ミツキは社会的に抹消されてしまうかもしれないのに。それなのに、あなたは自分の娘よりも会社を優先させて。そんなの……そんなの許されるはずないじゃないですか!!!!」
『…………はい。全くそのとおりですね。わたしはもう生きている価値もないのかもしれない。倉美月くん。娘を、充希《みつき》を頼みました。勝手で申し訳ありません』
「……僕がなんとかする。僕がミツキを救う。だから、協力してほしい。それまで会社を手放さないでほしい。あなたの会社の力を貸してほしい」
『どういうことですか?』
「また連絡します。僕は絶対にあの男を許さない。協力してください」
切れた通話の残像が心に響きわたる。ミツキの半分の強さも持ち合わせていない花山健逸に、少しだけ勇気を出してもらう。計画は少し大雑把だけど、僕にできることはそれくらいしか思い浮かばない。
☆★☆
怒りと不安、それに悲しみを一緒くたにした鍋で煮込む感情を煮えたぎらせて、天井を見上げた午後七時。思わずスマホを壁に投げつけて、僕は布団を被った。泣いていたと思う。涙が自然と溢れたけれど、心の中は虚無だった。何も考えずにただ逃避して。ばらばらになる心が、やがて心臓を締め付ける。息苦しさと痛み、それに血流を止めるほどの苦しみ。
「シュン……くん?」
布団を捲《まく》し上げたミツキは、激しい雷《いかずち》のように割れた画面のスマホを片手に、僕の顔を窺《うかが》う。泣いているの、と。
「ミツキ……辛かったね。ごめん、僕がもっと——」
「辛くなんてないよ」
予想外のミツキの言葉に、僕は起き上がり、微笑むミツキの顔をただ眺めていた。なぜ笑えるのか理解ができない。僕に向けるその微笑《びしょう》の意味が全く分からない。
「だって、辛いことがあっても、シュン君はいつもわたしの傍《そば》にいてくれるんでしょ。だったら、どんなに辛いことがあっても平気。だから今は辛くないの」
「なんで……なんでそんなにミツキは強いんだよ」
滲《にじ》む視界のすぐそこにある温もりに手を伸ばす。僕の指に絡みつくミツキの指はすごく冷えていて。かわいそうですぐに温めてあげたかった。スーツ姿からパーカーに着替えたミツキは、ベッドに座ると力なく僕にその頭を預けた。肩に圧《の》し掛かるその重みが優しくて、僕の心に安寧《あんねい》をもたらす。
「なんでかな。本当は弱虫なんだけどね。ってシュン君は知ってるよね。でも、さっきも言ったけど、帰ればシュン君がいる、なんて思うと、どんなことでもがんばれちゃう」
おかしいね、なんて力なく笑うミツキの顔を抱き締めた。繋がれた点滴はそのままに、幾度となく抱き寄せたミツキは力なくうな垂れる。もし、ミツキがいなくなってしまったら、きっと僕も泡沫《うたかた》のように消えてしまう。それは間違いない。僕が必ず君を守る。この命に代えても救い出すから。今度こそ。
「ミツキはがんばりすぎだよ。だからこそ、心配なんだ」
「なんで心配なの。わたしは大丈夫だよ?」
「いつか倒れちゃたり、またトラブルに巻き込まれるんじゃないかって」
「————ごめんね。心配かけちゃうね」
「それはお互い様でしょ。僕の身体のことだって」
じゃあ、おあいこだね、なんて言って僕に顔を見せるミツキは、なにも言わずにキスをした。少しだけ長いフレンチ・キス。甘く優しいラズベリーの香りは、ゆっくりと僕の心を融《と》かす。包帯の巻かれていない左側頭部を持って、再びキスをする。今度は短く。舌を絡めて。
「シュン君がいれば、他になにもいらない。だから、すべて終わったらもう一度、今度は心を軽くして巡りたいな」
「何を巡るの?」
桜の香りを嗅《か》いで、紫陽花を探すの。そして、蛍を追って海ではしゃいで、お墓参りで手を合わせて、お盆縁日で朱莉ちゃんとまた勝負して。それでね、ハワイは恐いけど、がんばって行くとして、銀杏《いちょう》の木の下で、今度は二人で手を繋いで語って。冬は———まだ一周目もしてなかったね。
「ねえ、ミツキ」
「うん?」
「もし、その二周目ができるとしたら、その時は」
「うん……」
「ゼロからはじめよう。充希と春夜の物語を」
「なにそれ~。てっきり結婚してくれるのかと思っ——」
今度はミツキの頭を引き寄せて、僕がキスをする。甘くて少しだけ切ないキス。
「うん。だって、こんな病室でプロポーズしても、雰囲気もなにもないでしょ。プロポーズする場所は決めているんだ。だから、それまでおあずけだよ」
ずる~い、と僕の膝に頭を乗せるミツキは、甘えていて、その頭を撫でる僕は、少しだけ癒された。不味《まず》いスープに具のような負の感情はどこかに投げ捨てられていて、僕の心をそっとミツキの微笑みが包んでいく。静かなこの時間が、いつも好きだった。ありがとうミツキ。
「ねえ、シュン君、そういえば、なんでスマホ壊しちゃったの?」
「——怒ったから。八つ当たり」
「だめじゃない。八つ当たりなんて。あれ、スマホ鳴っているよ?」
————割れていてよく見えないけど、なんとか健逸って誰?
「シュン……くん?」
ベッドサイドで俯いていたミツキの輪郭が、青白い月光に浮かび上がる。立ち上がり、僕の手を握るミツキの服は血塗《ちまみ》れだった。まるで惨劇の後の被害者のよう。ミツキ、汚しちゃってごめん、と謝る僕にかぶりを振ったミツキは、本当に良かった、と呟く。
意識は辛うじて脳裏に繋がれているのに、微睡《まどろ》む身体は麻酔でも打たれているのかと思うほど気だるかった。しかし、注がれる点滴がきっと睡眠を促す成分——実際は鎮痛作用——が入っているのだろうと思う。以前にも手術後に同じ点滴を打たれたときは、覚醒することが難しかったほどだ。
唐突に思い出す風見碧唯《かざみあおい》のこと。そうだ、僕は碧唯を追いかけて、それで倒れたのだった。あのペン型のカメラはどこに、どこに行ったのだろう。
「ミツキ、碧唯は!?」
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起き上がろうとする僕の身体を、椅子から立ち上がり必死に抑えてミツキは言う。シュン君はだめだよ、と。しかし、僕があの時カメラを手にしていれば。倒れさえしなければ。そう思うと悔やんでも悔やみきれない。
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「もうッ!! シュン君、一時的に心臓が止まったみたいだって先生言ってたのよ!! お願いだから、じっとしてて。それに、もう遅いんだよ……」
眉根を寄せるミツキは、その表情に悔しさを滲ませていて、それと同時に僕を見つめる瞳は悲しみを帯びていて。握ったら潰れてしまいそうな手を、丸めて口元に当てるミツキは、再び椅子に座るとスマホをフリックしていく。
「ねえ、何が遅いの?」
「なんでもない。ね、大丈夫だから、シュン君は心配しないでゆっくり休んで」
ミツキのスマホの画面を映し出す窓ガラスの文字は、花神楽美月《はなかぐらみつき》のスキャンダル第二弾、詳しくは明日の最新刊で。ゴシップ誌のツイーターの呟きが踊る画面を、ミツキは茫然《ぼうぜん》と眺める。僕は血の味がするほど、唇を噛んでいた。握った拳でベッドマットを叩くと、脳天を駆け巡る血流がベッドサイドモニターのグラフに激しい険しい山脈を描く。波打つ脈拍の異常に反応したミツキは、スマホを置いてナースコールを押し込んだ。
「シュン君!? ねえ、シュン君!?」
「——やっぱり、じっとなんてしていられないよ」
忙《せわ》しなく室内に入ってくる看護師と医師が、留置した点滴に注射器を接続して薬液を入れていく。倉美月《くらみつき》さん、大丈夫ですからね、などと言って僕の話を聞こうとしない。今すぐ楠川田《くすかわだ》に会って、殴らないと気が済まないと言うのに。だけど、僕の意思に反して、脳が蕩《とろ》けるように沈んでいく。無意識の中に落ちていく感覚は、まるでパラシュートでベッドマットの遥か下に降下していくよう。手を伸ばした先にいるミツキは、僕の右手に指を絡めて、やがてそれを両手で包み込んだ。涙を浮かべたミツキの表情を心に刻んだまま、僕は深い沼に沈んでいく。
志桜里ちゃん、どうだった。だめだった、ごめんミツキ。そう、やっぱり引退するしかないけど、お金がどうにもならないの。もし、ミツキがここで仕事を失うと、CMの違約金も併せて大変なことになるんじゃないの。うん、もうだめかも。あとは、シュンに泣きつくしかないかもね。それはできないよ。でも、他に道はないでしょ、会長に土下座でもしてなんとかしてもらうしか。無理だよ、志桜里ちゃん。
ゆっくりと開いた瞼の向こう側に溢れる光が瞳孔を収縮させる。雲の影が窓際のテーブルの上に揺らめいていて、幻想的な空が僕には灰色に映る。そんな眩しそうな僕に気付いたのか、ミツキはカーテンを閉めてくれた。
「シュン君大丈夫? 少し落ち着いた?」
「————分からない。でも、起きる気力もないくらい眠い」
「先生も落ち着いているから大丈夫って」
血塗れだったミツキの服は、白いパーカーにジーンズという質素なものに変わっていて彼女らしくない。垢抜けない印象すら受けるそのファッションは、飲酒スキャンダルのイメージ脱却からなのだろうか。それとも————。
「もしかして、ミツキ、その格好……」
「うん。謝罪会見に行ってくるね。あ、もちろんスーツに着替えるけど、高梨さんからスーツ受け取らないといけなくて。だから、会場に行くまでの服は地味にして来いって……」
何もしていないミツキが謝罪する————本当に悪いことをしている奴が謝罪もせずにほくそ笑んで生きている。これから、どれだけの社会的制裁をミツキが受けなければならないのか。想像しただけで痛々しい。考えただけでも腹立たしい。
「ミツキ、行くな。ミツキは何も悪いことしていないでしょ」
「そういうわけにはいかないよ。世間では、わたしがお酒を飲んで法を破ったという認識だけが独り歩きしているもの」
「じゃあ、僕も行く。ミツキの傍《かたわ》らで——」
「シュン君。だめ。終わったらすぐに帰ってくるから、ね?」
絡めた指をそのままに、僕の方を向いたままのミツキは後ろ歩きをしていく。少しずつ僕の指から滑り落ちるように離れて行って、やがて踵を返した。僕はなにも声を掛けることができずに、ただその背中を見送る。遥か向こう側に行ってしまったミツキに対して、小声で呟く言葉は、ミツキ、ごめん。
何に対して謝ったのか。ペン型カメラを奪えなかったことか、或《ある》いは、ミツキを守ることができない自分を容赦《ようしゃ》してほしいということなのか。自分でも自分が分からない。ただ、悔しさとミツキの身の危険を案ずる、不安心が全身を支配しているだけ。それ以外になにも感じられない。
★☆☆
窓から差し込む夕日に何の感動も覚えぬまま、ただ流れる雲の様子は、まるで静かな暗室の中に漂う鼻につくケミカルの匂いのよう。美しいと思う風景が、例え心象に語り掛けてこようが、僕の心は開くことはない。完全に閉ざされた暗室の中で、ぼんやりと浮き上がるネガを見つめるように、その真っ黒の写真を心に焼き付ける。そんな気分のまま、何気なくテレビを付けた。
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わたしの愚かな行為が皆様に与えた影響は計り知れず、お詫びの言葉を尽くしても尽くきれません。あなたの行為を見た同じ世代の高校生に何を伝えたいですか。はい、やはり法は守るべき秩序で、絶対に破ってはいけません、わたしのような愚かな行為は、身を滅ぼします。
————あなたを見た両親はどう思うでしょうね。
ストロボに包まれる静寂と、容赦なく浴びせられる雨のようなシャッターの中、ミツキはしばらく沈黙した。なぜそんなことを訊《き》く。ミツキの何を知っている。今すぐ、その記者をぶん殴ってやりたい。ミツキごめん、僕が守ってあげなくちゃいけないのに。
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震えるミツキの声色は、やがて涙の雫とともに悲哀《ひあい》な感情に変わっていく。今にも泣き崩れそうな表情を必死にこらえて、俯いた顔を上げるミツキは、唇を噛んで必死に戦っていた。たった一人でこんな大勢の人に囲まれて。その立ち尽くす姿を僕は見ていられない。まるで、四面楚歌《しめんそか》。四方八方から狙われる戦士は、降りしきる矢に手も足も出ずに朽ちていくよう。
スマホが鳴り響くと同時に、バイブレーションのけたたましい振動がベッドサイドテーブルを喚かせる。テレビを観ていた僕は、煩《わずら》わしいその音に思わず毒づきながらスマホを手にする。画面に映ったのは、見知らぬ番号。だけど、なんとなく誰なのか予想がついた。思わず嘆息して電話を受ける。本当に煩わしい。
————倉美月くん。わたしです。花山健逸《はなやまけんいつ》です。
予想通りだった。この人は悪くないけど、もし、あのとき会社を手放していれば、ミツキが傷つくこともなかったのかもしれない。そう考えると、複雑な心境だった。
『やはり、こうなってしまいました。もう会社は諦めることにします』
「あなたは悪くないかもしれない。だけど、何も関係ないミツキが巻き込まれている事実を、あなたはどう考えているんですか?」
『本当に、本当に申し訳なく思っています』
「言葉では簡単にそう言えるけど、だったら、ミツキの前でしっかり土下座なり、謝罪の言葉を伝えるなり、誠意を見せたらどうなんですかッ!?」
感情の赴《おもむ》くまま、花山健逸に告げた台詞は間違いではないけれど、現実的にそうはいかないことくらい分かっている。もし、ミツキに会えば危険が生じることなど理解している。だけど、苛立《いらだ》ちが収まらない僕にとって、言葉で責め立てるくらいではどうにも自分を納得させることなどできるはずもなく。刺々《とげとげ》しい言葉はさらに続いていく。
「あなたのせいで、ミツキは社会的に抹消されてしまうかもしれないのに。それなのに、あなたは自分の娘よりも会社を優先させて。そんなの……そんなの許されるはずないじゃないですか!!!!」
『…………はい。全くそのとおりですね。わたしはもう生きている価値もないのかもしれない。倉美月くん。娘を、充希《みつき》を頼みました。勝手で申し訳ありません』
「……僕がなんとかする。僕がミツキを救う。だから、協力してほしい。それまで会社を手放さないでほしい。あなたの会社の力を貸してほしい」
『どういうことですか?』
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☆★☆
怒りと不安、それに悲しみを一緒くたにした鍋で煮込む感情を煮えたぎらせて、天井を見上げた午後七時。思わずスマホを壁に投げつけて、僕は布団を被った。泣いていたと思う。涙が自然と溢れたけれど、心の中は虚無だった。何も考えずにただ逃避して。ばらばらになる心が、やがて心臓を締め付ける。息苦しさと痛み、それに血流を止めるほどの苦しみ。
「シュン……くん?」
布団を捲《まく》し上げたミツキは、激しい雷《いかずち》のように割れた画面のスマホを片手に、僕の顔を窺《うかが》う。泣いているの、と。
「ミツキ……辛かったね。ごめん、僕がもっと——」
「辛くなんてないよ」
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「だって、辛いことがあっても、シュン君はいつもわたしの傍《そば》にいてくれるんでしょ。だったら、どんなに辛いことがあっても平気。だから今は辛くないの」
「なんで……なんでそんなにミツキは強いんだよ」
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「なんでかな。本当は弱虫なんだけどね。ってシュン君は知ってるよね。でも、さっきも言ったけど、帰ればシュン君がいる、なんて思うと、どんなことでもがんばれちゃう」
おかしいね、なんて力なく笑うミツキの顔を抱き締めた。繋がれた点滴はそのままに、幾度となく抱き寄せたミツキは力なくうな垂れる。もし、ミツキがいなくなってしまったら、きっと僕も泡沫《うたかた》のように消えてしまう。それは間違いない。僕が必ず君を守る。この命に代えても救い出すから。今度こそ。
「ミツキはがんばりすぎだよ。だからこそ、心配なんだ」
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「————ごめんね。心配かけちゃうね」
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じゃあ、おあいこだね、なんて言って僕に顔を見せるミツキは、なにも言わずにキスをした。少しだけ長いフレンチ・キス。甘く優しいラズベリーの香りは、ゆっくりと僕の心を融《と》かす。包帯の巻かれていない左側頭部を持って、再びキスをする。今度は短く。舌を絡めて。
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「何を巡るの?」
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「ねえ、ミツキ」
「うん?」
「もし、その二周目ができるとしたら、その時は」
「うん……」
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「なにそれ~。てっきり結婚してくれるのかと思っ——」
今度はミツキの頭を引き寄せて、僕がキスをする。甘くて少しだけ切ないキス。
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ずる~い、と僕の膝に頭を乗せるミツキは、甘えていて、その頭を撫でる僕は、少しだけ癒された。不味《まず》いスープに具のような負の感情はどこかに投げ捨てられていて、僕の心をそっとミツキの微笑みが包んでいく。静かなこの時間が、いつも好きだった。ありがとうミツキ。
「ねえ、シュン君、そういえば、なんでスマホ壊しちゃったの?」
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