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番外編
爬虫類の眼(夕紀side)5
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*
次の日の土曜日。
朝香は朝早くから亮輔とアパートの部屋の整理や掃除をしたらしく、少し疲れた様子で午前9時30分に店のエプロンをキュッと身に付ける。
「朝からお部屋の整理に追われて疲れてるでしょ、今日は接客控えめにしとく?」
夕紀は朝香の疲れた身を案じてみたのだが
「いえっ! プライベートはプライベートっ! 仕事は仕事ですからっ!」
朝香はすぐに表情をシャキッとさせ、やる気を夕紀に見せつける。
「無理はしないでね、忙しくなったら私も接客手伝うから」
「はいっ! 閉店後は焙煎機の見学や手伝いもやりますねっ!」
そして尚も元気で明るい顔を夕紀に向けてくる彼女の健気さや若さに感服する。
*
「あっ、夕紀さん相談なんですけど……」
「なぁに? 朝香ちゃん」
閉店時間が過ぎ、締め作業を終えた私に朝香が可愛らしい眼差しで夕紀に相談を持ちかけてきた。
「今日、彼とアパートの整理をしながら色んな約束事を決めたんです。食費や生活費の支払いの事とか、家事の細かい分担とか」
「食費や生活の支払いは彼に任せちゃえばいいんじゃない? だって朝香ちゃんはアパートの家賃を引き渡し時期まで支払わなければならないんだもの」
「上原さんから事前に沢山お金いただいてるんでそんなわけにはいかないんですよ。そのお金は家賃の引き落としに使うつもりでいて……」
「そうなんだ」
「はい。っていうか、そうでもしないと減らないくらいの金額なんで」
「…………」
9月の初め頃に俊哉が「家賃値引き2年分♪」とか言いながらお金を寄越してきた話は今日の勤務中に朝香の口から聞いたのもあり、家賃半年分でも余る程の大金という事実に夕紀はゾッとする。
(敵わないけどやっぱり怖いなぁあの男)
「それで食費は彼が負担して、光熱費は折半、家事は各々得意なものを分担して時々協力しながらやる事に決めたんです」
「なかなかしっかりしてるのね、朝香ちゃん達。亮輔くんも真面目な態度でいいんじゃない?」
夕紀は他人とのルームシェアも同棲も、まして一人暮らしさえ経験が無い。『むらかわ』で修行してた頃も現在も、居候しかしてないのだ。
なのに自分より一回りも歳下である朝香や亮輔は自立した考えを持っていて逞しいと感じるし、20歳そこそこの若いカップルが夢見心地なふわふわとした同棲生活を思い描いているのではないという考え方に拍手を送ってあげたい。
「……ですが、問題はマンションのお金です」
「へ?」
「マンションの名義は彼なんですが、既に上原さんが購入して彼に譲渡しちゃってて。彼は管理費と税金を支払えば良いだけになっちゃってるんです」
「うん」
ファミリー向けマンションの最上階の一室を20歳の若者にプレゼントとは、バブリーだった時代のようである。亮輔は俊哉と書類上の兄弟になっているとの事だが、心身共に傷付いた亮輔を笠原家から引き離す意味の他にこの件も含まれていたのではないかと夕紀は察した。
……となると、この場合朝香は甘えて良いもいい筈だ。何せ俊哉は「亮輔と共に朝香も住む事によって安寧な生活を送ってほしい」と願っているのだから。
「私も上原さんに何かした方がいいんじゃないかな? って思うんです。でもそんな事を彼に相談したら『俺もお金いくらか渡す』って言い出しかねないし、そもそも上原さんは私達のお金なんか受け取らないかもしれないなぁって」
「まぁ……そうかもしれないわね」
「そこは彼と一緒じゃなく、私の個人的な考えとして上原さんに何かしたいなって思ってて」
朝香は真面目で対人関係に丁寧な子だと、夕紀は改めて思った。まぁそれが朝香の強みでもあるわけだが。
「それはしなくてもいい気がするけど。だって上原さんは朝香ちゃんに亮輔くんとの同棲をお願いしてる立場になるんだもん」
「私だって自分の意思で彼との同棲生活をしたいんです! 同棲のきっかけは上原さんからのお願いではあるんですけど、私も私で金銭的リスクを負わなきゃあのマンションに堂々と住めない気がして」
朝香の純粋な考えも分かる。夕紀が朝香ちゃんと同じ立場ならきっと似た考えを持ち、愛する人と対等な気持ちで生活したいと望むだろうから。
「そっか……じゃあ、こういうのはどう?」
そこで夕紀は大事な弟子であり大事な妹みたいな存在の朝香に、1つの提案をしてみた。
「なんでしょう?」
「月に一度、私は皐月の月命日にグアテマラアンティグアを焙煎するでしょ? 私はその日だけ、村川夫妻から教わった焙煎方法で丁寧に煎っている」
「……はい」
「それをね、毎月22日の夜に朝香ちゃんが上原さんにお届けするの。1ヶ月分の焙煎豆を朝香ちゃんが購入して」
「?」
「朝香ちゃんは幼い頃からご両親から教わってきているネルドリップの使い方を丁寧に教えてあげた上で、その日に初めの一杯を上原さんに提供してあげるのよ」
「私が……ですか?」
「そうよ、出張の珈琲屋さん。今ね、オフィスとかで流行ってるのよそのサービス。
朝香ちゃんにとっては自分の技術を磨く事にも繋がるし、愛する彼のご親戚に丁寧な接客をする事も良い勉強になる筈」
朝香は目を見開いて「なるほど!」とこの提案に素直に乗っかろうとしたみたいだが……
「でもそれって金額に見合いませんよね? 1ヶ月分の焙煎豆を購入した金額に私の時給を上乗せしても5000円にも満たしません」
と、朝香は消極的な表情になる。
「ネルドリップやドリップポットとか、コーヒーの道具類もプレゼントしちゃえば?」
「うーん……」
「勿論、上原さんが珈琲に興味を持ってくれるのが前提になるけどね」
朝香には敢えてそう言ってみたものの「必ずあの男は喜んでくれるだろう」と夕紀は確信していた。
亮輔に対して執着的で盲目的。
爬虫類的な目付きやジトッとした声色で夕紀に話しかける男だけれど、夕紀と朝香が幼い頃から大好きでいるグアテマラアンティグアの香りを、恍惚的な表情で鼻から吸い込み高揚感溢れるセクシーな唇や舌をチロリと見せながら楽しんでくれた。きっと朝香の愛情溢れる温かなコーヒーを純粋に喜んでくれるに違いない。
(それが罪ほろぼしの一つになれるかは……分からないけどね)
次の日の土曜日。
朝香は朝早くから亮輔とアパートの部屋の整理や掃除をしたらしく、少し疲れた様子で午前9時30分に店のエプロンをキュッと身に付ける。
「朝からお部屋の整理に追われて疲れてるでしょ、今日は接客控えめにしとく?」
夕紀は朝香の疲れた身を案じてみたのだが
「いえっ! プライベートはプライベートっ! 仕事は仕事ですからっ!」
朝香はすぐに表情をシャキッとさせ、やる気を夕紀に見せつける。
「無理はしないでね、忙しくなったら私も接客手伝うから」
「はいっ! 閉店後は焙煎機の見学や手伝いもやりますねっ!」
そして尚も元気で明るい顔を夕紀に向けてくる彼女の健気さや若さに感服する。
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「あっ、夕紀さん相談なんですけど……」
「なぁに? 朝香ちゃん」
閉店時間が過ぎ、締め作業を終えた私に朝香が可愛らしい眼差しで夕紀に相談を持ちかけてきた。
「今日、彼とアパートの整理をしながら色んな約束事を決めたんです。食費や生活費の支払いの事とか、家事の細かい分担とか」
「食費や生活の支払いは彼に任せちゃえばいいんじゃない? だって朝香ちゃんはアパートの家賃を引き渡し時期まで支払わなければならないんだもの」
「上原さんから事前に沢山お金いただいてるんでそんなわけにはいかないんですよ。そのお金は家賃の引き落としに使うつもりでいて……」
「そうなんだ」
「はい。っていうか、そうでもしないと減らないくらいの金額なんで」
「…………」
9月の初め頃に俊哉が「家賃値引き2年分♪」とか言いながらお金を寄越してきた話は今日の勤務中に朝香の口から聞いたのもあり、家賃半年分でも余る程の大金という事実に夕紀はゾッとする。
(敵わないけどやっぱり怖いなぁあの男)
「それで食費は彼が負担して、光熱費は折半、家事は各々得意なものを分担して時々協力しながらやる事に決めたんです」
「なかなかしっかりしてるのね、朝香ちゃん達。亮輔くんも真面目な態度でいいんじゃない?」
夕紀は他人とのルームシェアも同棲も、まして一人暮らしさえ経験が無い。『むらかわ』で修行してた頃も現在も、居候しかしてないのだ。
なのに自分より一回りも歳下である朝香や亮輔は自立した考えを持っていて逞しいと感じるし、20歳そこそこの若いカップルが夢見心地なふわふわとした同棲生活を思い描いているのではないという考え方に拍手を送ってあげたい。
「……ですが、問題はマンションのお金です」
「へ?」
「マンションの名義は彼なんですが、既に上原さんが購入して彼に譲渡しちゃってて。彼は管理費と税金を支払えば良いだけになっちゃってるんです」
「うん」
ファミリー向けマンションの最上階の一室を20歳の若者にプレゼントとは、バブリーだった時代のようである。亮輔は俊哉と書類上の兄弟になっているとの事だが、心身共に傷付いた亮輔を笠原家から引き離す意味の他にこの件も含まれていたのではないかと夕紀は察した。
……となると、この場合朝香は甘えて良いもいい筈だ。何せ俊哉は「亮輔と共に朝香も住む事によって安寧な生活を送ってほしい」と願っているのだから。
「私も上原さんに何かした方がいいんじゃないかな? って思うんです。でもそんな事を彼に相談したら『俺もお金いくらか渡す』って言い出しかねないし、そもそも上原さんは私達のお金なんか受け取らないかもしれないなぁって」
「まぁ……そうかもしれないわね」
「そこは彼と一緒じゃなく、私の個人的な考えとして上原さんに何かしたいなって思ってて」
朝香は真面目で対人関係に丁寧な子だと、夕紀は改めて思った。まぁそれが朝香の強みでもあるわけだが。
「それはしなくてもいい気がするけど。だって上原さんは朝香ちゃんに亮輔くんとの同棲をお願いしてる立場になるんだもん」
「私だって自分の意思で彼との同棲生活をしたいんです! 同棲のきっかけは上原さんからのお願いではあるんですけど、私も私で金銭的リスクを負わなきゃあのマンションに堂々と住めない気がして」
朝香の純粋な考えも分かる。夕紀が朝香ちゃんと同じ立場ならきっと似た考えを持ち、愛する人と対等な気持ちで生活したいと望むだろうから。
「そっか……じゃあ、こういうのはどう?」
そこで夕紀は大事な弟子であり大事な妹みたいな存在の朝香に、1つの提案をしてみた。
「なんでしょう?」
「月に一度、私は皐月の月命日にグアテマラアンティグアを焙煎するでしょ? 私はその日だけ、村川夫妻から教わった焙煎方法で丁寧に煎っている」
「……はい」
「それをね、毎月22日の夜に朝香ちゃんが上原さんにお届けするの。1ヶ月分の焙煎豆を朝香ちゃんが購入して」
「?」
「朝香ちゃんは幼い頃からご両親から教わってきているネルドリップの使い方を丁寧に教えてあげた上で、その日に初めの一杯を上原さんに提供してあげるのよ」
「私が……ですか?」
「そうよ、出張の珈琲屋さん。今ね、オフィスとかで流行ってるのよそのサービス。
朝香ちゃんにとっては自分の技術を磨く事にも繋がるし、愛する彼のご親戚に丁寧な接客をする事も良い勉強になる筈」
朝香は目を見開いて「なるほど!」とこの提案に素直に乗っかろうとしたみたいだが……
「でもそれって金額に見合いませんよね? 1ヶ月分の焙煎豆を購入した金額に私の時給を上乗せしても5000円にも満たしません」
と、朝香は消極的な表情になる。
「ネルドリップやドリップポットとか、コーヒーの道具類もプレゼントしちゃえば?」
「うーん……」
「勿論、上原さんが珈琲に興味を持ってくれるのが前提になるけどね」
朝香には敢えてそう言ってみたものの「必ずあの男は喜んでくれるだろう」と夕紀は確信していた。
亮輔に対して執着的で盲目的。
爬虫類的な目付きやジトッとした声色で夕紀に話しかける男だけれど、夕紀と朝香が幼い頃から大好きでいるグアテマラアンティグアの香りを、恍惚的な表情で鼻から吸い込み高揚感溢れるセクシーな唇や舌をチロリと見せながら楽しんでくれた。きっと朝香の愛情溢れる温かなコーヒーを純粋に喜んでくれるに違いない。
(それが罪ほろぼしの一つになれるかは……分からないけどね)
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