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本編
大学図書館の向日葵1
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「朝香ちゃん! これ、英美学院大学さんの珈琲豆ね! 今日も配達よろしくお願いね」
2軒隣に位置する『タカパン』への配達を終え、『雨上がり珈琲店』の勝手口の扉を開いた村川朝香を待ち受けていたのは、朝香が勤める自家焙煎珈琲店『雨上がり珈琲店』店主遠野夕紀であった。
店主から手渡されたのは、平日夕方に必ず配達注文を入れている私立英美学院大学内にあるカフェテリア。1週間分まとめて注文してくれればいいのに「雨上がり珈琲店さんの雨上がりブレンドを毎日最高の状態で皆さんにお出ししたいから」っていうカフェ担当者のこだわりがこのような手間を生んでいる。
(……まぁ、英美学院の理事長先生はそもそも私のお父さんと同郷で伯父さんの作品を数多く卸しているお得意さんでもあるし、無類の珈琲好きで当店開店して一番のお客様になってくれたんだから仕方がないんだよね)
しかもこの注文分には毎回しっかりと配達料が上乗せされている。アルバイトの身でありこの店に勤務してようやく1年が経ったばかりの朝香には文句を言う資格がない。
「えっと……今日もここで終わり、ですよね?」
現在時刻は午後4時。英美学院大学へはここの最寄り駅から15分間電車に乗り、降りた駅から5分歩けば大学正門に辿り着く。カフェテリアへは更にそこから7分ほど坂道を上がっていくので再びこの店に戻ってくるとなると早くとも午後5時となる。後はパラパラとやって来る買い物客の応対を2時間ばかりして、〆作業に移行する流れになるはずだ……けれど、朝香はその閉店2時間前からの勤務についた事がない。
勿論、朝香がそのスケジュールで配達を終わらせ5時過ぎから〆の時間まで働くのは可能ではあるしやる気もある。しかし店主は毎度「仕事量が少な過ぎで時給と釣り合いが取れないから朝香ちゃんは配達が終わったらお家に帰って自分の時間をゆったり過ごしなさい」と朝香に話して「今日はお疲れ様」「また明日ね」という空気感を醸す。今から閉店時間までは本当に暇な時間帯であるようだ。
朝香はその事情を一応は知っている。とはいえ毎回ここの配達前にそう訊ねるのをやめられない。
「勿論よ! んもう朝香ちゃんってば毎日同じ質問してくるんだからっ」
店主は、さもそれが当然で昔からの約束事であるかのように唇を尖らせ毎日朝香を叱った。いや、叱るというよりも「優しく諭す」の方が言葉として適切かもしれない。
「でも、別に私は無給で掃除したって構わないのに」
「その無給が許せないの。朝香ちゃんはまだ19歳なんだもん。ちょっとは楽しい思いもしなくちゃね♪」
「ぅ……」
思わず拗ねた子どものような表情を作ってしまったが、朝香は別にこの夕方配達が嫌で面倒くさがっているのではない。本音は店主である夕紀さんの助けになりたいのだ。ぶっちゃけバイト代だってそんなに要らずただただ夕紀さんの支えになりたいと……そう思っているのだ。
すると店主は眉を下げ
「……今日はさ、特に。1人になりたいのよ。ごめんね朝香ちゃん」
お姉さんらしい慈愛あふれる微笑みでもって朝香の肩に手を置く。
「ぁ」
(そうだ……今日は22日)
ハッと、その事に気付いた朝香は数歩後ろへ下がってペコッと頭を下げると
「そうですよね、ではまた明日よろしくお願いします!」
素直に従い、着替えの為にスタッフルームへと急いだ。
毎月22日。この日は店主遠野夕紀にとって大事な仕事をする日である。
「明後日が皐月さんの月命日かぁ……ここで働いてると時間の経過が早いよね本当に」
いつものエプロンやシャツから私服に着替えロッカー付属の鏡と睨めっこしながら、朝香はそう呟く。
「高校生だった頃とは違って、月日が経つのがあっという間。
それだけ今が充実してるって意味になるんだし、良い事ではあるんだよね……」
良い方に考えれば、それは物凄く些細な点である。
けれど……
(夕紀さんの時間軸はお店をやる前と変わっているのかなぁ……)
それを考えると朝香は毎度やりきれない気持ちに駆られるのだ。
(私と似た感覚でいられたら良いんだけど……そんなわけにはいかないかなぁ、やっぱり)
そう結論付けた朝香の背中は丸く縮こまってしまった。がしかし、焙煎室で生豆に向き合う夕紀の姿を思うとすぐにプルプルと首を振って背筋を伸ばした。
「では夕紀さん、お疲れ様です」
朝香は焙煎室への扉をノックして一言挨拶し、配達物入りの紙袋を左腕に引っ掛けるなり元気なフリをして店を出る。
(いけない! いつもの電車に乗り遅れちゃう! 次のヤツに乗らなくちゃだ!)
『タカパン』を通り過ぎ、アーケードの中に入ったところでスマホ画面をチェックすると、今日がいつもよりも支度に手間取っていた事に気付いた。
本来カフェテリアへは午後6時までに配達出来れば良いだけなのだからいつもより少々遅れたってどうってことはない。
(でも次の電車って快速じゃないからあんまり好きじゃないんだよねぇ)
夕紀ほどではないにしても、朝香だってぎゅう詰めの車内に長い時間立ち続けるのは苦手だ。特に朝香の身長は150㎝と低めで、車内がすし詰め状態になると人と人の間に挟まり最悪不快な腋の臭いを嗅ぎ続けなければならなくなる。なるべくならサッと乗ってサッと降りたいものである。
(あーあ、憂鬱だよぉ……)
「朝香ちゃん! これ、英美学院大学さんの珈琲豆ね! 今日も配達よろしくお願いね」
2軒隣に位置する『タカパン』への配達を終え、『雨上がり珈琲店』の勝手口の扉を開いた村川朝香を待ち受けていたのは、朝香が勤める自家焙煎珈琲店『雨上がり珈琲店』店主遠野夕紀であった。
店主から手渡されたのは、平日夕方に必ず配達注文を入れている私立英美学院大学内にあるカフェテリア。1週間分まとめて注文してくれればいいのに「雨上がり珈琲店さんの雨上がりブレンドを毎日最高の状態で皆さんにお出ししたいから」っていうカフェ担当者のこだわりがこのような手間を生んでいる。
(……まぁ、英美学院の理事長先生はそもそも私のお父さんと同郷で伯父さんの作品を数多く卸しているお得意さんでもあるし、無類の珈琲好きで当店開店して一番のお客様になってくれたんだから仕方がないんだよね)
しかもこの注文分には毎回しっかりと配達料が上乗せされている。アルバイトの身でありこの店に勤務してようやく1年が経ったばかりの朝香には文句を言う資格がない。
「えっと……今日もここで終わり、ですよね?」
現在時刻は午後4時。英美学院大学へはここの最寄り駅から15分間電車に乗り、降りた駅から5分歩けば大学正門に辿り着く。カフェテリアへは更にそこから7分ほど坂道を上がっていくので再びこの店に戻ってくるとなると早くとも午後5時となる。後はパラパラとやって来る買い物客の応対を2時間ばかりして、〆作業に移行する流れになるはずだ……けれど、朝香はその閉店2時間前からの勤務についた事がない。
勿論、朝香がそのスケジュールで配達を終わらせ5時過ぎから〆の時間まで働くのは可能ではあるしやる気もある。しかし店主は毎度「仕事量が少な過ぎで時給と釣り合いが取れないから朝香ちゃんは配達が終わったらお家に帰って自分の時間をゆったり過ごしなさい」と朝香に話して「今日はお疲れ様」「また明日ね」という空気感を醸す。今から閉店時間までは本当に暇な時間帯であるようだ。
朝香はその事情を一応は知っている。とはいえ毎回ここの配達前にそう訊ねるのをやめられない。
「勿論よ! んもう朝香ちゃんってば毎日同じ質問してくるんだからっ」
店主は、さもそれが当然で昔からの約束事であるかのように唇を尖らせ毎日朝香を叱った。いや、叱るというよりも「優しく諭す」の方が言葉として適切かもしれない。
「でも、別に私は無給で掃除したって構わないのに」
「その無給が許せないの。朝香ちゃんはまだ19歳なんだもん。ちょっとは楽しい思いもしなくちゃね♪」
「ぅ……」
思わず拗ねた子どものような表情を作ってしまったが、朝香は別にこの夕方配達が嫌で面倒くさがっているのではない。本音は店主である夕紀さんの助けになりたいのだ。ぶっちゃけバイト代だってそんなに要らずただただ夕紀さんの支えになりたいと……そう思っているのだ。
すると店主は眉を下げ
「……今日はさ、特に。1人になりたいのよ。ごめんね朝香ちゃん」
お姉さんらしい慈愛あふれる微笑みでもって朝香の肩に手を置く。
「ぁ」
(そうだ……今日は22日)
ハッと、その事に気付いた朝香は数歩後ろへ下がってペコッと頭を下げると
「そうですよね、ではまた明日よろしくお願いします!」
素直に従い、着替えの為にスタッフルームへと急いだ。
毎月22日。この日は店主遠野夕紀にとって大事な仕事をする日である。
「明後日が皐月さんの月命日かぁ……ここで働いてると時間の経過が早いよね本当に」
いつものエプロンやシャツから私服に着替えロッカー付属の鏡と睨めっこしながら、朝香はそう呟く。
「高校生だった頃とは違って、月日が経つのがあっという間。
それだけ今が充実してるって意味になるんだし、良い事ではあるんだよね……」
良い方に考えれば、それは物凄く些細な点である。
けれど……
(夕紀さんの時間軸はお店をやる前と変わっているのかなぁ……)
それを考えると朝香は毎度やりきれない気持ちに駆られるのだ。
(私と似た感覚でいられたら良いんだけど……そんなわけにはいかないかなぁ、やっぱり)
そう結論付けた朝香の背中は丸く縮こまってしまった。がしかし、焙煎室で生豆に向き合う夕紀の姿を思うとすぐにプルプルと首を振って背筋を伸ばした。
「では夕紀さん、お疲れ様です」
朝香は焙煎室への扉をノックして一言挨拶し、配達物入りの紙袋を左腕に引っ掛けるなり元気なフリをして店を出る。
(いけない! いつもの電車に乗り遅れちゃう! 次のヤツに乗らなくちゃだ!)
『タカパン』を通り過ぎ、アーケードの中に入ったところでスマホ画面をチェックすると、今日がいつもよりも支度に手間取っていた事に気付いた。
本来カフェテリアへは午後6時までに配達出来れば良いだけなのだからいつもより少々遅れたってどうってことはない。
(でも次の電車って快速じゃないからあんまり好きじゃないんだよねぇ)
夕紀ほどではないにしても、朝香だってぎゅう詰めの車内に長い時間立ち続けるのは苦手だ。特に朝香の身長は150㎝と低めで、車内がすし詰め状態になると人と人の間に挟まり最悪不快な腋の臭いを嗅ぎ続けなければならなくなる。なるべくならサッと乗ってサッと降りたいものである。
(あーあ、憂鬱だよぉ……)
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