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本編
向日葵さんと野獣の噂4
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「俺ね、今日はレポートや予習しなくてもいいんだ」
食器の後片付けを終えた向日葵さんが朝香の方を振り向き、突然そんな事を言う。
「えっ」
いつもであればこの後すぐに向日葵さんは真下の部屋へと戻り、ノートパソコンを立ち上げてレポートを書いたり難しい科目の事前準備を始める。朝香は認定資格を昨年取得出来たので熱心に勉強する必要はないのだが、向日葵さんにコーヒーを淹れてあげたり図書館で借りた本を読んだりなどしながら真下の部屋で一緒に過ごしていた。
「今日はさ……あーちゃんが淹れてくれたコーヒーを飲みながらゆっくり話がしてみたいんだけど……いいかな?」
けれど向日葵さんの望みはいつものルーティンではない。
「はなし……?」
突然の提案だったので朝香は聞き返してしまったのだが
(あっ……)
向日葵さんの表情が悲痛なものに感じられ
(初恋の、あの人みたい……)
向日葵さんの顔と初恋の相手の幼い顔が重なり、胸の奥がキューッと締め付けられる。
「うん、話がしたい。あーちゃんにちゃんと、俺の話を聞いてもらいたいし」
「……」
朝香が中学卒業間際に経験した初恋の人物と向日葵さんとは外見がまるで違う。思い出の彼と目の前の向日葵さんとの表情が重なるだなんて、通常なら有り得ない。
けれど……
(今の向日葵さんは、あの時のあの人みたいに辛い気持ちを抱えているのかな……私は二度とあの人に会う事が許されない)
朝香の初恋は一瞬のうちに湧き起こり、次の瞬間に散ってしまった。
(私は夕紀さんを支えるって決めたから、もうあの人には会えない)
それは朝香にとっても切ない出来事であったが、後悔はしていないのだ。恋が得られない代わりに姉のように想う人物を大切に出来ているのだから。
(あの人にもう会えない代わりに、向日葵さんに寄り添えるなら……)
夕紀を支える為に親元を離れて『雨上がり珈琲店』で働くようになった朝香は今、新たな恋と出会った。向日葵さんが進展を望まないのならこのままこの恋も育まれず萎れてしまうのかもしれないが、己の気持ちを犠牲にして目の前の向日葵さんが笑顔になるのならそれでも良いんじゃないかと思い直す。
「あーちゃんは俺にはもったいないくらい素敵な女性だと思ってる。だから好きになった。
でも、俺はあーちゃんに『俺の告白の返事はしないで』とか『今のままがいい』とか……色々とワガママ言って困らせてるでしょ。実際今もあーちゃんを困惑させているし」
先程のキス寸前な顔接近には裏切られた気持ちになったし揶揄われたのはまだムカついている……が、何の考えもなしにそんな行動をとり朝香を惑わせた訳ではないのも理解している。
「困惑っていうか、向日葵さんに訊いてみたい事はいっぱいあるよ。モヤモヤしてる部分がかなりあるから」
朝香は正直な気持ちを向日葵さんに伝えながら
「でもね、向日葵さんが辛い気持ちになってほしくない。向日葵さんは思い詰めるとご飯食べなくなっちゃって倒れてしまうから、もう向日葵さんを倒れさせたくないし笑顔になってもらいたいって……それを私は一番に願っているの」
真っ直ぐ彼の目を見る。
「うん……」
向日葵さんは朝香の目線に合わせるようしゃがんで
「ありがとう、あーちゃん」
やわらかく微笑んだ。しかしその笑みはやはり哀しさを含んでいるようにも感じられたので
「コーヒー淹れるから、お部屋で待っててね」
コーヒーはこの場ではなく、彼が落ち着いて話が出来るよう階下の部屋でした方が良いと考えた。
「いつもありがとう、君を好きになれて良かった」
朝香の言葉に向日葵さんは目を細めて笑う。
「っ」
彼の「好き」に胸が躍る。
(今日はブラジルの豆をペーパードリップしよう。向日葵さんがホッと出来る味わいになるように)
今日は一層心を込めてコーヒーを淹れようと決めた。
*
向日葵さんの部屋は朝香の真下で間取りが同じ筈なのだが、生活感満載な2階の自室とは違いこちらはキッチンが真新しいし、家電といえば冷蔵庫とスティック型掃除機しか置かれていない。リビングにはローテーブルとソファベッドが置かれているだけでこざっぱりしている。
(一人暮らしなのに電子レンジもテレビも無いなんて私からしてみたら寂しくてたまらないと思うんだけど、向日葵さんにとっては優先順位が低いんだろうなぁ)
食に興味がないから冷蔵庫の中はほぼガラガラで、食べる物を買ってきても温めて食べる事は全くしないのだという。逆に朝香の部屋に調理器具や電気ケトルがある事に向日葵さんが感心していたくらいだ。
ランチバッグの中にスープジャー、コーヒーカップ2脚を入れたら階段を降りて一階の103号室のインターフォンを押せば
「あーちゃん♡」
微笑み顔の向日葵さんが扉を開けてくれる。
朝香はその笑みにホッコリとしながらバッグを向日葵さんに近付けて
「今日のコーヒーはブラジルでーす♪」
明るい声で先程淹れたコーヒーの銘柄を告げると
「俺のお茶請けはカスタードプリンでーす♪
さっ、中に入って入って!」
向日葵さんも明るい声でコーヒーに合うスイーツを教えてくれる。
(うん、ここまではいつもと一緒だ)
コーヒーの銘柄やお茶請けを玄関先で言い合うのは昨日までと変わらない。
「お邪魔します……」
だが、この後向日葵さんが何をするつもりなのか分かっている朝香は「いつもの勉強や読書じゃない」という緊張でカチコチになっていた。
ローテーブルにコーヒーカップを置き、スープジャーの中身であるホットコーヒーをゆっくり注いでいると、横から向日葵さんの長い指でもってコンビニスイーツで人気のカスタードプリンが添えられる。
「いつもありがとう、あーちゃん。今日のコーヒーも良い香りがするよ」
向日葵さんの褒め方はいつも優しく温かい。
「こちらこそ、いつもありがとう。私の好きなプリン買ってきてくれて」
彼の優しさが嬉しいからこそ、今日は緊張する。
(話って、どんな内容なんだろう……)
「あーちゃんは、ソファに座ってね」
「うん」
「俺も隣に座っていい? 真面目な話が多いからなんとなく……あーちゃんを直視したまま話すのが恥ずかしくて」
「……うん」
ドキドキしているから「うん」しか返事出来ないし、ソファに隣同士並んで座るという状況で更に緊張してしまう。
「いただきます」
コーヒーカップを手に持ちながら朝香が言うと
「……いただきます」
向日葵さんがそれを追いかけるように声を出し……一拍も置かないうちに
「あーちゃんが初めて図書館に入った日にさ、俺、コピールームで言い争いしてたでしょ。
あの相手が絵梨っていう……カフェテリアであーちゃんのお店のコーヒーにいちゃもんつけた女だよ」
あの時向日葵さんがキスをした相手があの玄川絵梨なのだと教えられ……
「絵梨とはさ、付き合ってはないんだけど……その、ホテルには、行く関係で」
更に朝香の予想の斜め上を行く事実を告げてきたのだ。
食器の後片付けを終えた向日葵さんが朝香の方を振り向き、突然そんな事を言う。
「えっ」
いつもであればこの後すぐに向日葵さんは真下の部屋へと戻り、ノートパソコンを立ち上げてレポートを書いたり難しい科目の事前準備を始める。朝香は認定資格を昨年取得出来たので熱心に勉強する必要はないのだが、向日葵さんにコーヒーを淹れてあげたり図書館で借りた本を読んだりなどしながら真下の部屋で一緒に過ごしていた。
「今日はさ……あーちゃんが淹れてくれたコーヒーを飲みながらゆっくり話がしてみたいんだけど……いいかな?」
けれど向日葵さんの望みはいつものルーティンではない。
「はなし……?」
突然の提案だったので朝香は聞き返してしまったのだが
(あっ……)
向日葵さんの表情が悲痛なものに感じられ
(初恋の、あの人みたい……)
向日葵さんの顔と初恋の相手の幼い顔が重なり、胸の奥がキューッと締め付けられる。
「うん、話がしたい。あーちゃんにちゃんと、俺の話を聞いてもらいたいし」
「……」
朝香が中学卒業間際に経験した初恋の人物と向日葵さんとは外見がまるで違う。思い出の彼と目の前の向日葵さんとの表情が重なるだなんて、通常なら有り得ない。
けれど……
(今の向日葵さんは、あの時のあの人みたいに辛い気持ちを抱えているのかな……私は二度とあの人に会う事が許されない)
朝香の初恋は一瞬のうちに湧き起こり、次の瞬間に散ってしまった。
(私は夕紀さんを支えるって決めたから、もうあの人には会えない)
それは朝香にとっても切ない出来事であったが、後悔はしていないのだ。恋が得られない代わりに姉のように想う人物を大切に出来ているのだから。
(あの人にもう会えない代わりに、向日葵さんに寄り添えるなら……)
夕紀を支える為に親元を離れて『雨上がり珈琲店』で働くようになった朝香は今、新たな恋と出会った。向日葵さんが進展を望まないのならこのままこの恋も育まれず萎れてしまうのかもしれないが、己の気持ちを犠牲にして目の前の向日葵さんが笑顔になるのならそれでも良いんじゃないかと思い直す。
「あーちゃんは俺にはもったいないくらい素敵な女性だと思ってる。だから好きになった。
でも、俺はあーちゃんに『俺の告白の返事はしないで』とか『今のままがいい』とか……色々とワガママ言って困らせてるでしょ。実際今もあーちゃんを困惑させているし」
先程のキス寸前な顔接近には裏切られた気持ちになったし揶揄われたのはまだムカついている……が、何の考えもなしにそんな行動をとり朝香を惑わせた訳ではないのも理解している。
「困惑っていうか、向日葵さんに訊いてみたい事はいっぱいあるよ。モヤモヤしてる部分がかなりあるから」
朝香は正直な気持ちを向日葵さんに伝えながら
「でもね、向日葵さんが辛い気持ちになってほしくない。向日葵さんは思い詰めるとご飯食べなくなっちゃって倒れてしまうから、もう向日葵さんを倒れさせたくないし笑顔になってもらいたいって……それを私は一番に願っているの」
真っ直ぐ彼の目を見る。
「うん……」
向日葵さんは朝香の目線に合わせるようしゃがんで
「ありがとう、あーちゃん」
やわらかく微笑んだ。しかしその笑みはやはり哀しさを含んでいるようにも感じられたので
「コーヒー淹れるから、お部屋で待っててね」
コーヒーはこの場ではなく、彼が落ち着いて話が出来るよう階下の部屋でした方が良いと考えた。
「いつもありがとう、君を好きになれて良かった」
朝香の言葉に向日葵さんは目を細めて笑う。
「っ」
彼の「好き」に胸が躍る。
(今日はブラジルの豆をペーパードリップしよう。向日葵さんがホッと出来る味わいになるように)
今日は一層心を込めてコーヒーを淹れようと決めた。
*
向日葵さんの部屋は朝香の真下で間取りが同じ筈なのだが、生活感満載な2階の自室とは違いこちらはキッチンが真新しいし、家電といえば冷蔵庫とスティック型掃除機しか置かれていない。リビングにはローテーブルとソファベッドが置かれているだけでこざっぱりしている。
(一人暮らしなのに電子レンジもテレビも無いなんて私からしてみたら寂しくてたまらないと思うんだけど、向日葵さんにとっては優先順位が低いんだろうなぁ)
食に興味がないから冷蔵庫の中はほぼガラガラで、食べる物を買ってきても温めて食べる事は全くしないのだという。逆に朝香の部屋に調理器具や電気ケトルがある事に向日葵さんが感心していたくらいだ。
ランチバッグの中にスープジャー、コーヒーカップ2脚を入れたら階段を降りて一階の103号室のインターフォンを押せば
「あーちゃん♡」
微笑み顔の向日葵さんが扉を開けてくれる。
朝香はその笑みにホッコリとしながらバッグを向日葵さんに近付けて
「今日のコーヒーはブラジルでーす♪」
明るい声で先程淹れたコーヒーの銘柄を告げると
「俺のお茶請けはカスタードプリンでーす♪
さっ、中に入って入って!」
向日葵さんも明るい声でコーヒーに合うスイーツを教えてくれる。
(うん、ここまではいつもと一緒だ)
コーヒーの銘柄やお茶請けを玄関先で言い合うのは昨日までと変わらない。
「お邪魔します……」
だが、この後向日葵さんが何をするつもりなのか分かっている朝香は「いつもの勉強や読書じゃない」という緊張でカチコチになっていた。
ローテーブルにコーヒーカップを置き、スープジャーの中身であるホットコーヒーをゆっくり注いでいると、横から向日葵さんの長い指でもってコンビニスイーツで人気のカスタードプリンが添えられる。
「いつもありがとう、あーちゃん。今日のコーヒーも良い香りがするよ」
向日葵さんの褒め方はいつも優しく温かい。
「こちらこそ、いつもありがとう。私の好きなプリン買ってきてくれて」
彼の優しさが嬉しいからこそ、今日は緊張する。
(話って、どんな内容なんだろう……)
「あーちゃんは、ソファに座ってね」
「うん」
「俺も隣に座っていい? 真面目な話が多いからなんとなく……あーちゃんを直視したまま話すのが恥ずかしくて」
「……うん」
ドキドキしているから「うん」しか返事出来ないし、ソファに隣同士並んで座るという状況で更に緊張してしまう。
「いただきます」
コーヒーカップを手に持ちながら朝香が言うと
「……いただきます」
向日葵さんがそれを追いかけるように声を出し……一拍も置かないうちに
「あーちゃんが初めて図書館に入った日にさ、俺、コピールームで言い争いしてたでしょ。
あの相手が絵梨っていう……カフェテリアであーちゃんのお店のコーヒーにいちゃもんつけた女だよ」
あの時向日葵さんがキスをした相手があの玄川絵梨なのだと教えられ……
「絵梨とはさ、付き合ってはないんだけど……その、ホテルには、行く関係で」
更に朝香の予想の斜め上を行く事実を告げてきたのだ。
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