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プロローグ
しおりを挟む通りがかる人々を威圧するような門構えの日本家屋。登校しようとした少女は呼び止められて振り返った。
「次のピアノの発表会、あなたではなく美琴さんが演奏することになりましたから」
そう淡々と告げる女性に、この近辺一体では知らない者はいない進学校の制服を身に着けた少女は言葉に詰まる。
「そんな、だって先生は、」
「何かの間違いでしょう、あなた、あんなピアノで練習したってまともに弾けるわけがないじゃありませんか。なにかあったに決まっています。お分かりですね未来さん、美琴さんにお譲りなさい。もうこれ以上お話することはありませんから」
あんなピアノ、というのは、未来に与えられたピアノだけ頑なにプロの調律師をよこさないことを指しているのだろう。
美琴と呼ばれたのは彼女の妹だった。天真爛漫な顔をして、その性格は決して善良とはいえない。母がこのように突然態度を硬化させるのはいつだって彼女の暗躍があったのだ。
「ま、待ってください。ほかでもない先生が私を推薦したんですよ」
姉妹そろって教えを乞うているピアノの教師は、ちょっとした有名人だった。だからこそ母も敬意を持ってして接していた。彼女は世間体を何より気にする人だったし、名誉にこの上なく弱かった。
「……まだわからないのですか」
「えっ」
「美琴さんにだけ習い事をさせると、人様がよからぬ噂を立てるからあなたもおまけで習わせてあげたというのに。美琴さんより先生に気に入られるなんてなんて図々しい子。どうやって媚びたのかしら、本当に血は争えない」
傷一つない通学カバンが、鉛のように重くなる。エンブレムがあしらわれたその通学カバンは未来のあこがれだった。頑張っている成果を見せれば、いつか報われて本当の家族になれるのではないか、そんな淡い期待があったのだ。
「ほら、早く学校にお行きなさい。毎日毎日うっとうしいこと。その制服を着ているのだって、本当は美琴さんのほうが相応しいのに」
未来は無言で家を飛び出した。口を開くと、嗚咽が漏れてしまいそうだったから。
田舎町の古ぼけた家々、ここでは三世代前に越してきた人間でさえよそ者と呼ばれる。そんな町で、未来の存在はまさに例外中の例外だった。
彼女は田舎のちょっとした名家の本家跡取りであった父が、愛人に産ませた子供だった。
未来の母が早くに亡くなったのでなんの気まぐれか父は未来を引き取った。本妻、今の母ははじめて会った時、ひどく見下した目をしたのを覚えている。
そこからは生き残るために必死だった。少しでも品のない言葉を使えば、産みの母のことを口汚く罵られた。周りの大人たちの振る舞いを目で見て覚え、しとやかに振る舞うようにすると、今度はかわいげないと罵られた。
周りの人々がそんな調子だったので妹も姉を見下すのにそう時間はかからなかった。
そんな中でもいつかは自分を認めてもらえるかも、という淡い期待に努力することをやめられなかった。けれども、今日限りでようやく諦められそうだった。
「……こんなことなら、進学校なんかに入るんじゃなかったな」
商業高校にでも進学して、就職と同時に家を出ればよかった。金だけは惜しまない母だ。昔未来に必要な衣服を買い与えずに、役所に通報されて以来、物を買い与えることと、十分な教育や習い事を施すことは惜しまなくなった。田舎の人間は何より醜聞を嫌うのだ。
今までされてきた仕打ちを考えていると、いつもとは違う大通りに出た。確認したところ、いつもとは一本違いの道だったが、このまま進めば学校につくだろう。
ぼんやりと信号が青になるのを待っていると、なにやら周りが騒がしい。人々の視線の先を見ると、トラックがスピードを落とさずに交差点に進入してくるところだった。
横断歩道には、呆然と立ち尽くす子供。未来は傷一つつけないようにしていた鞄を頬り投げて走った。
子供を突き飛ばすと、その軽い体は易々と歩道まで届いた。一瞬の安堵。
――自分も早く、あちらへ。
けれども、足が動かなかった。育ての母の顔が、妹の嘲笑が。呪いのようにちらついて、未来をその場にとどまらせた。
通行人の悲痛な叫びが聞こえる。それを他人事のように聞きながら、未来の体は宙に舞った。
観衆の中に知り合いがいたのだろう。宗像さんちの未来ちゃんが、と誰かが叫ぶのが聞こえた。
――最期のときくらい、その名前で呼ばれたくなかったなあ。
未来は空虚な気持ちを抱いたまま、無へと帰した。そのはずだったのだ。
気が付いたら、未来は見知らぬ場所にいた。背中に固いものを感じるが、そこはアスファルトではない。体を起き上がらせたところで、自分が切り傷一つ負っていないことに気づく。
あれは夢だったのだろうか。いや、いつも寝ている隙間風が無遠慮に吹き込んでくる離れでもない。顔を上げると、たくさんの人間が未来を覗き込んでいることに気づく。
彼ら服装はのは本屋で時折見る、ファンタジー小説の表紙で見たもの似ていた。
「ああ、成功だ。これでこの国は救われる」
「これが聖女様、どこか慈悲深い顔をしていらっしゃる気がするわ」
群衆が二つに割れたかと思うと、一人の眉目秀麗な青年が現れた。穏やかな笑みを口元にたたえている。
「お待ちしておりました聖女様。我々の救世主、どうかこの国をお救いくださいませ」
青年はひざまずいて未来の手の甲に口づけを落とした。
――愛人の子供の次は、救世主様か。
未来の唇は自嘲に歪む。一度死んでまで、人に何かを背負わされるとした、ここはきっと地獄なのだろう。
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