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しおりを挟む霧の中を、俺は慎重に歩いていた。
幻覚から戻ったとはいえ、まだ空気は重く、視界は白に染まりきっている。けれど、さっきとは違う。俺の足は、はっきりと地面を踏みしめていた。
「――卓郎っ!」
声がした。
反射的にそっちを振り向くと、薄闇の奥から、明の姿が見えた。顔に泥をつけて、息を切らしている。
「無事か、お前! いきなり姿消えて……どんだけ探したと思ってんだよっ!」
怒鳴る声の奥に、安堵と焦燥が入り混じっていた。
俺はほっとして、小さく笑う。
「……ごめん。ちょっと、ヤな夢を見てた」
俺がそう言うと、明は眉をひそめた。
「夢? 俺も……ちょっと変な感覚、あったかもな。なんか、自分が自分じゃなくなるみたいな……」
「……そっか。やっぱり、あれって見せられてたんだな」
俺たちは頷き合った。
その直後、霧の奥から別の足音がした。
有紗、純子、沙耶。次々に現れた仲間たちは、泥にまみれ、髪は乱れ、どこか呆然とした表情を浮かべていた。
「……みんな……大丈夫だったんだな」
俺が声をかけると、有紗は小さく頷き、純子は口を真一文字に結んだまま視線をそらした。沙耶だけが、泣きそうな顔で「よかったぁ」と呟いた。
だが、その中で――
「ねえ……あれ、見て」
沙耶が、谷の奥を指差した。
そこには、霧の中からうっすらと浮かび上がる、人影のような何かがいた。
それは、ずっと動かず、ただじっとこちらを見ているように感じた。
「……気のせい、じゃないよな」
俺が呟くと、有紗が小さく震えながら答えた。
「ううん……ずっと、見られてる気がしてた。さっきから……ずっと」
風もないのに、霧が意志を持ったようにざわざわと揺れる。
俺たちは警戒しながら、その影の方へと慎重に歩き出した。
近づくごとに、その姿がはっきりしてくる。
フードを被った、細身の人物。顔は深く隠され、手には杖のようなものを持っている。
けれど、どこか――人間離れした空気をまとっていた。
そして、その者がぽつりと口を開いた。
「……見えたか、己の弱さ」
その声は、男とも女ともつかない、不明瞭な響きをしていた。
「試したのは、お前たちの心。――ここに入り込めば、谷の霧に喰われる。自らの迷いが、そのまま敵になる」
「お前が……この異変を引き起こしてるってことか?」
俺が問いかけると、その者は微かに首を振った。
「私は、ただ見届ける者にすぎない」
「ふざけんなよ! こんなことして、何の意味が――!」
明が一歩踏み出すが、その瞬間、周囲の霧がざっと渦を巻き始めた。
その霧の中に――ぼんやりと、無数の影が浮かび上がる。
人のようで、人でない。形を持たず、顔もなく、ただ意思だけをぶつけてくる存在たち。
「それは、かつてこの谷に迷い込み、自らの弱さに負けた者たちの成れの果て」
「……!」
「迷いを抱けば、霧はそれを増幅し、やがて喰らう。――それが、この谷の本質」
俺たちは、無意識に距離を取った。
でも――俺は、一歩も引かず、前を睨んだ。
「だったら――立ち向かうだけだ」
「……お前に、それができるのか?」
「できるかどうかじゃねぇ。やるって決めた!」
俺はミスリルソードを抜き、身構える
仲間たちも、それぞれに武器を構える。
霧の中から、影たちが一斉に這い出してくる。
霧の迷い人の影――それは、姿形こそ曖昧だが、確実に俺たちの前に立ちはだかっていた。過去にこの谷に入り、弱さに飲まれた冒険者たちの成れの果て。霧に意識を吸われ、自我を失った心の亡霊。
「構えるぞ、来る!」
「行くよ……みんな!」
俺たちは、霧の迷い人の影達との戦いに、踏み込んでいった。
俺が叫んだ瞬間、影の一体が滑るように飛びかかってきた。
明が反応し、鋭く蹴りを繰り出した。
だが――
「ッ!? 感触がねえ……!」
蹴りは影をすり抜け、空を裂いただけだった。影はすぐに霧から形を再構成し、再びこちらへと迫ってくる。
「こいつら、物理が効かない……!」
有紗が後退しながら矢を構えるが、その手も震えていた。
影は喋らない。けれど、圧倒的な感情だけをぶつけてくる。
――恐怖、後悔、諦め。
声にできない叫びが、頭に直接響いてくる。
「無理だ」「逃げたい」「怖い」「勝てない」――そんな負の感情が、心にまとわりついて離れない。
「ぐっ……っ!」
膝が折れそうになる。呼吸が乱れ、視界が霞む。
これは、肉体の戦いじゃない。
試されてるのは、心だ。
自分を、信じ切れるかどうか――それが鍵だ。
俺は、ミスリルソードの柄を握りしめ、深く息を吸った。
(考えろ……。奴らは霧に心を飲まれ、自我を失った冒険者たち。意識だけが彷徨う、未練の亡霊。つまり――アンデッド系モンスターの一種だ)
俺はヒールの呪文を詠唱し、その魔力を剣へと注ぎ込む。
――ヒールは、アンデッドに対して攻撃効果がある。
ミスリルソードがヒールを纏う。剣が淡い金色の光を帯びる。光の軌跡が霧の中で、ひと筋の道しるべのように輝いた。
「これで――どうだッ!!」
叫びと共に、俺は影の一体を切り裂いた。
剣が触れた瞬間、影は苦しむように揺らぎ、そのまま音もなく霧散していく。
「……いける! 成仏させてやる!」
剣を振る。次々に襲いかかってくる影を、光の軌跡で断ち切る。
ヒールを纏ったミスリルソードが、亡霊たちの未練を斬り裂いていく。
「やれる……! この戦い、勝てるぞ!」
戦えるのは、今は俺だけ。
だからこそ――俺が、皆を守る。
俺は全力で走りながら斬り続けた。
影を断ち、霧を切り裂くたび、冷たい空気が少しずつ温もりを取り戻していく。
やがて、最後の一体が斬られ、静かに霧の中へと消えた。
その瞬間、谷全体が――しん、と静まり返った。
あの“見届け人”も、気がつけばもう姿を消していた。
霧が薄れていく。白のヴェールの向こうに、青空がのぞいた。
――静かで、穏やかな風が、俺たちの間をすり抜けていった。
「……やった、のか?」
明の声が、やけに遠く聞こえた。
俺はミスリルソードを地面に突き立て、小さく頷く。
「ああ。ヒールで……あいつらを、解放してやった」
沙耶が、ほっと息を吐きながら苦笑する。
「なんか……ありがとう。卓郎のおかげで、生き延びたみたい」
「卓郎と一緒でよかったわ」
有紗がぽつりと呟く。その言葉が、胸に染みた。
誰一人欠けず、皆で生きて戻ってこられた。それが、何よりも――嬉しかった。
最後に俺は、振り返る。
あの谷の奥、霧が晴れたその先に――一瞬だけ。
“見届け人”が、静かに微笑みながら消えていく姿が、確かに見えた気がした。。
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