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しおりを挟む――風が止んだ。
焚き火の煙が、まるで凍りついたかのように真っすぐ上へ昇っている。それに気づいた瞬間、背筋を氷でなぞられたような悪寒が走った。
「……霧、だな」
胡堂が低く呟き、すぐに叫ぶ。
「警戒態勢! 全員、武器を!」
草原の東の斜面――夜の闇に溶けるように、白く、だがどこか濁った霧が這い寄ってきていた。それは風に流されているのではなく、自ら意志を持って移動しているような、異様な動きだった。
俺たちは焚き火を中心に半円を組み、商人たちを後方に下がらせる。明がすでに剣を抜いていた。
「おいおい、何か来るぞ、あの霧の中……見えるか?」
明の言葉に目を凝らすと、確かに――霧の中に影があった。人のような、いや、もっと大きく、異形の。
そのとき、風が逆流するように吹き荒れ、霧が一気に迫ってくる。空気が粘りつくような重さを帯びたと思った瞬間――姿を現したのは、黒い獣だった。
「魔獣……いや、あれは――〈黒刺狼〉だ!」
胡堂が叫ぶ。
黒刺狼――深い瘴気に染まった獣の一種。背中に黒曜石のような硬質の棘を持ち、集団で狩る獰猛な魔物。だが、俺が驚いたのはその後ろにいた存在だった。
黒衣を纏い、顔を覆面で隠した人型――魔族だ。
片手に短杖を、もう一方の手に黒い宝珠を握っている。霧は、そいつの周囲から発生しているように見えた。
「魔族……!」
叫んだ瞬間、黒刺狼の群れが突進してきた。
俺は「完全見切り」を発動し、まずは正面から突っ込んできた一匹の急所を見極め、ミスリルソードで横薙ぎに斬る。
刃が入り、赤黒い血が弾けた。だが、黒刺狼は倒れず、爛々と赤い目を光らせて牙を剥く。
「クソッ、痛み感じてねえのかよ!」
明がすかさずカバーに入り、炎の刃で黒刺狼の首元を焼き斬る。ようやく一体が崩れ落ちた。
「数が多い……! 京二、馬車を盾に布陣を!」
「了解! 商人たちは弓を持って援護、接近は俺たちでさばく!」
胡堂が魔族を睨みつけながら呟く。
「……あれは霧を操る術者だ。黒刺狼を操ってるのも奴かもしれん」
そのとき、魔族が杖を地面に突き立て、低く呻くような詠唱を始めた。次の瞬間、地面から黒い瘴気の槍が何本も飛び出し、俺たちの前に並ぶ。
「っ、剛志、下がれ!」
俺はすぐさま「ピュリファイ」を発動。剛志の足にかすった瘴気の残滓を祓う。幸い、大事には至っていないが、ただの魔法とは違う。不快な重さが魔力に混じっていた。
「――卓郎、あれを放っておくわけにはいかねえな」
明が、炎をまとった剣を構えながら言う。俺も頷いた。
「俺と明で、あの魔族を止める」
「無茶はするなよ!」
胡堂が叫ぶのを背に、俺と明は左右から駆け出す。〈黒刺狼〉の突進を避け、斬り、地を這う瘴気を踏み越え、魔族に接近する。
……その目が、初めてこちらを見た気がした。
黒い宝珠が淡く光る。
ただならぬ魔力の奔流が、霧を一気に濃くし、音すら飲み込んでいく。
「今しかない、明!」
「おうよッ!」
刹那、俺は「ファイアバレット」を放ち、明の「フレイムバスター」がその隙を打ち砕く。
しかし、魔族は口元だけで笑ったように見えた。
――そして、魔族の手で宝珠が砕かれた――その瞬間、地面が軋んだ。
耳をつんざくような異音が響き、霧が爆発的に広がる。焚き火の光はかき消され、視界が真っ白に閉ざされた。
「――ッ、明! 生きてるか!?」
「こっちは無事だ……けど、なんだこの圧……!」
目の前の空間が裂けたように見えた。
霧の奥から、ずるり、と地を擦る音。空気が震え、まるで重力そのものが変わったような感覚に襲われる。
そして、姿を現したのは――
黒刺狼とは似て非なる、異様な王だった。
全身を黒曜石の鎧のような外殻で覆い、背に何本もの黒い棘を生やした獣。その目は燃えるように赤く、ただ存在しているだけで周囲の瘴気を吸い上げ、喰らっている。
「こいつが……〈黒刺狼〉の主か……!」
「やべぇな……あれ、並の攻撃じゃ通らねぇぞ」
明が苦々しく言う。胡堂たちも駆けつけ、京二が後方から叫んだ。
「こちらも数体撃破したが、あれが出た途端、他の黒刺狼が動きを止めた!」
だったら、あれを倒せば……!
「俺に任せろ!!」
俺は地を蹴った。
霧を断ち、黒刺狼の王のもとへ――一直線に跳ぶ!
「完全見切り!」
時間が静まった。
世界の動きが、俺の目にははっきりと見える。奴の赤い目がこちらを捕え、棘が振り下ろされようとしている。
だが、遅い――!
刃を抜く。
「斬光断(ざんこうだん)ッ!!」
光が走る。斬撃が光となって空を裂き、獣の棘を弾いた。
だが、奴は咆哮を上げて、闇の衝撃波を吐き出す。
「影走りッ!!」
俺の影が地を滑るように疾走し、獣の脇腹へと回り込む。
奴の攻撃を掻い潜り、俺はそのまま足元へ滑り込んだ!
「断空輪!!」
斬撃が輪を描いて拡散する。轟音とともに地面が裂け、獣の前足を切り裂いた。だが、硬い! 思ったより深く通らない!
「くっ……なら!」
俺は刃を振りかぶる。
「鋼壁斬(こうへきざん)――ッ!」
重力を無視するかのような一撃。斬撃に重さが乗り、黒刺狼の王の装甲を抉る! 鈍い悲鳴が獣の喉から漏れた。
背後で、明の声が飛ぶ。「全力でいけ、卓郎! 今しかねぇ!」
「わかってる! セラフレイム!!」
光と炎が剣真に宿り、ミスリルの剣が獣の背に突き刺さる。
続けざまに――
「ファイアバレット!」
無数の火弾が撃ち出され、獣の顔面を撃ちすえる。
同時に――
「ロックランス!」
足元の地面から岩槍が突き出し、獣の巨体を持ち上げ、動きを止めた!
俺は跳躍する。空中で剣を構え――
「終天の一閃――!!」
空が裂けた。
斬撃が、大気ごと奴を割った。
光と衝撃がすべてを包み込み、黒刺狼の王が断末魔を上げて地に沈む――
だが、その時。
奴の瘴気が逆流し、最後の反撃とばかりに黒炎を空中に解き放つ。
消えかけた生命が、すべての呪いを吐き出すように――
「……終わらせてやる」
俺は剣を突き立てるように掲げた。
「――《ジャッジメント》!!」
天が開かれた。
聖なる光の巨大剣が天空より落下し黒刺狼の王を貫く。
黒刺狼の王は、今度こそ、完全に動かなくなった。
霧が晴れた。
風が、静かに草を撫でていた。
獣の死骸はもうない。そこにはただ、黒く焼け焦げた大地だけが残されていた。
俺は剣を収め、長く息を吐いた。
やがて、仲間たちの歓声と安堵が、夜の静寂を破った。
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