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しおりを挟む馬車が止まると同時に、俺は荷台から飛び降りた。
老人は相変わらず樹の根元に腰掛け、まるでそこから動く気がないようだった。
「こんばんは。俺たちは王都から来た冒険者なんですが――」
老人は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
瞳は濁っているが、その奥に妙な光が宿っている。
「……お前さんら、あの森に行くのか」
「行くつもりです」
俺が答えると、老人は喉の奥でくぐもった笑いを漏らす。
「……やめとけ。森は今、人の領分じゃねぇ」
「人の領分じゃないって、どういう意味ですか?」
アリアが一歩前に出る。
「森が……目を覚ました。わしら村人は、もう森に入っちゃならん」
「目を覚ましたって……森が生き物みたいな言い方ですね」
リーナが苦笑いするが、老人の表情は変わらない。
「そうさ……森は生きとる。それに今は、何かに怒っとる」
その言葉に、が真顔になる。
「怒ってる理由、分かりますか?」
「分からん。ただ……獣も、鳥も、森の奥から逃げ出しとる。代わりに……変なもんが村のそばをうろつくようになった」
「変なもん……」
カラスかな?
俺は視線をアリアに送るが、彼女も小さく首を振った。
「とにかく……夜は外に出るな。村の宿は空いておる、勝手に使え」
そう言うと、老人は再び遠くを見るように顔を上げ、俺たちを気にも留めなくなった。
宿――といっても、鍵の壊れた古い木造の建物だった。
中には埃っぽい匂いが漂い、長い間客を迎えていなかったことが分かる。
「……誰もいないのに、開けっ放しってどうなの」
リーナが肩をすくめる。
「鍵かけても、こんな扉なら蹴れば開きそうだしな」
俺はカイを降ろしながら苦笑いする。
「僕、夜中に何か来ても絶対に起こさないでね。怖いの見たくないんだ」
「いや起こすだろ。逃げなきゃならない時だってあるんだから」
「やだやだやだ、怖いのやだ」
子供は聞き分けがないな。まあ、なるようになるしかないか。
そんなやり取りをしているうちに、各自寝る準備を整えた。
夜は静かだった――最初の一時間は。
――カサッ。
微かな音に目を開けると、窓の外に何かの影があった。
動物のようで……だが立っている高さが人間と同じくらい。
「……おい、起きてくれ」
俺は小声でリーナを揺さぶる。
「ん……何……って、あれ……?」
リーナの目が一瞬で覚める。
外の影は、じっとこちらを見ていた。
顔は闇に溶けて見えないが、確かに「こちらを見ている」と分かる。
「卓郎さん……あれ、目が光ってません?」
リーナの囁きに、俺は思わず剣の柄に手をかける。
その瞬間――影は音もなく、霧の中に溶けて消えた。
「……今の、なんだっの?」
カイが布団にくるまったまま震えている。
「分からないけど、良い物じゃなさそう。だからおじいさんが言ってたんだ。夜は外に出るなって」
アリアの声は低く、鋭かった。
俺は結局、朝まで武器を手元に置いたまま眠らなかった。
翌朝、俺たちは村の道具屋で《霧避けの石》を買い込んだ。
掌ほどの石を首から下げると、うっすらと青白い光が揺らめき、ひやりとした膜のような感覚が肌を包み、周囲の霧を押しのけていく。
「これがあれば、道は見えるが……」
石を確かめる俺に、店主は低く続けた。
「……無事に戻れるとは限らんぞ。今の森は、魔獣だらけだ。やめといた方が良いと思うぞ」
「これでも腕には自信がある。この辺りの魔獣に後れを取ることはないさ」
俺の答えに道具屋の店主が苦笑した。
「幸運を祈っているよ」
「《霧避けの石》! 助かったぜ」
俺たちは、昨夜の影の正体も分からぬまま《霧深き森》へ足を踏み入れた。
***
森は異様だった。
地面から湧く白い霧が膝の高さまで満ち、巨木が壁のように立ち並び、枝葉の隙間から差し込む光は鈍く緑色に濁っている。
《霧避けの石》の光の輪の外では、ぼやけた影が揺れ、時折、形を変えてこちらを覗き込んでいた。
「……嫌な感じです。鳥の声も、虫の音もありません」
リーナが杖を握り直す。
「周りは、魔獣だらけだな。いつ襲ってきても不思議はない。気負つけてね。リーナ」
俺は魔力感知を広げ、微かな殺気を拾う。
次の瞬間、霧の奥から唸り声。
現れたのは、背に黒い棘を生やし、口の奥で赤黒い光を揺らす狼――《霧狼》だ。
飛びかかってくる瞬間、俺は「完全見切り」で動きを捉え、間合いを詰める。
だが俺が踏み込むより早く、リーナが杖を振った。
「《ウィンドカッター》!」
霧ごと裂く風刃が狼の足を切り裂き、魔獣がよろめく。
「ナイスだ! 斬光断!」
斬光断は、剣から閃光を放ち、一直線上の敵を高速で切り裂く中距離技だ。
俺は跳躍し、斬撃を首に叩き込むと、閃光と共に霧狼は崩れ落ちた。
「……相変わらず凄い切れ味ですね」
「リーナは良い判断だったぞ。Cランクの動きじゃない」
軽口を交わしながらも、気配察知は緩めない。
しかし、森は一度では休ませてくれなかった。
棘蛇、影猿、翼を持つ小型魔獣――次々と霧の中から襲いかかる。
リーナは「ウォーターショット」で飛びかかる敵の動きを鈍らせ、「ウィンド」で霧を切り裂き視界を確保。
俺は「断空輪」で遠距離から群れをまとめて斬り、防御力の高い魔獣は、「鋼壁斬」で両断する。
「カイ、アリア、右後方を警戒!」
「は、はいっ!」
アリアは必死に矢を放ち、俺とリーナは前後を入れ替えながらも、魔獣を近づけさせず、一撃も通させない。
三十数戦を重ねた頃、魔力感知に微かな人の気配が引っかかった。
霧が薄れ、木柵と見張り台の影が浮かび上がる。
高所から弓を構える長耳の者たちが、こちらに矢尻を向けた。
「止まれ! ここはお前達のきていいところではない!」
「俺たちは敵じゃない! エルフの娘を保護した。《ルシアの里》を探してここに来ただけだ!」
「ここは《ルシアの里》ではない! だが、同族を助けるために我々も手を貸そう」
緊張の中、弓兵の合図で十数人のエルフが現れ、慎重に俺たちを中へ案内する。
そこは《ルシアの里》ではなく、《セレノの里》と呼ばれる別のエルフ族の集落だった。
目的の地ではなかったが――少なくとも、今夜は霧と魔獣の脅威から逃れられる。
俺は剣を収め、リーナと短く頷き合った。
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