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結論から言うと、視界は雲の上まで動かせたし、空間が開いていれば室内への移動も支障なかった。更には聴覚も移動できた。しかも聴覚の方はレンフロが知覚したことのある場所なら壁を超えることも可能だった。ちなみに嗅覚は元々あった位置から動かせなかった。
「素晴らしいですね陛下! この城で陛下に隠し事など誰もできませんね!」
そこまで試したところで、興奮していたアンネリザがかくりと首を横に倒して動きを止めた。操り人形の糸が切れたような動きで、レンフロは少し驚いたが、それには気付かない。
「…そういえば、陛下はお食事はどうされているのですか? 首を戻されるのですか?」
「ああ、私は、あまり空腹は感じない。首を据えて朝食を摂った後は食べずに過ごす」
首が傾いたまま大きく目が見開く。少し怖いなと思ったがそれを口に出すレンフロではない。
「え、一日に一食、ですか? それだけで毎日働いていらっしゃるのですか? 陛下の食料効率、素晴らし過ぎますね。私、朝も昼も夜も食べておやつと時々夜食も食べますよ。その上でだらけて働かない日だってありますし。陛下働き過ぎなのではないですか? 大丈夫ですか? お疲れになったりするのでは…あっ、そういえば精霊は眠らないとも聞きます。まさか陛下、お休みになることも…」
「いや、夜になれば眠る」
「良かったです」
一人で激しく盛り上がり、ほっと肩から力を抜く姿に、思わず笑ってしまう。
「きっとアケチの姫君は、力一杯生きているからだろう」
自分の仕事の多くは前例に従って大して考えずに決まることも多い。一食が労力に見合っているのだと、自嘲気味に思う。目の前で、瞳を輝かせながらこんなにも楽しげに生きているアンネリザを見れば、なおのこと、自分がどれだけ日々をこなしていただけかが解る。
褒められていると思える言葉に快活な笑い声で、不快さなど感じなかったが、ただ不思議できょとんとしてしまう。
「あの、生きていくのに、力を使わないのなら、何に使うのですか?」
力一杯生きる。それはアンネリザにとってあまりにも当たり前のことだった。というより、生きている以上力を使うのは生きていくこと以外に無いだろうと考えている。
ついにレンフロが腹に手を当てて笑い出した。
アンネリザとしてはどうしようもない。響く笑い声に疑問を浮かべながら、腹筋が痛いと訴えるレンフロを見守るだけだ。
立てなくなるほど笑った後で、仕切り直すように咳払いをして向き合われる。
「すまなかった」
「いえ、かまいません。たまに義兄達にもされます」
サイレントでしかし笑い過ぎてその場に崩れ落ちる長姉の夫や、涙を浮かべて謝りながらも笑い声を抑えられないでいたすぐ上の姉の夫のことが頭を過る。他の義兄達も大小の違いはあれどよく笑う。自分が笑われるに足る馬鹿なことをしでかした時もあれば、特に思い当たることがない時もある。どちらにせよアンネリザにとっては慣れっこだ。
「そうなのか」
「はい。崖のお…」
「がけのぅ?」
「す、すみません。違います。間違えました」
うっかり口を滑らせた。
コレトーが脳内で、バレるなってい言いましたよね、と激しく訴えかけてくる。とてつもない剣幕で、よりにもよってなんで国王陛下の前でやらかすんです、と責め立てられる。実際のアンネリザは談話室に入ったあたりからコレトー卒倒ものの令嬢としては大失態を国王の前で披露し続けていたのだが、彼女の中では崖の王の話がバレなければコレトーは怒らないという謎の条件付けが出来ていたので今になって脳内コレトーが騒ぎ出した。
「ごめんなさいコレトー違うのよ。ちょっと待って…そうだ!」
脳内が慌ただしくなり過ぎて思わず口に出して居もしないコレトーに謝っていた。だが、追い詰められた中に一筋の光明を見出す。
「そろそろホールに戻りませんか!」
光明とするにはあまりにもぞんざいな話題転換だったが、その真剣な様子に追求するのも躊躇われた。それに、確かに結構な時間が経っている。
「そうだな。姫は、このまま帰るか?」
バルコニーから室内に戻る。
「それとも、閉会後に帰る方が良いだろうか?」
部屋の中程で立ち止まって、向かい合う。
「このまま帰ります」
「そうか」
話題を逸らすことに無事成功したことでにこにこと満面の笑顔なアンネリザと、首のないレンフロ。二人は向かい合って、お互い見えていなくともしっかりと目が合い、見つめ合っていると思いながら立ち尽くす。
「………(にこにこにこにこ)」
「………」
アンネリザの笑顔は崩れないが、レンフロは困った顔になる。
「………姫、首を返してもらって良いだろうか」
「やっぱり駄目ですか」
なぜそのまま持って帰れると思ったのだろうか。
アンネリザは渋々レンフロに首を返す。首が据えられるのを凝視して、部屋を出て行く前にと質問を投げかけた。
「見ていると簡単に取れてしまうように見えるのですが、私が取っても簡単に取れるのですか?」
取れるといえば取れるし、取れないといえば取れない。そこはレンフロの加減次第なのだが、誰でも取れると言ったら、じゃあ取ってみても良いですか、と言われる気がした。どう答えたらいいか少し考える。
「そう簡単に取れるようでは困るな」
「まぁ、そうですよね」
はっきりと断言しない形で答えてみたが、特に断定の追求を受けることはなく。尋ねた方も頷きながら納得を示す。
「頷いたりする度に首が取れたら阿鼻叫喚ですよねきっと」
まったくその通りだとは思うが、頷く度に首が取れるという発想が無かったので、言葉を失くす。
いったいどんな阿鼻叫喚の惨状を想像しているのか、眉間に力を込めながらも、口元が抑えきれず笑みの形を取っているアンネリザ。しばらくそうしてにやにやしていたが、不意にコレトーが叫ぶ声が聞こえて現実に戻る。真っ直ぐにレンフロが見つめていた。
「あ、すみません。お引き止めして。もう大丈夫です。私はここからこっそり帰りますので」
にやけた顔を見られていたとしてもアンネリザに恥ずかしいという感情は生まれない。もはや、レンフロ相手に、今後、恥じらうということが起こり得るのか疑問である。
「では侍従に案内するよう伝えよう」
「ありがとうございます」
ドアノブに手をかけて、アンネリザを見つめる。
「また、機会があれば」
「はい。お会いできる日を心待ちにしております」
柔らかく笑うレンフロを見送って、ドアが閉まると同時に椅子へ戻る。冷めてしまったお茶を一口飲んで、今日の出来事を振り返る。
つまらない苦行の時になると思っていたが、信じられないほどの幸福な時となった。人の予想など当てにはならず、禍福は糾える縄の如しだ、と悟ったようなことを考える。
「ふひっ」
令嬢というよりも歳頃の少女としてどうかと思う笑い声が漏れた。その後は、声こそ出ないものの誰に遠慮する必要もないので、たいそうにやにやとした顔で侍従の訪れを待っていた。
ノック音の後に声をかけられ、入室の許可を答えると、見合いの席にいたカツラが入ってきた。
「お帰りの馬車までご案内いたします」
「どうも」
令嬢の仮面で取り繕って、カツラの後をついて行く。アンネリザの中で任務はもはや達成されていたし、喜ばしい出来事に意気も揚々、誰に文句を言われることもない堂々とした令嬢ぶりでの歩みである。
なかなかに奇行が印象に残っているが、社交界で評判の高いアケチの姫らしく、楚々とした様子のアンネリザをそっと確認しながら先導していく。カツラにとって、長年使えているレンフロの見たこともない穏やかな笑顔を引き出した令嬢である。気にならないはずがなかった。
とはいえ、別に主から引き止めるよう言われたわけでも、何か言付けを預かったというわけでもない。そっとその様子を見る以外にできることはない。いちおう話しかけても無礼にはならないのだが、うっかり話しかけて先日の見合いの場のように合いの手も挟めない返答を炸裂されては困るという思いが邪魔をしている。
人目を避けるように馬車まで誘導する道はもうすぐ終わるところだ。
アンネリザの視界に自分の乗ってきた馬車と、控えるコレトーの姿が入る。カツラへは一礼で案内への謝意を伝え、笑顔のまま馬車へ乗り込む。
「ご苦労様」
手伝いをしてくれるコレトーに声をかけ、さっと席に座り、カツラと礼を交わしている彼が乗り込むのを待った。
コレトーも乗り込み、戸が閉められ、軽快な蹄鉄の音を鳴らして馬車が動き出す。ついにやり遂げたという思いでアンネリザはにんまりと笑みを深くする。
「で」
その顔に、真顔でコレトーが問いかけてきた。
「何をやらかしたのです?」
「ええ!」
彼女はやり遂げたのだ。アケチ家の姉達が作り上げた評判を落とすことなく無事舞踏会の場を切り抜けた。てっきり褒められるものだとばかり思っていたのに、そんな質問をされて困惑すると共に大いに驚く。
「何故よコレトー。私ちゃんとやり遂げたのよ。そりゃあ壁の花には成れなかったけど。ちゃんと踊れたから大丈夫よ」
「踊ったのですか?!」
アンネリザの発言に今度はコレトーが驚く。その非難を込めた声音に正当な理由があったと主張する。
「陛下のお誘いを断る訳にいかないでしょう?」
「陛下…国王陛下と踊ったのですか?! ま、さか、足を踏んだりすっ転ばしたりしていないでしょうね?!」
「大丈夫だってば、ちゃんと踊れたって言ったでしょう。陛下がお上手だったからちゃんと何事もなく踊れたのよ!」
「…では、何故一人先に帰らされているんです?」
絶対にアンネリザが何かやらかしたからだと思っているコレトーには、ほかの令嬢達がまだ舞踏会に興じている中、一人帰される理由が思い浮かばない。
「それは」
どう話せばコレトーに怒られないかをしばし考えて組み立てる。
「陛下は聡明な方だわ。私が本気で結婚を考えていないことを見抜いていたの」
その事はコレトーどころか父親の方も承知の上での見合いだったので、まぁそうだろうなと頷くだけだ。
「その上で、陛下の方にも事情はあったのよ。これは私の推測だけどね。やっぱり決まってるんだと思うわ、婚約者。だから形式上開かれた舞踏会で御令嬢方の相手をして回るのは大変でしょ? そこで、結婚に興味の無い私の登場というわけ」
アンネリザは何やら得意げに自説を披露しているが、コレトーは疑いを解かない。
「私をダンス相手にして、さらに話し相手として退室することで、この舞踏会の面目を立てたのよ」
「何故、お嬢様なのですか? その確定している御令嬢で良いではありませんか」
ここでレンフロがアンネリザに好意を抱いているのでは、とならないのがコレトーの苦節の十五年を物語っている。
「そこが肝なのよ。私はいわば生贄ね」
「…なんですかそれ」
どんなに迷惑をかけられても大切な主人である。生贄という不穏な発言に思わず声が低くなる。
呆れられたり大きな声を上げられたりということはあっても、心胆を寒くするような低い声を出されたことのないアンネリザが、流石に驚いて口ごもる。
「コレトー…?」
父とそう歳の変わらない、第二の父のような、口うるさいじいやのような感覚のコレトーの不穏な顔など、初めて見た。不安になってあわあわと言葉を紡ぐ。
「その、生贄って言葉が悪かったけど、別にあれよ、一方的に私が利用されたのではないのよ。お話をして、私も早く帰りたいっていうのが陛下にも伝わったから、お互いの意見の一致をみた結果なのよ?」
「…え? 陛下にむかって早く帰りたいとか言ったんですか?」
呆れた顔をされた。だが、不穏当な顔よりもよほどましである。
「いや、はっきり言ったのではないわよ。お互い、こう、言外に察したのよ」
「お嬢様がですか?」
主に、察したという部分に引っ掛かりを覚えているらしい。すぐにそれと察して、頬を膨らませる。
「今だって貴方の疑りを察しているわよ」
「失礼いたしました」
「まったくもう」
先程の空気をすっかり消してくれたコレトーに、ほっと胸を撫で下ろしながら応じる。
「まぁ、そういう訳なの。お互い都合が良かったから相手は私になったのよ。向こうにしたら私なんて明日には領地に帰る田舎貴族の小娘で、噂になったってその頃には旅の空。でも、しばらくは私が噂になっているから、本命はその間に人知れず動けるということよ」
「お嬢様、そんな大役をなさったんですか…」
「たぶん、お姉様達の名声のおかげで白羽の矢が立ったんだと思うわ。田舎娘だけど、あのアケチの姫なら、みたいな、こう絶妙に丁度良い感じだったのよ」
「なるほど」
アンネリザではなく、あのアケチの姫、と括られれば、国王と噂になっても確かにおかしくはないと思える。
「お嬢様は、実に偉大なお姉様方をお持ちになりましたね」
「本当にそう思うわ」
満足感でいっぱいのアンネリザと安堵感でいっぱいのコレトーを乗せ、車輪も蹄鉄も規則正しく鳴って、馬車は軽快に帰路を行く。
「素晴らしいですね陛下! この城で陛下に隠し事など誰もできませんね!」
そこまで試したところで、興奮していたアンネリザがかくりと首を横に倒して動きを止めた。操り人形の糸が切れたような動きで、レンフロは少し驚いたが、それには気付かない。
「…そういえば、陛下はお食事はどうされているのですか? 首を戻されるのですか?」
「ああ、私は、あまり空腹は感じない。首を据えて朝食を摂った後は食べずに過ごす」
首が傾いたまま大きく目が見開く。少し怖いなと思ったがそれを口に出すレンフロではない。
「え、一日に一食、ですか? それだけで毎日働いていらっしゃるのですか? 陛下の食料効率、素晴らし過ぎますね。私、朝も昼も夜も食べておやつと時々夜食も食べますよ。その上でだらけて働かない日だってありますし。陛下働き過ぎなのではないですか? 大丈夫ですか? お疲れになったりするのでは…あっ、そういえば精霊は眠らないとも聞きます。まさか陛下、お休みになることも…」
「いや、夜になれば眠る」
「良かったです」
一人で激しく盛り上がり、ほっと肩から力を抜く姿に、思わず笑ってしまう。
「きっとアケチの姫君は、力一杯生きているからだろう」
自分の仕事の多くは前例に従って大して考えずに決まることも多い。一食が労力に見合っているのだと、自嘲気味に思う。目の前で、瞳を輝かせながらこんなにも楽しげに生きているアンネリザを見れば、なおのこと、自分がどれだけ日々をこなしていただけかが解る。
褒められていると思える言葉に快活な笑い声で、不快さなど感じなかったが、ただ不思議できょとんとしてしまう。
「あの、生きていくのに、力を使わないのなら、何に使うのですか?」
力一杯生きる。それはアンネリザにとってあまりにも当たり前のことだった。というより、生きている以上力を使うのは生きていくこと以外に無いだろうと考えている。
ついにレンフロが腹に手を当てて笑い出した。
アンネリザとしてはどうしようもない。響く笑い声に疑問を浮かべながら、腹筋が痛いと訴えるレンフロを見守るだけだ。
立てなくなるほど笑った後で、仕切り直すように咳払いをして向き合われる。
「すまなかった」
「いえ、かまいません。たまに義兄達にもされます」
サイレントでしかし笑い過ぎてその場に崩れ落ちる長姉の夫や、涙を浮かべて謝りながらも笑い声を抑えられないでいたすぐ上の姉の夫のことが頭を過る。他の義兄達も大小の違いはあれどよく笑う。自分が笑われるに足る馬鹿なことをしでかした時もあれば、特に思い当たることがない時もある。どちらにせよアンネリザにとっては慣れっこだ。
「そうなのか」
「はい。崖のお…」
「がけのぅ?」
「す、すみません。違います。間違えました」
うっかり口を滑らせた。
コレトーが脳内で、バレるなってい言いましたよね、と激しく訴えかけてくる。とてつもない剣幕で、よりにもよってなんで国王陛下の前でやらかすんです、と責め立てられる。実際のアンネリザは談話室に入ったあたりからコレトー卒倒ものの令嬢としては大失態を国王の前で披露し続けていたのだが、彼女の中では崖の王の話がバレなければコレトーは怒らないという謎の条件付けが出来ていたので今になって脳内コレトーが騒ぎ出した。
「ごめんなさいコレトー違うのよ。ちょっと待って…そうだ!」
脳内が慌ただしくなり過ぎて思わず口に出して居もしないコレトーに謝っていた。だが、追い詰められた中に一筋の光明を見出す。
「そろそろホールに戻りませんか!」
光明とするにはあまりにもぞんざいな話題転換だったが、その真剣な様子に追求するのも躊躇われた。それに、確かに結構な時間が経っている。
「そうだな。姫は、このまま帰るか?」
バルコニーから室内に戻る。
「それとも、閉会後に帰る方が良いだろうか?」
部屋の中程で立ち止まって、向かい合う。
「このまま帰ります」
「そうか」
話題を逸らすことに無事成功したことでにこにこと満面の笑顔なアンネリザと、首のないレンフロ。二人は向かい合って、お互い見えていなくともしっかりと目が合い、見つめ合っていると思いながら立ち尽くす。
「………(にこにこにこにこ)」
「………」
アンネリザの笑顔は崩れないが、レンフロは困った顔になる。
「………姫、首を返してもらって良いだろうか」
「やっぱり駄目ですか」
なぜそのまま持って帰れると思ったのだろうか。
アンネリザは渋々レンフロに首を返す。首が据えられるのを凝視して、部屋を出て行く前にと質問を投げかけた。
「見ていると簡単に取れてしまうように見えるのですが、私が取っても簡単に取れるのですか?」
取れるといえば取れるし、取れないといえば取れない。そこはレンフロの加減次第なのだが、誰でも取れると言ったら、じゃあ取ってみても良いですか、と言われる気がした。どう答えたらいいか少し考える。
「そう簡単に取れるようでは困るな」
「まぁ、そうですよね」
はっきりと断言しない形で答えてみたが、特に断定の追求を受けることはなく。尋ねた方も頷きながら納得を示す。
「頷いたりする度に首が取れたら阿鼻叫喚ですよねきっと」
まったくその通りだとは思うが、頷く度に首が取れるという発想が無かったので、言葉を失くす。
いったいどんな阿鼻叫喚の惨状を想像しているのか、眉間に力を込めながらも、口元が抑えきれず笑みの形を取っているアンネリザ。しばらくそうしてにやにやしていたが、不意にコレトーが叫ぶ声が聞こえて現実に戻る。真っ直ぐにレンフロが見つめていた。
「あ、すみません。お引き止めして。もう大丈夫です。私はここからこっそり帰りますので」
にやけた顔を見られていたとしてもアンネリザに恥ずかしいという感情は生まれない。もはや、レンフロ相手に、今後、恥じらうということが起こり得るのか疑問である。
「では侍従に案内するよう伝えよう」
「ありがとうございます」
ドアノブに手をかけて、アンネリザを見つめる。
「また、機会があれば」
「はい。お会いできる日を心待ちにしております」
柔らかく笑うレンフロを見送って、ドアが閉まると同時に椅子へ戻る。冷めてしまったお茶を一口飲んで、今日の出来事を振り返る。
つまらない苦行の時になると思っていたが、信じられないほどの幸福な時となった。人の予想など当てにはならず、禍福は糾える縄の如しだ、と悟ったようなことを考える。
「ふひっ」
令嬢というよりも歳頃の少女としてどうかと思う笑い声が漏れた。その後は、声こそ出ないものの誰に遠慮する必要もないので、たいそうにやにやとした顔で侍従の訪れを待っていた。
ノック音の後に声をかけられ、入室の許可を答えると、見合いの席にいたカツラが入ってきた。
「お帰りの馬車までご案内いたします」
「どうも」
令嬢の仮面で取り繕って、カツラの後をついて行く。アンネリザの中で任務はもはや達成されていたし、喜ばしい出来事に意気も揚々、誰に文句を言われることもない堂々とした令嬢ぶりでの歩みである。
なかなかに奇行が印象に残っているが、社交界で評判の高いアケチの姫らしく、楚々とした様子のアンネリザをそっと確認しながら先導していく。カツラにとって、長年使えているレンフロの見たこともない穏やかな笑顔を引き出した令嬢である。気にならないはずがなかった。
とはいえ、別に主から引き止めるよう言われたわけでも、何か言付けを預かったというわけでもない。そっとその様子を見る以外にできることはない。いちおう話しかけても無礼にはならないのだが、うっかり話しかけて先日の見合いの場のように合いの手も挟めない返答を炸裂されては困るという思いが邪魔をしている。
人目を避けるように馬車まで誘導する道はもうすぐ終わるところだ。
アンネリザの視界に自分の乗ってきた馬車と、控えるコレトーの姿が入る。カツラへは一礼で案内への謝意を伝え、笑顔のまま馬車へ乗り込む。
「ご苦労様」
手伝いをしてくれるコレトーに声をかけ、さっと席に座り、カツラと礼を交わしている彼が乗り込むのを待った。
コレトーも乗り込み、戸が閉められ、軽快な蹄鉄の音を鳴らして馬車が動き出す。ついにやり遂げたという思いでアンネリザはにんまりと笑みを深くする。
「で」
その顔に、真顔でコレトーが問いかけてきた。
「何をやらかしたのです?」
「ええ!」
彼女はやり遂げたのだ。アケチ家の姉達が作り上げた評判を落とすことなく無事舞踏会の場を切り抜けた。てっきり褒められるものだとばかり思っていたのに、そんな質問をされて困惑すると共に大いに驚く。
「何故よコレトー。私ちゃんとやり遂げたのよ。そりゃあ壁の花には成れなかったけど。ちゃんと踊れたから大丈夫よ」
「踊ったのですか?!」
アンネリザの発言に今度はコレトーが驚く。その非難を込めた声音に正当な理由があったと主張する。
「陛下のお誘いを断る訳にいかないでしょう?」
「陛下…国王陛下と踊ったのですか?! ま、さか、足を踏んだりすっ転ばしたりしていないでしょうね?!」
「大丈夫だってば、ちゃんと踊れたって言ったでしょう。陛下がお上手だったからちゃんと何事もなく踊れたのよ!」
「…では、何故一人先に帰らされているんです?」
絶対にアンネリザが何かやらかしたからだと思っているコレトーには、ほかの令嬢達がまだ舞踏会に興じている中、一人帰される理由が思い浮かばない。
「それは」
どう話せばコレトーに怒られないかをしばし考えて組み立てる。
「陛下は聡明な方だわ。私が本気で結婚を考えていないことを見抜いていたの」
その事はコレトーどころか父親の方も承知の上での見合いだったので、まぁそうだろうなと頷くだけだ。
「その上で、陛下の方にも事情はあったのよ。これは私の推測だけどね。やっぱり決まってるんだと思うわ、婚約者。だから形式上開かれた舞踏会で御令嬢方の相手をして回るのは大変でしょ? そこで、結婚に興味の無い私の登場というわけ」
アンネリザは何やら得意げに自説を披露しているが、コレトーは疑いを解かない。
「私をダンス相手にして、さらに話し相手として退室することで、この舞踏会の面目を立てたのよ」
「何故、お嬢様なのですか? その確定している御令嬢で良いではありませんか」
ここでレンフロがアンネリザに好意を抱いているのでは、とならないのがコレトーの苦節の十五年を物語っている。
「そこが肝なのよ。私はいわば生贄ね」
「…なんですかそれ」
どんなに迷惑をかけられても大切な主人である。生贄という不穏な発言に思わず声が低くなる。
呆れられたり大きな声を上げられたりということはあっても、心胆を寒くするような低い声を出されたことのないアンネリザが、流石に驚いて口ごもる。
「コレトー…?」
父とそう歳の変わらない、第二の父のような、口うるさいじいやのような感覚のコレトーの不穏な顔など、初めて見た。不安になってあわあわと言葉を紡ぐ。
「その、生贄って言葉が悪かったけど、別にあれよ、一方的に私が利用されたのではないのよ。お話をして、私も早く帰りたいっていうのが陛下にも伝わったから、お互いの意見の一致をみた結果なのよ?」
「…え? 陛下にむかって早く帰りたいとか言ったんですか?」
呆れた顔をされた。だが、不穏当な顔よりもよほどましである。
「いや、はっきり言ったのではないわよ。お互い、こう、言外に察したのよ」
「お嬢様がですか?」
主に、察したという部分に引っ掛かりを覚えているらしい。すぐにそれと察して、頬を膨らませる。
「今だって貴方の疑りを察しているわよ」
「失礼いたしました」
「まったくもう」
先程の空気をすっかり消してくれたコレトーに、ほっと胸を撫で下ろしながら応じる。
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「なるほど」
アンネリザではなく、あのアケチの姫、と括られれば、国王と噂になっても確かにおかしくはないと思える。
「お嬢様は、実に偉大なお姉様方をお持ちになりましたね」
「本当にそう思うわ」
満足感でいっぱいのアンネリザと安堵感でいっぱいのコレトーを乗せ、車輪も蹄鉄も規則正しく鳴って、馬車は軽快に帰路を行く。
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