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「お返事を書かれるのですか?」
 コレトーから持ってくるよう頼んだインクを受け取りつつ、アンネリザは文机いっぱいに広げた紙を選別している。
「ええ、お父様にも許可は頂いているわ。ほら、キョウゴク・マリアンヌ様。同じサッカイ州人だし、歳も近いの、あちらの方がお一つ上なだけ。舞踏会にもいらしたのですって」
「キョウゴク家の二の姫様ですね」
 アケチ領がサッカイ州の南部でかつ西端にあるのに対し、キョウゴク家は中央部にある伯爵位の名家である。家同士の特別な交流はないが、サッカイ州では広く知られた家であるので、コレトーは知っていた。アンネリザもキョウゴク家の家名は聞いたことがあるのだが、マリアンヌがキョウゴク家のどういった立場なのかまでは知らなかった。
「あら、知ってるの?」
「高名ですから、まぁ、多少の話は入っています。確か、一の姫様は王都でお暮らしですが、二の姫様は州内でお暮らしですよ」
「まぁ、じゃあ、文のやりとりもし易いわね。あ、ねぇ、コレトーこの紙とインクの組み合わせ、どう思う?」
 薄紅の紙と濃紅のインクを並べて示す。
「春めいているなと感じます」
「やっぱり? カラマリシカの花がお好きって書いてあったから、選んだのだけど…やっぱり初めてのお返事で時節を外すのはやめた方が良いかなぁ。うーん、インクを変えてもこれだと初秋というより晩秋ね、もうすこし明るい華やかさにするには、散らしか透かしに変えて………」
 カラマリシカは初夏に花を咲かせる樹木である。白い木肌に、走る罅が濃紅で、花弁は可憐な八重で、薄紅の花を咲かせる。香りは柑橘の皮に似た爽やかな甘さがある。
 単純に色でカラマリシカの花を表そうとすると、残念ながら、春の色使いとなってしまう。だが、インクを初秋という今の季節に合わせると、紙の色と合わせて晩秋と成る。逆にインクを変えずに紙を変えると、白い紙が初秋らしくて良いのだが、それだとカラマリシカの木肌は表現出来るが肝心の花がどこにも居なくなる。初秋らしい色使いで、だが、花をなんとかして表したい。
 手持ちの白系統の紙をあれこれと見ているアンネリザに、ふと思い出したコレトーが声をかける。
「カラマリシカの文香は、次姫様がお持ちだったと思いますよ」
「本当!」
 思いがけない助け舟にその目が煌く。カラマリシカの木肌と同じ初秋の組み合わせに、カラマリシカの文香を合わせられるなら、時節を外さずにマリアンヌの好きな花を印象づけられる。
「少なくとも半年前にはお持ちでした」
「ちょっと訊いてくるわ! ありがとうコレトー!」
 コレトーの言葉に、姉タータミーナの次女ミノレッタの元へ駆け出す。もっとも、駆け出してもミノレッタの部屋はアンネリザの向かいなので、すぐに止まるのだが。
 ノックをして声をかけるが、返事がない。
(あら? お出かけかしら?)
 念のためもう一度ノックをしたが、やはり誰も居ないようだった。本人が不在でも、掃除などのために人が出入りできるべきだが、ノブに手をかけると鍵が掛かっていた。
(もしかして西の家にお帰りになってしまったのかしら…?)
 アケチ家は、もともと南部西端の辺境に領地を持っていた。その隣には四倍以上の領地を持つ伯爵家が居たのだが、不正による家名の剥奪に伴い領地が解体の上、隣接する五人の伯爵に割譲されることとなった。結果、アケチ領は突然東に倍近く領地が拡大したのだ。そのため、アケチ家の屋敷位置は領内全体を見た際にだいぶ西に寄っている。領地経営上耳目が行き届かなくなっても困るため、東側の拠点として、元の伯爵の別荘だったものを改築し、一年の半分ほどを過ごす西の家ができたのだ。
 そして、今その西の家には、基本的にタータミーナ夫婦とその子供達が滞在している。まだ爵位を継いでは居ないが、領主代行として東側の領地経営などを担っているのだ。
 ちなみに、領地の東側にある家が西の家と呼ばれているのは、領地の西を意味しているのではなく、領内の大きな湖の西畔にある家という意味だからである。
(でも、今朝はそんなこと何も…)
 昨晩の食卓には友人宅にて過ごしたらしいミノレッタは居なかったが、今朝早くに戻ってきた。朝食を一緒に摂ったのだ。その時には、夜通し友人の悩み相談に乗っていてろくに寝ていないからこの朝食の後は眠るつもりだ、と言っていた。
 もしこの部屋の主であるミノレッタが眠っているなら、侍従であるサンドラが応対してくれるはずである。だが、その彼女も出てこない。
 首を傾げて自分の部屋に戻ろうか悩んでいると、母のオリエに声をかけられる。
「アン? 何をしているの?」
「あ、お母様。レッタが居ないみたいなんだけど。お姉様達って、もしかしてもう帰ってしまったの?」
 ちょうど良い、母ならば絶対に事情を知っているはずだ、と期待を込めて声をかけたのだが、まず返ってきたのは呆れたという表情と溜息だった。
 そうした顔をされることはそれほど珍しくないし、概ねアンネリザに非があることが大半なので傷つきはしない。が、思い当たる理由もないため、困った顔で首傾げてしまう。
「いやね、もう、今朝話したでしょう? しばらく下の階に移るって」
 娘の顔から何も解っていないと正確に読み取って、呆れつつもちゃんと事情を話した。
「え? あ! 花嫁修業!」
 アケチ家に突如降り注いた文の嵐に対応するべく姉夫婦が来たことは解っていたが、そこにミノレッタが一緒だった理由は今朝の朝食時に発表された。というか、姉夫婦とは全く関係無くミノレッタ自身の事情でここに来ていたのである。そう、アンネリザよりも三歳上のミノレッタは、年が明けてすぐに商隊宿を営む子爵の家へ嫁ぐことが決まったのだ。
(ああ、そういえば、言ってたわ…ちょうど当たりのマリットを食べてて流してしまってたけど)
 朝食で、マリットという基本的に甘くて美味しい果実を口に放り込んだ時に、確かにミノレッタの結婚の日取りが決まったから花嫁修業に入る、と言っていた。ただ、百個に一個位の割合である、当たりのマリット、という異常に酸っぱいそれに意識を持って行かれていたので、記憶を掘り返すまで思い出せなかったのだ。
 何かと女性陣の名が他人の口に上るアケチ家は、嫁ぎ先が決まると、先達からの有難い花嫁修業がつけてもらえる。まぁ、アンネリザは絶対に受けたくないと思っているが。
 もともと家と家を繋ぐ為に結婚することが当たり前に近い貴族にとって、結婚に夢ばかり見て舞い上がってしまうととても危険である。場合によっては嫁いだ直後に心労で寝付くことだってある。そうした現実的な労苦や対処方法、心構えを伝授されるのが、花嫁修業である。
(よりによって最後の一つが当たりだったから今朝の食事の印象は全部持っていかれてしまったのよね。そういえば、なんで当たりなのかしら。どちらかというと外れよね。でも、外れのマリットって言い方聞いたことないわ)
 始まってしまった母の小言をしれっと右から左に流しつつ、マリットへ思いを馳せる。
「どうして貴方はいつもそう注意散漫なのかしら。好奇心が旺盛なのを否定はしないけど、もう少し年相応に慎みや配慮ってものもそろそろ身に付けなさいな。貴方にだって無関係なことではないのよ。もう世間では立派に淑女として扱われる歳なのですからね。今回の国王陛下とのお見合いにしたって、本当に失礼はなかったのか、母は心配で心配で…。とかく近頃は令嬢とは、女性とは、かくあるべきって型に人を当て嵌めるなんて良くないという考え方が高まっているようだし、私も貴方を型に嵌めたいだなんて思ってはいないのよ、でもね」
 何度も同じことを言われていると、申し訳なさはあるが、どうしてもまともに聞く気にはなれない。正直アンネリザの中では改善を続けているし、少なくとも外面だけはどんどんまともにしているのだ。外で頑張った分気を抜いている家の中の態度でくどくど小言を言われてしまうと、色々な気力が削がれていく。
 そんな、うんざりを内側に秘めたアンネリザの表情を的確に見抜いた母の視線が鋭くなる。
「聞いているのですか?」
「勿論です」
 ミノレッタに文香を分けてもらおうと考えただけなのに、何故こんなことになっているのか。ションボリと心の中で肩を落とす。
 結局、帰りの遅い主人を心配したコレトーが廊下に出てきてとりなしてくれるまで、十五分ほどお小言を頂戴するはめとなった。
 ちなみに娘と孫の部屋しかない二階へ母がやってきた理由は、アキコとユキコをミノレッタの花嫁修業見学に呼ぶ事だった。誰かに頼めばいいのにと思いつつも口には出せないアンネリザの不満顔にまた母の小言が始まりそうになったが、今度は姪達が救いに来てくれた。
 一目でアンネリザの窮地に気付いた妹分達は、笑顔でオリエを取り囲むとミノレッタの花嫁修業見学が楽しみだと口々に言い合う。
(さすがよ二人共!)
 そっと目配せされた二人の視線に感謝を込めて頷く。可愛い孫達に両脇から挟まれて、嬉しそうに一階へ降りていく母の後から、なるべく刺激しないようにと心がけ静々と付いていく。文香を諦める気はないのだ。
 母達三人がミノレッタと話している間に、そっとサンドラに近付く。文香の有無を確認し、分けてもらえるよう頼む。母が孫達と話している隙にさっとミノレッタに確認を取り、許可を取り付けてくれ、文香を渡してくれた。ぎゅっとサンドラの手を握って礼を告げ、ミノレッタへの言付けも頼む。
「ありがとうって伝えておいて」
「畏まりました」
 ミノレッタ共々一階の部屋に移っていた文香も無事に受け取れたため、母に再び捕まる前にそそくさと花嫁修業部屋を飛び出す。
「まったく、お前は」
「申し訳ありません」
 飛び出した結果、ぶつかった父から小言を頂くことになった。
「どうしてそう粗忽なのだ。本当に陛下の前で何もしでかさなかったのだろうな」
「しておりません! 私キョウゴクの姫様への文を書かねばなりませんので、これで!」
 ただ、母とは違い父の小言はその後で倍になったりしないので、逃避可能である。言い捨ててささっと二階への道を小走りで上がる。背後から、だから走るな、という声がしたが聞こえなかったふりで自室へ滑り込む。
「ふぅ、まったくお父様もお母様も私の顔を見れば小言を言わなきゃ気が済まないのかしら」
 どちらもアンネリザが小言を言わせるような行動をとっていたからだが、とりあえずそれらは棚に上げて独り言つ。
(さてと、これで物は出揃ったわね…どうするかなぁ)
 文香を文箱に入れ、紙とインクを再び考えていると、おそらく父にフォローを入れた上で走らずに戻ってきたのだろうコレトーがノックの上で入室の許可を求めてきた。一々確認しなくてもコレトーなら勝手に入って良いわよ、と思っているアンネリザである。当然入室の許可を出す。
「ありがとうコレトー。おかげでいい文が書けそうよ」
 入ってきた足音に、特にそちらへ視線を向けることもなく言う。
「それはよろしゅうございました。ですが、お嬢様、その、少々手を止めていただけますか」
 返事が予想外で、顔を上げた。
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