32 / 45
32.
しおりを挟む
王命に叛意と言われ、事実そうなりかねない事態だった事にようやく気が付いたクランド家は、馬車をただ見送る他無い。
(侍従長殿が文箱をお持ち下さった事で私と陛下が文をやりとりする仲であると周知できたから、マツが強気でも特に禍根にはならないはずよね)
元来侍従には付き従っている主の護衛、最終的な盾と剣の役割がある。都貴族の間ではここ百年ほど、容姿のみに重点を置いた採用が流行っているが、殆ど生命の危機というものが日常的でなくなった今でも、地方では顕著にその習慣が残っている。マツが殺気じみたものを纏ってクランド家の前に立ち塞がったのも腕に覚えがあるからだ。
(それにしても…王城召喚という形だったのが私だけなのは知ってたけど…そこを忘れられるとは思わなかったわ。何も去り際まで絡んで来なくてもって思ったけど、まぁ、忘れてたのなら仕方がないのかしら? 多分様子を伺いつつも絡んでこなかった方々は王城召喚の事を理解されていたからよね。クランド家の………誰も教えてあげなかったのか、こちらの出方を見ていたのか、前者だとすると、なんというか、まぁ、どうでも良いか)
アンネリザは先程までの事態をつらつらと思い起こしていたが、ぐっと肩を竦め、溜息と共に力を抜いた瞬間に忘れる事にした。
(もう終わった事よ。私が気を配る事ではないわ)
それよりも楽しい事を考えようと、レンフロからの文箱と下賜品を座面に並べてじっと見つめる。動いている馬車の中で開封する気は無いのだが、下賜品の箱をそっと動かして、耳を当てて音を確認したりしつつ想像を膨らませた。
(考えてみれば、私、陛下に随分と色々な無礼を働いたのに、立場が有用だからという事で大分美味しい目に遭っているわ………)
下賜品の箱を見つめて何やら考え込むように固まったアンネリザに気付きコレトーが声を掛けようとすると、いつぞやレンフロを驚かせた操り人形の糸が切れたような様で首を向けてきた。
「…何か、ありましたか?」
「そうではないのよコレトー…何というか…禍福は糾える縄の如しというでしょう?」
「はぁ、申しますね」
「私、この王城での日々がとても楽しかったのよ」
「はい」
「つまりこの先何かの禍が私に降りかかるのではないかしら?」
ちょっと思考に飛躍がみられると思ったが、コレトーはそれよりも思い至る事があって内心で溜息を吐く。
アケチ家の女性陣、といっても、ファリスター家から嫁いできた姉妹、先妻のオトエとその妹であるオリエ、そしてその娘達にのみ現れている癖のようなものなのだが。年に僅かな短期間、妙に何事も後ろ向きに捉え不安そうにする時期があるのだ。
普段から心配症なコルテンタやシレーナだけではなく、自信を積み上げて努力で固めたのが私よと言わんばかりのアリエーナですら陥る癖だ。無論アンネリザにも訪れる。
そして、この期間に入ったアケチの女性に、何かをいうのは無駄であり、逆効果だ。口を引き結んで、コレトーはとろとろと言葉を紡ぎ続けるアンネリザを見守る事に徹した。
「困った事も…あったわよね、あったはずよ…でも、どうなのかしら…私総合的に楽しくて面白くて興奮と感動に満ち溢れていたような気がするわ………お土産までもらって、観光まで出来て、しかもアケチの出費は無し、どころか私の懐はぽっかぽか…これ、もう、私だけに降りかかる禍で済むのかしら…アケチ家にまで禍を引き寄せるんじゃ」
いつものアンネリザならば今日寝て、明日起きれば戻っているだろう。城での滞在中にこうならなくて良かった。そんな事を考えつつ、呟き続ける主を見ていると。
「あら?」
急に宙を見上げて呟きが止まる。
コレトーは、今までに見た事の無い反応に見守るに徹していた姿勢を思わず解いた。
「今、陛下のお声がしたわよね?」
「………いえ」
無事に乗り越えたと思ったが、主の身に何かが起きたのかもしれない、聞こえないはずの声を聞くようになってしまった。そう感じつつ頬を青くして否定したコレトーだったが、その時確かに声が聞こえる。
「姫? その、聞こえるだろうか?」
「はい。陛下。聞こえております」
コレトーは、馬車の音に紛れて聞こえなかっただけで本当に話しかけられていたのか、と胸を撫で下ろした。
「どうかなさいましたか?」
「え? あぁいや…先ほどクランド家に声をかけられていたようだが、大事無いだろうか?」
「お茶に誘われたのですが、急ぎますのでとお断りしただけですから大丈夫です」
この時、アンネリザがいつもの通りだったのならば、気付く事が出来たかもしれない。自分が聞いた声をコレトーが聞いていなかった事や、どうかしたかと問いかけられたレンフロが戸惑うように言葉を探した事に。
「そうか。それならば、良かった。道中、慣れぬ道で苦労する事もあるだろうが、どうか気を付けて」
「………それは、予言ですか?」
「ん?」
アンネリザの思いがけない切り返しに、レンフロが言葉を失くす。
「お嬢様、何を仰っているのですか」
普段ならば会話の邪魔などしないコレトーも、流石に口を挟んだ。
だが、アンネリザは、焦点の定まらない目で宙を見上げて続ける。
「私、この旅で苦労をするのですね。花の館で過ごした楽しい日々の反動がこの旅路で現れるのですね」
「え?」
「いいえ、それならばそれで構わないのです。私だけが苦労をしてアケチ家に禍が降りかからないのならば、素晴らしい事です。旅路の苦労どんと来い!」
「申し訳ございません陛下、お嬢様は楽しかった日々との別れがお辛いようで、少々混乱しておいででして」
コレトーもそこそこ混乱している。
だが、レンフロにとっては、アンネリザが予想の範疇に無い反応をする事にはもう慣れ始めてしまったので、特に気にしていない。それよりも、意外だった言葉があった。
「姫は…花の館での生活が楽しかったのか?」
「はい。それはもうとても」
間髪入れぬ返答に、一瞬沈黙してしまったが、レンフロは心底から感心していた。
「…貴方が置かれた状況は、傍目にみれば苦労の多い立場だったはずだ。その日々が楽しかったのであれば、きっと、旅路の苦労とて、楽しいものに変わるのではないだろうか」
ふと落ちた沈黙の後で、優しげな微笑みが思い浮かぶような声で言われ、アンネリザはぱちりと瞬きをした。その視点はしっかりと定まっている。
「然様ですね」
憑き物が落ちたようなすっきりとした顔で、アンネリザが返事をするのを聞いて、コレトーは思わずぽかんとしてしまった。
「何だか大丈夫な気がしてまいりました。ありがとうございます、陛下」
「いや。道中が健やかであるよう祈っている。また、会える事も」
「はい。私も、また会える日を楽しみにしております。どうぞ、陛下もお疲れの出ませんようお過ごしなさってくださいませ」
しばしの沈黙が落ちた馬車の中で、怖々とコレトーが口を開く。
「あの、お嬢様?」
「なあに?」
「大丈夫ですか?」
「私の事? 別に体調は崩していないけど?」
「いえ、旅の道中の事を気にされていたので」
「ああ、大丈夫よ。陛下が仰るのだもの」
「はあ、然様で」
陛下は別に預言者ではないでしょう、とは思ったが、口に出してまたあの癖が戻ってきても困ると考えたコレトーは口を噤んだ。
(あの状態のお嬢様が一瞬で復活されたな…さすが陛下ということだろうか)
単純に主従というだけではなく、アケチ伯も大分レンフロ贔屓だが、アンネリザからも同じモノを感じる。ただ、父と娘の間には大いなる隔たりがある気もするが。
(なにはともあれ、帰路に着けて良かった。後はひたすらアケチ領へ向かうだけだ)
内心で胸を撫で下ろしたコレトーと、そんな侍従には気付かずにすっかり元気になったアンネリザを乗せた馬車は、軽快に道を行く。
もっとも、半日後にはまだ王領内の外区と呼ばれる王都に隣接する街中で一泊するのだが。
「外区っていつも通り過ぎるだけだったけれど。立ち止まってみると、活気があって楽しそうな場所ね」
王都内で昼食をとり、王都を出て外区の宿泊施設に入ったアンネリザは、普段ならば泊まる事のない外区での一泊を楽しんでいた。今も窓からそっと外を見下ろしている。
「然様ですか。流石にお解りかとは思いますが、花の館のように夜出歩くような事はなさらないよう」
「ここで色々したら陛下が付けて下さった護衛の方にご迷惑だから自重しろというのでしょう? ちゃんと解っているわよ」
「いえ、外区は通り一本の違いで治安が悪化しますので、どんな状況であっても好き勝手に出歩かないでください」
「それも解ってます。色々な方に釘をさされたもの」
花の館の帰りがけに背筋を走った不快さは、流石に本気でアンネリザの心に自重する気持ちを生んでいた。
(他人から向けられる悪意なんて、今日はもうお腹いっぱいだわ)
そうした訳で、大人しく部屋で寛いでいたアンネリザの元に、ミコトが訪ねてきたのは、夕食の少し前だった。
「このような時間に、ごめんなさいね」
「いいえ。またお会いできて嬉しいです」
アンネリザとミコトは応接部屋の小ぶりなテーブルを挟んで向かい合っている。
「実は、すぐにでもお渡ししたいと思って、追いかけてしまいました」
そう言った笑顔のミコトは、小ぶりな包を示して見せる。
はて、と一瞬首を傾げたアンネリザだったが、すぐに思い至って笑みを浮かべた。
「もしや!」
「はい。我がジンライ家秘蔵の手記の写しですわ」
そっとテーブルの中程に置かれた包に、はしたないとは思いつつも抑えきれずにすぐに手を伸ばしてしまう。だが、そっとその手をミコトの手が包んだ。
「これは、我が家にとって、誰にでも易々と差し出せるものではございません」
「はい」
「ふふ。そんなに悲しそうな顔をなさらないでくださいな。大した事ではないのです。ただ、姫様の秘密も、何か、教えていただけないかしら、と思っているのです」
「…私の、秘密、ですか?」
「ええ、秘密の交換です、ね」
「秘密の交換…」
アンネリザはそっと目を伏せると僅かに考え込む。
(さぁ、姫様は何を私に教えてくださるのかしら、ね)
扇子を開き、身を乗り出したアンネリザに、ミコトもそっと体を傾けて耳を近付けた。
「私、実は、山羊に乗れますの」
「………」
(あ、そっち、ですの)
ほいほいとレンフロとの連絡方法を打ち明けてもらえるとは思っていなかったが、まさか山羊乗りの告白もされるとは考えていなかった。ミコトは、思わずどう切り返せば良いのか迷って無言になってしまった。
その沈黙をどう受け止めたのか、アンネリザは山羊の説明を始める。
「あ、あの、山羊といいましても、こちらのキール種の山羊とは違うのです。ヤヤ種と申しまして、サッカイ州の山羊は大型なのです」
「ええ、存じておりますよ。馬にも似た大きさだとか」
「はい! 大きさは小型の馬に似ておりますが、足は小さくて、でも、力は強いのですよ。岩場の崖のような場所でもひょひょいと駆け登る事ができまして。角を使って誘導する事もできますし、崖登りにつきましては私ちょっとしたものなのです」
存じておりますよ、とは言えず、ミコトは笑顔で頷くだけだ。
その反応に、否定的な色が無い事に気付いたアンネリザは、ミコトの手に自分の手を重ね、顔に喜色を浮かべてさらに言い募る。
「それにですね、私」
「お茶をお持ちしました」
普段ならば主人の言葉を遮るようなタイミングでお茶を持って来はしないコレトーが、すぐそこに笑顔で立っていた。
「なんでもございませんわ」
明らかに何か言いそうだったが、きゅっと口を噤んだアンネリザは、包からもミコトの手からも手を退いて、そっと自分の腿に乗せて姿勢を正した。
やりとりからもうこれ以上は無いと察したミコトも、時間を理由にすぐに帰っていった。
「ほいほいお話にならないで下さい」
「秘密の交換だったのよ…お互いに黙っていましょうねって事だから大丈夫よ」
ミコトが帰ってすぐは不満顔のアンネリザだったが、包から写しを取り出してからはひたすら上機嫌で読み耽る事になる。どれくらい耽ったかというと、翌日の馬車の中で船を漕ぐほどだ。
(侍従長殿が文箱をお持ち下さった事で私と陛下が文をやりとりする仲であると周知できたから、マツが強気でも特に禍根にはならないはずよね)
元来侍従には付き従っている主の護衛、最終的な盾と剣の役割がある。都貴族の間ではここ百年ほど、容姿のみに重点を置いた採用が流行っているが、殆ど生命の危機というものが日常的でなくなった今でも、地方では顕著にその習慣が残っている。マツが殺気じみたものを纏ってクランド家の前に立ち塞がったのも腕に覚えがあるからだ。
(それにしても…王城召喚という形だったのが私だけなのは知ってたけど…そこを忘れられるとは思わなかったわ。何も去り際まで絡んで来なくてもって思ったけど、まぁ、忘れてたのなら仕方がないのかしら? 多分様子を伺いつつも絡んでこなかった方々は王城召喚の事を理解されていたからよね。クランド家の………誰も教えてあげなかったのか、こちらの出方を見ていたのか、前者だとすると、なんというか、まぁ、どうでも良いか)
アンネリザは先程までの事態をつらつらと思い起こしていたが、ぐっと肩を竦め、溜息と共に力を抜いた瞬間に忘れる事にした。
(もう終わった事よ。私が気を配る事ではないわ)
それよりも楽しい事を考えようと、レンフロからの文箱と下賜品を座面に並べてじっと見つめる。動いている馬車の中で開封する気は無いのだが、下賜品の箱をそっと動かして、耳を当てて音を確認したりしつつ想像を膨らませた。
(考えてみれば、私、陛下に随分と色々な無礼を働いたのに、立場が有用だからという事で大分美味しい目に遭っているわ………)
下賜品の箱を見つめて何やら考え込むように固まったアンネリザに気付きコレトーが声を掛けようとすると、いつぞやレンフロを驚かせた操り人形の糸が切れたような様で首を向けてきた。
「…何か、ありましたか?」
「そうではないのよコレトー…何というか…禍福は糾える縄の如しというでしょう?」
「はぁ、申しますね」
「私、この王城での日々がとても楽しかったのよ」
「はい」
「つまりこの先何かの禍が私に降りかかるのではないかしら?」
ちょっと思考に飛躍がみられると思ったが、コレトーはそれよりも思い至る事があって内心で溜息を吐く。
アケチ家の女性陣、といっても、ファリスター家から嫁いできた姉妹、先妻のオトエとその妹であるオリエ、そしてその娘達にのみ現れている癖のようなものなのだが。年に僅かな短期間、妙に何事も後ろ向きに捉え不安そうにする時期があるのだ。
普段から心配症なコルテンタやシレーナだけではなく、自信を積み上げて努力で固めたのが私よと言わんばかりのアリエーナですら陥る癖だ。無論アンネリザにも訪れる。
そして、この期間に入ったアケチの女性に、何かをいうのは無駄であり、逆効果だ。口を引き結んで、コレトーはとろとろと言葉を紡ぎ続けるアンネリザを見守る事に徹した。
「困った事も…あったわよね、あったはずよ…でも、どうなのかしら…私総合的に楽しくて面白くて興奮と感動に満ち溢れていたような気がするわ………お土産までもらって、観光まで出来て、しかもアケチの出費は無し、どころか私の懐はぽっかぽか…これ、もう、私だけに降りかかる禍で済むのかしら…アケチ家にまで禍を引き寄せるんじゃ」
いつものアンネリザならば今日寝て、明日起きれば戻っているだろう。城での滞在中にこうならなくて良かった。そんな事を考えつつ、呟き続ける主を見ていると。
「あら?」
急に宙を見上げて呟きが止まる。
コレトーは、今までに見た事の無い反応に見守るに徹していた姿勢を思わず解いた。
「今、陛下のお声がしたわよね?」
「………いえ」
無事に乗り越えたと思ったが、主の身に何かが起きたのかもしれない、聞こえないはずの声を聞くようになってしまった。そう感じつつ頬を青くして否定したコレトーだったが、その時確かに声が聞こえる。
「姫? その、聞こえるだろうか?」
「はい。陛下。聞こえております」
コレトーは、馬車の音に紛れて聞こえなかっただけで本当に話しかけられていたのか、と胸を撫で下ろした。
「どうかなさいましたか?」
「え? あぁいや…先ほどクランド家に声をかけられていたようだが、大事無いだろうか?」
「お茶に誘われたのですが、急ぎますのでとお断りしただけですから大丈夫です」
この時、アンネリザがいつもの通りだったのならば、気付く事が出来たかもしれない。自分が聞いた声をコレトーが聞いていなかった事や、どうかしたかと問いかけられたレンフロが戸惑うように言葉を探した事に。
「そうか。それならば、良かった。道中、慣れぬ道で苦労する事もあるだろうが、どうか気を付けて」
「………それは、予言ですか?」
「ん?」
アンネリザの思いがけない切り返しに、レンフロが言葉を失くす。
「お嬢様、何を仰っているのですか」
普段ならば会話の邪魔などしないコレトーも、流石に口を挟んだ。
だが、アンネリザは、焦点の定まらない目で宙を見上げて続ける。
「私、この旅で苦労をするのですね。花の館で過ごした楽しい日々の反動がこの旅路で現れるのですね」
「え?」
「いいえ、それならばそれで構わないのです。私だけが苦労をしてアケチ家に禍が降りかからないのならば、素晴らしい事です。旅路の苦労どんと来い!」
「申し訳ございません陛下、お嬢様は楽しかった日々との別れがお辛いようで、少々混乱しておいででして」
コレトーもそこそこ混乱している。
だが、レンフロにとっては、アンネリザが予想の範疇に無い反応をする事にはもう慣れ始めてしまったので、特に気にしていない。それよりも、意外だった言葉があった。
「姫は…花の館での生活が楽しかったのか?」
「はい。それはもうとても」
間髪入れぬ返答に、一瞬沈黙してしまったが、レンフロは心底から感心していた。
「…貴方が置かれた状況は、傍目にみれば苦労の多い立場だったはずだ。その日々が楽しかったのであれば、きっと、旅路の苦労とて、楽しいものに変わるのではないだろうか」
ふと落ちた沈黙の後で、優しげな微笑みが思い浮かぶような声で言われ、アンネリザはぱちりと瞬きをした。その視点はしっかりと定まっている。
「然様ですね」
憑き物が落ちたようなすっきりとした顔で、アンネリザが返事をするのを聞いて、コレトーは思わずぽかんとしてしまった。
「何だか大丈夫な気がしてまいりました。ありがとうございます、陛下」
「いや。道中が健やかであるよう祈っている。また、会える事も」
「はい。私も、また会える日を楽しみにしております。どうぞ、陛下もお疲れの出ませんようお過ごしなさってくださいませ」
しばしの沈黙が落ちた馬車の中で、怖々とコレトーが口を開く。
「あの、お嬢様?」
「なあに?」
「大丈夫ですか?」
「私の事? 別に体調は崩していないけど?」
「いえ、旅の道中の事を気にされていたので」
「ああ、大丈夫よ。陛下が仰るのだもの」
「はあ、然様で」
陛下は別に預言者ではないでしょう、とは思ったが、口に出してまたあの癖が戻ってきても困ると考えたコレトーは口を噤んだ。
(あの状態のお嬢様が一瞬で復活されたな…さすが陛下ということだろうか)
単純に主従というだけではなく、アケチ伯も大分レンフロ贔屓だが、アンネリザからも同じモノを感じる。ただ、父と娘の間には大いなる隔たりがある気もするが。
(なにはともあれ、帰路に着けて良かった。後はひたすらアケチ領へ向かうだけだ)
内心で胸を撫で下ろしたコレトーと、そんな侍従には気付かずにすっかり元気になったアンネリザを乗せた馬車は、軽快に道を行く。
もっとも、半日後にはまだ王領内の外区と呼ばれる王都に隣接する街中で一泊するのだが。
「外区っていつも通り過ぎるだけだったけれど。立ち止まってみると、活気があって楽しそうな場所ね」
王都内で昼食をとり、王都を出て外区の宿泊施設に入ったアンネリザは、普段ならば泊まる事のない外区での一泊を楽しんでいた。今も窓からそっと外を見下ろしている。
「然様ですか。流石にお解りかとは思いますが、花の館のように夜出歩くような事はなさらないよう」
「ここで色々したら陛下が付けて下さった護衛の方にご迷惑だから自重しろというのでしょう? ちゃんと解っているわよ」
「いえ、外区は通り一本の違いで治安が悪化しますので、どんな状況であっても好き勝手に出歩かないでください」
「それも解ってます。色々な方に釘をさされたもの」
花の館の帰りがけに背筋を走った不快さは、流石に本気でアンネリザの心に自重する気持ちを生んでいた。
(他人から向けられる悪意なんて、今日はもうお腹いっぱいだわ)
そうした訳で、大人しく部屋で寛いでいたアンネリザの元に、ミコトが訪ねてきたのは、夕食の少し前だった。
「このような時間に、ごめんなさいね」
「いいえ。またお会いできて嬉しいです」
アンネリザとミコトは応接部屋の小ぶりなテーブルを挟んで向かい合っている。
「実は、すぐにでもお渡ししたいと思って、追いかけてしまいました」
そう言った笑顔のミコトは、小ぶりな包を示して見せる。
はて、と一瞬首を傾げたアンネリザだったが、すぐに思い至って笑みを浮かべた。
「もしや!」
「はい。我がジンライ家秘蔵の手記の写しですわ」
そっとテーブルの中程に置かれた包に、はしたないとは思いつつも抑えきれずにすぐに手を伸ばしてしまう。だが、そっとその手をミコトの手が包んだ。
「これは、我が家にとって、誰にでも易々と差し出せるものではございません」
「はい」
「ふふ。そんなに悲しそうな顔をなさらないでくださいな。大した事ではないのです。ただ、姫様の秘密も、何か、教えていただけないかしら、と思っているのです」
「…私の、秘密、ですか?」
「ええ、秘密の交換です、ね」
「秘密の交換…」
アンネリザはそっと目を伏せると僅かに考え込む。
(さぁ、姫様は何を私に教えてくださるのかしら、ね)
扇子を開き、身を乗り出したアンネリザに、ミコトもそっと体を傾けて耳を近付けた。
「私、実は、山羊に乗れますの」
「………」
(あ、そっち、ですの)
ほいほいとレンフロとの連絡方法を打ち明けてもらえるとは思っていなかったが、まさか山羊乗りの告白もされるとは考えていなかった。ミコトは、思わずどう切り返せば良いのか迷って無言になってしまった。
その沈黙をどう受け止めたのか、アンネリザは山羊の説明を始める。
「あ、あの、山羊といいましても、こちらのキール種の山羊とは違うのです。ヤヤ種と申しまして、サッカイ州の山羊は大型なのです」
「ええ、存じておりますよ。馬にも似た大きさだとか」
「はい! 大きさは小型の馬に似ておりますが、足は小さくて、でも、力は強いのですよ。岩場の崖のような場所でもひょひょいと駆け登る事ができまして。角を使って誘導する事もできますし、崖登りにつきましては私ちょっとしたものなのです」
存じておりますよ、とは言えず、ミコトは笑顔で頷くだけだ。
その反応に、否定的な色が無い事に気付いたアンネリザは、ミコトの手に自分の手を重ね、顔に喜色を浮かべてさらに言い募る。
「それにですね、私」
「お茶をお持ちしました」
普段ならば主人の言葉を遮るようなタイミングでお茶を持って来はしないコレトーが、すぐそこに笑顔で立っていた。
「なんでもございませんわ」
明らかに何か言いそうだったが、きゅっと口を噤んだアンネリザは、包からもミコトの手からも手を退いて、そっと自分の腿に乗せて姿勢を正した。
やりとりからもうこれ以上は無いと察したミコトも、時間を理由にすぐに帰っていった。
「ほいほいお話にならないで下さい」
「秘密の交換だったのよ…お互いに黙っていましょうねって事だから大丈夫よ」
ミコトが帰ってすぐは不満顔のアンネリザだったが、包から写しを取り出してからはひたすら上機嫌で読み耽る事になる。どれくらい耽ったかというと、翌日の馬車の中で船を漕ぐほどだ。
0
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
目覚めたら公爵夫人でしたが夫に冷遇されているようです
MIRICO
恋愛
フィオナは没落寸前のブルイエ家の長女。体調が悪く早めに眠ったら、目が覚めた時、夫のいる公爵夫人セレスティーヌになっていた。
しかし、夫のクラウディオは、妻に冷たく視線を合わせようともしない。
フィオナはセレスティーヌの体を乗っ取ったことをクラウディオに気付かれまいと会う回数を減らし、セレスティーヌの体に入ってしまった原因を探そうとするが、原因が分からぬままセレスティーヌの姉の子がやってきて世話をすることに。
クラウディオはいつもと違う様子のセレスティーヌが気になり始めて……。
ざまあ系ではありません。恋愛中心でもないです。事件中心軽く恋愛くらいです。
番外編は暗い話がありますので、苦手な方はお気を付けください。
ご感想ありがとうございます!!
誤字脱字等もお知らせくださりありがとうございます。順次修正させていただきます。
小説家になろう様に掲載済みです。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
十六歳の妹の誕生日、私はこの世を去る。
あいみ
恋愛
碌に手入れもされていない赤毛の伯爵令嬢、スカーレット。
宝石のように澄んだ青い髪をした伯爵令嬢、ルビア。
対極のような二人は姉妹。母親の違う。
お世辞にも美しいと言えない前妻の子供であるスカーレットは誰からも愛されない。
そばかすだらけで、笑顔が苦手な醜い姉。
天使のように愛らしく、誰からも好かれる可愛い妹。
生まれつき体の弱いルビアは長くは生きられないと宣告されていた。
両親の必死に看病や、“婚約者の献身的なサポート”のおかげで、日常生活が送れるようになるまで回復した。
だが……。運命とは残酷である。
ルビアの元に死神から知らせが届く。
十六歳の誕生日、ルビアの魂は天に還る、と。
美しい愛しているルビア。
失いたくない。殺されてなるものか。
それぞれのルビアを大切に思う想いが、一つの選択をさせた。
生まれてくる価値のなかった、醜いスカーレットを代わりに殺そう、と。
これは彼女が死ぬ前と死んだ後の、少しの物語。
あなたの幸せを祈ってる
あんど もあ
ファンタジー
ルイーゼは、双子の妹ローゼリアが病弱に生まれたために、「お前は丈夫だから」と15年間あらゆる事を我慢させられて来た。……のだが、本人は我慢させられていると言う自覚が全く無い。とうとう我慢のしすぎで命の危機となってしまい、意図せぬざまぁを招くのだった。
ドアマットだと自覚してないドアマット令嬢のお話。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる