菩提樹の猫

無一物

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1章 伯爵令息を護衛せよ

6 解くことのできない誤解

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「お帰り、大丈夫だった?」

 宿の部屋に行くと、アンドレイが心配そうにレネを出迎える。デニスはレネが帰ってきても、剣の手入れの手を止めることもなく無関心だ。

「レネっ、口元に血がついてる! まさか……怪我させられたのっ⁉」

 カレルに噛み付いた時のものだ。

「違う。大丈夫だから」

 イライラした気持ちのままレネは口元を拭う。
 先ほどからアンドレイが心配そうに様子を窺ってくるのをひしひしと感じるのだが、昂ぶった感情のせいで言葉を発することができずにいた。

 レネが自分の寝台に座って俯いていると、デニスが近付いてくる。

「自分がどんな風に見られてるかわかったか? 酔っ払いにからかわれてるくらいだったらまだいいが、人攫いや盗賊に捕まってみろ、女みたいに輪姦されて人買いに売られるぞ。そして変態の性奴隷にされて殺されるのがオチだ」

「……っ」

 レネが怒っているのは、そんなことではなかった。
 しかも年下のアンドレイの前で、自分が男から性的対象に見られているということを淡々と告げられ、レネは荒れた精神状態をますますすり減らしていく。

 カレルがあんなふざけたマネをするから誤解されるのだ。

「わかったなら、旅の途中はできるだけ一人で行動するな。風呂も一人じゃ行くなよ。ああいう所で人攫いが目をつけて、後で拐かすって話を聞いたことがある」

 畳みかけるようにいたたまれないことを言われ、カッと顔に血がのぼる。

「デニスは強いから一緒にいると安心だよ。僕もできるだけレネのこと守るから」

 護衛対象の前でこんなこと言われるとは……恥ずかしすぎて死にたくなる。
 なにも言い返せないまま、レネはわなわなと震えながら二人の憐憫の視線から逃れるように布団に潜り込んだ。

「レネっ⁉」

「今はそっとしておけ」

 布団の外から、見当違いなことで心配する二人の会話が聞こえた。
 いま自分は、酔っ払いに絡まれて這々の態で部屋まで逃げ帰り、言葉も碌に喋れないほど怯えてると思われているのだろう。「大きな誤解だ!」と叫びだしたくなるが、今は事実を二人に言えない。
 もし「アンドレイの父親からの依頼で護衛を担当することになりました」と本当のことを言ったとしても二人は絶対信じてくれない。

(どうせオレは、逆にアンドレイから心配されるくらい弱そうに見えますよーだ……)

 アンドレイがさっき言った『レネのこと守るから』なんて言葉を、カレルたちが聞いたら腹を抱えて笑うに決まっている。きっとことある毎にからかわれるのが目に見えた。

 このままなにも知らない振りをして旅を続けるのがもどかしい。
 レネは悔しさのあまりに、目の前のシーツに噛み付いた。

 しかしデニスが言った『一人で行動するな』という言葉は、言い換えれば「俺たちと一緒にいろ」ということでもある。
 自分の与えられた役割としては皮肉なことだが、とてもやりやすい環境になったといえる。

 休暇のはずが、なんでこんな事態に巻き込まれてしまったのか、レネは自分の運の悪さを恨んだ。


「——おはよう」

「……おはよう」

 結局レネは布団の中でも考え込んでしまい、眠れぬまま朝を迎えた。

「酷い顔だな」

「……」

 わざわざ言ってほしくない指摘に、レネはキッと声の主を睨むと洗面所へ逃げるように駆け込む。
 誰のせいでこんなになったと思っているのだ。腹の立つことばかり言う男だ。

 顔を洗って、壁の鏡で自分の姿を確認する。
 元々色素が薄いせいか、ちょっと寝不足なだけで目尻が赤くなり目の下には隈が目立つ。

(あーあ……こんな顔嫌だな……)

 濡れた顔を拭き、レネは髭剃りなど必要としないツルツルの顔をさすると、重く溜息をつく。
 男とも女ともつかない中性的な顔立ちがレネの最大のコンプレックスだった。得することもあるのに、レネはどうしても顔で損をしたことだけを感情が拾い上げてクローズアップしてしまうのだ。

(いちいち気にするなっ、問題はそこじゃないっ)

 自分がやらなければいけないことは、ジェゼロでの休暇ではなく、ポリスタブまでアンドレイを無事に送り届けることだ。

「よしっ!」

 頬を両手で挟み込むようにパンと叩いて気合を入れると、洗面所を後にした。


 シェドナを出発してしばらく歩くとクローデン山脈の東端の低い山々が見えてくる。白樺と針葉樹の森を抜けて、青く霞んで見える先を越えて行くと湖畔の町ジェゼロだ。この調子だとあと二日くらいかかるだろうか。

(馬だとすぐなんだけどな……)

 アンドレイが一人では馬に乗れないので合わせて歩いているのだが、レネも徒歩でこの街道を進むのは初めてだった。
 しかし庶民にとって旅といえば徒歩が基本だ。それぞれ野宿を想定した大きな荷物を背負って、旅人たちはグングンと力強く街道を歩いていく。それに比べ旅慣れないアンドレイを伴った三人は、次々と追い抜かれていく。

「あんな重そうな荷物背負って、なんで早く歩けるの?」

 三人の荷物は全部馬に乗せて手ぶらで歩いているのにも関わらず、追いつくことができない。

「日頃の鍛え方が違うんだよ。お前はこんなに歩くのも初めてだろ」

 デニスが無理はするなとばかりに、無骨な手でアンドレイの頭をクシャクシャと撫でる。

「無理して歩くと靴擦れができて大変だからね。違和感があるならすぐ言ってよ」

 自分も初めて長距離を歩いた時は靴擦れで大変な思いをしたことを思い出して、レネは忠告する。

「うん。厚手の靴下を履いてるし、今のところ大丈夫」

 こんなところは素直で可愛い。
 昨日はアンドレイに思いもよらないことを言われ凹んだが、基本は素直な少年だ。嫌味なことしか言わないお付きの騎士とは大違いだ。


 いつの間にか、先にぼんやりと見えていた森が近付いてくる。

「ここら辺は民家もないし、見通しも悪いから気を引き締めて行くぞ」

 デニスが警戒した様子で告げる。

「また、襲われるかもしれないの?」

 アンドレイが恐る恐る尋ねる。

「その可能性もあるということだ。もし襲撃されたら、俺が逃げ道を作るからとっとと逃げろよ」

(オレまで入ってる……)

 自分のことまで心配してくれているのだろうけど、レネは嬉しいような情けないような複雑な心境だ。

「……あ……」

 レネは首筋にゾクゾクと殺気を感じ咄嗟にデニスの方を見ると、彼も同じように異変を感じ取っているようだ。

「——賊だ。囲まれてる。俺が突破口を作るからお前はアンドレイと一緒に走ってどこかに隠れてろ」

 デニスが言い終わると同時に、男たちの怒号が響く。

「あのガキだっ!」

「くたばれぇぇ!」

 武装した男たちが十数名、三人を挟み込む形で襲ってきた。
 これはアンドレイを狙った刺客だ。
 馬を狙われると厄介なので、レネは咄嗟に手綱を放した。

「走って、こっち」

 混乱するアンドレイの手を掴んで、レネは剣で敵と対峙するデニスの横をすり抜けて駆けだす。

「——追え、向こうに逃げたぞ!」


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