あの日から恋してますか?

水城ひさぎ

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やっぱりダメなんだ

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「高輪さん……」

 すぐに、どちらからともなく身体を離した。しかし、見つめ合ったままの視線は離れない。
 そして、触れ合った指先はお互いを求めて探り合い、手のひらが重なる。

「やっぱり、帰ろうか」
「……はい」

 手を引かれるままに、素直に立ち上がった。

 遠坂くんは交際する上で最低限の行為として、手を握りたいと言ってくれた。それなのに私は、付き合ってもいない人の手を握っている。

 バーを出たら、ひんやりとした風が髪を揺らした。
 お酒で火照った身体に、冷静さを取り戻させるにはじゅうぶんな冷たさだったのに、彼の手を離せなかった。

 もしかしたら、なんて淡い期待があるのかもしれない。
 でも、それは無意味だ。

 社内恋愛に抵抗があるからと遠坂くんの好意に足踏みしてしまうのと同じぐらい、ライバル企業に勤める瑛士との恋愛には抵抗がある。

 先の見えない恋に時間を費やしてしまうほど若くもないし、一人で生きていけるとたくましくなれるほどキャリアを積んではいない。

 私は中途半端だ。
 だから、瑛士のこともきっぱりとあきらめられない。

「どこ行くの?」
「地下鉄。地下鉄で通ってるよね?」

 瑛士は振り返って、「ホッとした?」と笑う。

 ホテルへ行こうと言われたら、間違いなく拒絶した。もっと一緒にいたいと思ってくれているからこそ、彼は帰ることを選んだのだろう。

「何駅目?」
「3駅目です」
「俺は2駅目」
「近いですね」
「いつでも会える距離だね」

 だからって、いつでも会うわけでもないのに。ほんのりと浮かんでくる喜びの感情に蓋をする。

「花野井さんは一人暮らししないタイプと思ってたよ」

 地下鉄の駅に到着すると、瑛士はそう言った。

「残業ばっかりで大変だったから、2年ぐらい前から一人暮らししてます」
「そうなんだね。そのわりに、地下鉄で会ったことなかったね」
「偶然って、ほんとに不思議ですね」
「会えるときは会えるもんだね」

 改札を通り、階段をおりる。先を歩く瑛士はやはり、人目を惹く。

 こんなに素敵な人が私に本気になるはずない。

 なかなか夢を見られない私が顔を出す。

 このまま帰って、今日のことは忘れてしまおう。

 そう決意して、地下鉄に乗り込む。

 地下鉄のふた駅なんて短いものだった。入り口付近に立つ瑛士と会話することもなく、すぐに下車駅に到着する。

「じゃあ……」

 おやすみなさい。
 お気をつけて。

 そう言おうと思って挙げた手のひらを、不意につかまれた。

「おいで、花野井さん」

 なぜ、つぐみと呼ばないのか。

 26歳の花野井つぐみを誘ってくれているの?

 動揺を隠せない私の手を、彼は優しく引いてくる。

「ほら、ドア閉まっちゃうよ」

 そう言われたときには、私のヒールはプラットホームに降りていた。



「コーヒーでいい?」
「あ、はいっ」
「そんなに緊張しなくても」

 もう来ちゃったんだからさ。と、瑛士はほほえんで、冷蔵庫からコーヒー豆を取り出す。

 彼に勧められて座ったソファーから微塵も動けないでいる私は、コーヒーメーカーから漂う香りで次第に心を落ち着けていく。

 瑛士の部屋は温かみのあるナチュラルな家具で統一されていた。ちょっと意外。どちらかというと、シックなものを好むと思っていた。

 私は瑛士のことを何もわかってない。
 彼のルックスから、先入観でいろんなことを決めつけてきたのかもしれない、なんて思う。

「はやく帰すって言ったのにね」

 今日は水曜日だ。
 明日も仕事がある。いつもならお風呂から出て、のんびりと読書している時間。

「まだ大丈夫ですから」
「そう。期待しちゃうよ」

 瑛士はマグカップを目の前において、私の隣に腰を下ろす。

 ソファーが沈み、わずかに彼の方へ身体が傾く。すると、彼の腕が私の肩を抱いた。

「花野井さんが良ければ、泊まっていってもいいよ」
「……それは」

 急すぎる。それでなくても、おかしなことをしてる。
 瑛士が彼女も作らず、女遊びしてるっていうのはこういうことなんだろうかって。

「結婚までお預けなんておかしいと思うよ」

 生温かい息がほおに触れる。
 キスできそうなぐらい、私たちは身を寄せ合っている。

 酔っているんだろう。そうでなきゃ、瑛士が私に迫る理由が見つからない。

「きっとそれってさ、花野井さんが知らないからだと思うよ」
「知らないって、何を?」
「男」

 熱量のある瞳が私を見下ろしている。ほおが紅潮するのを感じる。

「知ったら、我慢しないし、我慢させたりもしない」
「……」
「興味はあるの?」

 瑛士はうつむく私の顔をのぞき込む。

「俺はあるよ。花野井さんを抱いてみたい」
「……よ、酔いすぎです」
「そんなこともないよ。男に告白された日に、俺についてきてくれた意味ぐらい、わかるよ」
「期待させるつもりとかはなくて。ただ……」

 ただ、何?

 そう言って、私を見つめる瑛士から目をそらす。

 ただ一緒にいたかっただけ。

 そんなことを言ったら、彼の言葉を肯定するようなもの。

「ただの、なりゆきです」

 そう答えたら、瑛士は私のあごに指を添えた。

「それでもいいよ、俺は」

 ゆっくりと瑛士が近づいてくる。
 色っぽい目をして、親指で私の唇に触れる。
 ぷるんっと揺れた唇に、温かい息が近づく。

 はじめてのキスは瑛士としたかった。

 酔った勢いで、なんとなく顔を近づけられてされたキスには、何の感情も浮かばなかった。ただ驚いただけだった。そして、悲しくなった。

 たぶん、今もきっとそう。

 瑛士は私を好きじゃない。
 なんとなく、そんな気分になってるだけ。

「やっぱり、こんなことダメ……」

 瑛士の胸を押す。だけど、彼は少しも揺るがない。

「それで拒んでるつもりならかわいいね」
「こういうことはもっとお互いを知ってからじゃないと」
「やけに堅いこと言うんだね。そうじゃなくてさ、勢いも大事だよって言ってる」

 そうじゃなきゃ、私みたいな堅物はいつまで経っても彼氏の一人もできない。
 そう言われたみたい。

 相手が瑛士なら大丈夫。何も問題ない。
 でも、やっぱりそれは、お互いを大切に思える時じゃないとって思う私がいる。

「高輪さん……、私まだ考えたいことがたくさんあって」
「昔は、何にも考えずに俺に告白したのにね。難しく考えすぎだよ、花野井さんは」

 そう言って、瑛士が私をソファーに押し倒そうとしたそのとき、倒れたカバンから滑り落ちたスマホがピカリと光った。

 ブーブーと音が鳴る。電話だ。

 とっさに手を伸ばした私より先に、瑛士がスマホを拾う。
 そして、彼は無表情でディスプレイを私に見せる。

 そこには、『遠坂尚人』の文字が浮かび上がっている。

「出て」

 静かにそう言う瑛士の声は、無感情なのに張り詰めている。
 彼からスマホを受け取り、私はそっと通話ボタンを押す。

「もしもし、遠坂くん?」
「あっ、先輩。すみません、遅くに」

 開口一番、申し訳なさそうに遠坂くんは謝罪する。後頭部に手を当てて、ぺこりと頭を下げる彼が目に見えるよう。

「急ぎの用件?」

 ちらりと横目で瑛士を確認する。
 彼はソファーに深く沈み、ぬるくなったであろうコーヒーを飲んでいる。
 それでも、耳はすましているだろう。

 スマホを耳にあてたまま立ち上がり、窓辺へ移動する。

「いま、明日使う提案書の確認してたんですよ」

 電話の奥で紙をめくる音がする。

「そう。それで?」
「先行企業への導入事例なんですけど、A社だけでは弱いと思うんですよ。それで、先月取り扱った件をB社として加えたらどうかと思いまして」
「そうね。私も悩んでたところなの」
「それじゃあ、いくつかパターン作成して、明日持っていきますよ」

 ちょっとだけ嬉しそうに、遠坂くんの声のトーンがあがる。

「私も手伝うわ。パソコンにメールを……」
「いま、家ですか?」
「あ、そうじゃないんだけど。大丈夫、すぐに帰るから」

 適当にごまかせばいいのにって思う。
 なんでも正直に話してしまうのが、私のダメなところ。

「もしかして、まだ会社とか?」
「そうじゃないの。ごめんなさい。またかけ直すわ」

 瑛士が立ち上がり、私に近づいてくる。

 すぐに電話を切ろうとするが、遠坂くんは話すのをやめない。

「待ってください、先輩。それと、今日のことなんですけど……」
「その話はまた今度」
「先ぱ……」

 一方的に電話を切ったときには、瑛士は目の前に来ていた。

「忙しいね」
「遠坂くんがつかんできた仕事だから頑張ってるみたい」
「花野井さんに告白した男?」

 沈黙してしまう。肯定したようなものだ。

「効果的な提案書の作り方なら教えるよ」
「そういうの、やめてください」

 ちょっと言い方がきつくなってしまった。
 ただの親切かもしれないのに、抵抗を感じてしまう。

「花野井さんの心配は、きっと誤解だと思うよ」
「でも嫌なんです」

 瑛士は小さなため息をついた。

「こんなことなら、うちの会社に入社するように言えばよかったね。うちの会社は社内恋愛禁止じゃないしね」
「……そういう問題じゃないです」
「そうしたら、花野井さんが彼と出会うことは避けられたね」

 瑛士の腕が伸びてくる。びっくりして後ずさろうとする私を、あっという間に包み込む。

「どうしてこうなんだろうな」

 ふたたびため息を吐いた瑛士は、さらに私を抱きしめる。そして、消え入りそうな声を震わせる。

「やっぱりダメだね、俺たちは……」
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