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あなたとキスを
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一週間が経った金曜日、オフィスを出た私は、先に出ていた遠坂くんと合流した。
「ねぇ、遠坂くん、居酒屋に行かない?」
「居酒屋ですか?」
「この間のレストランも素敵だったけど、ワインってあんまり飲めないって思って」
「あ、お酒、苦手でした? ダメだなぁ、俺。先輩を喜ばせようって勝手に思って、空回りですね」
いくつかのお店をピックアップしていた彼のスマホをのぞき込む。
「みんながよく行くような、気軽な居酒屋がいいの」
「じゃあ、この辺りだと同僚が飲んでそうだから、ちょっと電車に乗りましょう」
遠坂くんの提案で、会社からは離れた居酒屋へ向かった。
いつもと違う方向の地下鉄に乗り込む。
なんだか変な気分だった。
男性と気を遣って飲みに行くなんて、こそこそとお付き合いしてるみたい。
もし、遠坂くんと付き合うことになったら、こういう毎日が続くんだと思って。
「社内恋愛って大変よね」
ぽつり、というと、その意味が通じたのか、彼はおかしそうに笑う。
「結構みんな、堂々と付き合ってますよ。言わないだけです」
「私が細かいだけなのね」
「俺はいいと思います。真面目なところが、先輩のいいところですから。だって先輩、絶対、車通りのない歩道でも赤信号は渡らないタイプですよね」
「否定はしないけど」
バカにされてるみたいでしょげるけど、彼は楽しそうに笑う。
「結婚するなら、そのぐらい真面目な人がいいです。何があっても、きちんと向き合ってくれる人だと思うから」
「遠坂くん……」
「あ、先輩。降りますよ」
じんわりと胸が熱くなる。遠坂くんは私を否定しない。悪いところも全部、いいところだって言ってくれる。
遠坂くんだって、結婚相手としては申し分ない人かもしれない。他人のいいところを見つけるのが上手な人は、誰からも愛されていくだろう。
地下鉄を降りて、居酒屋の集まる繁華街へ向かう。
見知った人がいても見落としてしまいそうな喧騒の中、彼は自然と私を守るように歩いてくれている。
「遠坂くん、モテるよね」
「まあ」
「否定しないのね」
くすくす笑う。彼もなぜだかうれしそうに微笑む。
「先輩が俺に興味もってくれるなんて初めてですね」
「遠坂くんは遠坂くんで、かわいい後輩だと思ってた」
「かわいい、ですか。結構、アピールしてたんですけどね」
苦笑いする彼を見上げると同時に、目当ての居酒屋の看板が目に入る。
「遠坂くん、あそこじゃない?」
「ですね。新しいし、おしゃれそうなお店で良かった」
一見、居酒屋らしくない、和風カフェのような店構えの店内に入る。
中はカウンター席と個室になっていて、落ち着いて話せる雰囲気がある。
私たちは個室に案内された。
ひとめを気にすることなく話せるから安心だけど、二人きりというのも妙な気持ちになる。
遠坂くんの目を見たらわかる。私たちはこれから、お付き合いするかどうかを話し合うのだ。
「先輩、カクテルなら飲めますか?」
「うん。前にね、カシスソーダだったかな……、飲みやすくて美味しかったの」
「定番ですね。じゃあ、それにしましょうか。俺も、実はあんまりお酒が得意じゃないんで、ジンライムにしようかな。食事はどうします?」
メニュー表を見ながら、お互いに好きなものを選んで注文する。
リードしながら、譲歩もする彼とは変な気遣いが不要だった。
カクテルが運ばれてくると、既視感を覚えた。
グラスを合わせ、考え込む私を見て、遠坂くんは不思議そうにする。
「飲みたいのと違いました?」
「ううん。これでいいの」
ごめんね、って言って、カシスソーダをひとくち飲む。
甘酸っぱい味が口に広がると同時に、既視感は記憶となってよみがえる。
以前、私はカシスソーダを、瑛士はジンライムを、マスターに勧められてこうして飲んだことがあった。
「カシスソーダ、花野井先輩によく似合いますね」
「似合う?」
「あなたは魅力的です」
「え?」
ぽかんとする私を見て、遠坂くんはにこりと微笑む。
「カクテル言葉、知りません? カシスソーダにはそういう意味があるんですよ」
「そうなの。知らなかった」
もしかして、マスターはそれを知っていて、私を喜ばせようと出してくれたのかも、なんて思った。
「じゃあ、ジンライムは?」
どんな意味があるの? と気になって尋ねる。あの日、瑛士はジンライムを見て、苦笑いしていた。彼もその意味を知っていたのかもしれない。
「色褪せぬ恋、です」
遠坂くんの返答に、どきりとした。
マスターが、瑛士にジンライムを選んだ意味。それは……。
「ずっと大切にできます、俺なら」
生涯色褪せぬ恋として、私を大切に想ってくれる。
遠坂くんはそう言う。
「付き合うなら、結婚前提でって考えてます」
まっすぐ私を見つめてくる瞳から逃れられない。
彼とふたりきりで食事をするってことはこういうこととわかっていたのに、後悔が浮かんでしまう。
「でも、遠坂くんはまだ若いじゃない」
「それはどういう意味ですか?」
「どういうって……」
「若いから気が変わるって思ってますか? それとも、結婚するには頼りないですか?」
返事ができなくて、彼から目をそらす。うつむいたら、グラスを握る私の手に、彼の手が伸びてくる。しかし、迷いを見せた彼は、結局私に触れなかった。
「先輩は年上だから、いつまで経っても俺を頼りなく思うかもしれないですね」
小さなため息を吐き出す彼に目を戻す。
つらそうな彼を見たら、苦しくなる。
「結婚を考えるには、まだ早い年齢よね」
そう言ったら、ますます遠坂くんは眉をひそめた。
「できたらすぐにでも結婚したいです。でも年齢のことを言うなら、先輩が納得できるときにしましょう」
「そんなに気長に考えてるの?」
「先輩の気持ちが変わるまで、いくらでも待つつもりでいます」
そんなこと可能なんだろうか。
私が瑛士を好きでいられるのは、半分は遠い存在だからだ。可能性のある恋に、待つ時間が長い必要などきっとない。
「私ね、やっぱり結婚はしなくてもいいかなって思って」
「一生独身ですか?」
「それでもいいかなって」
「どうしてですか。好きな人がいるからですか?」
理解しがたそうに、彼は表情を曇らせる。
「彼のことはずっと好きだと思うの。だから、結婚して彼に会えなくなるのは、つらいなって」
「それって、今そう思うだけですよね」
うん、ってうなずく私を説得するように、彼は言う。
「お相手の方はどうなんですか? その方が結婚したら、どっちにしろ会えなくなりますよ」
ハッとして遠坂くんと目を合わせたら、唇が震えた。
それを考えないことはなかった。だけど、瑛士は恋人を作る気も、結婚願望もないから、どこか安心してた。
「そんな泣きそうな顔しないでください」
申し訳なさそうに眉を下げる彼は、すみません、と言って、私の手のひらに触れる。
「全然約束守れませんね」
そう言って、逃げない私の手を両手で包み込んでくれる。
あったかくて優しくて、涙がこみ上げてくる。
「結婚しちゃうかな……」
「いつかするかもしれませんよ」
「どうして私じゃ、ダメなのかな……」
「俺が言えるのは、好きな人がいてもかまわないから先輩がほしい、それだけです」
「遠坂くん……」
どうしてそんなに想ってくれるの?
その思いは言葉にならなかった。
どうしてこんなにも瑛士が好きなんだろう。
その思いに、私自身が答えを見つけられなかったから。
「結婚まで全部お預けはつらいです。泣いてる先輩をなぐさめるのに、抱きしめたりキスしたり……したいです」
そうやってしか、得られない愛情もある。スキンシップは愛をはぐくむ上で重要で。
「付き合ったら、してもいいの。社内恋愛禁止にこだわってるの、おかしいよね」
周りが見えなくなるぐらいの恋が、遠坂くんとならできるだろうか。
瑛士を忘れさせてくれるぐらいの愛情を、彼ならきっとくれると思うから。
「先輩……、すみません、俺。全然約束も、順序も守れそうにないです」
急に立ち上がった遠坂くんは、私の隣へやってくる。驚いて萎縮する私の肩をつかみ、目を合わせてくる。
「先輩が好きです。付き合ってくれる気持ちが少しでもあるなら、目を閉じてくれますか?」
まぶたを落としたらキスされる。
その確信だけはあった。
どうしよう。
勢いに任せて、遠坂くんとそういう関係になるのは無理だと思う。
でも、ずっとこのままじゃいけないとも思う。
私らしくない恋をしないと、前へ進めない。
でもキスは……。
瑛士の顔がちらついた。
初めてのキスは瑛士としたかった。
全部の初めては、瑛士にあげたかった。
「待って」
「先輩……」
頼りなげな遠坂くんの手のひらに、手を重ねた。
「もう少しだけ、待って」
「期待してもいいって言ってるんですか?」
「はっきりしなくてごめんなさい」
そう言ったら、ちょっと彼は笑った。
「最初からはっきりしてるじゃないですか。俺がただ無理いってるだけです。どうしても先輩を諦めきれないから、少しの仕草に期待しちゃうんです」
一週間が経った金曜日、オフィスを出た私は、先に出ていた遠坂くんと合流した。
「ねぇ、遠坂くん、居酒屋に行かない?」
「居酒屋ですか?」
「この間のレストランも素敵だったけど、ワインってあんまり飲めないって思って」
「あ、お酒、苦手でした? ダメだなぁ、俺。先輩を喜ばせようって勝手に思って、空回りですね」
いくつかのお店をピックアップしていた彼のスマホをのぞき込む。
「みんながよく行くような、気軽な居酒屋がいいの」
「じゃあ、この辺りだと同僚が飲んでそうだから、ちょっと電車に乗りましょう」
遠坂くんの提案で、会社からは離れた居酒屋へ向かった。
いつもと違う方向の地下鉄に乗り込む。
なんだか変な気分だった。
男性と気を遣って飲みに行くなんて、こそこそとお付き合いしてるみたい。
もし、遠坂くんと付き合うことになったら、こういう毎日が続くんだと思って。
「社内恋愛って大変よね」
ぽつり、というと、その意味が通じたのか、彼はおかしそうに笑う。
「結構みんな、堂々と付き合ってますよ。言わないだけです」
「私が細かいだけなのね」
「俺はいいと思います。真面目なところが、先輩のいいところですから。だって先輩、絶対、車通りのない歩道でも赤信号は渡らないタイプですよね」
「否定はしないけど」
バカにされてるみたいでしょげるけど、彼は楽しそうに笑う。
「結婚するなら、そのぐらい真面目な人がいいです。何があっても、きちんと向き合ってくれる人だと思うから」
「遠坂くん……」
「あ、先輩。降りますよ」
じんわりと胸が熱くなる。遠坂くんは私を否定しない。悪いところも全部、いいところだって言ってくれる。
遠坂くんだって、結婚相手としては申し分ない人かもしれない。他人のいいところを見つけるのが上手な人は、誰からも愛されていくだろう。
地下鉄を降りて、居酒屋の集まる繁華街へ向かう。
見知った人がいても見落としてしまいそうな喧騒の中、彼は自然と私を守るように歩いてくれている。
「遠坂くん、モテるよね」
「まあ」
「否定しないのね」
くすくす笑う。彼もなぜだかうれしそうに微笑む。
「先輩が俺に興味もってくれるなんて初めてですね」
「遠坂くんは遠坂くんで、かわいい後輩だと思ってた」
「かわいい、ですか。結構、アピールしてたんですけどね」
苦笑いする彼を見上げると同時に、目当ての居酒屋の看板が目に入る。
「遠坂くん、あそこじゃない?」
「ですね。新しいし、おしゃれそうなお店で良かった」
一見、居酒屋らしくない、和風カフェのような店構えの店内に入る。
中はカウンター席と個室になっていて、落ち着いて話せる雰囲気がある。
私たちは個室に案内された。
ひとめを気にすることなく話せるから安心だけど、二人きりというのも妙な気持ちになる。
遠坂くんの目を見たらわかる。私たちはこれから、お付き合いするかどうかを話し合うのだ。
「先輩、カクテルなら飲めますか?」
「うん。前にね、カシスソーダだったかな……、飲みやすくて美味しかったの」
「定番ですね。じゃあ、それにしましょうか。俺も、実はあんまりお酒が得意じゃないんで、ジンライムにしようかな。食事はどうします?」
メニュー表を見ながら、お互いに好きなものを選んで注文する。
リードしながら、譲歩もする彼とは変な気遣いが不要だった。
カクテルが運ばれてくると、既視感を覚えた。
グラスを合わせ、考え込む私を見て、遠坂くんは不思議そうにする。
「飲みたいのと違いました?」
「ううん。これでいいの」
ごめんね、って言って、カシスソーダをひとくち飲む。
甘酸っぱい味が口に広がると同時に、既視感は記憶となってよみがえる。
以前、私はカシスソーダを、瑛士はジンライムを、マスターに勧められてこうして飲んだことがあった。
「カシスソーダ、花野井先輩によく似合いますね」
「似合う?」
「あなたは魅力的です」
「え?」
ぽかんとする私を見て、遠坂くんはにこりと微笑む。
「カクテル言葉、知りません? カシスソーダにはそういう意味があるんですよ」
「そうなの。知らなかった」
もしかして、マスターはそれを知っていて、私を喜ばせようと出してくれたのかも、なんて思った。
「じゃあ、ジンライムは?」
どんな意味があるの? と気になって尋ねる。あの日、瑛士はジンライムを見て、苦笑いしていた。彼もその意味を知っていたのかもしれない。
「色褪せぬ恋、です」
遠坂くんの返答に、どきりとした。
マスターが、瑛士にジンライムを選んだ意味。それは……。
「ずっと大切にできます、俺なら」
生涯色褪せぬ恋として、私を大切に想ってくれる。
遠坂くんはそう言う。
「付き合うなら、結婚前提でって考えてます」
まっすぐ私を見つめてくる瞳から逃れられない。
彼とふたりきりで食事をするってことはこういうこととわかっていたのに、後悔が浮かんでしまう。
「でも、遠坂くんはまだ若いじゃない」
「それはどういう意味ですか?」
「どういうって……」
「若いから気が変わるって思ってますか? それとも、結婚するには頼りないですか?」
返事ができなくて、彼から目をそらす。うつむいたら、グラスを握る私の手に、彼の手が伸びてくる。しかし、迷いを見せた彼は、結局私に触れなかった。
「先輩は年上だから、いつまで経っても俺を頼りなく思うかもしれないですね」
小さなため息を吐き出す彼に目を戻す。
つらそうな彼を見たら、苦しくなる。
「結婚を考えるには、まだ早い年齢よね」
そう言ったら、ますます遠坂くんは眉をひそめた。
「できたらすぐにでも結婚したいです。でも年齢のことを言うなら、先輩が納得できるときにしましょう」
「そんなに気長に考えてるの?」
「先輩の気持ちが変わるまで、いくらでも待つつもりでいます」
そんなこと可能なんだろうか。
私が瑛士を好きでいられるのは、半分は遠い存在だからだ。可能性のある恋に、待つ時間が長い必要などきっとない。
「私ね、やっぱり結婚はしなくてもいいかなって思って」
「一生独身ですか?」
「それでもいいかなって」
「どうしてですか。好きな人がいるからですか?」
理解しがたそうに、彼は表情を曇らせる。
「彼のことはずっと好きだと思うの。だから、結婚して彼に会えなくなるのは、つらいなって」
「それって、今そう思うだけですよね」
うん、ってうなずく私を説得するように、彼は言う。
「お相手の方はどうなんですか? その方が結婚したら、どっちにしろ会えなくなりますよ」
ハッとして遠坂くんと目を合わせたら、唇が震えた。
それを考えないことはなかった。だけど、瑛士は恋人を作る気も、結婚願望もないから、どこか安心してた。
「そんな泣きそうな顔しないでください」
申し訳なさそうに眉を下げる彼は、すみません、と言って、私の手のひらに触れる。
「全然約束守れませんね」
そう言って、逃げない私の手を両手で包み込んでくれる。
あったかくて優しくて、涙がこみ上げてくる。
「結婚しちゃうかな……」
「いつかするかもしれませんよ」
「どうして私じゃ、ダメなのかな……」
「俺が言えるのは、好きな人がいてもかまわないから先輩がほしい、それだけです」
「遠坂くん……」
どうしてそんなに想ってくれるの?
その思いは言葉にならなかった。
どうしてこんなにも瑛士が好きなんだろう。
その思いに、私自身が答えを見つけられなかったから。
「結婚まで全部お預けはつらいです。泣いてる先輩をなぐさめるのに、抱きしめたりキスしたり……したいです」
そうやってしか、得られない愛情もある。スキンシップは愛をはぐくむ上で重要で。
「付き合ったら、してもいいの。社内恋愛禁止にこだわってるの、おかしいよね」
周りが見えなくなるぐらいの恋が、遠坂くんとならできるだろうか。
瑛士を忘れさせてくれるぐらいの愛情を、彼ならきっとくれると思うから。
「先輩……、すみません、俺。全然約束も、順序も守れそうにないです」
急に立ち上がった遠坂くんは、私の隣へやってくる。驚いて萎縮する私の肩をつかみ、目を合わせてくる。
「先輩が好きです。付き合ってくれる気持ちが少しでもあるなら、目を閉じてくれますか?」
まぶたを落としたらキスされる。
その確信だけはあった。
どうしよう。
勢いに任せて、遠坂くんとそういう関係になるのは無理だと思う。
でも、ずっとこのままじゃいけないとも思う。
私らしくない恋をしないと、前へ進めない。
でもキスは……。
瑛士の顔がちらついた。
初めてのキスは瑛士としたかった。
全部の初めては、瑛士にあげたかった。
「待って」
「先輩……」
頼りなげな遠坂くんの手のひらに、手を重ねた。
「もう少しだけ、待って」
「期待してもいいって言ってるんですか?」
「はっきりしなくてごめんなさい」
そう言ったら、ちょっと彼は笑った。
「最初からはっきりしてるじゃないですか。俺がただ無理いってるだけです。どうしても先輩を諦めきれないから、少しの仕草に期待しちゃうんです」
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