あの日から恋してますか?

水城ひさぎ

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あなたとキスを

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***


 六月一日付で職場復帰になった田畑奈津美先輩は、一週間もすると体調不良で三日ほど休み、さらには一歳になるお子さんが風邪をひいたとかで、もう三日休んだ。

 今日もまた、花野井先輩は田畑先輩の仕事もこなしながら、俺のフォローをするべく、朝早くから出勤していた。

 そして俺はというと、先日の居酒屋デート以来、特に進展もなく、次のデートの約束も取り付けられてなかった。

「花野井先輩、今日は田畑先輩も出勤されるんじゃないですか?」
「うん、そうみたい。だからちょっとやっておきたいことがあって」

 花野井先輩はパソコンから顔を上げずにそう言う。

「仕事熱心もいいですけど、もっと人に任せてもいいと思いますよ」
「任せるための準備だから大丈夫よ。遠坂くん、何だった?」

 ようやく顔を上げた先輩は、俺の手もとを見る。資料の入ったファイルを携えていた俺は「確認お願いします」と、ファイルごと差し出す。

「田畑先輩、大変そうですね」
「仕事復帰するとだいたいカラダ壊したり、お子さんの体調も崩れたりするみたい。生活環境が変わるんだもの。仕方ないとはいえ、大変よね」
「先輩は結婚しても子どもが生まれても仕事は続けたいですよね」

 真剣な思いで聞いてみたのだが、花野井先輩はちょっとだけほおを赤らめた。少しは俺のこと意識してるみたいだ。

「田畑先輩にもアドバイスもらわなきゃ」
「田畑先輩が辞めずに続けられるなら、花野井先輩も大丈夫ですよ」
「なんで私が基準なのよ。しかも、私がやれるんだから、つぐみちゃんは当然やれるみたいな言い方ね」
「あっ! 田畑先輩っ!」

 突然現れた田畑先輩に気づいて、心の中でぺろっと舌を出す。話を聞かれてるとは思ってなかった。

「遠坂くんだっけ? ゆっくり話す必要がありそうね」
「あー、間に合ってますけど。はい、すみません」

 以前、一年ほど田畑先輩と同じオフィスで働いていたが、面識はほとんどない。
 花野井先輩は、産休に入るとわかっていた彼女の仕事を引き継ぎ、俺の教育係になった。
 間接的にではあるが、田畑先輩は、俺と花野井先輩を引き合わせた女性でもある。

「おはよう、つぐみちゃん。ごめんね。仕事たまっちゃったね」
「お子さん、大丈夫ですか?」
「うーん、まあまあ。まだちょっと咳してるんだけど、保育園に預けてきちゃった」
「大変ですよね。あんまり無理しないでくださいね」
「そうは言ってもね」

 田畑先輩は苦笑いして、花野井先輩から資料を引き継ぐ。

「じゃあ、あとお願いします。私、打ち合わせに行ってきます」
「戻る頃には終わらせておくわ」

 行ってらっしゃい、と花野井先輩を送り出した田畑先輩は、すぐに仕事に取り掛かるかと思ったら、俺に手招きした。

「聞いたよー、遠坂くんのこと」
「は?」
「遠坂くんでしょ? 君」
「そうです」
「興味ない女には冷たいタイプ? 私たちは私たちで打ち合わせしない?」

 そう言ったかと思うと、田畑先輩はファイルを持ち、長い黒髪を揺らしてオフィスを出ていく。俺も仕方なく、彼女のあとを追う。

 先輩は廊下の突き当たりに置かれたテーブルに資料を置き、椅子に座るようにと促してくる。
 ちょっとした休憩スペースになっているここには自販機もある。
 田畑先輩は、「コーヒー飲む?」と、俺に尋ねる。

「まだ仕事始まったばっかりですよ」
「じゃあ、ブラックにしておくわね」
「マイペースですね」

 あきれる俺の前に、すぐにカップのコーヒーが置かれる。

「単刀直入に言うけど、つぐみちゃん狙ってるってほんと?」

 時間ないから手早くね、と田畑先輩はにっこり微笑む。圧力をかけられてるみたいだ。

「うわさになってますか?」
「わかりやす過ぎるみたいよ」
「花野井先輩を好きな人なんてたくさんいるでしょう。それと同じです」

 思わず、むきになってしまう。

「あ、ちょっと焦った? でもさ、つぐみちゃんが受け入れてるのは珍しいんじゃない?」
「別に受け入れてなんかいませんよ。俺がしつこいだけで……」

 言葉にすると恥ずかしくなる。きっと俺はとてつもなくみっともないし、迷惑がられても仕方ないのに、花野井先輩の優しさに救われてる。

「昔もいたのよね、しつこい男」
「社内にですか?」

 田畑先輩は面白くなさそうな表情で、うなずく。
 だから、花野井先輩は社内恋愛を嫌がるのだろうかと、ふと思う。

「今でもいます?」
「退社したわ。安心した?」
「安心っていうか、やっぱりしつこいのは嫌ですよね」
「あの男はまた別。つぐみちゃんがおとなしいからやりたい放題よ」
「やりたい放題って……」

 何かあったんだろうかと胸がざわつく。先輩を傷つけたなら許せない。

「私も後悔よ。酔ったふりしてつぐみちゃんに迫って。あの子、優しいから介抱しようとしてね」
「セクハラされたんですか」

 田畑先輩は苦しそうに顔を歪める。

「許せないですね」
「私ももっとつぐみちゃんを見てあげてたらよかった。あのときのつぐみちゃんは、本当にショック受けてて……。だからこそ、あの子には守ってくれる男の人が必要とは思うんだけど」
「でも先輩、社内恋愛は無理って感じで」
「あー、そっか。そういうとこあるわよね、あの子」

 田畑先輩は、困った子よね、ってこめかみをかく。

「あの件以来、つぐみちゃんは警戒心が強くなって、そういう意味で距離を縮めようとする男の人はいなくなったのよ。すっかりお堅いイメージになっちゃったみたい」
「そうだったんですか。もともと清純そうですが」
「それはそうね。真面目でいい子よ」
「わかります」

 そういうところが好きだ。
 馴れ馴れしくされるのが好きじゃない俺にとって、潔癖すぎるわけでもなく、程よい距離感を保ってくれる花野井先輩と過ごす時間は居心地がいい。

「だから、うわさを聞いて驚いたのよね。つぐみちゃんがあなたと二人で食事に行くなんて、って」
「え、マジですか。そこまでバレてます?」
「バレてる。バレてるわよー。もしかして、ひょっとすると、ってみんな、すっごく興味津々なんだから」
「マジかぁ」

 天井を仰ぐ。
 花野井先輩は、うわさ話とか絶対嫌うタイプだ。
 そんなうわさが出てると知ったら、せっかく開きかけてくれている心を閉ざしてしまうかもしれない。

「遠坂くんは真面目そうね。もし、つぐみちゃんを傷つけるような男だったら、釘刺しておこうと思ったんだけど、あなたなら大丈夫そう」
「お墨付きになれそうですか」
「あら、図々しい。選ぶのは、つぐみちゃんでしょ。玉砕したら話ぐらい聞いてあげるわよ」

 田畑先輩はおかしそうに笑って、手のひらをひらひらと振った。
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