砂色のステラ

水城ひさぎ

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セシェ島編

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 レオナは土まみれになったドレスのすそをつかんだ。こんな格好をしていては、市井の民ですら不審がるだろう。

 父は北へ行けと言っていた。レオナは月に背を向けて、ふたたび走り出す。グラス港へたどり着けるか不安だった。しかし、誰かに道を尋ねるわけにもいかない。

 光のない方へない方へと走り、暗い路地に飛び込んだ。激しく上下する胸をおさえる。息切れがして、苦しい。もう走れないかもしれない。うずくまると、どこまでも続いていそうな暗く細い道の奥から、潮の香りがした。

「もしかして……」

 この先に、港があるかもしれない。レオナは這いつくばったが、力を入れて立ち上がると走り出す。もう限界を迎えている足は震えていた。

 息を切らしながら、路地を抜ける。潮の香りが強くなるとともに、無数の灯りの奥に大きな貨物船が見えた。

 レオナはよろよろと船着場へ向かった。港の広場はにぎやかだった。ひと仕事を終えて安堵したような、屈強な男たちが桟橋の前で談笑している。

 男たちはレオナに気づくと、不審なものを見るような目で顔を見合わせ、静まり返った。

 レオナは衆目を集めていることに気づいたが、もう走ることはできなかった。

 駆け寄ってくる足音が、兵士の足音に聞こえた。見つかったら終わりだ。やっとここまで逃げてきたのに、船まではもうあと少しなのに、足がどうしても動かない。

 広場の真ん中で、レオナは崩れ落ちた。地面に横倒しになっていると、目の前に汚れた革靴が見えた。

「おいっ、大丈夫かっ?」

 男がレオナの肩を揺らした。

「フォルフェス……」
「なんだって?」
「フォルフェス騎士団は……」

 熱に浮かされたようにレオナはつぶやく。口もとに耳を近づけてきた男は、弾くように立ち上がる。

「おいっ、エド。ベリウスはまだいるかっ?」

 近くにいるエドという人物に声をかけたようだ。

「ああ、まだいるだろう。最後のチェックがあるとかぶつぶつ言いながら、さっき、船に乗り込んでいったよ」
「ベリウスを呼んできてくれ。この娘がフォルフェス騎士団を探してるみたいだ」
「本当か? ……おい、ガルド。こりゃあ、貴族の娘みたいなドレスを着てるじゃないか」
「とにかく呼んでこい」
「あ、ああ……」

 足音が遠ざかると、ガルドと呼ばれた男がふたたび、レオナの顔をのぞき込む。そして、筒のようなものを突き出した。

「水だ。飲めっ」

 ガルドはレオナの背中に腕を差し込むと、上体を引き起こす。そのとき、レオナの目の前に兵士の姿が飛び込んできた。

「いたぞっ!」

 数人の兵士の革靴が石畳を激しく打ち鳴らし、その荒い息が耳元まで迫るような気迫でこちらに向かってまっすぐ走ってくる。

 レオナは口もとに運ばれてきた筒を突き放し、地面に這いつくばった。逃げなければ。つかまってしまう。

「おい、おまえっ」

 ガルドがレオナの肩をつかむ。あらがう力もなく、レオナは悔しくて、涙が出た。

「助けて……」
「なんだって?」
「助けて……、助けてください」

 レオナは両手を組み合わせ、祈るようにガルドを見上げる。涙でガルドの顔はわからなかった。その表情も何もわからない。しかし、この男にすがるしかなく、レオナは最後の力を振り絞って声をあげた。

「私は……、私は公爵の娘、レオナ・ベネット。セリオス王子に会わせてくださいっ」

 まばたきをしたら、ぼろぼろと涙が落ちた。視界が開けると、ガルドが信じられないとばかりにレオナを凝視していた。

「公爵令嬢だって?」

 驚きの声をあげたガルドは、駆けつけてくる兵士の方へ目をやる。

「そいつを逃すなっ」

 兵士が叫ぶと、ガルドは髪をくしゃりとつかんだ。

「よくわかんねぇけど、なんで王の兵士に……。仕方ない、やるしかねぇ」

 ガルドは自身のマントを素早く脱ぐと、レオナの身体にかぶせ、抱き上げる。

「おいっ、エド。ベリウスはっ?」
「いま、呼んできたっ」

 さっきの男が戻ってきたようだ。

「よしっ。走るぞっ。死ぬ気で走れっ!」

 レオナを抱えたまま、ガルドは全速力で駆け出す。激しく揺れる腕の中で、振り落とされないように男の首にしがみついたとき、「タラップを引き上げろっ!」とガルドは叫び、勢いよくジャンプした。

 レオナの身体は高く飛んだ。大きな月が、さらに大きく見えたような錯覚がした。兵士たちの怒号の中、荒々しく息を吐くガルドの背後で、タラップが上がっていく。

 助かった……。ホッとあんどの息をついたのも束の間、ガルドがレオナを引きはがす。

「あんた、本当に公爵令嬢か? 嘘だったら、ただじゃすまないぞっ!」
「あ……、あの……私は……」

 ガルドの気迫に押されて、床に座ったまま後ずさりすると、頭上から声が降ってくる。

「急に呼びつけて、いったい、何があったんですか?」

 その声音の主を振り返るなり、レオナは目を見開いた。

 若い男は怠惰そうな声音とは裏腹に、どこか隙のない立ち姿をしていた。そして、腰に下げられた剣の柄には、金色の不死鳥の紋章がある。あれは、フォルフェスの紋章だ。この男が、ベリウスだろうか。

「それはこっちが聞きたいぜ。見ろよ、ベリウス。港はもう王国軍に包囲されてるぜ」
「は? なんだって?」

 やはり、この若い男がベリウスなのだ。彼はぎょっとしながらレオナの前を通り過ぎ、船の外をのぞき込む。

「なんだよ、これは」
「だから、俺にもわかんねぇって。そのお嬢さんに聞くしかない」

 ガルドにそう言われて初めて、ベリウスはレオナへ視線を向けた。その人の良さそうな丸い瞳には不似合いな鋭い目で、こちらをじっくりと眺めたあと、彼は眉をひそめてレオナの前にひざを折る。

「見たところ、かなり高貴なご令嬢のようですが、お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「おい、ベリウス。高貴って、わかるのか? おまえ」

 ベリウスはうっとうしそうにガルドを振り返る。

「失礼ですよ。これでも俺はフォルフェス騎士団の隊長です。ドレスの良し悪しぐらい見ればわかります」
「ほえぇー、すごいんだな。そのご令嬢、公爵の娘らしい。たしか、名前は……」
「レオナです。レオナ・ベネットと申します」

 ガルドの言葉をさえぎって、レオナはとっさに名乗った。

「ベネット……? ベネットってまさか、ベネット公爵?」

 驚きで、大きく目を見開いていくベリウスに、レオナは祈るように言う。

「父はロデリック・ベネットと申します。私を保護してくださったこと、心から感謝いたします。私がここにいる理由は申し上げられませんが、父に連絡を取っていただけないでしょうか。どうか……、どうかお願いします」
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