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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜
あなたの声が聞こえる理由 4
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研究室のソファーに腰掛け、佐鳥華南の提出したレポートに目を通す。
彼女のレポートは評価が高いと聞いていたが、なるほど、彼女らしく面白い視点でまとめられている。
ついこの間も、新しいテーマの実験に取り組みたいと言ってきた。
華南は前向きで意欲がある。彼女の好奇心を刺激するものはなんだろうか。興味のあるものをとことん追求する精神は認めてやりたいとは思うが。
相変わらず彼女は俺の部屋に入り浸りだ。俺に興味津々なんだろうが、どうしたものかと考えなくもない。
レポートを閉じ、次のレポートに手を伸ばす。石灰深春と七五三田柚樹のものだ。今のところゼミの生徒は三人だが、華南以外の二人は優秀だが平凡でもある。特に目をかける魅力は感じていない。
もう一度、佐鳥華南のレポートを開く。彼女の文章は心地がいい。
そう、時々抱きしめて欲しいと言われて抱きしめてはやるが、寄り添うだけで感じる心地良さ。そういったものが彼女の文章にはある。
ふと華南と過ごす時間に思いを巡らせる。そう言えば、おかしなことを言っていたなと思い出す。好きな人の心の声が聞こえる、とか。
「夜間瀬先生、これ、頼まれてた資料」
突然ノックされたドアが開く。
同僚の講師がドアの隙間から顔とファイルを持った手を突き出している。
「ああ、ありがとう」
彼に歩み寄り、ファイルをつかむ。すぐに「じゃ」と言って、立ち去ろうとする同僚を俺は呼び止める。
「佐鳥華南はどんな生徒だろう」
「手こずってますか」
同僚はにやりと笑う。華南はやはり変わり者だろうか。
「いえ、優秀ですよ。非の打ち所がないぐらい。しかし、謎めいてる」
「謎めいてる! なるほど、その言葉は彼女にふさわしいですね。夜間瀬先生は学長と懇意の仲とか。学長なら知ってるんじゃないですかね。あの方、佐鳥一族の暮らす御簾路の出身ですから」
「そうですか、ありがとう」
「お役に立てたなら何より。しかし深入りは禁物ですよ、先生。遊び相手に佐鳥華南はマズい」
同僚は小声でそう言うと、またにやりと笑って立ち去る。
どうマズいのか。尋ねる必要もないか、とも思う。
佐鳥華南は清純だ。想像以上に清廉潔白で、一点の曇もない人生を歩んでいく女性だろう。むしろ、そういった人生になるよう、彼女が自らを戒めているようにも見える。
それなのに俺には不毛な愛を求める。佐鳥華南相手に、お遊びの恋に火をつけるほど俺も馬鹿ではない。
ファイルを置いて、そのまま研究室を出る。学長が御簾路出身とは知らなかった。
御簾路という土地は、俺も知らないわけではない。神計大学へ転勤する前は、御簾路駅発の電車で通勤していた。
ただあの土地に格別な思いを抱いたことはない。彼女の口から御簾路の名前を聞いたことすらなかった。
本館の最上階に学長室がある。
静かで長い廊下の先にある焦げ茶の扉をノックする。「どうぞ」と、厳かな声が扉の奥から聞こえる。
「夜間瀬です。失礼します」
入室すると同時に学長が重厚な回転椅子から腰を上げる。
「お忙しいところ申し訳ありません。伊江内学長にお尋ねしたいことがありまして」
「いや、ちょうど君を呼ぼうと思っていたところだ。灯華のことでね」
そう答えた学長に、ソファーへ座るよう促される。
「灯華さんはお元気ですか? 結婚式以来、お会いしておりませんが」
伊江内灯華は神計大学学長の娘であり、大学時代の友人だ。二年前に医師と結婚した。それ以来、連絡は取り合っていない。
「たまには夜間瀬くんに会いたいそうだ。気の許せる旧知が懐かしくなることもあるようだね」
「幸せに過ごしているなら安心です」
「充実はしているようだよ」
学長がソファーに腰掛けるのを確認して、俺も斜向かいに腰を下ろす。
「今夜はどうかね? 灯華も都合がいいようだ」
「また急なお話ですね」
「予定はないと思うが?」
「お断りはしません」
「君は断ることを知らないようだな」
今更、灯華に会って昔を懐かしむ理由もないが、学長の言う通りだ。俺は彼女の頼みを断らない。
「で、話はなんだったかね」
「ええ、興味深い生徒がゼミを受けていまして。学長なら何かご存知かと」
学長に無駄な駆け引きは必要ない。なぜだか俺に目をかけてくれている。競争世界から身を引いた俺を案じてのことか。それとも単に気が合うだけだからか。
「佐鳥華南だろう。彼女は入学前から面白い逸材だとは思っていた。佐鳥一族の末裔ならば、なおさらだ」
学長は楽しげに答える。彼女のことを話したくてたまらないようだ。
「佐鳥一族というのは御簾路の?」
「よく知っているな。そうだ、呪われし一族の末裔だ」
「これはまた、おとぎ話のような」
「そうだ。佐鳥一族にまつわる逸話はおとぎ話の世界かもしれない。しかし彼らの保有する植物は大変興味深い薬草だ」
学長の口から思いがけない言葉が飛び出す。
「薬草ですか」
「世界を揺るがす素材かもしれん。研究対象としては最高だろう」
研究室のソファーに腰掛け、佐鳥華南の提出したレポートに目を通す。
彼女のレポートは評価が高いと聞いていたが、なるほど、彼女らしく面白い視点でまとめられている。
ついこの間も、新しいテーマの実験に取り組みたいと言ってきた。
華南は前向きで意欲がある。彼女の好奇心を刺激するものはなんだろうか。興味のあるものをとことん追求する精神は認めてやりたいとは思うが。
相変わらず彼女は俺の部屋に入り浸りだ。俺に興味津々なんだろうが、どうしたものかと考えなくもない。
レポートを閉じ、次のレポートに手を伸ばす。石灰深春と七五三田柚樹のものだ。今のところゼミの生徒は三人だが、華南以外の二人は優秀だが平凡でもある。特に目をかける魅力は感じていない。
もう一度、佐鳥華南のレポートを開く。彼女の文章は心地がいい。
そう、時々抱きしめて欲しいと言われて抱きしめてはやるが、寄り添うだけで感じる心地良さ。そういったものが彼女の文章にはある。
ふと華南と過ごす時間に思いを巡らせる。そう言えば、おかしなことを言っていたなと思い出す。好きな人の心の声が聞こえる、とか。
「夜間瀬先生、これ、頼まれてた資料」
突然ノックされたドアが開く。
同僚の講師がドアの隙間から顔とファイルを持った手を突き出している。
「ああ、ありがとう」
彼に歩み寄り、ファイルをつかむ。すぐに「じゃ」と言って、立ち去ろうとする同僚を俺は呼び止める。
「佐鳥華南はどんな生徒だろう」
「手こずってますか」
同僚はにやりと笑う。華南はやはり変わり者だろうか。
「いえ、優秀ですよ。非の打ち所がないぐらい。しかし、謎めいてる」
「謎めいてる! なるほど、その言葉は彼女にふさわしいですね。夜間瀬先生は学長と懇意の仲とか。学長なら知ってるんじゃないですかね。あの方、佐鳥一族の暮らす御簾路の出身ですから」
「そうですか、ありがとう」
「お役に立てたなら何より。しかし深入りは禁物ですよ、先生。遊び相手に佐鳥華南はマズい」
同僚は小声でそう言うと、またにやりと笑って立ち去る。
どうマズいのか。尋ねる必要もないか、とも思う。
佐鳥華南は清純だ。想像以上に清廉潔白で、一点の曇もない人生を歩んでいく女性だろう。むしろ、そういった人生になるよう、彼女が自らを戒めているようにも見える。
それなのに俺には不毛な愛を求める。佐鳥華南相手に、お遊びの恋に火をつけるほど俺も馬鹿ではない。
ファイルを置いて、そのまま研究室を出る。学長が御簾路出身とは知らなかった。
御簾路という土地は、俺も知らないわけではない。神計大学へ転勤する前は、御簾路駅発の電車で通勤していた。
ただあの土地に格別な思いを抱いたことはない。彼女の口から御簾路の名前を聞いたことすらなかった。
本館の最上階に学長室がある。
静かで長い廊下の先にある焦げ茶の扉をノックする。「どうぞ」と、厳かな声が扉の奥から聞こえる。
「夜間瀬です。失礼します」
入室すると同時に学長が重厚な回転椅子から腰を上げる。
「お忙しいところ申し訳ありません。伊江内学長にお尋ねしたいことがありまして」
「いや、ちょうど君を呼ぼうと思っていたところだ。灯華のことでね」
そう答えた学長に、ソファーへ座るよう促される。
「灯華さんはお元気ですか? 結婚式以来、お会いしておりませんが」
伊江内灯華は神計大学学長の娘であり、大学時代の友人だ。二年前に医師と結婚した。それ以来、連絡は取り合っていない。
「たまには夜間瀬くんに会いたいそうだ。気の許せる旧知が懐かしくなることもあるようだね」
「幸せに過ごしているなら安心です」
「充実はしているようだよ」
学長がソファーに腰掛けるのを確認して、俺も斜向かいに腰を下ろす。
「今夜はどうかね? 灯華も都合がいいようだ」
「また急なお話ですね」
「予定はないと思うが?」
「お断りはしません」
「君は断ることを知らないようだな」
今更、灯華に会って昔を懐かしむ理由もないが、学長の言う通りだ。俺は彼女の頼みを断らない。
「で、話はなんだったかね」
「ええ、興味深い生徒がゼミを受けていまして。学長なら何かご存知かと」
学長に無駄な駆け引きは必要ない。なぜだか俺に目をかけてくれている。競争世界から身を引いた俺を案じてのことか。それとも単に気が合うだけだからか。
「佐鳥華南だろう。彼女は入学前から面白い逸材だとは思っていた。佐鳥一族の末裔ならば、なおさらだ」
学長は楽しげに答える。彼女のことを話したくてたまらないようだ。
「佐鳥一族というのは御簾路の?」
「よく知っているな。そうだ、呪われし一族の末裔だ」
「これはまた、おとぎ話のような」
「そうだ。佐鳥一族にまつわる逸話はおとぎ話の世界かもしれない。しかし彼らの保有する植物は大変興味深い薬草だ」
学長の口から思いがけない言葉が飛び出す。
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