佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜

好きかもしれない 2

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「そこで待って……」

 佐鳥一族に関する資料を持ってこようと玄関に上がる俺の後を、灯華は当然のようについてくる。待ってなどいない女だとわかっていてマンションまで連れてきた俺も俺か。

「いいじゃない。大志がどんな生活してるか興味あるの」

 彼女は俺より先にリビングへ入っていく。

「殺風景っていうのか、何にもない部屋ね。もうちょっと家具を置いて荷物を片付けたらどう?」
「いつ引っ越すかわからないからな。このぐらいがちょうどいい」
「パパが優秀なあなたを手放すわけないじゃない。大学近くのもっと高級なマンションを紹介してあげるわよ」
「放っておいてくれ。ここが気に入ってる」

 かばんから資料を取り出しているうちに、灯華はキッチンの中をじろじろと覗き込む。

「やけに綺麗ね。料理はしないの?」
「ああ、時間の無駄だ」
「そのわりには手料理が入っていそうなタッパーが山積みよ。誰か作りに来てくれる子がいるのかしら?」

 灯華は紙袋に乱雑に詰め込んだタッパーを取り出して俺に見せつける。

「君には関係ない話だ」
「関係ないことないわ。あなたとやり直してもかまわないって思ってるんだもの」
「やり直す? やり直すようなことは何もないよ」

 突っぱねる俺に近づいた灯華は手をつかんでくる。

「どこからやり直したら大志は心を開いてくれるの?」

 俺は無感情に灯華を見下ろした。気の強い眼差しの奥に潤むのは、俺への恋慕の涙か。

 二年前のあの日もそうだった。
 灯華は何かを決意したような目をして俺のアパートを訪ねてきた。

 俺たちは大学で知り合い、ずっと気の合う友人として過ごしてきた。
 彼女は利発で、俺に知識を与える環境も才覚も持ち合わせていた。だから、俺も彼女を信頼していたし、何より美しい彼女と過ごす時間に楽しみも見出していた。

『大志、お願いがあって来たの』

 灯華の言葉は二年経っても忘れることはない。俺に与えるばかりで、何かを願うことはなかった彼女の口から発せられた言葉を、なぜ忘れることが出来るだろう。

『一度でいいから、抱いて……?』

 そう言って、灯華は俺の背中に腕を回した。
 長い茶色の髪に指をうずめたら柔らかくて、心に秘めていた思いがあふれるように彼女をベッドに押し倒していた。

 見つめ合った瞬間に、言葉は交わさなくとも、俺たちは愛し合っているのだと確信した。だから、彼女の白いほおをなでて、キスをしようと唇を寄せた。

『待って、大志……。キスは最後』

 妙なことを言うものだと思ったが、そのまま彼女の首筋に鼻先をうずめた。

 甘ったるい香水に我を失うのは簡単だった。肌が透けて見えるような薄いワンピースをはぎ、支配欲にのまれた俺はそのまま彼女を抱いた。肌を重ね合わせるうちに彼女が俺を支配していたなんて気づかなかった。
 キスをしたくてたまらなくて、灯華の唇に近づいた時、彼女の白い手が俺の口を塞いだから驚いた。

『キスはだめ……、だって好きな人とじゃないと……』

 急激に俺の体は冷めた。それがダイレクトに灯華に伝わったことは、彼女の嘲笑を見たらすぐにわかった。

『私ね、結婚するの』

 彼女は俺の胸を押してベッドから起き上がった。

『独身最後にやり残したことがないかって考えてたら、大志のことを思い出したの。あなただけは私になびかなかったから、ずっと言えなかったの。試してみたいって』

 呆然とする俺の前で、彼女はワンピースをかぶり、長い髪をはらって着替えて言った。

『これで思い残すことはなくなったわ。あなた、すごく上手。あの人よりずっと上手』

 あの人というのは結婚相手だとすぐにわかった。比べられたのだと気づいたら怒りが湧いた。

『でも大志じゃダメ。私を幸せにする財力がないもの。お金より愛だなんて、あなたもバカなこと言わないわよね?』

 その尋ねは、奪いに来いと暗に言っていたのだろうか。それすらわからず、灯華とのことをどう理解したらいいのか、思考が働かないぐらい俺の心は砕けていた。

『あなたのカラダ、忘れられるかしら。後悔したら、また抱いてくれる?』

 自己満足を満たすために灯華は俺に抱かれたいと言った。そこに俺の感情など必要だったのだろうか。魅惑的な体さえあれば、俺が欲情するとでも?

 己が好きでもない男に抱かれることが出来るから、俺が好きでもない女を抱ける男だと見下しているのか。

 後悔させる日が来るとしたら、それは俺が今まで彼女の欲求を満たして来れなかったからだろう。

『じゃあまたね、大志』

 もう会わない。

 その思いはカラカラに渇いた喉から出すことが出来なかった。

 また会いたいからじゃない。ただ気力がなかっただけだ。
 ぽっかりと穴のあいた空洞になった心に、どんな風が吹き抜けても、俺の中に留まることはなかったのだ。

「大志……」

 胸に顔をうずめてくる灯華の声が、俺を現実に引き戻す。
 俺はすぐに彼女の肩を両手で突き放し、それ以上力の入らない腕をだらりと下げた。

「君に心を閉ざしたことはないよ」
「じゃあ、なぜいつも怒るのよ。もしかしてあなた、私に本気だったの? 大志が望むならいつだって溺れさせてあげるわよ」
「君を満足させる体は生憎ないよ」

 灯華に触れたいと思わない。彼女と関わるとざわつく心の正体がなんであるのかすらわからないぐらい、心の破片に映る思いが見えない。

 二年経っても、俺の心は砕けて壊れたままだ。

「そう。私ね、ずっと言えないでいたけど、あなたに抱いて欲しいって言ったことに後悔はないの。きっとずっとあなたが好きだったのよ。あなたもそうだったら嬉しいわ」
「心を通わせたことはない。それだけははっきりしてる」

 あの行為に、愛などあったのだろうか。
 俺を見上げる灯華はこれ以上の進展を諦めたのか、しばらくすると息をついた。

「大志、じゃあ帰るわ。また来るわね。あなたと過ごす時間は特別よ」

 そしてリビングを出ていく背筋の伸びた彼女を見送った。

 テーブルの上に乗せたファイルに視線を移す。灯華に返さなければと思うのに、体が重くて動かない。
 むしょうに佐鳥華南に会いたくなった。彼女といると、不思議と心が安らぐのだ。砕けた心も修復してくれそうな気がしてならない。

「あら……」

 玄関へ向かった灯華の声に気づいてリビングから顔を覗かせる。

「灯華?」

 俺は眼前に広がる光景に眉をひそめた。
 なぜこの事態を想定しなかったのだろう。華南が訪れるかもしれないことはわかっていたことだったのに失念していた。

 華南は灯華に気づいて逃げ出そうとする。ここで彼女を手放したら、心は砕けるどころか失くしてしまいそうだ。

 華南の震える体が哀れで、とっさに俺は駆け出していた。

「佐鳥くんっ」
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