佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜

好きかもしれない 3

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***


 夜間瀬先生からは甘い香りがした。灯華さんが去る時に薫った匂いと、同じ香りだとすぐに気づいた。
 どちらから誘ったのだろう。
 灯華さんが抱きしめて欲しいと願ったから抱きしめたの?
 それとも、お互いにそうしたいと思ったから?

 リビングへ入ると、先生は私の手を放してテーブルの上のファイルを片付けた。
 佐鳥一族に関する資料だとすぐに気づいたけれど、知らぬふりをした。

「灯華はもう部屋へは入れない」

 その言葉でぴんとくる。灯華さんは先生にとって特別な人。

「……お付き合いしてたんですか?」
「彼女は結婚してるし、恋人だったわけでもない。それ以上を君に話す必要はないだろう」

 最低限の情報でも、私の胸に広がるのは安堵だった。先生が彼女を今、愛していないならそれでいいと思えた。

「佐鳥くん、明日は何もないのか?」
「え?」

 思わぬ問いに驚く。先生が私の予定を気にするなんておかしい。

「しばらくは図書館で勉強をと思ってたんですけど……」
「けど? 気が変わるようなことがあった?」
「どうしたらいいのかわからなくて」
「問題集を出しなさい。俺がわからない問題はないよ」

 私の持つトートバッグに視線を移す先生に、そうじゃないのだと首を振る。

「柚樹くんと勉強してます」
「七五三田くん? 彼じゃ、君のわからない問題は解けないだろう」
「わからないことはほんのわずかで、彼に教えることで学ぶこともあります。柚樹くんは新しい見解を私に示してくれるんです」

 先生の眉がぴくりと上がり、みるみるうちに表情が険しくなっていく。

「気が変わったと言いに来た?」

 私の言わんとするところを、彼は察するのが早い。

「好きじゃない人とでも……、彼が私を好きでいてくれるなら、幸せになれる道はあるかもしれないと思ったんです」

 ほんの少し息があがる。どくどくと胸が鳴る。先生を失うかもしれない恐怖が私を襲う。柚樹くんと恋人になったら、先生を好きでいたらいけない。
 でも、声が聞こえなかったら……。柚樹くんの声が聞こえなかったら、私はきっと先生を愛したまま生きていかなきゃいけない。そんなこと出来るのかわからなくて不安だ。

「君は何を迷う?」

 夜間瀬先生は間を詰めてくると私の肩に手を乗せた。その手のぬくもりが優しさを伝えてきて、余計に苦しい。

「……この能力は、好きな人を間違えないためにあるのだと思っていました。でも違うのかもしれません。これは……好きではない人に抱かれていても、心を強く保つための力……」
「佐鳥くん……」
「遊女だった夜月様は好きな人を思いながら、毎晩違う男性を相手にしていたのかもしれません。そのうちの誰かが私のご先祖様で……、佐鳥家の当主として認めない朝日様が私の体に流れる血を呪い続けてる」
「正気か、佐鳥くん。どうしてそんな風に思う」

 心配そうに私の顔を覗く先生が愛おしい。なぜ私を理解しようとしてくれるみたいな態度を取るのか。

「身受けされた時、夜月様は妊娠してた……」

 佐鳥家の禁忌とも言える事実を話せるのは先生だけだ。

「だからって……」
「母も好きな人とは結婚できなかった。ずっとそうだったのかもしれません。朝日様が夜月様を許してないから……」
「つまり、俺が君を好きにならないのは朝日のせいだと?」

 くだらない呪いだと先生は吐き捨てる。

「わからないけど……そんな気がして」
「じゃあ俺が君を好きだと言ったら? そうしたら君は空想に縛られた過去から解放されるのか」

 夜間瀬先生の心は真っ黒だ。荒ぶる波のように時に激しく、さめざめと降る雨のように時に哀しく。私への愛情なんて一つも見つからない。

「答えは柚樹くんが教えてくれます……。彼が私を大切にしてくれたら、私も母みたいに幸せになれます。脈々と続く佐鳥家を滅ぼすことなく生きていける。そうすることが朝日様の呪いを打ち消す方法……」
「ありもしない呪いから解放されるために、好きでもない男と結ばれて、君は幸せか? 愚かな考えだよ。離れていても心がつながっていたら幸せだなんてことはない。心も身体も、全部離したらいけない」

 必死な先生がおかしい。私に希望を与えてくれるのかと問う。

「……先生は私を好きになってくれるの? できないなら、私は佐鳥家を滅ぼすことしかできない。朝日様がそれを望んだなら、私は夜月様の恨みをかう」
「そうしてまた新たな呪いが生まれると思うなら間違いだ。君は佐鳥尚秀と夜月の間に生まれた子の子孫だ。朝日はそれを良しとした。だからこそ、佐鳥家は今もなお存続し続けてる」
「確証なんてどこにもないのに、先生は夜月様も朝日様も幸せだったと言うの?」
「それはわからない。人の心まではわかりようがない」

 結局そうなのだ。幸せなんて目に見えないものは誰にもわかりはしない。
 でも私はわかる。先生を好きだって気持ちだけはわかる。

「私……、柚樹くんが好きだって言ってくれたから幸せです……」

 私が幸せかどうかなんて、口先だけで誤魔化せる。たとえ幸せでなくても、そう口にすれば幸せなんだと周囲に伝えることができる。

「私は間違えたりしないの」

 自分にだけは嘘をつけない能力。周囲は騙せても、私だけはその答えを知ってる。

「君は間違えてるよ。俺には声が聞こえないが、君の心の叫びが聞こえてくるよ」

 夜間瀬先生が不意に私を抱きしめる。

 ヤサシク、ナンテ、シナイデ……

 それは私の心の叫び。

 アイシテ、ナイナラ、ヤサシクシナイデ……

 これも私の心の叫びのはずなのに、見上げた先にある先生の視線が宙をさまようから、彼にも聞こえる声なのだと気づいた。

「夜月……、それとも、朝日か?」

 そうつぶやいた先生の声が次第に遠くなる。見えない力に導かれるように、私は闇へと落ちていった。
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