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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜
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「佐鳥の殿様がまた客を取りに来たそうだよ」
「えらい熱の入れようだねぇ。あの遊女嫌いの殿様が」
「よほどお気に召したんだろうよ。あの赤茶の目は珍しいしねぇ。夜月もこれで出世さ。なにせ、あの佐鳥の殿様だからねぇ」
「夜月と言えば、最近おかしくないかい? まさかとは思うけどね……」
「あの噂だろ? まさかとは思うけどねぇ……」
襖の奥で、女が二人うわさ話をしている。新造の少女を従えて前を通りがかった私は、きつく唇を結ぶ。
「姉様……」
心配そうに不安な表情を浮かべる少女に小さくうなずきかけて、私は佐鳥尚秀の待つ部屋へ向かう。
尚秀様に会うのはこれが四度目。馴染みになったばかりだが、三度目の指名でも殿様は指一本触れてこなかった。遊女嫌い、という噂は本当なのだろう。
しかし何も語らず、一人黙々と酒の入った盃を傾ける殿様を見ていたら、何かやるせない思いを抱えているのではないかと思えた。
尚秀様は私の父親ほどの年齢の偉丈夫で、このかいわいでは有名な御簾路を治める大名だ。跡取りに恵まれないにもかかわらず、召した妻は正室のみで、真面目一辺倒なお人柄と噂で聞いた。
その尚秀様が毎夜遊郭に通うとあれば、遊女たちの間で噂にならないはずはない。
部屋へ入ると、屏風に囲われた尚秀様があぐらをかいてくつろいでいた。
私をちらりとだけ見て、厳格そうに腕を組んで目を閉じる。そんな態度を取っていても、いざとなれば荒々しく私を抱くのだ。わかり切っている。
酒を引き寄せ、盃を差し出す。
はやく酔い潰してしまおう。尚秀様は隙だらけだ。ここから逃げ出す隙も見つけられるかもしれない。
そんな半分本気で半分バカげた思いにかられた時だ。尚秀様はゆっくりとまぶたを上げると手を伸ばす。盃の上を素通りして、私の手首をそっとつかむ。
「夜月、おまえが子を身ごもっているという噂は本当か?」
初めて口を開いた殿様の問いに息を飲みつつ、私は冷静に答える。
「恥さらしとお笑いでしょうか」
「悔やむ思いは多少ある」
「悔やむ?」
無表情で問う。
尚秀様はやはり他の客とは違う。遊女に癒やされるために通ってきたわけではないのだろう。どこか裏のある様子に私はいぶかしむ。
「夜月に会うのは何度目だ?」
質問に答える気はないようだ。尚秀様は私の目をじっと見つめたまま、そう尋ねる。
「四度でございます」
「違う。一度目は数年前、張見世のおまえに会った。若く美しい娘を哀れと思う、その気持ちを忘れたことはない」
「……昔を懐かしみ、いらしたのですか? 今頃になって」
若き娘をふと思い出し、抱きに来た。そう言えばいいものを、妙な自尊心が邪魔をするのか、尚秀様は私の手首をつかんだまま、それ以上触れてこようとはしない。
「時は戻せぬが、これも出会いだ。お腹の子の父親は夜月の体のことを知っておるのか?」
なぜそれを尚秀様が知るのか。そう問いたいが、諦めにも似た感情が私にため息をつかせる。もはや、周知の事実と思った方がいいのだろう。
愚かな遊女は人の記憶に残ることなく消えていく。私もその一人として死ぬだろう。だが、それも悪くはない。あの人の元へ逝けるのだから。
「あの人は死にました……」
あの人のことを語る必要はないのに、手首から伝わる温かみが、私の心を開いていったのも事実。
「愛していたか」
尚秀様は哀れな女を見つめるように、眉を下げる。
「愛していたと思います。あの人はいつも私を愛しいと、愛しいと思いながら抱いてくださった……」
お金もないのに、私へ情を移した愚かな男だった。だけど、私は幸せだった。不思議とこの男ならと思えた。
そんな時聞こえたのだ、声が。男の声が。私を愛していると。
男は私を見つめ、触れるたびにその感情を抱いていた。
「そうか。ならば頼みがある。私には子が恵まれぬ。おまえの子をくれないか。ほんの少しだけ哀れと思った女が生む子だ。これも縁だろう」
「欲しいのは私ではなく、お腹の子だと?」
願ってもない申し出だ。それなのに私は怪訝に尋ねてしまう。
「夜月の子が欲しい。そう言えば納得するか?」
「まるで数年前から私を慕っていたかのような口ぶり」
初めて格子越しに見た遊女に恋慕を抱くなんてあるはずないのに。
強がりを見せる私を包み込むような優しい殿様の眼差しが苦しい。
「あるいは」
そう言ってくれる尚秀様と先に交わしたのは、体ではなく心だったのかもしれない。
「私は私の利益のために、殿様を慕うふりをするだけ」
「死を覚悟した面を美しいとは言わぬ。救える命が目の前にあるなら、救ってみようかと魔が差したのだ」
それはお互いの思惑が一致した瞬間だった。だから私は道楽とも受け取れる佐鳥尚秀の身請け話を受け入れた。
「佐鳥の殿様がまた客を取りに来たそうだよ」
「えらい熱の入れようだねぇ。あの遊女嫌いの殿様が」
「よほどお気に召したんだろうよ。あの赤茶の目は珍しいしねぇ。夜月もこれで出世さ。なにせ、あの佐鳥の殿様だからねぇ」
「夜月と言えば、最近おかしくないかい? まさかとは思うけどね……」
「あの噂だろ? まさかとは思うけどねぇ……」
襖の奥で、女が二人うわさ話をしている。新造の少女を従えて前を通りがかった私は、きつく唇を結ぶ。
「姉様……」
心配そうに不安な表情を浮かべる少女に小さくうなずきかけて、私は佐鳥尚秀の待つ部屋へ向かう。
尚秀様に会うのはこれが四度目。馴染みになったばかりだが、三度目の指名でも殿様は指一本触れてこなかった。遊女嫌い、という噂は本当なのだろう。
しかし何も語らず、一人黙々と酒の入った盃を傾ける殿様を見ていたら、何かやるせない思いを抱えているのではないかと思えた。
尚秀様は私の父親ほどの年齢の偉丈夫で、このかいわいでは有名な御簾路を治める大名だ。跡取りに恵まれないにもかかわらず、召した妻は正室のみで、真面目一辺倒なお人柄と噂で聞いた。
その尚秀様が毎夜遊郭に通うとあれば、遊女たちの間で噂にならないはずはない。
部屋へ入ると、屏風に囲われた尚秀様があぐらをかいてくつろいでいた。
私をちらりとだけ見て、厳格そうに腕を組んで目を閉じる。そんな態度を取っていても、いざとなれば荒々しく私を抱くのだ。わかり切っている。
酒を引き寄せ、盃を差し出す。
はやく酔い潰してしまおう。尚秀様は隙だらけだ。ここから逃げ出す隙も見つけられるかもしれない。
そんな半分本気で半分バカげた思いにかられた時だ。尚秀様はゆっくりとまぶたを上げると手を伸ばす。盃の上を素通りして、私の手首をそっとつかむ。
「夜月、おまえが子を身ごもっているという噂は本当か?」
初めて口を開いた殿様の問いに息を飲みつつ、私は冷静に答える。
「恥さらしとお笑いでしょうか」
「悔やむ思いは多少ある」
「悔やむ?」
無表情で問う。
尚秀様はやはり他の客とは違う。遊女に癒やされるために通ってきたわけではないのだろう。どこか裏のある様子に私はいぶかしむ。
「夜月に会うのは何度目だ?」
質問に答える気はないようだ。尚秀様は私の目をじっと見つめたまま、そう尋ねる。
「四度でございます」
「違う。一度目は数年前、張見世のおまえに会った。若く美しい娘を哀れと思う、その気持ちを忘れたことはない」
「……昔を懐かしみ、いらしたのですか? 今頃になって」
若き娘をふと思い出し、抱きに来た。そう言えばいいものを、妙な自尊心が邪魔をするのか、尚秀様は私の手首をつかんだまま、それ以上触れてこようとはしない。
「時は戻せぬが、これも出会いだ。お腹の子の父親は夜月の体のことを知っておるのか?」
なぜそれを尚秀様が知るのか。そう問いたいが、諦めにも似た感情が私にため息をつかせる。もはや、周知の事実と思った方がいいのだろう。
愚かな遊女は人の記憶に残ることなく消えていく。私もその一人として死ぬだろう。だが、それも悪くはない。あの人の元へ逝けるのだから。
「あの人は死にました……」
あの人のことを語る必要はないのに、手首から伝わる温かみが、私の心を開いていったのも事実。
「愛していたか」
尚秀様は哀れな女を見つめるように、眉を下げる。
「愛していたと思います。あの人はいつも私を愛しいと、愛しいと思いながら抱いてくださった……」
お金もないのに、私へ情を移した愚かな男だった。だけど、私は幸せだった。不思議とこの男ならと思えた。
そんな時聞こえたのだ、声が。男の声が。私を愛していると。
男は私を見つめ、触れるたびにその感情を抱いていた。
「そうか。ならば頼みがある。私には子が恵まれぬ。おまえの子をくれないか。ほんの少しだけ哀れと思った女が生む子だ。これも縁だろう」
「欲しいのは私ではなく、お腹の子だと?」
願ってもない申し出だ。それなのに私は怪訝に尋ねてしまう。
「夜月の子が欲しい。そう言えば納得するか?」
「まるで数年前から私を慕っていたかのような口ぶり」
初めて格子越しに見た遊女に恋慕を抱くなんてあるはずないのに。
強がりを見せる私を包み込むような優しい殿様の眼差しが苦しい。
「あるいは」
そう言ってくれる尚秀様と先に交わしたのは、体ではなく心だったのかもしれない。
「私は私の利益のために、殿様を慕うふりをするだけ」
「死を覚悟した面を美しいとは言わぬ。救える命が目の前にあるなら、救ってみようかと魔が差したのだ」
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