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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜
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*
佐鳥家は想像するような大名家ではなかった。生まれ落ちた故郷に似た、のどかで静かな田畑が広がる土地に構えた屋敷は、決して仰々しくはない佇まいだった。
その屋敷の一室が私に与えられた。
障子に身を寄せて目を閉じれば、庭先から吹き込む風が涼しくて、初めて与えられた自由を持て余すほどの穏やかな時間が流れていく。
「朝日、夜月と対面するのはやめておけ」
ゆっくりと目を開ける。
風に乗って聞こえてきた声は尚秀様のものだ。相手は殿様の正室の朝日様。
「なぜ? 私の子を生む女でしょうに。顔ぐらい見ておかねば」
朝日様は気丈夫な方と聞いた。その利発さがわかるしっかりとした声がする。
私の子を生む?
背中がひやりとする。お腹に手を当てる。このお腹の子が生まれたら、すぐに取り上げられてしまう。
覚悟はしていた。当然のことだ。たとえ側室でも、遊女の生んだ子は跡取りになれない。
私の存在すら消し去って、この子は朝日様の子として生きていくだろう。
私はこの子を抱くことすら出来ないかもしれない。そんな恐怖に今更ながら襲われた。
「朝日が心配だ」
尚秀様はそう言って、無言になった。衣ずれの音がした。二人は寄り添ったのだ。
言い知れない不安から逃げ出すように立ち上がる。二人の愛の深さを感じて、捨て駒にされた私を惨めに思う。
二人の声が聞こえないように庭から離れようとした時、足元へ向かってぬるいものが流れていくのを感じた。
嫌な予感が背筋を凍らせる。
ゆっくりと首を下げ、白い足を凝視した私は、ぽたりと落ちた真っ赤な血を見て悲鳴をあげた。
目覚めた時、私の顔を覗き込む尚秀様の表情が苦しげで、私はその事実を暗に理解した。
まばたきをしたら涙がこぼれて、泣くなんて何年ぶりだろうと思った。
泣く時間を与えてくれる殿様はとてもありがたい存在だ。それなのに私は与えられた役割すら果たせなかった。
「夜月……」
尚秀様の指が涙をすくう。温かくて優しい手だ。あの人と同じぬくもりを持つ人。
「残念だ」
「申し訳ございません……」
謝れば、尚秀様はそっと首を横に振る。
残念だと言ったのは、私に対してだろうか。産めなくて、残念だったと。
でも良かったのだ。もしかしたらあの人の子ではなかったのかもしれないのだから。
「ゆっくり休め。おまえを追い出したりはせぬ」
すぐに立ち去るかと思ったのに、尚秀様はそう言った後も私の側にいて、優しく手を握ってくれていた。
私は無言で涙を流した。安堵の涙を流す日が来るなんて、尚秀様に出会わなければ生涯なかっただろう。
今になって思えば、尚秀様の優しさは娘に向けられるようなもので、一人の女性に対する愛情とは一線を画したものだったかもしれない。
尚秀様は私を連れて町に出かけたり、美しい着物や綺麗なかんざしを贈ってくれたりはしたが、共に夜を過ごすことはなく日々は過ぎていった。
それを私は、いつの頃から物足りなく感じるようになっていたのだろう。
「夜月、起きているか」
「殿……、いかがされたのです?」
それは三日月の夜だった。
寝床に入った私のもとへ尚秀様は寝巻き姿で現れた。
胸がとくんと高鳴った。なぜこのような夜更けに尚秀様が一人で、まるで忍ぶように現れたのか、その答えは殿の瞳の中にあった。
複雑に絡み合う悲しみと優しさ。そこに私への愛情はあるのか探ろうと殿様に近づくが、どうにも見つけられない。
「夜月、どうしても諦めきれぬ。私の子を、生んではくれないだろうか」
「それは殿のためですか……?」
「……ああ、そうだ」
「殿は嘘が下手でございますね。でも、かまいません。喜んで、務めを果たしたいと存じます」
うっすら笑んで、尚秀様と手を重ねた。
朝日様にせがまれたのだろう。子が欲しいと。そうでなければ、朝日様を愛してやまない尚秀様が私を抱こうとするはずはない。
それでも私は嬉しかった。優しい尚秀様となら、体を重ねることに抵抗はなかった。
「夜月、すまない」
「なぜ謝るのです。お慕いする方の子を生めるのは女の幸せです」
「慕う……」
尚秀様はひどく驚いた様子だったが、ゆっくりとうなずく私に口づけをした。
「夜月……」
「殿……」
雲が三日月を隠すと同時に、尚秀様は私を床に押し倒し、果てない愛情を注ぎ込むように優しく抱いてくれた。
初めての夜はお互いの探り合いをしていたかもしれない。
毎夜通ってくる尚秀様が私の体に溺れているのを肌で感じるようになったのは、それからしばらくしてからのこと。
「子を孕んだら、しばらく抱けぬのか……」
残念そうにつぶやいた尚秀様がひどく可愛らしくて、殿の頭を胸にうずめながら私はくすりと笑った。
「かまいませんよ。殿の好きな時にいらして」
「それでは夜月の体が心配だ」
そう言って、顔をあげた尚秀様は私の髪に指をうずめて深い口づけをする。
愛しい……。
優しくて可愛らしくて、愛しい方……。
口づけに応えながら、尚秀様に身を寄せる。
「夜月……」
愛している、とは尚秀様は言わない。その意味を知っている私の耳に、ふと声が届く。
『許せ、朝日。私は朝日、……朝日が愛しいのだよ』
それは尚秀様の心の声だった。
私だけを愛してくれるとは思っていないけれど、尚秀様からあふれ出る思いは朝日様へ対する愛情ばかりだった。
「夜月が恋しい……」
そう言いながら、私との快楽に落ちていく殿様の心は、常に朝日様への詫びと愛情に満ちあふれ、私への恋慕の思いは見えなかった。
それでもかまわない。私は尚秀様を愛している。そう確信できたのは、殿の心の声を聞くことができたから。
愛する人の声が聞こえる。なぜこんなことが起きるのかはわからないけれど、尚秀様に抱かれている間は、つらいことも悲しいことも全て忘れることが出来た。
それを人は幸せというのだろう。たとえ尚秀様が、私を愛していなかったとしても……。
佐鳥家は想像するような大名家ではなかった。生まれ落ちた故郷に似た、のどかで静かな田畑が広がる土地に構えた屋敷は、決して仰々しくはない佇まいだった。
その屋敷の一室が私に与えられた。
障子に身を寄せて目を閉じれば、庭先から吹き込む風が涼しくて、初めて与えられた自由を持て余すほどの穏やかな時間が流れていく。
「朝日、夜月と対面するのはやめておけ」
ゆっくりと目を開ける。
風に乗って聞こえてきた声は尚秀様のものだ。相手は殿様の正室の朝日様。
「なぜ? 私の子を生む女でしょうに。顔ぐらい見ておかねば」
朝日様は気丈夫な方と聞いた。その利発さがわかるしっかりとした声がする。
私の子を生む?
背中がひやりとする。お腹に手を当てる。このお腹の子が生まれたら、すぐに取り上げられてしまう。
覚悟はしていた。当然のことだ。たとえ側室でも、遊女の生んだ子は跡取りになれない。
私の存在すら消し去って、この子は朝日様の子として生きていくだろう。
私はこの子を抱くことすら出来ないかもしれない。そんな恐怖に今更ながら襲われた。
「朝日が心配だ」
尚秀様はそう言って、無言になった。衣ずれの音がした。二人は寄り添ったのだ。
言い知れない不安から逃げ出すように立ち上がる。二人の愛の深さを感じて、捨て駒にされた私を惨めに思う。
二人の声が聞こえないように庭から離れようとした時、足元へ向かってぬるいものが流れていくのを感じた。
嫌な予感が背筋を凍らせる。
ゆっくりと首を下げ、白い足を凝視した私は、ぽたりと落ちた真っ赤な血を見て悲鳴をあげた。
目覚めた時、私の顔を覗き込む尚秀様の表情が苦しげで、私はその事実を暗に理解した。
まばたきをしたら涙がこぼれて、泣くなんて何年ぶりだろうと思った。
泣く時間を与えてくれる殿様はとてもありがたい存在だ。それなのに私は与えられた役割すら果たせなかった。
「夜月……」
尚秀様の指が涙をすくう。温かくて優しい手だ。あの人と同じぬくもりを持つ人。
「残念だ」
「申し訳ございません……」
謝れば、尚秀様はそっと首を横に振る。
残念だと言ったのは、私に対してだろうか。産めなくて、残念だったと。
でも良かったのだ。もしかしたらあの人の子ではなかったのかもしれないのだから。
「ゆっくり休め。おまえを追い出したりはせぬ」
すぐに立ち去るかと思ったのに、尚秀様はそう言った後も私の側にいて、優しく手を握ってくれていた。
私は無言で涙を流した。安堵の涙を流す日が来るなんて、尚秀様に出会わなければ生涯なかっただろう。
今になって思えば、尚秀様の優しさは娘に向けられるようなもので、一人の女性に対する愛情とは一線を画したものだったかもしれない。
尚秀様は私を連れて町に出かけたり、美しい着物や綺麗なかんざしを贈ってくれたりはしたが、共に夜を過ごすことはなく日々は過ぎていった。
それを私は、いつの頃から物足りなく感じるようになっていたのだろう。
「夜月、起きているか」
「殿……、いかがされたのです?」
それは三日月の夜だった。
寝床に入った私のもとへ尚秀様は寝巻き姿で現れた。
胸がとくんと高鳴った。なぜこのような夜更けに尚秀様が一人で、まるで忍ぶように現れたのか、その答えは殿の瞳の中にあった。
複雑に絡み合う悲しみと優しさ。そこに私への愛情はあるのか探ろうと殿様に近づくが、どうにも見つけられない。
「夜月、どうしても諦めきれぬ。私の子を、生んではくれないだろうか」
「それは殿のためですか……?」
「……ああ、そうだ」
「殿は嘘が下手でございますね。でも、かまいません。喜んで、務めを果たしたいと存じます」
うっすら笑んで、尚秀様と手を重ねた。
朝日様にせがまれたのだろう。子が欲しいと。そうでなければ、朝日様を愛してやまない尚秀様が私を抱こうとするはずはない。
それでも私は嬉しかった。優しい尚秀様となら、体を重ねることに抵抗はなかった。
「夜月、すまない」
「なぜ謝るのです。お慕いする方の子を生めるのは女の幸せです」
「慕う……」
尚秀様はひどく驚いた様子だったが、ゆっくりとうなずく私に口づけをした。
「夜月……」
「殿……」
雲が三日月を隠すと同時に、尚秀様は私を床に押し倒し、果てない愛情を注ぎ込むように優しく抱いてくれた。
初めての夜はお互いの探り合いをしていたかもしれない。
毎夜通ってくる尚秀様が私の体に溺れているのを肌で感じるようになったのは、それからしばらくしてからのこと。
「子を孕んだら、しばらく抱けぬのか……」
残念そうにつぶやいた尚秀様がひどく可愛らしくて、殿の頭を胸にうずめながら私はくすりと笑った。
「かまいませんよ。殿の好きな時にいらして」
「それでは夜月の体が心配だ」
そう言って、顔をあげた尚秀様は私の髪に指をうずめて深い口づけをする。
愛しい……。
優しくて可愛らしくて、愛しい方……。
口づけに応えながら、尚秀様に身を寄せる。
「夜月……」
愛している、とは尚秀様は言わない。その意味を知っている私の耳に、ふと声が届く。
『許せ、朝日。私は朝日、……朝日が愛しいのだよ』
それは尚秀様の心の声だった。
私だけを愛してくれるとは思っていないけれど、尚秀様からあふれ出る思いは朝日様へ対する愛情ばかりだった。
「夜月が恋しい……」
そう言いながら、私との快楽に落ちていく殿様の心は、常に朝日様への詫びと愛情に満ちあふれ、私への恋慕の思いは見えなかった。
それでもかまわない。私は尚秀様を愛している。そう確信できたのは、殿の心の声を聞くことができたから。
愛する人の声が聞こえる。なぜこんなことが起きるのかはわからないけれど、尚秀様に抱かれている間は、つらいことも悲しいことも全て忘れることが出来た。
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