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佐鳥姫の憂鬱 〜貞華の愛した幻の桜〜
あなたを知りたい人 9
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「華南、先生のことまだ諦めてないわけ?」
研究室を出るとすぐに、柚樹くんはそう尋ねてきた。
下がる眉が頼りない。言いたくもないことを仕方なしに口にしたようなその様子に、私は小首を傾げる。
「なぜ?」
「どうしてって……」
「なぜ諦める必要があるのかしら。私たちは交際してないけれど、お互いに惹かれ合ってるわ」
「お互いに? そんな話、先生とした?」
相変わらず困り顔で彼はそう言う。
「わかるの」
「わかるって、何が? 先生は華南のこと大事に思ってないだろ?ちょっと珍しくて綺麗な子だから側においてるだけだよ」
「それも才能よね。側にもおいてもらえないよりはいいの」
柚樹くんはあきれ顔をする。
「もっと手近なところで恋愛した方がいいよ。先生が華南に真剣だって言うなら、卒業まで一切手を出さないさ。ずっとさみしい思いするなら大切にしてくれる男を選んだ方がいい」
階段を降りかかり、ふと足を止める。一段下に降りた柚樹くんと目の高さが程よく合う。
「それは、俺と付き合えって言っているの?」
柚樹くんのほおがほんのり赤らむ。
ただの図星だ。怒りをはらむようでもない赤みは、目を合わせているうちにますます濃くなる。
「あ、……ああ、そうだよ、華南。俺だったら華南にさみしい思いさせない」
開き直るように声を発した彼は、一歩私に近づく。そのまま私の手首をつかんでくるから、思わず後ずさると壁に背中がつく。
ひんやりとした壁と手首から伝わる彼の温もりの温度差に戸惑うことのない私を見下ろす彼が、やや幾分戸惑っているようだ。
「キスは……、した?」
赤くなりながら柚樹くんは尋ねる。まるで純朴な青年だ。そんな風には見えないやんちゃな茶髪が私の前で揺れる。
顔を近づけられた。手から伝わる温もりが次第に熱くなる。
「したわ」
何度も。
夜間瀬先生はいつも愛おしそうにキスをしてくれる。
ただ言わないだけだ。好きだとか、愛してるとか。簡単に飾ることのできる愛の言葉を軽々しく発しないだけ。
それでもその言葉を待つのは私だ。安心したくて、彼が欲しいと思う。このさみしさを誰かに埋めて欲しいなんて思うわけじゃない。
「それは……、華南が好きだからしたの?」
柚樹くんの手が私の腕を這い上がる。やるせなさそうに近づく彼の目には依然と戸惑いが浮かぶ。
どうにもならない思いを抱えているのは私だけじゃない。彼も同じ。
先生がはっきりと私に愛を伝えないから、彼も諦めきれない思いを持て余しているようにも見える。
「俺は華南を幸せにできるよ。心だけじゃない。カラダも……」
カラダも愛で満たしてくれる?
そうしたら私は幸せになれる?
唇をわずかに寄せてくる柚樹くんから目をそらす。
「誰でもいいわけじゃないの」
そう言った時、コツコツと歩く足音が静かな廊下に響く。その足音は次第に階段へ向かって近づいてくる。
足音に気を取られる私の背に、柚樹くんの腕が回る。彼は私の気を引くことに夢中で、足音に気づいてないようだ。
「俺だって先生が華南を幸せにするって言うなら……」
柚樹くんの苦しげな息が耳もとに届く。
コツン、っと足音が途絶える。
廊下を曲がって私の目の前に現れたのは、白衣を着た夜間瀬先生。
無表情な中に静かな怒りが見える。穏やかではない彼の黒い心が静寂な空間から伝わってくる。
「人の幸せの尺度を君の価値観に合わせるのは関心しない」
先生は淡々とそう言うと、わざとらしく腕時計を確認した。
「佐鳥くん、少しばかり興味深い話を横土里くんから聞いた。あと1時間ある。佐鳥くんもきっと興味を持つだろう。研究室に戻りなさい」
あと1時間は先生の帰宅までの時間。
研究室に呼んでくれるのは、興味深い話のためではなくて、柚樹くんの存在を心配してのこと。
カラダを重ねることよりも、もっと罪深い愛情を先生は見せてくれる。
「華南、ごめん」
柚樹くんはそう言って私から離れた。それでも彼の瞳にたぎる情熱が冷めていく様子はなく。
彼に言葉をかける間もなく夜間瀬先生が身をひるがえすから、私も白衣の背中を追う。
「先生……っ」
無言で歩む先生に声をかけるが振り返りもしない。
「せん……」
もう一度呼びかけた時、研究室の前で先生は足を止める。
「どうにも諦めきれない想いというのは存在するのかもしれないね」
ドアノブをつかんだ先生はそっとそうつぶやいて、研究室の中へと踏み込んだ。
「先生、横土里さんから聞いた興味深い話ってどんな話ですか?」
私を研究室にわざわざ呼び戻したのに、夜間瀬先生は無言のまま帰り支度を始める。
いくつかのファイルをかばんにしまった後、脱いだ白衣をロッカーに片付けに行こうとする彼の腕に触れる。
私がやりますと白衣を受け取れば、先生の手が白衣の下で私の手首をつかむ。そしてそっと下がる手は手のひらを包み込んでくる。
「先生……?」
「君は誤解している」
長い前髪の奥で鋭く光る黒い瞳が私を冷ややかに見下ろしている。手のひらから伝わるぬくもりとは正反対に冷たい眼差し。だからといって怒っているようでもなく。
「何の話ですか?」
「灯華のことを好きだったことはない。彼女とのことはそういうものじゃない」
「愛していたんですね」
そう言えば、先生はまぶたを伏せて小さな息をつく。
「少なくとも、横土里くんと灯華は似ても似つかない」
「先生を愛している気持ちは似ています」
あきれた様子で、先生は首を振る。
「あれは愛じゃないよ。執着だ」
「執着、ですか?」
「七五三田くんも似たようなものだろう。執着は時に人を惑わし、妙な出来心を起こさせる。十分気をつけることだ。君は良からぬものを惹きつける魅力があるようだから」
「良からぬものって?」
私がいつ何を引き寄せたのだろう。
先生の言葉一つ一つが魅惑的だ。私の知らない世界へ導いてくれる気がする。
「マンションへ戻ればわかる。ひどく不可思議なことが起きているが、もしかしたらという思いはある」
言葉では説明のつかない何かが起きているのだろう。そして一つ思い浮かぶのは鉢のこと。虞美人草は鉢の中で季節外れに芽吹いた。あれはどうなったのだろう。
「華南、先生のことまだ諦めてないわけ?」
研究室を出るとすぐに、柚樹くんはそう尋ねてきた。
下がる眉が頼りない。言いたくもないことを仕方なしに口にしたようなその様子に、私は小首を傾げる。
「なぜ?」
「どうしてって……」
「なぜ諦める必要があるのかしら。私たちは交際してないけれど、お互いに惹かれ合ってるわ」
「お互いに? そんな話、先生とした?」
相変わらず困り顔で彼はそう言う。
「わかるの」
「わかるって、何が? 先生は華南のこと大事に思ってないだろ?ちょっと珍しくて綺麗な子だから側においてるだけだよ」
「それも才能よね。側にもおいてもらえないよりはいいの」
柚樹くんはあきれ顔をする。
「もっと手近なところで恋愛した方がいいよ。先生が華南に真剣だって言うなら、卒業まで一切手を出さないさ。ずっとさみしい思いするなら大切にしてくれる男を選んだ方がいい」
階段を降りかかり、ふと足を止める。一段下に降りた柚樹くんと目の高さが程よく合う。
「それは、俺と付き合えって言っているの?」
柚樹くんのほおがほんのり赤らむ。
ただの図星だ。怒りをはらむようでもない赤みは、目を合わせているうちにますます濃くなる。
「あ、……ああ、そうだよ、華南。俺だったら華南にさみしい思いさせない」
開き直るように声を発した彼は、一歩私に近づく。そのまま私の手首をつかんでくるから、思わず後ずさると壁に背中がつく。
ひんやりとした壁と手首から伝わる彼の温もりの温度差に戸惑うことのない私を見下ろす彼が、やや幾分戸惑っているようだ。
「キスは……、した?」
赤くなりながら柚樹くんは尋ねる。まるで純朴な青年だ。そんな風には見えないやんちゃな茶髪が私の前で揺れる。
顔を近づけられた。手から伝わる温もりが次第に熱くなる。
「したわ」
何度も。
夜間瀬先生はいつも愛おしそうにキスをしてくれる。
ただ言わないだけだ。好きだとか、愛してるとか。簡単に飾ることのできる愛の言葉を軽々しく発しないだけ。
それでもその言葉を待つのは私だ。安心したくて、彼が欲しいと思う。このさみしさを誰かに埋めて欲しいなんて思うわけじゃない。
「それは……、華南が好きだからしたの?」
柚樹くんの手が私の腕を這い上がる。やるせなさそうに近づく彼の目には依然と戸惑いが浮かぶ。
どうにもならない思いを抱えているのは私だけじゃない。彼も同じ。
先生がはっきりと私に愛を伝えないから、彼も諦めきれない思いを持て余しているようにも見える。
「俺は華南を幸せにできるよ。心だけじゃない。カラダも……」
カラダも愛で満たしてくれる?
そうしたら私は幸せになれる?
唇をわずかに寄せてくる柚樹くんから目をそらす。
「誰でもいいわけじゃないの」
そう言った時、コツコツと歩く足音が静かな廊下に響く。その足音は次第に階段へ向かって近づいてくる。
足音に気を取られる私の背に、柚樹くんの腕が回る。彼は私の気を引くことに夢中で、足音に気づいてないようだ。
「俺だって先生が華南を幸せにするって言うなら……」
柚樹くんの苦しげな息が耳もとに届く。
コツン、っと足音が途絶える。
廊下を曲がって私の目の前に現れたのは、白衣を着た夜間瀬先生。
無表情な中に静かな怒りが見える。穏やかではない彼の黒い心が静寂な空間から伝わってくる。
「人の幸せの尺度を君の価値観に合わせるのは関心しない」
先生は淡々とそう言うと、わざとらしく腕時計を確認した。
「佐鳥くん、少しばかり興味深い話を横土里くんから聞いた。あと1時間ある。佐鳥くんもきっと興味を持つだろう。研究室に戻りなさい」
あと1時間は先生の帰宅までの時間。
研究室に呼んでくれるのは、興味深い話のためではなくて、柚樹くんの存在を心配してのこと。
カラダを重ねることよりも、もっと罪深い愛情を先生は見せてくれる。
「華南、ごめん」
柚樹くんはそう言って私から離れた。それでも彼の瞳にたぎる情熱が冷めていく様子はなく。
彼に言葉をかける間もなく夜間瀬先生が身をひるがえすから、私も白衣の背中を追う。
「先生……っ」
無言で歩む先生に声をかけるが振り返りもしない。
「せん……」
もう一度呼びかけた時、研究室の前で先生は足を止める。
「どうにも諦めきれない想いというのは存在するのかもしれないね」
ドアノブをつかんだ先生はそっとそうつぶやいて、研究室の中へと踏み込んだ。
「先生、横土里さんから聞いた興味深い話ってどんな話ですか?」
私を研究室にわざわざ呼び戻したのに、夜間瀬先生は無言のまま帰り支度を始める。
いくつかのファイルをかばんにしまった後、脱いだ白衣をロッカーに片付けに行こうとする彼の腕に触れる。
私がやりますと白衣を受け取れば、先生の手が白衣の下で私の手首をつかむ。そしてそっと下がる手は手のひらを包み込んでくる。
「先生……?」
「君は誤解している」
長い前髪の奥で鋭く光る黒い瞳が私を冷ややかに見下ろしている。手のひらから伝わるぬくもりとは正反対に冷たい眼差し。だからといって怒っているようでもなく。
「何の話ですか?」
「灯華のことを好きだったことはない。彼女とのことはそういうものじゃない」
「愛していたんですね」
そう言えば、先生はまぶたを伏せて小さな息をつく。
「少なくとも、横土里くんと灯華は似ても似つかない」
「先生を愛している気持ちは似ています」
あきれた様子で、先生は首を振る。
「あれは愛じゃないよ。執着だ」
「執着、ですか?」
「七五三田くんも似たようなものだろう。執着は時に人を惑わし、妙な出来心を起こさせる。十分気をつけることだ。君は良からぬものを惹きつける魅力があるようだから」
「良からぬものって?」
私がいつ何を引き寄せたのだろう。
先生の言葉一つ一つが魅惑的だ。私の知らない世界へ導いてくれる気がする。
「マンションへ戻ればわかる。ひどく不可思議なことが起きているが、もしかしたらという思いはある」
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