50 / 61
佐鳥姫の憂鬱 〜貞華の愛した幻の桜〜
あなたを知りたい人 10
しおりを挟む夜間瀬先生と共に研究室を出ると、白衣をまとった若手の講師に出くわした。彼は私たちを交互に見ると、いかがわしい笑みを浮かべる。
「夜間瀬先生、もうおかえりですか。気ままな身分は羨ましい」
純粋にそう思っているような、嫌味のない口調で講師は大げさに両手を広げる。
「体調がすぐれなくてね」
嘘かどうかもわからない、思いがけないことを先生が言うから、講師もきょとんとする。
「寝不足ですか? ……あーいやいや、羨ましい」
ちらちらとこちらに視線を送る講師をジッと見返す。彼の講義は受けていないから名前が思い出せない。
「寝不足はあるが、羨ましくはないよ」
お先に、と夜間瀬先生は歩き出す。
「お楽しみもほどほどにー」
軽快な声が後ろから飛んでくる。天性の明るさに支えられたごくごく平凡な講師だろう。
落ち着き払う夜間瀬先生は彼の言葉には反応しないで階段を降りていく。
寝不足ですか?
早退して大丈夫ですか?
そんな言葉が胸に浮かんだが、どれも口に出せないまま校舎を出て、無言のまま駅へと向かった。
「横土里くんの話は実のところ興味深い話ではない」
夜間瀬先生が沈黙を破り、そう吐露したのは桜咲駅へ向かう電車の中だった。
神計大学前駅からひと駅の桜咲駅へはすぐに到着する。下車して五分ほど歩けば私たちが暮らすマンションにたどり着く。
改札口を抜けた後、私は口を開く。
「どんな話だったんですか?」
「美容エキスの話だよ。抱き心地のいい身体になるために必要なエキスだそうだ」
先生は大した興味もなさそうに淡々とそう答えた。
「そんなエキスがあるんですか?」
そう問えば、先生はおかしそうに目尻を下げる。そして少しだけ身をかがめて私の顔を覗き込む。
「興味がある?」
「それで先生に触れてもらえるなら……」
「君の肌はじゅうぶん綺麗だよ。横土里くんが欲しいものは、不健康な生活を送る自分を慰めるためだけのものだろう」
「より良くなりたいと思うのは当たり前の心理です」
私だって先生に触れられる時は綺麗でいたいと思う。
「そういったことにも興味がないよ。肌に塗るだけで魅惑的なカラダになるものがあるはずもない。まずは生活改善だよ」
にべもなく答える先生に対し、私は問う。
「どんなエキスですか?」
「君もしつこいね。桜から採れるエキスだよ」
彼はすんなり答えてくすりと笑う。
「桜の木から採れる美容エキスですか?」
「花びらから採れるエキスだよ。美容効果が高いと言われているようだね。残念ながら桜の季節はまだ先だ」
美容エキスについて話しているうちにマンションへ到着した。
私たちは当たり前のように二階の角部屋へ向かう。
「先生、朝は鍵かけましたか?」
「ああ、どうだったかな。かけたような気もするよ」
夜間瀬先生が胸ポケットを探る仕草をするから、かばんを開いてキーホルダーを取り出す。
「私が開けます」
「君は用意がいいね」
「先生と一緒にいるみたいで嬉しいんです」
常に肌身はなさず合鍵を持っている。
「そう。そんな風に思うなら、合鍵なんて味気ないものじゃなくて、君が欲しいものをプレゼントしようか」
「先生がプレゼントなんて、おかしいです」
私は少々驚く。物欲がなさそうな先生からそんな言葉を聞くとは思っていなかったのだ。
私の気持ちが伝わったのか、彼は苦笑いを禁じえない様子だ。
「君はすぐに形のない愛を欲しがるからね。その気持ちに応えられない分のものはプレゼントしよう」
「それでも形のないものが欲しいです」
「卒業まで待てというのは酷かもしれない」
「待てます」
「いや、君じゃなくて俺がね」
先生はさりげなくそう言うと、私に道を譲る。
キーホルダーから先生の部屋の合鍵を選び取り、ドアノブの鍵穴に差し込む。カチャリと静かな音を立てて開いたドアの先に、私の視線は自然と集中する。
玄関からリビングへとつながる廊下の扉は開いていた。その奥に見えるのはソファーの置かれた窓際。窓の前には猫脚のテーブル。
普段と何ら変わらない様子の先生の部屋を訪れたのは3日ぶりか。それなのにテーブルの上の鉢には、するりと美しく伸びた一輪の花。
「芽吹いた翌朝には咲いていたよ。気品な身のこなしはさすが、というべきかもしれないね」
私の視線が捉えたものに気づいた彼はそう言うと、まっすぐ窓辺に向かう。
「生育が早い理由はなんですか?」
先生を追いかけて問う。
「なんだろうね」
あまり関心なさげに答えた彼は鉢の前に歩み寄る。
「見張られているとでも言うのかな。花が咲いてからは毎晩繰り返し同じ夢を見る」
「どんな?」
「夜月が現れる夢だ。夜月の顔を知るわけでもないのに、夜月だと思う。感じる、というのかな。その夜月はいつもこの虞美人草を抱いて、俺をじっと見つめるんだ」
「……夜月様は先生が好きなんでしょうか」
先生は怪訝そうに目を細める。
「誰もが優秀と認める君の発想は残念なぐらい短絡的で貧相だね。恋は盲目とはよく言ったものだ」
「先生を好きな人はひどく主張が激しいのでそう思ったまでです」
「それはそうかもしれないね、君を含め。百歩譲ってそうだったとして、夜月はこの虞美人草に宿っているのだろうか」
端に紫色の染みた真っ白な花びらに、先生は指を触れさす。
ゆらりと揺れた花びらは不機嫌そうに首を垂れたまま、そっぽを向くように向きを変える。
「どうやら逆かもしれない。俺が嫌いで監視しているのかもしれないね」
「なぜそんなことを?」
「子孫である佐鳥くんを心配するあまりだろうか」
先生が冗談を言うには生真面目な表情でそう言った時、虞美人草の花は揺らぐ。
彼の言葉をまるで肯定するかのように花は彼を仰ぎ、静かにこうべを垂れた。
0
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
やさしいキスの見つけ方
神室さち
恋愛
諸々の事情から、天涯孤独の高校一年生、完璧な優等生である渡辺夏清(わたなべかすみ)は日々の糧を得るために年齢を偽って某所風俗店でバイトをしながら暮らしていた。
そこへ、現れたのは、天敵に近い存在の数学教師にしてクラス担任、井名里礼良(いなりあきら)。
辞めろ辞めないの押し問答の末に、井名里が持ち出した賭けとは?果たして夏清は平穏な日常を取り戻すことができるのか!?
何て言ってても、どこかにある幸せの結末を求めて突っ走ります。
こちらは2001年初出の自サイトに掲載していた小説です。完結済み。サイト閉鎖に伴い移行。若干の加筆修正は入りますがほぼそのままにしようと思っています。20年近く前に書いた作品なのでいろいろ文明の利器が古かったり常識が若干、今と異なったりしています。
20年くらい前の女子高生はこんな感じだったのかー くらいの視点で見ていただければ幸いです。今はこんなの通用しない! と思われる点も多々あるとは思いますが、大筋の変更はしない予定です。
フィクションなので。
多少不愉快な表現等ありますが、ネタバレになる事前の注意は行いません。この表現ついていけない…と思ったらそっとタグを閉じていただけると幸いです。
当時、だいぶ未来の話として書いていた部分がすでに現代なんで…そのあたりはもしかしたら現代に即した感じになるかもしれない。
王弟が愛した娘 —音に響く運命—
Aster22
恋愛
村で薬師として過ごしていたセラは、
ハープの音に宿る才を王弟レオに見初められる。
その出会いは、静かな日々を終わらせ、
彼女を王宮の闇と陰謀に引き寄せていく。
人の生まれは変えられない。それならばそこから何を望み、何を選び、そしてそれは何を起こしていくのか。
キャラ設定・世界観などはこちら
↓
https://kakuyomu.jp/my/news/822139840619212578
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる