佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜貞華の愛した幻の桜〜

あなたを知りたい人 10

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 夜間瀬先生と共に研究室を出ると、白衣をまとった若手の講師に出くわした。彼は私たちを交互に見ると、いかがわしい笑みを浮かべる。

「夜間瀬先生、もうおかえりですか。気ままな身分は羨ましい」

 純粋にそう思っているような、嫌味のない口調で講師は大げさに両手を広げる。

「体調がすぐれなくてね」

 嘘かどうかもわからない、思いがけないことを先生が言うから、講師もきょとんとする。

「寝不足ですか? ……あーいやいや、羨ましい」

 ちらちらとこちらに視線を送る講師をジッと見返す。彼の講義は受けていないから名前が思い出せない。

「寝不足はあるが、羨ましくはないよ」

 お先に、と夜間瀬先生は歩き出す。

「お楽しみもほどほどにー」

 軽快な声が後ろから飛んでくる。天性の明るさに支えられたごくごく平凡な講師だろう。

 落ち着き払う夜間瀬先生は彼の言葉には反応しないで階段を降りていく。

 寝不足ですか?
 早退して大丈夫ですか?

 そんな言葉が胸に浮かんだが、どれも口に出せないまま校舎を出て、無言のまま駅へと向かった。



「横土里くんの話は実のところ興味深い話ではない」

 夜間瀬先生が沈黙を破り、そう吐露したのは桜咲おうさき駅へ向かう電車の中だった。

 神計大学前駅からひと駅の桜咲駅へはすぐに到着する。下車して五分ほど歩けば私たちが暮らすマンションにたどり着く。

 改札口を抜けた後、私は口を開く。

「どんな話だったんですか?」
「美容エキスの話だよ。抱き心地のいい身体になるために必要なエキスだそうだ」

 先生は大した興味もなさそうに淡々とそう答えた。

「そんなエキスがあるんですか?」

 そう問えば、先生はおかしそうに目尻を下げる。そして少しだけ身をかがめて私の顔を覗き込む。

「興味がある?」
「それで先生に触れてもらえるなら……」
「君の肌はじゅうぶん綺麗だよ。横土里くんが欲しいものは、不健康な生活を送る自分を慰めるためだけのものだろう」
「より良くなりたいと思うのは当たり前の心理です」

 私だって先生に触れられる時は綺麗でいたいと思う。

「そういったことにも興味がないよ。肌に塗るだけで魅惑的なカラダになるものがあるはずもない。まずは生活改善だよ」

 にべもなく答える先生に対し、私は問う。

「どんなエキスですか?」
「君もしつこいね。桜から採れるエキスだよ」

 彼はすんなり答えてくすりと笑う。

「桜の木から採れる美容エキスですか?」
「花びらから採れるエキスだよ。美容効果が高いと言われているようだね。残念ながら桜の季節はまだ先だ」



 美容エキスについて話しているうちにマンションへ到着した。

 私たちは当たり前のように二階の角部屋へ向かう。

「先生、朝は鍵かけましたか?」
「ああ、どうだったかな。かけたような気もするよ」

 夜間瀬先生が胸ポケットを探る仕草をするから、かばんを開いてキーホルダーを取り出す。

「私が開けます」
「君は用意がいいね」
「先生と一緒にいるみたいで嬉しいんです」

 常に肌身はなさず合鍵を持っている。

「そう。そんな風に思うなら、合鍵なんて味気ないものじゃなくて、君が欲しいものをプレゼントしようか」
「先生がプレゼントなんて、おかしいです」

 私は少々驚く。物欲がなさそうな先生からそんな言葉を聞くとは思っていなかったのだ。

 私の気持ちが伝わったのか、彼は苦笑いを禁じえない様子だ。

「君はすぐに形のない愛を欲しがるからね。その気持ちに応えられない分のものはプレゼントしよう」
「それでも形のないものが欲しいです」
「卒業まで待てというのは酷かもしれない」
「待てます」
「いや、君じゃなくて俺がね」

 先生はさりげなくそう言うと、私に道を譲る。

 キーホルダーから先生の部屋の合鍵を選び取り、ドアノブの鍵穴に差し込む。カチャリと静かな音を立てて開いたドアの先に、私の視線は自然と集中する。

 玄関からリビングへとつながる廊下の扉は開いていた。その奥に見えるのはソファーの置かれた窓際。窓の前には猫脚のテーブル。

 普段と何ら変わらない様子の先生の部屋を訪れたのは3日ぶりか。それなのにテーブルの上の鉢には、するりと美しく伸びた一輪の花。

「芽吹いた翌朝には咲いていたよ。気品な身のこなしはさすが、というべきかもしれないね」

 私の視線が捉えたものに気づいた彼はそう言うと、まっすぐ窓辺に向かう。

「生育が早い理由はなんですか?」

 先生を追いかけて問う。

「なんだろうね」

 あまり関心なさげに答えた彼は鉢の前に歩み寄る。

「見張られているとでも言うのかな。花が咲いてからは毎晩繰り返し同じ夢を見る」
「どんな?」
「夜月が現れる夢だ。夜月の顔を知るわけでもないのに、夜月だと思う。感じる、というのかな。その夜月はいつもこの虞美人草を抱いて、俺をじっと見つめるんだ」
「……夜月様は先生が好きなんでしょうか」

 先生は怪訝そうに目を細める。

「誰もが優秀と認める君の発想は残念なぐらい短絡的で貧相だね。恋は盲目とはよく言ったものだ」
「先生を好きな人はひどく主張が激しいのでそう思ったまでです」
「それはそうかもしれないね、君を含め。百歩譲ってそうだったとして、夜月はこの虞美人草に宿っているのだろうか」

 端に紫色の染みた真っ白な花びらに、先生は指を触れさす。

 ゆらりと揺れた花びらは不機嫌そうに首を垂れたまま、そっぽを向くように向きを変える。

「どうやら逆かもしれない。俺が嫌いで監視しているのかもしれないね」
「なぜそんなことを?」
「子孫である佐鳥くんを心配するあまりだろうか」

 先生が冗談を言うには生真面目な表情でそう言った時、虞美人草の花は揺らぐ。

 彼の言葉をまるで肯定するかのように花は彼を仰ぎ、静かにこうべを垂れた。
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